ペスト

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ペスト
Chevalier Roze à la Tourette - 1720.PNG
ペストによって死屍累々となった街を描いたヨーロッパの絵画
分類および外部参照情報
ICD-10 A20.a
ICD-9-CM 020
MedlinePlus 000596
eMedicine med/3381
Patient UK ペスト
MeSH D010930
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ペストで黒くなってしまった手

ペストドイツ語: Pest, 英語: plague)とは、ペスト菌の感染によって起きる感染症[1]伝染病)。漢字一文字では「癙」(疒部に鼠)と書いておいて「ペスト」と読むこともある。別名、黒死病英語: Black Death, ドイツ語: Schwarzer Tod)。

概説[編集]

ペスト菌(Yersinia pestis 腸内細菌科 通性嫌気性グラム陰性/無芽胞桿菌)が感染することで起きる感染症(伝染病)である。死亡率(致命率)が高く、60~90%である[1]

ペストは、感染後の症状によって、「腺ペスト」「肺ペスト」など、いくつかの種類に分類されている。→#症状と病型

世界の歴史をふりかえると、数回の全地球規模の流行(パンデミック)が記録されており、特に14世紀に起きたペストの大流行では、世界で1億人ほどの人々が死に、当時の世界人口を4億5000万人から3億5000万人にまで減少させた[2]。ヨーロッパでは1348年1420年に大流行し[3]ヨーロッパの全人口の30%~60%が死亡した[3]。イギリスやイタリアの街や村の中には人口の80%が死亡したところもある。社会構造を変えてしまい、現代にまで至る痕跡を残すほどの打撃を与えた。→#ペストの歴史

14世紀にヨーロッパで猛威をふるったペストは、そのまま放置すると肺炎などにより ほぼ100%の人が死亡し、たとえ(懸命の、決死の)治療行為を試みたとしても死亡率が30%~60%に及び、皮膚が黒くなり死んでいった人も多かったので 「Black Death(黒死病)」と呼ばれるようになった。この大量死の恐怖はヨーロッパの人々(社会)にとって ぬぐいさることの出来ない記憶、歴史的な記憶、として深く刻み込まれており、現代に至るまで非常に恐れられている。 近年でも、ペストの感染は、(14世紀ほどではないとしても)発生しつづけており、1990年代、2000年代でも感染者や死亡者が出続けている。→#1990年代#2000年代

現代の日本では感染症法により一類感染症に指定されている[4]

発生源

ネズミイヌネコなどを宿主とし、ノミが媒介しヒトに伝染する[4]。ペストというのは元々齧歯類(特にクマネズミ)に流行した病気であるので、まずネズミなどの間に流行が見られた後に、イヌ、ネコ、ノミなどを介して、ヒトに伝染して人社会で感染が拡大する、という経緯をたどることが特に多い、と考えられている。

感染経路
ヒトへの感染経路

(そのノミが、イヌやネコなどにとりついて、血を吸うために刺し傷をつくり、イヌやネコがペストに感染する。サルにも感染することがある。)

  • ネズミ、イヌ、ネコなどの血を吸ったノミが(ヒトに乗り移り)ヒトの血を吸い、刺し傷からペスト菌が侵入しヒトが感染する。

一旦ヒトに感染した後の、「ヒト→ヒト感染」の経路は、ペストの種類によってやや傾向が異なる。

  • 「腺ペスト」の場合、患者の身体から 菌に汚染された体液が浸み出し、衣服にもつく。別の人(未感染者)が患者の身体や患者の衣服に触れると菌がうつり感染する。
  • 「肺ペスト」の場合は、患者が肺炎にかかり、咳をし、菌が大量に入った血痰)やツバの飛沫が飛び散り、感染者の身体の表面、衣服、周囲のモノなどにつく。他のヒト(未感染者)が、感染者の身体、衣服、周囲のモノなどに触れると菌が粘膜から入り感染する。感染者の血痰やツバの飛沫を直接浴びた場合も当然 感染する。

1990年代[編集]

CDCによる汚染地域を示す地図 (1998)

WHO(世界保健機関)の報告によれば、1991年以降ヒトペストは増加し 1996年の患者3,017人(うち死亡205人)、1997年には患者5,419人(うち死亡274人)であった。ただし、WHOに報告された人のペスト患者数は、概して、実際の患者数よりも少なく、実態はさらに深刻であった。

汚染地域とされるのは、

  1. アフリカの山岳地帯および密林地帯
  2. 東南アジアヒマラヤ山脈周辺ならびに熱帯森林地帯
  3. 中国モンゴルの亜熱帯草原地域
  4. アラビアからカスピ海北西部
  5. 北米南西部ロッキー山脈周辺
  6. 南米北西部のアンデス山脈周辺ならびに密林地帯

などである。

2000年代[編集]

WHOの報告によれば、2004年から2009年までの間の世界全体の患者数は12,503人。うち、死亡者はアフリカ、アジア、アメリカの16ヶ国から843人。調査の期間、毎年ペスト患者が報告されていた国は、コンゴ民主共和国マダガスカルペルーアメリカ合衆国の4か国。ただし、世界各国からWHOに報告された人のペスト患者数は、概して、実際の患者数よりも少なかったものとみられ、実態は報告数よりも深刻である。全世界での平均発生数は、依然として発生する地域的なアウトブレイクによる増減は見られるものの、1998年以降、大きな変化はない[5]

症状と病型[編集]

多くの場合の潜伏期間は 2 - 7日で、全身の倦怠感に始まって寒気がし、39~40℃の高熱が出る。

その後の、ペスト菌の感染の仕方と症状の出方によって「腺ペスト」「肺ペスト」などに分類されている。

次のような病型に分類されている。

腺ペスト bubonic plague[編集]

腺ペストの症状の例

リンパ節が冒されるのでこの名がある。ペストの中で最も頻度の高い病型。ペストに感染したネズミから吸血したノミに刺された場合、まず刺された付近のリンパ節が腫れ、ついで腋下や鼠頸部のリンパ節が腫れて痛む。リンパ節はしばしばこぶし大にまで腫れ上がる。ペスト菌が肝臓脾臓でも繁殖して毒素を生産するので、その毒素によって意識が混濁し心臓が衰弱して、治療しなければ数日で死亡する。

皮膚ペスト・眼ペスト

ノミに刺された皮膚や眼にペスト菌が感染し、膿疱潰瘍をつくる。

敗血症(性)ペスト septicemic plague[編集]

敗血症性ペストで皮膚が黒くなってしまった足

1割がこのタイプとされ、局所症状を呈しないままペスト菌が血液によって全身にまわり敗血症を起こすと、急激なショック症状、昏睡、皮膚のあちこちに出血斑ができて、手足の壊死を起こし全身が黒いあざだらけになって死亡する。別名黒死病

肺ペスト pneumonic plague[編集]

腺ペストの流行が続いた後に起こりやすいが、時に単独発生することもある。かなり稀な病型。腺ペストを発症している人が二次的にに菌が回って発病し、又はその患者の咳やくしゃみによって飛散したペスト菌を吸い込んで発病する。頭痛や40℃程度の発熱、下痢気管支炎肺炎により呼吸困難、血痰を伴う肺炎となる。呼吸困難となり治療しなければ数日で死亡する。

診断[編集]

血液、痰、リンパ節からの膿などをサンプルとして採取し検査する。

治療[編集]

感染症指定医療機関隔離され、株ごとに異なる感受性のある抗生物質による治療が行われる(テトラサイクリン、クロラムフェニコール、ストレプトマイシン、ドキシサイクリン、シプロフロキサシン等)。抗生物質のある21世紀の日本では死亡例はない。

予防[編集]

予防策として、

  • 感染の予防策としてはペスト菌を保有するノミや、ノミの宿主となるネズミの駆除
  • 腺ペスト患者の体液に触れない
  • 患者部屋への立ち入りを制限
  • 患者の 2メートル以内に接近する場合。マスク、眼用保護具、ガウン、手袋の着用
  • テトラサイクリン、ドキシサイクリン、ST合剤の予防内服

が挙げられる。

なお、有効なワクチンは存在しない。

ペストの歴史[編集]

アテナイの疫病[編集]

紀元前429年ペロポネソス戦争の最中ギリシャアテナイを襲って多数の犠牲者を出した疫病は、「アテナイのペスト」と呼ばれていたが、記録に残る症状の分析により、今日では痘瘡天然痘)または発疹チフス(あるいはそれらの同時流行)と考えられ、ペスト説は完全に否定されていると言ってよい。これは有名な歴史家トゥキディデス自身がかかり回復した記録から判明した(激しい頭痛、目の炎症、喀血、咳、くしゃみ、胸痛、胃けいれん、嘔吐、下痢、高度の発熱)。

ローマ帝国の疫病[編集]

165年から180年に流行が起こり、感染した人の25~33%が死亡し、350万~700万人ほどの人々が死んだ [3]。「アントニヌス帝(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)のペスト」とも呼ばれる。

東ローマ帝国での流行[編集]

541年542年[3](あるいは542年から543年にかけて)東ローマ帝国コンスタンチノープルで流行し[3]全人口の40%が死亡[3]コンスタンチノープル市内では毎日10,000人が死んだ[3]。「ユスティニアヌスの斑点」と呼ばれている。(ヨーロッパに限れば、記録に残っている中では最初のペストの流行に当たる)。当時帝国は、かつての西ローマ帝国の領地の再征服を目指して大規模な戦争ゴート戦争)を継続して行っていたが、ペストの流行により大混乱に陥った。ユスティニアヌス自身も感染したが快復した。

なお、この帝国は8世紀と14世紀にもペストの流行に襲われた。1340年代からの流行は、最後の攻勢に出ていた帝国に大打撃を与えた。 流行はアジア、北アフリカ中東、ヨーロッパに広がり、当時の人口の半分に当たる3,000~5,000万人(またはそれ以上)が死亡したと言われる。

[6]

14世紀の世界規模の大流行[編集]

中世ヨーロッパにおけるペストの伝播。
ポーランドでは被害が発生しなかった。

14世紀には世界規模でペストが大流行し、およそ8000万人~億人ほどが死亡したと推計されている。

(472年以降、ペストは西ヨーロッパから姿を消していたが)アジアで発生し、シルクロードを経由してヨーロッパに伝播し、世界規模のパンデミックとなった。全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2に当たる、約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。 伝播したヨーロッパでは1348年1420年に大流行した[3]ヨーロッパの全人口の30%~60%が死亡した[3]イギリスイタリアのいくつかの都市)やにおいては、1348年~1400年の間に、人口の70~80%が死亡した[3]

14世紀の大流行は中国大陸で発生し、中国の人口を半分に減少させる猛威を振るった。当時ユーラシアの一大勢力を築いていたモンゴル帝国ではチンギス・ハーン末裔の諸家どうしの権力抗争が続いていたところへ流行が襲い、諸家の断絶を招いて帝国を衰亡させる要因となった。ペストは1347年10月ぶに(1346年とも)、中央アジアからイタリアシチリア島メッシーナに上陸した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされる。流行の中心地だったイタリア北部では住民がほとんど全滅した[7]。疫病の原因が「神の怒り」と信じたキリスト教会では、ユダヤ人が雑居しているからとして1万人以上のユダヤ人を虐殺した。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。

1377年ヴェネツィアで海上検疫が始まった。当初30日間だったが、後に40日に変更された。イタリア語の「40」を表す語「quaranta」から、「quarantine(検疫)」という言葉ができた。

イギリスでは労働者の不足に対処するため、エドワード3世がペスト流行以前の賃金を固定することなどを勅令で定めた(1349年)ほか、リチャード2世の頃までに、労働集約的な穀物の栽培から人手の要らないヒツジ放牧への転換が進むことになった。イングランドの総人口 四百万人の3分の1が死んだと言われ、当時イングランドで通用していたフランス語聖職者が使用していたラテン語の話者の人口が減り、英語が生き延びた。

また、ユダヤ教徒の犠牲者が少なかったことから、「ユダヤ教徒が井戸へ毒を投げ込んだ」等のデマが広まり、迫害虐殺が行われた(ペストと反ユダヤ主義)。ユダヤ教徒に被害が少なかったのは、「ミツワー(戒律)に則った生活のためにキリスト教徒より衛生的であった」という考えがある一方「実際にはキリスト教徒と隔離されたゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかった」との見解がある。

ポーランドではアルコール蒸留酒)で食器や家具を消毒したり腋や足などを消臭する習慣が国民に広く定着していたほか、原生林が残り、ネズミを食べるオオカミ猛禽類などが多くいたためペストの発生が抑えられていた。

地中海の商業網に沿って、ペストはヨーロッパへ上陸する前後にイスラム世界にも広がった。当時のエジプトを支配し、紅海地中海を結ぶ交易をおさえて繁栄していたマムルーク朝では、このペストの大流行が衰退へと向かう一因となった。

その後の流行[編集]

その後も、ペストは17世紀頃から18世紀頃まで何度か流行した。

1629年10月にはミラノ検疫の重要性が明らかになった。すなわち、1630年3月のカーニバルのためにミラノでの検疫条件を緩めたところ、ペストが再発したのである(en)。ピーク時の死亡者数は1日当たり約3,500人であった[8]

1665年にはロンドンで流行し(en:Great Plague of London)、およそ7万人が亡くなった。1666年に大火(ロンドン大火)が起こり全市が焦土と化したことでノミやネズミがいなくなり流行は終息した。(後にダニエル・デフォーは『疫病の年』(A Journal of the Plague Year、1722年刊)という小説で当時の状況を克明に描いた[9])。ロンドンでは人が多く集まる大学が閉鎖され学生はペスト禍を避けるために疎開させられた。(なお、当時ケンブリッジ大学で学位を得たばかりのアイザック・ニュートンも故郷に疎開することになり、それまで大学でこまづかい的な仕事をして生活費を稼いでいた彼は、疎開により雑事から完全に解放されて、思索に充てる時間を得たことで、微積分法の証明や、プリズムでの分光の実験(『光学』)、万有引力の着想(距離の逆2乗の法則の導出)などを行うことができたわけで、「ニュートンの三大業績」とされるものはいずれもこの ペスト回避の疎開の時に生まれたものであり、イギリスにとって歴史的な災厄が続いた月日に イギリスの誇る宝が誕生することになったわけである。)

フランスでは1720年にマルセイユで大流行 (Great Plague of Marseille) した。しかし、集権化にともなう防疫体制の整備 と衛生状態の改善から、これ以降の大流行はみられなかった。こうして先進諸国では19世紀までにほとんど根絶されたが、発展途上国ではなお大小の流行があり、インドでは1994年に発生、パニックが起きた。

19世紀の中国とインドで1,200万人が死んだ世界的流行 (en:Third plague pandemic) は、中世のペストが、香港から世界中に広がったとされる。

生物兵器[編集]

紀元前3世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王がフェニキア人が建設し地中海での商業活動での覇権を競っていたティルスへ攻め入ったとき、長期に亘って抵抗され陥落しそうもなかった。たまたまペストで死んだマケドニア兵の着衣を敵の飲水用泉に投げ入れたところ、数日のうちに敵兵数千名が倒れ勝利したと伝えられている。

日本におけるペスト発生[編集]

日本でのペストの発生は、1896年(明治29年)以前の流行は記録されていない[10]。最初の報告は横浜に入港した中国人船客で、横浜の中国人病院で死亡した[11]。大小の流行は複数回あり[12]、1899年(明治33年)11月が最初の流行で、台湾から門司港へ帰国した日本人会社員が広島で発病し死亡、その後半月の間に神戸市内、大阪市内、浜松で発病、死者が発生した。1899年は45人のペスト患者が発生、40人が死亡した。翌年より東京市は予防のため1匹あたり5銭で鼠を買い上げた。この時のネズミの霊を供養するための鼠塚が、渋谷区の祥雲寺境内にある。1901年(明治34年)5月29日、警視庁はペスト予防のため屋内を除き跣足(裸足)歩行を禁止した(庁令第41号)[13]。最大の流行は1905-1910年の大阪で、958名の患者が発生し社会的に大きな影響を与えた[14]。紡績工場での患者発生が続き、国内の発生源はペスト流行地インドから輸入される綿花に混入したネズミというのが通説になった。

日本では1927年以降は国内感染例はなく[12]、ペスト患者の報告も1930年以降はない[4]

文芸作品[編集]

  • ジョヴァンニ・ボッカッチョデカメロン』(1349-51年) - 1348年のペストを題材とする
  • 死の舞踏 (美術) - 14世紀頃のペスト流行をきっかけとして成立
  • イブン・バットゥータ大旅行記』- 14世紀のイスラーム世界におけるペスト被害の記述がある
    • イブン・バットゥータ 『大旅行記』 イブン・ジュザイイ英語版編、家島彦一訳注、平凡社東洋文庫〉(全8巻)、1996年-2002年。NCID BN14503129
  • シェイクスピアロミオとジュリエット』(1595年頃) - 作中でペストが重要な役割を持つ
  • ダニエル・デフォーペスト英語版』(1722年) - 1665年から翌66年にかけてのロンドンでのペスト流行 (en:Great Plague of London:Great Plague of London) を題材とする
主な日本語訳

関連法規[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

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出典[編集]

  1. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典、小項目事典。「ペスト」
  2. ^ Historical Estimates of World Population アメリカ国勢調査局の推計
  3. ^ a b c d e f g h i j Suzanne Austin Alchon(2003),A Pest in the Land: New World Epidemics in a Global Perspective, p.21(表)
  4. ^ a b c 日本小児科学会 予防接種・感染対策委員会「学校、幼稚園、保育所において予防すべき感染症の解説」”. 厚生労働省. 2020年1月22日閲覧。
  5. ^ ペスト:地域別罹患率・死亡率の検討-2004年~2009年 CDC Travelers' Health, Outbreak Notice(2010年2月18日)2017年3月4日
  6. ^ ドイツで発掘された遺体のDNA解析結果が2014年に発表され、病気の起源は今まで考えられたアフリカではなくアジアであるという。また過去の流行とも関係なく、その後の流行とも無関係であったという[要出典]
  7. ^ 以上の記述は同上資料
  8. ^ 山内一也 (2004年9月2日). “中世の黒死病はペストではなくウイルス出血熱”. 人獣共通感染症連続講座 第159回. 公益社団法人日本獣医学会. 2010年10月3日閲覧。
  9. ^ ダニエル・デフォー『ペスト』平井正穂訳、中央公論新社中公文庫〉、2009年7月。ISBN 978-4-12-205184-3
  10. ^ 瀬上清貴、健康危機管理と治世 (PDF) 国立保健医療科学院
  11. ^ 高木友枝、「横濱市ノ「ペスト」病」『細菌學雜誌』 1896年 1895and1896巻 5号 p.319-322, doi:10.14828/jsb1895.1895and1896.319
  12. ^ a b ペストとは 国立感染症研究所
  13. ^ 「跣足厳禁庁令発足」毎日新聞、1901年5月31日。『新聞集成明治編年史. 第十一卷』、国立国会図書館近代デジタルライブラリー、2014年7月3日閲覧。
  14. ^ 坂口誠、「近代大阪のペスト流行, 1905-1910年」『三田学会雑誌』 2005年 97巻 4号 p.561-581, NAID 120005440787, 慶應義塾経済学会

参考文献[編集]

関連資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]