矢矧 (防護巡洋艦)

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Japanese cruiser Yahagi 1916.jpg
艦歴
発注 1907年度計画
起工 1910年6月20日
進水 1911年10月3日
就役 1912年7月27日
除籍 1940年4月1日[1]
その後 1947年 解体
性能諸元
排水量 常備:5,000t
全長 144.8 m / 134.1m(垂線間長)/140.5m(水線長)
全幅 14.2m
吃水 5.1m
機関 イ号艦本式缶混焼式16基
パーソンズ式直結タービン2基
4軸推進、22,500馬力
速力 26.0kt
航続距離
燃料 重油300トン、石炭1,000トン
乗員 414名
兵装 45口径15.2cm単装砲8門
40口径7.6cm単装砲4門
45.7cm水上魚雷発射管3門
装甲 舷側:89mm
甲板水平部:22mm
甲板傾斜部:57mm
司令塔:102mm

矢矧(やはぎ)は、日本海軍二等巡洋艦(軽巡洋艦)[2][3]。 日本海軍における最初期の軽巡洋艦である[2]。 一般的には、筑摩型防護巡洋艦の2番艦とされる[4]。 日本海軍の法的な類別は、筑摩型巡洋艦(二等巡洋艦)の3番艦[5]。 艦名は、長野県から岐阜県を経て愛知県に至る「矢矧川」にちなんで名づけられた[6]

艦歴[編集]

筑摩型巡洋艦は、日本海軍の巡洋艦として初めてタービン機関を採用した[4]。機関の実績比較検討のため、同型艦3隻(筑摩、矢矧、平戸)にはそれぞれ異なるタイプの機関を搭載している[4]。矢矧の場合、主機はパーソンズ式蒸気タービン、4機4軸推進であった[4]

1909年(明治42年)12月23日、長崎三菱造船所で建造予定の呂號二等巡洋艦は部内限りで矢矧(やはぎ)と呼称される[7]。 矢矧は1910年(明治43年)6月20日三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工[6]。 1911年(明治44年)10月3日、進水[6]。同日附で正式に矢矧と命名された[3]。 1912年(明治45年)7月27日、竣工[6]。竣工と共に二等巡洋艦(軽巡洋艦)に類別された[8]

第一次世界大戦では、南洋諸島占領作戦に参加[6]。さらに南シナ海インド洋、スルー海での作戦に従事した[6]

1917年(大正6年)11月20日、連合国艦船の護衛作戦を終えてオーストラリアのフリーマントルに入港しようとしていた矢矧に、沿岸砲から一発の砲弾が発射された。砲弾は矢矧のマストをかすめて甲板を超え海に落ちた。オーストラリア政府は、矢矧に乗り込んでいた水先案内人が適切な信号を送っていなかったことため、警告するために砲撃したと説明し、オーストラリア総督がその後パースに停泊中の矢矧に出向いて艦長に謝罪した。

1922年(大正11年)11月12日、大正天皇皇太子裕仁親王、後の昭和天皇)は特別大演習統裁のため四国へ行啓する[9]。11月13日、皇太子(摂政宮)は神戸港で戦艦伊勢に乗艦(供奉艦は駆逐艦谷風[10]。翌日、香川県高松港に上陸し、演習や各地行啓に臨んだ[11]。 大演習や白峯陵(崇徳天皇陵)参拝[12]などを終えた11月22日午前7時、皇太子は高松港で矢矧(艦長島祐吉大佐)に乗艦する[13]。午前10時30分、皇太子は愛媛県今治市に上陸し、各地を行啓した[13]。同日午後2時、皇太子は再び矢矧に乗艦し、同港を出港[13]。その後、矢矧は愛媛県松山市三津浜に移動[13]。皇太子は戦艦伊勢艦載水雷艇を用いて上陸した[13]。 11月24日夕刻、皇太子は戦艦伊勢に戻り[14]、以降は伊勢を御召艦として四国行啓をおこなった(12月1日、和歌山県深山で下艦)[15]。矢矧と谷風は、供奉艦として行動した[16]

1923年(大正12年)から、でおもに中国水域の警備活動に従事した[6]1926年(大正15年)11月29日、艦艇類別等級の改定にともない「筑摩型巡洋艦」がもうけられ、矢矧は同型の3番艦となった[5]

1940年(昭和15年)4月1日に除籍され廃艦第12号と仮称[1] 、呉海兵団の練習船として使用した。

1943年(昭和18年)には大竹に回航し海軍潜水学校で使用し終戦を迎えた。

1947年(昭和22年)1月31日から7月8日まで笠戸ドックで解体作業を行った。

大正7年(1918)の流感禍[編集]

第一次世界大戦で日本は連合国側に参戦した。日本海軍は南方方面に二等巡洋艦などを派遣し、ドイツ東洋艦隊捜索及びドイツ領南洋諸島占領に従事した。巡洋艦矢矧も大正6年(1917)2月、呉軍港を出航し太平洋、インド洋方面で海上警備、索敵にあたっていたが、大正7年(1918)10月、軍艦千歳との交代命令に接し、オーストラリアシドニーを出航して艦隊司令部のあったシンガポールに11月9日に入港した。交代艦の到着まで碇泊、乗組員の上陸を許可した。この年は世界的にインフルエンザが流行し他の艦艇にも被害者が出ていたにもかかわらず特別の配慮を怠ったため、出航後それが艦内に蔓延し、凄惨な状況になった。11月30日シンガポールを出航、12月5日にマニラ入港、来艦者は、上下甲板至る所に倒れてうめいているという状態に「腰ヲ抜カサンバカリニ驚ク」という。12月9日普門副長死亡、10日に14名、11日に5名、12日8名、13日4名が死亡した。死亡者は艦内6名病院42名の48名に及んだ。(乗員471名のうち)大正10年1月19日に英国墓地サンピドロ、マガチに石造高さ一丈六尺の「在馬尼刺軍艦矢矧病没者墓碑」が建設され、墓碑銘が刻まれ、同日納骨式が行われた。このことが矢作神社への写真額の奉納(大正9年5月27日)、分霊の艦上安置(大正9年9月7日)、1/100模型の奉納(大正10年4月)と乗組員全員の参拝につながる。

奉納模型[編集]

愛知県岡崎市の矢作神社には、ガラスケースに入った1/100の奉納模型が現存する。これは大正10年(1921)4月5日、6日の両日、蒲郡港に停泊中の同艦から全乗組員が半舷上陸により同神社に参拝した際に奉納されたものである。全乗組員の参拝は大正11年(1922)、大正14年(1925)にも知多郡武豊港に碇泊中に行われている。このほか大正9年(1920)5月27日付けの奉納写真額、2回分の参拝要領、艦長の名刺、新聞記事などの資料が巻子装資料で保存されている。なお明治44年(1911)10月3日の長崎三菱造船所の進水紀念絵葉書3点と矢作神社参拝の折に発行された『矢作の栞』(16P19cm)は岡崎市立中央図書館に所蔵されており、後者はデジタルアーカイブで公開されている。

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。

  • 小林恵吉郎 大佐:1912年4月20日 - 1912年12月1日
兼海軍艦政本部艤装員(1912年4月20日 - 1912年7月31日)
兼佐世保海軍工廠艤装員(1912年7月31日 - 1912年8月31日)
  • 山岡豊一 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
  • 阪本則俊 大佐:1913年12月1日 - 1914年5月6日
  • 長鋪次郎 大佐:1914年5月6日[17] - 1915年2月1日[18]
  • 島内桓太 大佐:1915年2月1日 - 1915年12月13日
  • 内田虎三郎 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
  • 宮治民三郎 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
  • 山口伝一 大佐:1917年12月1日 - 1918年12月1日
  • 小倉嘉明 大佐:1918年12月1日 - 1919年10月1日
  • 藤村昌吉 大佐:1919年12月1日[19] - 1919年12月15日死去[20]
  • 高倉正治 大佐:1919年12月18日[21] - 1920年12月1日[22]
  • 常松憲三 大佐:1920年12月1日[22] - 1921年4月14日[23]
  • 左近司政三 大佐:1921年4月14日 - 1921年11月20日
  • 島祐吉 大佐:1921年11月20日 - 1922年12月1日
  • 益子六弥 大佐:1922年12月1日- 1924年12月1日
  • 山本土岐彦 大佐:1924年12月1日[24] - 1925年4月20日[25]
  • 相良達夫 中佐:1925年4月20日 - 1925年12月1日
  • 河村儀一郎 大佐:1925年12月1日 - 1926年11月1日
  • 辺見辰彦 大佐:1926年11月1日[26] - 1927年12月1日[27]
  • 池中健一 大佐:1927年12月1日 - 1928年12月10日
  • 小籏巍 大佐:1928年12月10日[28] - 1929年5月1日[29]
  • 井上勝純 大佐:1929年5月1日[29] - 1929年11月30日
  • 増島忠雄 大佐:1929年11月30日[30] - 1930年11月15日[31]
  • 水戸春造 大佐:1930年11月15日 - 1931年5月15日
  • 岩村清一 大佐:1931年5月15日 - 1931年12月1日
  • 井上保雄 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 海軍公報(部内限)第3468号 昭和15年4月1日(月)海軍大臣官房』 アジア歴史資料センター Ref.C12070387400 『官房第一六五五號 當分ノ間除籍艦船ヲ左ノ通假稱シ部内限之ヲ使用ス 昭和十五年四月一日 海軍大臣/假稱名 舊艦名/廢艦第九號 舊軍艦 韓崎/廢艦第十號 舊軍艦 對馬/廢艦第十一號 舊軍艦 平戸/廢艦第十二號 舊軍艦 矢矧/廢艦第十三號 舊軍艦 淀/廃艦第十四號 舊特務艦 洲埼/廢艦第十八號 舊驅逐艦 浦風/廢艦第十九號 舊驅逐艦 谷風/廃艦第二十號 舊驅逐艦 時津風/廢艦第二十一號 舊驅逐艦 榎/廢艦第二十二號 舊驅逐艦 椿(以下略)』
  2. ^ a b 日本軍艦集2600年版コマ37(原本44頁)『―二等巡洋艦― 矢矧(やはぎ) 基準排水量4,400噸、長さ134.11米、幅14.15米、平均吃水5.03米、速力26節、備砲15糎砲8門、8糎高角砲2門、8糎砲2門、魚雷發射管3門、起工明治43年6月20日、進水明治44年10月3日、竣工明治45年7月27日、建造所三菱長崎造船所―我國最古の輕巡。同型艦に平戸(明治45年6月17日竣工)がある。』
  3. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ200(原本361頁)『◎二等巡洋艦矢矧命名ノ件 明治四十四年十月三日(達一〇八)長崎三菱造船所ニ於テ製造ノ呂號二等巡洋艦ヲ矢矧ト命名セラル』
  4. ^ a b c d 写真日本の軍艦重巡(I)251-252頁『阿部安雄、日露戦争後の巡洋艦』
  5. ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ64-66(原本88-92頁)『◎艦艇類別等級 大正十五年十一月二十九日(内令二三八)艦艇類別等級別表ノ通定ム(別表)』『軍艦|巡洋艦|二等|筑摩、平戸、矢矧』
  6. ^ a b c d e f g 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ129(原本204頁)
    矢矧(やはぎ) 艦種二等巡洋艦
    艦名考川の名、矢作川に採る、河は三河國にあり、矢作は古來 矢矧・矢矯・箭作等と混用す、此艦名は矢矧として命名せられたるなり。
    艦歴大正3年乃至9年戰役(日獨)に從軍:同3年9月第二南遣支隊に属し西カロリン群島方面警戒、次で印度洋方面警備(艦長大佐長鋪次郎)、昭和6・7年事變(日支)に從軍:同7年1月南支那方面警備(艦長大佐井上保雄)。
    ―要目― 長134.11米/幅14.15米/吃水5.03米/排水量4,400噸/機關 タルビン2軸/馬力 22,500/速力 26/兵装 15糎砲8 8糎高角砲2 發射管3
    起工 明治43-6-20 進水 同44-10-3 竣工 同45-7-27 建造所 三菱長崎造船所』
  7. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ200(原本360頁)『◎二等巡洋艦筑摩矢矧及平戸命名ノ件/明治四十二年十二月二十三日(内令二一六)/新造軍艦三隻艦名左ノ通御治定ニツキ命名式擧行マテ部内限リ通用スルコトヲ得ル義ト心得ヘシ
    佐世保海軍工廠ニ於テ建造 伊號二等巡洋艦 チク
    長崎三菱造船所ニ於テ製造 呂號二等巡洋艦 ハキ
    神戸川崎造船所ニ於テ製造 波號二等巡洋艦 ヒラ
  8. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ56(原本72頁)『明治四十五年七月二十七日(達七九)艦艇類別等級別表中巡洋艦ノ欄内「平戸」ノ次ニ「矢矧」ヲ加フ』
  9. ^ 昭和天皇実録三742-743頁『(大正11年11月)十二日 日曜日 特別大演習御統裁のため香川県へ行啓/東京駅御発/静岡御用邸御着』
  10. ^ 昭和天皇実録三743-744頁『(大正11年11月)十三日 月曜日 静岡駅御発/神戸駅御着/軍艦伊勢に御乗艦』
  11. ^ 昭和天皇実録三744頁『(大正11年11月)十四日 火曜日 高松港御着/大本営披雲閣/大演習の一般方略』
  12. ^ 昭和天皇実録三751頁『(大正11年11月)二十日 月曜日 南海道行啓/屋島/崇徳天皇陵に御参拝/高屋神社』
  13. ^ a b c d e 昭和天皇実録三754-755頁『(大正11年11月)二十二日 水曜日 高松御出港/今治御着/今治中学校/吹揚公園/今治御出港/三津浜御上陸』
  14. ^ 昭和天皇実録三758頁『(大正11年11月)二十四日 金曜日 三津グラウンド/愛媛県行啓関係者御陪食/御出港』
  15. ^ 昭和天皇実録三768-769頁『(大正11年12月)一日 金曜日 洲本御出港/由良要塞司令部/深山御入港』
  16. ^ 昭和天皇実録三763頁『(大正11年11月)二十八日 火曜日 小松島御入港』
  17. ^ 『官報』第530号、大正3年5月7日。
  18. ^ 海軍辞令公報 大正4年2月』 アジア歴史資料センター Ref.C13072070900 
  19. ^ 『官報』第2199号、大正8年12月2日。
  20. ^ 『官報』第2218号、大正8年12月24日。
  21. ^ 『官報』第2214号、大正8年12月19日。
  22. ^ a b 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
  23. ^ 『官報』第2609号、大正10年4月15日。
  24. ^ 『官報』第3684号、大正13年12月2日。
  25. ^ 『官報』第3796号、大正14年4月21日。
  26. ^ 『官報』第4258号、大正15年11月2日。
  27. ^ 『官報』第279号、昭和2年12月2日。
  28. ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
  29. ^ a b 『官報』第699号、昭和4年5月2日。
  30. ^ 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
  31. ^ 『官報』第1166号、昭和5年11月17日。

参考資料[編集]

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第三 自大正十年至大正十二年』 東京書籍株式会社、2015年3月ISBN 9784487744039 
  • 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
  • 『造艦技術の全貌』興洋社、昭和27年。
  • 『大日本帝国海軍 巡洋艦「矢矧」はるか―愛知県岡崎市矢作神社に遺る奉納遺物等について―』小林清司編著 編著者 2016.08 1冊 30cm
  • 『大日本帝国海軍 巡洋艦「矢矧」はるか―愛知県岡崎市矢作神社に遺る奉納遺物等について―』別冊資料 小林清司翻刻 翻刻者 2016.10 30P 30cm (軍艦矢矧ニ於ケル流行性感冒患者発生当時ノ実況)
  • 『大日本帝国海軍 巡洋艦「矢矧」はるか―愛知県岡崎市矢作神社に遺る奉納遺物等について―』改訂版 小林清司編著 編著者 2016.10 1冊 30cm
  • 福井静夫『福井静夫著作集第4巻 日本巡洋艦物語』(光人社、1992年)ISBN 4-7698-0610-8
  • 『日本歴史 2008.12』日本歴史学会邊 吉川弘文館 P51~54「歴史手帳 軍艦矢矧の大正七年流感禍」 
  • 「巡洋艦の発達」『写真 日本の軍艦 重巡 I 妙高・足柄・那智・羽黒 巡洋艦の発達』第5巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1989年11月、235-252頁。ISBN 4-7698-0455-5

関連項目[編集]

  • 矢矧 [II] (軽巡洋艦)