ペスト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ペストドイツ語: Pest, 英語: plague)とは、人間の体にペスト菌Yersinia pestis 腸内細菌科 通性嫌気性/グラム陰性/無芽胞桿菌)が入ることにより発症する伝染病

日本では感染症法により一類感染症に指定されている。ペストは元々齧歯類(特にクマネズミ)に流行する病気で、人間に先立ってネズミなどの間に流行が見られることが多い。

ノミ(特にケオプスネズミノミ)がそうしたネズミの血を吸い、次いで人が血を吸われた結果、その刺し口から菌が侵入したり、感染者の血痰などに含まれる菌を吸い込んだりする事で感染する。人間、齧歯類以外に、猿、兎、猫などにも感染する。

かつては高い致死性を持っていたことや罹患すると皮膚が黒くなることから黒死病と呼ばれ、恐れられた。14世紀ヨーロッパではペストの大流行により、全人口の三割が命を落とした。

ただし、現代英語で「pest」と言えば、ハエ、ダニ、あるいはイエネズミなどのような人間に害を与える小動物一般を指すので注意が必要。

症状と病型[編集]

ペスト菌が体内に入って2~5日たつと、全身の倦怠感に始まって寒気がし、高熱が出る。その後、ペスト菌の感染の仕方によって症状が違い、次のような病型に分類されている。

腺ペスト[編集]

リンパ腺が冒されるのでこの名がある。ペストの中で最も普通に見られる病型。ペストに感染したネズミから吸血したノミに刺された場合、まず刺された付近のリンパ節が腫れ、ついで腋下や鼠頸部のリンパ節が腫れて痛む。リンパ節はしばしばこぶし大にまで腫れ上がる。ペスト菌が肝臓脾臓でも繁殖して毒素を生産するので、その毒素によって意識が混濁し心臓が衰弱して、多くは1週間くらいで死亡する。死亡率は50から70パーセントとされる。

ペスト敗血症[編集]

ペスト菌が血液によって全身にまわり敗血症を起こすと、皮膚のあちこちに出血斑ができて、全身が黒いあざだらけになって死亡する。ペストのことを黒死病と呼ぶのはこのことに由来する。

肺ペスト[編集]

腺ペストの流行が続いた後に起こりやすいが、時に原発することもある。かなり稀な病型。腺ペストを発症している人が二次的にに菌が回って発病し、又はその患者の咳によって飛散したペスト菌を吸い込んで発病する。気管支炎肺炎をおこして血痰を出し、呼吸困難となり2~3日で死亡する。患者数は少ないが死亡率は100パーセントに近い。

皮膚ペスト[編集]

ノミに刺された皮膚にペスト菌が感染し、膿疱潰瘍をつくる。

治療[編集]

感染症指定医療機関隔離され、株ごとに異なる感受性のある抗生物質による治療が行われる。適切な治療がなされれば死亡率は20パーセント未満に下がる。

予防[編集]

予防策として、

  • 感染の予防策としてはペスト菌を保有するノミや、ノミの宿主となるネズミの駆除
  • ワクチンの接種
  • 腺ペスト患者の体液に触れない

が挙げられる。

ペストの歴史[編集]

アテナイの疫病[編集]

紀元前429年ペロポネソス戦争の最中ギリシャアテナイを襲って多数の犠牲者を出した疫病は、「アテナイのペスト」と呼ばれていたが、記録に残る症状の分析により、今日では痘瘡天然痘)または発疹チフス(あるいはそれらの同時流行)と考えられ、ペスト説は完全に否定されていると言ってよい。これは有名な歴史家トゥキディデス自身がかかり回復した記録から判明した(激しい頭痛、目の炎症、喀血、咳、くしゃみ、胸痛、胃けいれん、嘔吐、下痢、高度の発熱)。

ローマ帝国の疫病[編集]

アントニヌス帝(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)のペストと呼ばれる小流行が165-180年に起こっている。

東ローマ帝国での流行[編集]

ヨーロッパで最初に記録に残っているペストの流行は、542年から543年にかけて東ローマ帝国で流行したものである。「ユスティニアヌスの斑点」と呼ばれている。当時帝国は、かつての西ローマ帝国の故地再征服を目指して大規模な戦争(ゴート戦争)を継続して行っていたが、ペストの流行により大混乱に陥った。ユスティニアヌス自身も感染したが回復している。帝国は8世紀と14世紀にもペストの流行に襲われた。1340年代からの流行は、最後の攻勢に出ていた帝国に大打撃を与えた。

流行はアジア、北アフリカ、中東、ヨーロッパに拡がり、当時の人口の半分に当たる3,000~5,000万人(またはそれ以上)が死亡したと言われる。

ドイツで発掘された遺体のDNA解析結果が2014年に発表され、病気の起源は今まで考えられたアフリカではなくアジアであるという。また過去の流行とも 関係なく、その後の流行とも無関係であったという。

14世紀の大流行[編集]

中世ヨーロッパにおけるペストの伝播

472年以降、西ヨーロッパから姿を消していたが、14世紀には全ヨーロッパにまたがるペストの大流行が発生した。当時、モンゴル帝国の支配下でユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが、この大流行の背景にあると考えられている。1347年10月(1346年とも)、中央アジアからイタリアシチリア島メッシーナに上陸した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされる。

1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の三分の一から三分の二、約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。

1377年ベニス(ベネツィア)で海上検疫が始まった。当初30日間だったが、後に40日に変更された。イタリア語の40を表す単語からquarantine(検疫)という言葉ができた。

イギリスでは労働者の不足に対処するため、エドワード3世がペスト流行以前の賃金を固定することなどを勅令で定めた(1349年)ほか、リチャード2世の頃までに、労働集約的な穀物の栽培から人手の要らないヒツジ放牧への転換が促進した。イングランドの総人口四百万人の1/3が死んだと言われ、当時通用していたフランス語や聖職者が使用していたラテン語の話者人口が減り英語が生き延びた。

また、ユダヤ教徒の犠牲者が少なかったとされ、彼らが井戸へ毒を投げ込んだ等のデマが広まり、迫害や虐殺が行われた。ユダヤ教徒に被害が少なかったのはミツワーに則った生活のためにキリスト教徒より衛生的であったという考えがある一方、実際にはキリスト教徒と隔離されたゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかったなどの見解もある。

ユダヤ教徒の人々は、各国での迫害を逃れ、カジミェシュ3世大王治世下のポーランドに大量移民した。ポーランドではペスト被害が発生しておらず、また、他国のようなユダヤ人迫害事件は発生していなかった。ポーランドでは、その1世紀前の1264年に発布されていたカリシュの法令により、ユダヤ教徒の人権と広範囲の自治権が常に保障されていたのである。

地中海の商業網にそって、ペストはヨーロッパへ上陸する前後にイスラーム世界にも広がった。当時のエジプトを支配し、紅海地中海を結ぶ交易をおさえて繁栄していたマムルーク朝では、このペストの大流行が衰退へと向かう一因となった。

その後の流行[編集]

その後も、ペストは17世紀-18世紀頃まで何度か流行している。1629年10月ミラノに黒死病が到達した時に検疫の重要性が明らかになった。1630年3月のカーニバルのために検疫条件を緩和した結果、黒死病が再発し、最盛期には1日3,500人が死亡した[1]。 1665年にはロンドンで流行し、およそ7万人が亡くなった。後にダニエル・デフォーは『疫病の年』(A Journal of the Plague Year、1722年)で当時の状況を克明に描いている。(平井正穂訳『ペスト』 中公文庫

フランスでは1720年マルセイユで大流行(en:Great Plague of Marseille)した。しかし、集権化にともなう防疫体制の整備と衛生状態の改善から、これ以降の大流行はみられなかった。こうして先進諸国では19世紀までにほとんど根絶されたが、発展途上国ではなお大小の流行があり、インドでは1994年に発生、パニックが起きたほどであった。

19世紀の中国とインドで1,200万人が死んだという世界的流行は、中世の黒死病が、香港から世界中に広がったとされる。

日本では、1899年明治33年)に国外から侵入したのが初のペスト流行である。翌年より東京市は予防のために一匹あたり5銭で鼠を買上げた。本来日本国内にはケオプスネズミノミは生息せず、したがってペストはなかったとされている。1926年以降日本では発生していない[2]

参考文献[編集]

文芸作品[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 人獣共通感染症連続講座 第159回 (9/2/04)中世の黒死病はペストではなくウイルス出血熱
  2. ^ 現在日本においては外来種としてケオプスネズミノミが生息しているため、何らかの原因で感染者が出た場合は多かれ少なかれ流行を起こす可能性はある

関連項目[編集]