チャールズ・ウィロビー

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チャールズ・ウィロビー
Charles Willoughby 1918.jpg
外国語 Charles Andrew Willoughby
渾名 赤狩りのウイロビー
生誕 1892年3月8日
ドイツの旗 ドイツ帝国ハイデルベルク
死没 1972年10月25日(満80歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国フロリダ州 ナポリ
所属組織 Seal of the US Department of the Army.svgアメリカ陸軍
軍歴 1910 - 1952
最終階級 陸軍少将
除隊後 CIA設立に貢献
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チャールズ・アンドリュー・ウィロビーCharles Andrew Willoughby, 1892年3月8日-1972年10月25日)はアメリカ陸軍軍人。最終階級は少将

第二次世界大戦下においてはダグラス・マッカーサー将軍の情報参謀で、戦後は連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部 (G2) 部長として、戦後の日本の進路に影響を与えたと言われる。反共主義者としても知られ「赤狩りのウイロビー」とも呼ばれた。

生涯[編集]

第二次世界大戦までの経歴[編集]

ウィロビーは1892年3月8日にドイツハイデルベルクにてドイツ人の父 (T.von Tscheppe-Weidenbach) と、アメリカ人メリーランド州ボルチモア出身の母エマ・ウィロビー (Emma Willoughby) の間に生まれる。初め名前はドイツ語読みで Adolf Karl 「アドルフ・カール」といい、幼少はドイツ人として過ごす。ドイツとフランスで学び、ドイツ語、フランス語、スペイン語を話す[1]。地元ハイデルベルク大学卒業後、1910年にアメリカに渡り[1]、アメリカ人に帰化、母方の姓を称すようになる。

1910年アメリカ陸軍に一兵士として入隊した。同時にゲティスバーグ・カレッジでも学び、1914年の卒業時には少佐となる[1]カンザス大学の大学院に進んだが、第一次世界大戦のため中退[1]。第一次大戦を通じて叩き上げで昇進を重ね、1941年大佐だったウィロビーはダグラス・マッカーサーの情報参謀としてアメリカが植民地支配下においており、マッカーサーが多くの利権を持っていたフィリピンに赴任した。

第二次世界大戦[編集]

1941年12月からアメリカも参戦した第二次世界大戦中の日本軍とのフィリピン攻略戦では、日本軍に敗走したマッカーサーと共にフィリピンから脱出している。1942年6月20日には連合国准将に昇進している。

情報を重視するマッカーサーによって連合軍翻訳通信班 (ATIS) (捕虜の尋問や命令文章の翻訳を担当)、連合軍諜報局 (AIB) (諜報・謀略担当)が設置されるとウィロビーは元締めとして辣腕をふるった。特に日系アメリカ人や現地民を駆使した諜報活動は日本軍の動きをことごとく察知した。

1945年4月12日にはアメリカ陸軍より正式に少将に昇進した。1945年9月2日戦艦「ミズーリ」での日本の連合国軍への降伏文書調印式にはマッカーサーの幕僚として参加している。

GHQでの活動[編集]

GHQでは参謀第2部 (G2) 部長として諜報・保安・検閲(特にプレスコード)を管轄した。政治犯として投獄されていた日本共産党幹部の釈放や、労働組合活動を奨励し、日本の民主化を推進する民政局長のコートニー・ホイットニー准将や次長のチャールズ・ケーディス大佐を敵視し、縄張り争いを繰り広げた。右翼三浦義一、旧軍の河辺虎四郎らも使って反共工作を進めた。

1945年10月4日、GHQより日本政府に対して人権指令が出され、治安維持法の廃止や特高警察の廃止、共産主義者などの政治犯の釈放が行われることになったが、日本の警察力の弱体化と、共産主義勢力の増長を危惧するウィロビーはこれらに強く反対していた。そのため、特高警察の機能を温存するために、内務官僚と共謀して「大衆的集団的不法行為の取締り」を名目に、内務省警保局に公安課を、各都道府県警察部に公安課と警備課を設置することを後押しした(公安警察)。また、1947年の内務省の解体・廃止にも、日本政府の弱体化を招くとして、内務官僚と共に反対し、中央集権的な国家警察を維持するために、警察総局と公安局の設置や、公安庁の設置を後押ししたが、GSのケーディスの抵抗でうまくいかなかった。そのためウィロビーは、内務官僚の石井栄三や、加藤陽三と対抗策を練り、国家地方警察本部に警備部を設置することで、特高警察機能の温存を図ることに成功した。後に、ウィロビーは、自著で日本の警察制度に関して「日本の警察機構は、占領期間中にバラバラにされてしまったが、私の危惧した通り、これはうまくいかず、後に国家警察として再び一つになった。」と記している。

極東国際軍事裁判の折、A級戦犯の容疑者は第一次裁判で裁かれた東條英機ら28名の他に22名ほどいたが、この裁判をよく思っていなかったウィロビーの釈放要求(ただし、笹川良一の釈放については慎重だったという)が通り、22名の容疑者に対する二次・三次の裁判は行われなかった。背景として、まずジャパン・ロビーが反共工作[注釈 1]を取り仕切ったことと、加えて一次裁判で時間がかかりすぎてイギリスが裁判続行に消極的になったことも影響している。

判決後、ウィロビーは帰国の挨拶にやってきたオランダ代表のベルト・レーリンク判事に「この裁判は史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁止するつもりだ。なぜ不信をもったかと言うと、日本がおかれていた状況と同じ状況に置かれたのなら、アメリカも日本と同様に戦争に出たに違いないと思うからだ」と、語っている。

GHQが許可した戦後初の渡米者で、日米文化振興会(現日米平和・文化交流協会)を興した笠井重治が、「有力な情報提供者」として親交があった事で知られる(袖井林二郎『マッカーサ-の二千日』)。また、A級戦犯においてウィロビーが釈放要求を出すのに慎重だったと言われている児玉誉士夫とは、その後児玉の通訳となり、「ロッキード事件」の最中に変死した福田太郎を、自著の翻訳者にするなど、児玉とも何らかの関係にあったと推測されている。

1948年には極東委員会でソ連のテレビヤンコ中将は日本海海戦の意趣返しとして戦艦三笠の解体・廃棄を主張したが、ウィロビーは日本の記念物を破壊して日本人の反感を買うのは避けるべきだと反論して阻止。結果、三笠の廃棄は免れた。後にチェスター・W・ニミッツ海軍元帥が復興運動を行った関係で日本人にはこちらの方が知られているが、ウィロビーもまた三笠にとっては恩人といえる。

1950年朝鮮戦争の際にウィロビーは「中国共産党軍(中国人民志願軍)は介入しない」とする報告をマッカーサーに行い、マッカーサーはこれを元にハリー・S・トルーマン大統領に対し中華人民共和国参戦の可能性を否定した(デービッド・ハルバースタム『ザ・フィフディーズ <第1部>』 新潮社より)。これが全くの誤認であったことは、後に中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)の参戦によって戦場で実証されることになった。

晩年[編集]

GHQでの活動の他情報の専門家としてCIA設立に関与したのち1951年に退役、スペインに渡ると独裁者として知られたフランシスコ・フランコ将軍の非公式のアドバイザーになる。

1968年に引退し、妻のマリーアントワネット(日本に帰化したイギリス人小林米珂と日本女性との娘)とフロリダ州ネイプルズで引退生活を送り、1972年10月25日に死亡した[2]。80歳。1923年にプエルトリコで結婚した前妻との間に娘がいる[3][1]

人物[編集]

極端な反共主義者で、自身ドイツもドイツ生まれで旧名は「アドルフ」であったせいか、ナチス党アドルフ・ヒトラーを好み[要出典]、GHQのメンバーからは「アメリカの小ヒトラー」[要出典]とも「占領軍のジョー・マッカーシー」ともあだ名された。上官のマッカーサーからも時折冗談で「わが愛するファシスト」と呼ばれていた[要出典]。占領期のレッドパージが苛烈になったのも、上記のウィロビーの性格が影響しているとも言われている。

GHQ内におけるG2の影響力からもマッカーサーの重要な側近だったがことが窺えるが、ホイットニーほどは人物的な信頼を勝ち得ておらず、ホイットニーに認められていたワンノックでマッカーサーの執務室に入れる(面会の際に秘書官を通さなくていい)権限は、ウィロビーには認められていなかった。

逆コースの日本で、労働組合活動を弱体化させたことと、極東国際軍事裁判には批判的だったウィロビーの釈放要求によって不起訴になったA級戦犯には後に第56・57代内閣総理大臣になる岸信介や政財界の黒幕となった人物もいたため、戦後史に多大な影響を与えている人物だが、プレスコードとレッドパージのイメージが強いせいで、現在でも日本人の印象は良くない。

マッカーサーの回想伝記『マッカーサー戦記』を執筆出版したが、翻訳担当の大井篤(旧帝国海軍大佐)からは「歴史史料としての価値はほとんど無い」と酷評された。

ウィロビーのG2がまとめた日米の人物調査ファイルは、近年の機密解除で、戦後史の研究資料として調査研究されているが、ウィロビーのおぼえがめでたくない人物に対しては貶めるための捏造された記述が多いとされている(デービッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争[4]より)。

著作[編集]

  • 『赤色スパイ団の全貌 ゾルゲ事件』福田太郎訳、東西南北社刊、1953年
  • 『戦争における機動』第1巻、陸上自衛隊幹部学校訳、陸上自衛隊幹部学校刊、1956年3月
  • 『マッカーサー戦記』第1、大井篤訳、時事通信社、1956年
  • 『マッカーサー戦記』第2、大井篤訳、時事通信社、1956年
  • 『マッカーサー戦記』第3、大井篤訳、時事通信社、1956年
  • 『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』延禎監訳、番町書房、1973年
  • 『マッカーサー戦記』上巻、大井篤訳、朝日ソノラマ、1988年6月、ISBN 4-257-17203-7
  • 『マッカーサー戦記』下巻、大井篤訳、朝日ソノラマ、1988年6月、ISBN 4-257-17204-5

参考文献等[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e MS-024: General Charles A. WilloughbyGettysburg College, July 2001
  2. ^ Charles Andrew WilloughbyFind a Grave
  3. ^ Olga (Tonie) McKeeverMemorial Networks
  4. ^ デービッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』、山田耕介・侑平訳(上下、文藝春秋、2009年)

注釈[編集]

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  1. ^ ソ連中華人民共和国といった共産主義国家台頭に対して日本を防波堤に使おうとか、たとえA級戦犯といえども反共に使えそうな人物は使おうとかいうもの

関連項目[編集]