ロールス・ロイス

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ロールス・ロイス[1]: Rolls-Royce)の起源は、1906年にイギリスで設立された製造業者であるロールス・ロイス社 (Rolls-Royce Limited) であるが、現在は相互に独立した以下の二者となっている。

  1. 1973年に設立され、航空機エンジンや船舶・エネルギー関連機械などを製造・販売しているイギリスの工業メーカー、ロールス・ロイス(→ ロールス・ロイス plc
  2. ドイツの自動車会社BMWが1998年に設立し、「ロールス・ロイス」ブランドの乗用車を製造・販売している自動車会社(→ ロールス・ロイス・モーター・カーズ

概要[編集]

1906年に設立されたロールス・ロイス社 (Rolls-Royce Limited) は、航空機エンジン乗用車の製造を行うイギリスのメーカーであった。1931年には同じイギリスのスポーツカーメーカーであるベントレー社を買収するなど規模を拡大し、特に乗用車製造においては高級車の代名詞となった。しかしながら1960年代になると、乗用車製造における技術革新の遅れ、更には新たに開発・発売した航空機用ジェットエンジン「RB211」による損失の拡大などのために経営が悪化した。そのまま1971年に経営破綻、イギリス政府によって国有化された。

1973年、国有会社となっていたロールス・ロイス社のうち自動車部門(ベントレーを含む)のみが分離され、イギリスの製造会社・ヴィッカースに譲渡された。この再び民営化された自動車部門は、ロールス・ロイス・モーターズ社 (Rolls-Royce Motors) と命名され、ロールス・ロイス車の製造・販売を継続することとなった。1998年、ヴィッカーズはロールス・ロイス・モーターズの売却を計画、最高額を提示したフォルクスワーゲンがその買収に成功した。しかしながらこの際、ロールス・ロイスのブランド名やロゴマークなどはBMWに譲渡されるという捩じれが生じている。その後、フォルクスワーゲンとBMWの協議の結果、2003年1月からはロールスロイスの製造販売はBMWが、ベントレーの製造販売はフォルクスワーゲンが行うこととなった。BMWは同年、ロールス・ロイス・モーター・カーズという自動車会社を設立、社屋や工場を新築し、独自に開発した「ロールス・ロイス」の製造販売を開始した。

一方、国有企業として残存したロールス・ロイス社では航空機用エンジンや船舶の製造などが行われていたが、1988年に再度民営化され、新生ロールス・ロイス社(ロールス・ロイス plc)として現在に到っている。

歴史[編集]

創業者たち[編集]

ロールス[編集]

チャールズ・スチュアート・ロールズ

チャールズ・スチュアート・ロールズ(Charles Stewart Rolls1877年 - 1910年)は、上流階級の家に生まれたスポーツマンで、ケンブリッジ大学在学中から黎明期のモータースポーツに携わった自動車の先覚者であった。

学生時代には自動車速度制限法として悪名高かった「赤旗法」廃止に力を尽くし、イギリスの王立自動車クラブ (RAC) の前身となる自動車クラブの設立にも寄与した。卒業後の1902年には、親友でRAC幹部でもあったクロード・ジョンソン(Claude Goodman Johnson 、1864年 - 1926年)を右腕に、ヨーロッパ車の輸入代理店C.S.ロールズ(C.S.Rolls&Co. )を設立して自動車の輸入ビジネスを営み、フランス製のパナールとモール、後にはベルギー製のミネルヴァを扱った。

1900年前後のイギリス車は、フランスやドイツに比して技術的に遅れていた。見るべきものとしてはフレデリック・ランチェスターが開発した先進的な小型車「ランチェスター」が存在したが、これは複雑な設計の自動車で、広く普及するだけの普遍性を欠いていた。

当時のイギリスの自動車市場をリードしたのはフランス車であった。ロールズも大型のフランス車に乗ってレースに出場しており、ロールズが1903年にダブリンで149km/h(93マイル/h)の世界速度記録を達成した車は、自ら輸入したモールであった。ロールズとジョンソンは、イギリス人として、欧州大陸の水準に比肩しうるイギリス車が存在しないことを常々残念に思っていた。

ロイス[編集]

フレデリック・ヘンリー・ロイス

フレデリック・ヘンリー・ロイス(Frederick Henry Royce 、1863年 - 1933年)はリンカーンシャーの貧しい製粉業者の家に生まれ、9歳で働き始めてから苦学を重ねて一級の電気技術者となった立志伝中の人物である。1884年、20歳で自らの名を冠した電気器具メーカー、F.H.ロイス(F.H.Royce.Co )をマンチェスターに設立した。

努力家で完全主義者のロイスは、火花の散らない安全な発電機モーターを開発して成功を収め、更に従来は人力に頼っていた小型定置クレーンを扱いやすい電動式に改良して成果を挙げた。

1902年に、長年の過労で体調を崩して療養を勧められたロイスは、療養中にフランス製のガソリン自動車「ドコーヴィル 」(Decauville )を購入した。ところがこの車は扱いにくい上に度々故障を起こし、幾度修理を重ねてもまともに実用にならなかった。ロイスは強い不満を感じた。

その頃人件費の安いアメリカやドイツのメーカーがロイス社の市場に競合相手として出現してきた。ロイスと共同経営者のアーネスト・クレアモント(Ernest Claremont、1863年 - 1921年)は新しい分野の市場を開拓する必要に迫られていた。そこで自動車の将来性に着目したロイスは、自ら自動車を製作することを決意した。1903年から自社の優秀な電気工数人を助手として、マンチェスター・クックストリートの自社工場で開発に着手。昼夜を次いでの開発作業の結果、極めて短期間のうちに試作車を完成させた。

1904年に完成した「ロイス10HP」は、Fヘッド(フラットヘッド)の直列2気筒2,000ccエンジンを前方に搭載し、3段変速機とプロペラシャフトを介して後輪を駆動する常識的な設計だった。奇をてらわない堅実な自動車で運転しやすく、極めてスムーズで安定した走行性能を示し、実用面でも十分な信頼性を持っていた。メカニズムについてはあくまで単純で信頼性の高い手法を取ったが、トレンブラー高圧コイルとバッテリーを組み合わせた点火システム、そしてガバナー付の精巧なキャブレターは、当時としては最高に進んだ設計で、エンジン回転の適切なコントロールができた。4月1日に行われたテストドライブでは、時速16.5マイル (26.5km/h) のスピードで145マイル (233km) を走破した。

この優秀な小型車に、ロイス社のすぐ近くで工場を経営していたヘンリー・エドマンズ (Henry Edmunds) が着目した。彼はC.S.ロールズ社の関係者で、ロールズが優秀なイギリス車を求めていることを知っており、早速コンタクトが取られた。

ロールス・ロイス成立[編集]

15hp(1905年)

1904年5月に、マンチェスターで「ロイス10HP」に試乗したスチュアート・ロールズとクロード・ジョンソンは、性能の優秀さにいたく感銘を受けた。ロールズは「ロイス車の販売を一手に引き受けたい」と申し出、ロイスもこれを了承した。以後ロールズとロイス、そしてジョンソン(彼はその働きから Rolls-Royce の"-"(ハイフン)と評された)のチームは、相携えて高性能車の開発、発展に著しく寄与することになる。

しばらくは両者は別会社の形でロールス・ロイスブランドの自動車の製造・販売を行った。C.S.ロールズとロイス自動車部門の合同でロールス・ロイス(Rolls-Royce Ltd )が設立され、名実ともに「ロールス・ロイス」となるのは1906年である。ロイス社でも経営をコントロールしていたアーネスト・クレアモントが(ジョンソン以上に裏方に徹する形で)ロールス・ロイスでも経営実務にあたり、1907年から1921年に没するまで社長を務めている。

当初、マンチェスターのクック・ストリートにあったロイスの工場で生産が行われたが、1908年にはダービーに本拠を移している。ロイスは1904年末から2気筒車とその気筒数を増やして延長した3気筒車、4気筒車、6気筒車を製作、当時のイギリス車の中で性能的に群を抜いた存在として注目され、自動車先進国であるフランスでもパリでの展示会で高く評価されるなど成功を収めた。すでに「パルテノン神殿をモチーフとした」とされる独特のラジエーター・デザインはこの頃に定着していた。最初の2気筒10HPは6台が現存している。

4気筒モデルは1905年、ロールズらの運転でマン島TTレースに出場、健闘を見せたがギアボックスのトラブルで2位となった。ロールズは翌年のT.T.レースでは雪辱を果たし、平均時速39マイル (63km/h) の快速で優勝している。

シルヴァーゴースト[編集]

シルヴァーゴースト(1912年)

1906年、ロイスは従来の「30HP」6気筒車に代わるモデルとして、新型の6気筒車を開発した。「40/50HP」型として発表されたこのモデルは、翌1907年に「シルヴァーゴースト」の愛称を与えられ、ロールス・ロイスの世界的な名声を確立した名車として知られている。

保守的設計ながらトータルバランスへの入念な配慮を伴って、良質な材料と高い工作精度で製作されたこの7000cc級の新型車は、当時の自動車の中でも抜群に静粛かつスムーズな走行性能と卓越した耐久性を備えていた。翌1907年夏にはロールズ、クロード・ジョンソンらの運転により、「40/50HP」型のテスト用モデル「シルヴァーゴースト」が約15,000マイルの過酷な連続耐久テストをノートラブルで走破、このテスト車の愛称がそのまま「40/50HP」型全体の通称として用いられることになったのである。

当初「世界最高の6気筒車」のフレーズで売り出されたシルヴァーゴーストは極めて高価であったが、商業的にも成功を収めた。のちには「6気筒」を除いて「世界最高の自動車 (The best car in the world)」と銘打つようになり、最高級車の代名詞として世界各国の王侯貴族や富豪に愛用された。日本においても1922年大正天皇御料車にもなっている。

以後しばらくの間、ロールス・ロイスは生産モデルを「シルヴァーゴースト」1種のみに絞り、1912年に排気量拡大などのマイナーチェンジを加えたものの、1925年まで19年間の長期に渡って6,173台の「シルヴァーゴースト」を生産した。

第一次世界大戦と航空用エンジン[編集]

C・S・ロールズ自らによるモータースポーツへの取り組みは、初期ロールス・ロイス社の大きな宣伝効果になっていたが、これは彼が当時のイギリス上流階級に見られた冒険的「スポーツマン」の一人であったことも背景の一つであった。

ロールズは1898年に初めて気球に乗って以来、熱心な飛行家にもなり、後にはライト兄弟とも親交を結んだ。更にロールズは、大学での学友で自らの事業協力者でもあり、後年政治家となったジョン・ムーア=ブラバゾンに次いで、イギリスで2人目の公認パイロットとなり、余暇には飛行機の操縦に熱中した。しかし黎明期の未熟な航空機での飛行は極めて危険なものであり、ロールズは1910年7月12日、ボーンマス国際飛行大会で、乗機の墜落によって事故死した。

翌1911年に、ヘンリー・ロイスは大腸ガンを患い、手術を受けて辛うじての小康を得たが、以後終生人工肛門装着を余儀なくされ、かつてのような激務は困難な身となった。それでもロイスは、イングランド南部やフランス等での転地療養を続けつつ、ジョンソン、クレアモントらの助けを借り、巧みに経営と技術の舵取りを行った。宣伝役と言うべきロールズを失ってからも、ロールス・ロイスの経営は堅調に継続されたのである。

「ホーク」エンジン。その構造には「シルヴァーゴースト」とダイムラーの自動車用エンジンからのノウハウが活かされている

1914年8月に第一次世界大戦が勃発したが、開戦と同時にドイツのダイムラーの最新型グランプリ・レーシングカーがイギリス軍当局によって没収された。このレーシングカーはロンドンのショールームにちょうど展示されていたものであったが、当時最先端のSOHC動弁機構を搭載していた。SOHCのシステムを航空用エンジンに技術移転できると見込んだイギリス軍は、ロールス・ロイスに開発を持ちかけた。

ヘンリー・ロイスはダイムラー製エンジンを参考に、SOHC機構を搭載した飛行船用70HPエンジンの「ホーク」を開発する。当時の航空用としては珍しい直列形水冷エンジンであったが信頼性は高かった。以後、ロールス・ロイスの航空用レシプロエンジンは、直列形とV形の液冷式を採用して実績を上げた。その結果、第一次世界大戦終戦後、ロールス・ロイス社において航空用エンジンは自動車と並ぶ重要部門となっていた。

高水準の確立と戦間期・世界恐慌[編集]

ファントムI・ランドーレ・ドゥ・ヴィル(1927年)
ファントムIII・フーパー・セダンカ・ドゥ・ヴィル(1937年)

「シルヴァーゴースト」の後継モデルとして、1925年には高出力のOHVエンジンを搭載し、機械式サーボ・システム[2]による強力な4輪ブレーキを装備した「ファントム I」が開発された。

これに先立つ1921年には、「シルヴァーゴースト」の大きな市場であり、当時輸入車に高額の関税を課していたアメリカ市場への対策としてアメリカ工場(マサチューセッツ州スプリングフィールド)が開設され、左ハンドル仕様の「シルヴァー・ゴースト」1,701台、「ファントムI」1,241台を生産したが、ビジネスとしては失敗に終わった。「たとえ高額の関税込みであろうとイギリス製のロールス・ロイスが欲しい」というアメリカの富裕層の心をつかみきれなかったのである。

これらはボディメーカーがアメリカ系のため、イギリス本国生産モデルとは著しく異なるスタイリングをしており、ラジエーター以外はキャディラックパッカードなどのアメリカ車じみた外観だった。1929年世界大恐慌がとどめを刺す形になり、1931年にはアメリカでの現地生産の中止を余儀なくされる。

以後のロールス・ロイスの最上級モデルは引き続いて「ファントム」(Phantom )の名を与えられ、1932年には低床シャーシの「ファントム II」、1936年には当時最先端のウィッシュボーン式独立懸架とV形12気筒エンジンを備えた巨大な「ファントム III」を送り出している。

20hp(1924年)

一方、1922年には「シルヴァー・ゴースト」より小型(とはいえ4リッター級)の「20HP」形車(通称ベビー・ロールス)でオーナー・ドライバー向けの高級車市場を開拓。このベビー・ロールス系は1929年に強化形の「20/25HP」に発展、1936年には排気量拡大型の「25/30HP」形に移行し、1938年にはやはり前輪独立懸架装備の「シルヴァー・レイス」に進化して、ロールス・ロイスの市場を広げた。

戦後日本の総理大臣吉田茂第二次世界大戦前に外交官として英国に赴任していた当時、私費で1937年式25/30HPフーパー製サルーンを購入して日本に持ち帰り、総理在任中も含め公私において終生愛用した。これは日本に残るロールス・ロイスの中でもとくに有名な1台で、2013年時点でも可動状態で現存する。

第二次大戦以前のロールス・ロイスは、材質や工作精度において常に高い水準を維持し続けた。また走行性能の面でも、同時期の高級スポーツカーに引けを取らない水準を保っていた。特注でクーペボディを載せれば、十分にグラン・ツーリスモとして通用する車であった。

「シルヴァー・ゴースト」で確立された、卓越した耐久性の高さも特記に値するもので、特に大型モデルの頑丈なシャーシは装甲車ボディの架装にすら耐える強度があった。耐久性確保対策の一例として、通常のリーフスプリングは、両端部でリンクを通すための穴である「アイ」は最長となるリーフの端を巻いて成形するところ、ロールス・ロイスのリーフスプリングのアイは、鍛造によってスプリング端部を厚く成形し、穴開け加工して作られた。通常はコスト制約で容易に採用できないやり方で、ロールス・ロイス社の強度へのこだわりがうかがえる。

すでにこの頃には、「アイドリング中、ボンネットに硬貨を立てても倒れなかった」「リアシートから運転手に『エンジンを始動してくれ』と言ったら、答えは『エンジンは既に回っております』だった」等々の「ロールス・ロイス伝説」が世に流布していた。後年には、アメリカ合衆国での広告における「高速走行中に聞こえるのはダッシュボードの時計の音だけ」というフレーズが有名になり、更には出先で故障したロールス・ロイスがメーカーから有り得ないような迅速修理(砂漠ヘリコプターで修理チームが現れる、など)を受け「後日オーナーが請求書を求めたが、『ロールス・ロイスは故障しません』とだけ回答があった」などの明らかな創作ジョーク(さまざまな変形バリエーションがある)が流布するなど、「伝説」は壮大化した。

なお1920年代までは、高級車オーナーはボディのないベアシャーシを購入し、外部のボディメーカー(コーチビルダー)に発注して好みのボディを架装するのが、ロールス・ロイスに限らない馬車時代からの伝統であった。しかし世界大恐慌以降の1930年代からは、レディメイドのボディが一般化し、ロールス・ロイスも有名コーチビルダーのパークウォード社やマリナー社で標準ボディを架装させることになった。

ベントレーを傘下に[編集]

1931年には、ル・マン24時間耐久レースなどで数々の勝利を収めながらも経営不振に陥っていたベントレー社を、創業者ウォルター・O・ベントレーから譲受、自社ブランドとした。以後のベントレーは1990年代までロールス・ロイスのバッジエンジニアリングによるオーナー・ドライバー向けの姉妹車として存続する。

ヘンリー・ロイスが1933年に死去し、これを受けてロールス・ロイスは「R/R」エンブレムの赤地部分を、ロイスの喪に服して黒地に変え[3]、現在でもこれは踏襲されている。

マーリンとグリフォン[編集]

「マーリン」エンジン

1939年9月に勃発した第二次世界大戦中は自動車生産を中止し、航空用エンジンをはじめとする軍需生産に特化した。ダービー工場は、軍需工場としてドイツ空軍による爆撃の被害を受けている。なお、ロイスが最晩年に手がけた液冷V形12気筒エンジンは「マーリン」の愛称で改良を重ねつつ、第二次世界大戦中を通じて大量に生産された。

マーリンは戦闘機スピットファイアハリケーン爆撃機ランカスター偵察戦闘爆撃機モスキートなど、数多くのイギリス製軍用機に搭載され、イギリス本土防衛戦(バトル・オブ・ブリテン)や対独攻撃において大きな成果を挙げた。

また、第二次大戦での最優秀戦闘機ともされるアメリカP-51 マスタングは、マーリン(アメリカのパッカード社でライセンス生産された)を搭載したことが成功の一因と言われている。

最後のシュナイダー・トロフィー・レースに勝利した水上機、スーパーマリン S.6B用のエンジンを基に開発された「グリフォン」エンジンは、「マーリン」より更に強力なエンジンで、後期型スピットファイアに搭載された。

第二次世界大戦後[編集]

シルヴァー・レイス(1949年)
シルヴァー・クラウド(1956年)
シルヴァー・シャドウ(1965年)
ロッキードL-1011「トライスター」

第二次世界大戦後の1946年、工場はダービーからクルーに移転され、1947年から「シルヴァー・レイス」の生産を再開した。第二次世界大戦後も、ロールス・ロイスは古くから培ってきた名声によって広い販路を得るとともに、特に本土がほとんど戦禍を受けなかったアメリカを主なマーケットとして販売を伸ばし続けた。

なお、第二次世界大戦後のロールス・ロイスの外見は、流線形やテールフィンなどの流行を取り入れて行ったアメリカ車やドイツ車と比べ、「ナイフ・エッジ」と呼ばれるデザインが代表するように、イギリスの伝統に従ってごく保守的であったが、性能は常に時代毎の水準を満たしていた。

第二次世界大戦後の最上級リムジンとしては、1950年に復活した「ファントムIV」を皮切りに、1959年に「ファントム V」、1968年には「ファントム VI」が登場している。なお、第二次世界大戦前からの長きに渡って、イギリス国王の御料車はデイムラーであったが、1955年に「ファントムIV」がエリザベス2世女王の御料車に採用され、念願の頂点を極めている。また「ファントムIV」は、昭和天皇の御料車としても短期間使用されている。

量産モデル[編集]

また、それよりもより量産向けのモデル(ロールス・ロイスの基準では)としては、「シルヴァー・レイス」に代わり、1949年に初の戦後型モデルとして「シルヴァー・ドーン」が発表された。その後1955年には、ロールス・ロイスとしては初の流線形デザインを採用した「シルヴァー・クラウド」に進化した。

1965年に発表された「シルヴァー・シャドゥ」(ホイールベース延長型は「シルヴァー・レイス」、ベントレーでは「T」及び「コーニッシュ/コンチネンタル」)では、後輪独立懸架(セミ・トレーリングアーム式)が導入され、車体はフルモノコック構造となった。またGM製の3段オートマチックをオプション設定するなど、これまでのモデルに比べて著しく近代化されている。

航空機用ジェットエンジン[編集]

第二次世界大戦中からジェットエンジンの開発を始めており、1949年に初飛行した世界初のジェット旅客機、デ・ハビランド DH.106 コメットの第二世代モデル(1953年 - )にも同社製のエンジンが搭載された。しかしながら1960年代、大型ジェット旅客機「L-1011 トライスター」向けに開発中だった新機軸を大幅に盛り込んだRB211エンジンがトラブルを招いた。同エンジンへの搭載が試みられた炭素繊維複合材製のターボファンブレードであるHyfilはバードストライクの試験に合格できず、また採用試験運転中にファイバーが剥がれ落ちてしまう事故も発生した。振動特性の違いなどからターボファンのみを通常の金属製に変更することは不可能であり、エンジン全ての再設計が必要となった。この経過は、ロールス・ロイスにとって莫大な経済的損失となった。

倒産と国有化[編集]

RB211エンジンの失敗などによってロールス・ロイスの財政は逼迫、1971年には遂に経済破綻し、公的管理下におかれた。同社はイギリス国有化されることによって消滅を免れた。その際には、当時イギリス最大の自動車メーカーとなっていた国営ブリティッシュ・レイランドの傘下になることも噂されたが、最終的にはロールスロイス社として独立を保った状態のまま国有化された。

その後[編集]

自動車部門[編集]

カマルグ(1975年)
シルヴァー・スパー(1980年)

国有化後の1973年、自動車部門(ベントレーを含む)は分離・民営化されることが決定した。売却先は当時同国の大手メーカーであったヴィッカース社であり、社名は「ロールス・ロイス・モーターズ (Rolls-Royce Motors)」とされた。

1975年には、ピニンファリーナによるデザインを持つ2ドアクーペの「カマルグ」が登場した。1980年には、シルヴァー・シャドゥを継ぐ新モデルとして、空力を意識したデザインに、車高自動調整機能付きの後輪独立サスペンションや角型ヘッドライトを備えた「シルヴァー・スピリット」(ホイールベース延長型は「シルバー・スパー」、ベントレーでは「ミュルザンヌ」)が登場した。

1992年、近代化と新型エンジンの開発コスト削減のため、ロールス・ロイス・モータースはドイツの自動車会社BMWと提携した。その後、デビューから20年近くが経過し旧退化していた乗用車「シルヴァー・スピリット」の後継モデルとして1998年3月に発表された「シルバー・セラフ」には、BMW製のV型12気筒エンジンが搭載されることになった。

同年、親会社であるヴィッカーズは、ロールス・ロイス・モーターズの売却を決定した。売却先は提携関係にあったBMWが有力であったものの、買収に成功したのは最高額を提示したドイツのフォルクスワーゲンであった。その後フォルクスワーゲンは、BMWからエンジン供給を受けることによってロールス・ロイスの従来モデルの製造・販売を2002年末まで行った。

2003年1月、BMW、フォルクスワーゲン両社間の契約に基づき、「ロールス・ロイス」のブランドを冠した乗用車はBMWが製造・販売し、フォルクスワーゲンは「ベントレー」のみを製造・販売継続することとなった。「ロールス・ロイス」ブランドの乗用車を生産・販売する権利を得たBMWは同年、新会社「ロールス・ロイス・モーター・カーズ」をイギリス南部のウェスト・サセックス州グッドウッドに設立し、現在まで同ブランドの乗用車を製造・販売している。

工業部門[編集]

航空用エンジンの製造・販売を中心とする工業部門は、1973年に自動車部門が分離・民営化されて以降もイギリス国有企業として存続した。航空機用エンジンのほか、船舶、防衛、エネルギー関連などの製作・販売を続けていたが、マーガレット・サッチャー政権下に再度の民営化が決定され、1987年に民間企業「ロールス・ロイス plc」に業態転換した。

乗用車モデル[編集]

第二次世界大戦前[編集]

  • ロールス・ロイス・レイス(1938 - 1939年)
  • ロールス・ロイス・ファントム III(1936 - 1939年)
  • ロールス・ロイス・ファントム II(1929 - 1935年)
  • ロールス・ロイス・ファントム I(1925 - 1931年)
    • Derby(1925 - 1929年)
    • Springfield(1926 - 1931年)
  • ロールス・ロイス・トゥエンティー(1922 - 1929年)
  • ロールス・ロイス V8 レガリミット(1905 - 1906年)
  • ロールス・ロイス 30HP(1904 - 1906年)
  • ロールス・ロイス 20HP(1905 - 1906年)
  • ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト40/50HP(1906 - 1925年)
  • ロールス・ロイス 25/30HP(1936 - 1938年)
  • ロールス・ロイス 20/25HP(1929 - 1936年)
  • ロールス・ロイス 15HP(1904 - 1905年)
  • ロールス・ロイス 10HP(1904 - 1906年)

大戦後 - 2002年[編集]

日本での販売[編集]

輸入者の変遷は以下の通りである。

  1. - 2001年 : コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッド
  2. 2002 - 2003年 : フォルクスワーゲンアウディ日本
  3. 2004年 - : ロールス・ロイス・モーターカーズリミテッド(ロールス・ロイス・モーター・カーズ社製モデル)

その他[編集]

ロールス・ロイスの秘密[編集]

ロールス・ロイス車のエンジン出力は、シルヴァー・ゴースト初期形で48HP、後期形で65HP(いずれもグロス値)とされるが、この当時以来、公式には常に秘密のままであった。単に「必要十分な性能」とだけ表現され、実際いつの時代のモデルも同時代の水準に比し、その言葉通りに必要十分以上の性能を出していたのである。無益なカタログ馬力競争に背を向けた一つのポリシーとも言えよう。

しかし何事にも厳格なドイツの法では近年「正確な出力表示」が求められるようになった(ドイツの自動車税の課税基準が出力によるものであるから)。ロールス・ロイスもドイツ資本が入ったことからこれに抗しきれず、1990年代末期以降のモデル(シルヴァーセラフ以降)では出力を表示するようになっている。

スピリット・オブ・エクスタシー[編集]

ロールス・ロイスのラジエーター頂点に立つ羽根を広げた精霊像は、「スピリット・オブ・エクスタシー」(Spirit of ecstasy) の名で知られる。1911年、ロールス・ロイスの広告イラストを手がけた画家チャールズ・サイクスによってデザインされたのが原型である。ロールスやジョンソンと親しかったRAC幹部ロード・モンタギューの女性秘書エレノア・ソーントンがモデルという説もあるが定かでない。

ヘンリー・ロイスの言葉[編集]

ヘンリー・ロイスは、完全主義者の努力家としてのポリシーをいくつかの言葉に残し、それらは現代にまで伝わる箴言となっている。

  • 「価格が忘れられても、品質は存続する (The quality will remain when the price is forgotten.)」
  • 「我々が悪い車を作ろうとしても作れない。もし作っても工場の門番が門外に出さないだろう」
  • "Qvidvis recte factvm qvamvis hvmile praeclarvm"(いかにささやかなりとも最善を尽くした仕事は全て尊い、という趣旨のラテン語。社是ともいえる言葉)

高品質の代名詞[編集]

高品質なイギリス製品を指して、「ジンのロールスロイス(タンカレー)」「シングルモルトのロールスロイス[4]ザ・マッカラン)」などといった謳い文句が広告で使われることがある。

もっとも、ロールス・ロイスからこの種の呼び方を正式に認められていたのは、第二次大戦前の高級オートバイで、高品質・高性能によって「オートバイのロールス・ロイス」と呼ばれた「ブラフ・シューペリア(Brough Superior)」(1919年-1940年に計3,048台のみ製造)程度であった。なお、ロールス・ロイスの愛用者でもあったT・E・ロレンスが乗車中に事故死したバイクもブラフ・シューペリアである。

脚注[編集]

  1. ^ 日本における正規代理店による表記。英語圏では「ロールズ・ロイス」[roulz rɔis] と発音する。(三省堂『固有名詞英語発音辞典』より)
  2. ^ このサーボブレーキは元々1919年に開発されたスペインの大型高級車イスパノ・スイザ「H6B」に同社の主任技師マルク・ビルキヒトの着想で装備されたプロペラシャフト出力方式で、とあるユーザーがイスパノから取り外して「シルヴァーゴースト」に装備し、ヘンリー・ロイスに見せたのが導入のきっかけである。ロイスはイスパノ式サーボの価値を認めてシルヴァーゴースト末期形から正式採用、以後ロールス・ロイスでは約半世紀にわたって一部油圧化などの変更を受けながら使用された。エンジン負圧を利用する一般的ブレーキサーボと異なり、車速に単純比例してより強力にブレーキが効く。
  3. ^ 生前にロイスが「黒の方が美しい」として変えさせたという説、単に顧客の「赤だとボディの色と合わないのでどうにかしてくれ」との要望に応えただけという説もある。
  4. ^ サントリーのサイト

外部リンク[編集]