地下足袋

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地下足袋の一例。足首からふくらはぎまでを覆う部分は金属製の小鉤(こはぜ)で留めるようになっている

地下足袋(じかたび)は、足の裏にゴム底がつき、足の指が親指と残りの二股に分かれている作業労働用の足袋で、足のつま先に力が入りやすいのが特徴である。履物を履かずに「直に」土の上を歩くための「足袋」の意味をもつ。「地下」は当て字である[1]

用途[編集]

農林業や大工左官など屋外で作業をする職人などに向いている。また祭りなどで神輿を担ぐ人たちが履く祭足袋も地下足袋の一種。

特徴[編集]

足の指が親指と残りの二股に分かれている作業労働用の足袋であるが、作業用として江戸時代から用いられていた革製の「足袋」(革足袋)がそのまま進化したものと考えられる。親指が独立しているため、地面を掴んで歩くような器用な動作が可能になる。

踵上で、太い掛け糸に金属製の小鉤(現代ではカナ表記での「こはぜ」「コハゼ」が一般的)を掛けて着用する点は足袋と同じである。用途により足首上までの短いもの(5枚・7枚こはぜ)と、脛全体を膝下近くまで覆う丈の長いもの(10・12・15枚こはぜ)があり、小鉤の枚数が丈の長さの目安となる。足のサイズ自体は、古くは一般の足袋同様に数が使われていたが、現代日本ではcm単位表示に移行している。

ゴム底の取り付けには、糸による縫付式と、接着剤を用いた貼付式があるが、現代では縫付式でも接着剤を併用している。一般には軽くて薄く柔軟性があり、価格も安い貼付式が主流になっているが、クッション性や耐久性を求められる用途向けに縫付式にも需要がある。

歴史[編集]

日本において屋外で足を保護して歩行する場合、近世には通常の足袋に草鞋履きとするか、革足袋ないしその代用と言える厚手の木綿刺し子生地を用いた刺子足袋が用いられていた。

明治時代に入ると新たな素材としてゴムが日本に移入され、明治時代後期からこれを足袋の底に縫い付けることで屋外での使用に適合させた、現代に連なる地下足袋が出現し始めた。縫い付け式は現在でも一部製品で用いられており、厚手にしてクッション性も得られることから祭足袋にも多用されるが、工程が増え、コストが高い欠点がある。

現在主流の形の地下足袋、即ち、貼付式ゴム底足袋は、足袋製造業者である石橋徳次郎の発明(1923年10月 実用新案登録番号第80594号)によるものであり、また、ゴム底が滑らない波形にしたのも徳次郎の発想である。[2]尚、このゴム底の形態は意匠登録されている。徳次郎の開発した地下足袋は、福岡県久留米市に本拠を置く徳次郎の会社「日本足袋」及びその子会社「アサヒ地下足袋」において販売された。特に、近隣にあった三池炭坑において炭坑夫に人気を博したことなどから、全国的に普及した。

「日本足袋」はゴム底靴製造販売にも進出し、後にアサヒコーポレーションとなる。また、徳次郎の弟であり、日本足袋の実質的な経営者であった石橋正二郎が、ゴム製造のノウハウをタイヤ製造に活かして創業、拡大させた会社がブリヂストンである。

地下足袋は戦前の日本軍によっても多用された。革製の軍靴に比べると足の保護の点では不利だが、コストが低い・足にフィットする・洋装や革靴履きに慣れていない当時の一般的な日本人にもなじみやすい・洗濯できる・足音が立ちにくい、といったメリットがある。

現在国内販売は、そのシェアの6~7割を占める株式会社力王(1948年設立 本社東京都)と約3割を占める株式会社丸五(1919年創業 本社岡山県倉敷市)による寡占市場である。生産は、そのほとんどを中国などの海外生産に頼っている。

現在ではつま先保護用、または踏み抜き防止用にスチールプレートが入った「安全地下足袋」、山中など滑りやすい地面で歩きやすいよう作られた「スパイク地下足袋」、かかと部にエアークッションを備えて足腰の負担を軽減する「エアージョグ」なども商品化されている。

北朝鮮ではズック靴・スニーカーが地下足袋(チハヂョク)と呼ばれている。

脚注[編集]

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  1. ^ 地下足袋メーカーの力王のサイトでは「地下の炭鉱でも使えることから」という起源説を紹介しているが真偽は不明。
  2. ^ 同時期の1919年、日本マラソン界の父・金栗四三と「ハリマヤ」という足袋屋が開発した、マラソン用の紐付きゴム底足袋「カナグリ・タビ」もある。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]