クレメント・アトリー
| クレメント・アトリー Clement Richard Attlee | |
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| 生年月日 | 1883年1月3日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1967年10月8日(84歳没) |
| 所属政党 | 労働党 |
| 称号 |
初代アトリー伯爵、プレスウッド子爵 KG, OM, CH, PC |
| 内閣 |
第1次アトリー内閣 第2次アトリー内閣 |
| 在任期間 | 1945年7月26日 - 1951年10月26日 |
| 任命者 | 国王ジョージ6世 |
| 在任期間 | 1935年10月8日 - 1955年12月14日 |
初代アトリー伯爵クレメント・リチャード・アトリー(Clement Richard Attlee, 1st Earl Attlee、1883年1月3日 - 1967年10月8日)は、イギリスの政治家。首相(在任:1945年 - 1951年)。 労働党党首(1935年 - 1955年)。
ラムゼイ・マクドナルド以来2人目の労働党出身の首相で、同党出身の首相として初めて4年の任期を全うできただけでなく、任期中に議会で過半数の議席を得ることができた首相でもある。
同政権下では国営医療事業国民保健サービス(NHS)などが設立され、イギリスはベヴァリッジ報告書構想に基づく福祉国家の建設に歩みだした。
目次
プロフィール[編集]
弁護士時代[編集]
ロンドン出身。オックスフォード大学卒業後弁護士となり、ロンドンのスラム街にあったセツルメントに関わる。第一次世界大戦に出征するも負傷し、除隊後は政界に転じる。
政界[編集]
1919年には労働党出身者初の首長としてステップニーの市長となった後、1922年の総選挙に初めて立候補する。かつて関わりのあったロンドンのスラム街を地盤として選挙戦を戦い、見事下院議員となる。
1924年にマクドナルドが内閣を組織した際には、陸軍次官を務める。その後、逓信相、労働党下院代表などを経て、1935年に引退するジョージ・ランズベリー(George Lansbury)の後任として労働党党首となる。
第二次世界大戦中、ウィンストン・チャーチルの挙国一致連立内閣では王璽尚書(1940年 - 1942年)、副首相(1942年 - 1945年)として入閣し、1945年5月23日の連立解消まで務めた。
1945年の総選挙[編集]
ヨーロッパ戦線の終結後の初の総選挙は、1945年7月5日に投票が行われ、26日に開票が行われた結果、以下のような結果となった。
- 保守党:8,656,966票、193議席
- 労働党:11,567,996票、381議席
- その他政党:3,883,696票
保守党は181議席を失い、チャーチル、アンソニー・イーデンら6名の閣僚が当選したものの、残りの閣僚は全員落選する事態となった。チャーチルはポツダム会談に参加中であったが、7月25日のポツダム宣言発表後ただちに帰国、翌26日に内閣総辞職した。なお、総選挙を控えていたため、このポツダム会談にはアトリーも次席として参加していた。
なおこの時点においてドイツは降伏していたものの、アジアおよび太平洋戦線においてはまだ日本との戦いが続いている最中で、かつてイギリスの植民地であったマレー半島や香港は日本軍の占領下にあり、多くのイギリス軍将兵がビルマや沖縄などで日本軍と戦っていた。
首相[編集]
就任[編集]
労働党の勝利後、党内ではモリソンや党幹部のハロルド・ラスキがアトリー追い落としを狙っていた。しかし、すでにチャーチルが保守党の敗北を認め、次期首相にアトリーを推していたことから、アトリーはバッキンガム宮殿を訪れ、国王ジョージ6世から組閣の命を拝した。首相就任後直ちにイギリス全権としてポツダム会談に参加した(8月2日に終了)。
内政[編集]
その後、8月15日に日本が降伏したことで第二次世界大戦が終結した。首相在任中は、第二次世界大戦で疲弊したイギリスの戦後復興と、主に日本軍によって追い立てられたアジアの植民地の復帰を推進、ジョージ6世の反対を押し切って、労働党の公約であった基幹産業の国有化と「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障制度の確立を行い[1]、社会主義政策を矢継ぎ早に実現していった。
しかし、1947年の寒波で国内は大きな打撃を受け、さらに戦後復興のためにアメリカ合衆国が示した「マーシャル・プラン」を受け入れるなど、国際経済における主導権は完全に失われた。
外交[編集]
イギリスは戦勝国となったものの、日本軍によって痛められたイギリスのアジアにおける権威は完全に失墜し、各地でイギリスからの独立運動が活発化した。その結果、長年のイギリスの植民地であったインド、パキスタン、セイロン、ビルマの独立を承認することを余儀なくされた。
しかし、インド・パキスタンでは宗教問題から分離独立となり、委任統治領だったパレスチナではユダヤ人とアラブ人の対立に対処しきれず、その解決を国際連合に委ねるなど、国際政治における主導権も喪失した上に、過去における植民地支配、分割統治の爪痕を残す結果となった。
また、日本の占領下を経てイギリスの植民地に復帰した香港の地位保全を背景に、1950年1月6日には西側諸国で最も早く中華人民共和国を国家承認し[2]、中華民国とは台湾に駐在する領事館を残した[3]。なお、これに先立つ1948年には、チベット使節団が訪英し、アトリーに面会している[4]。
国防政策では、朝鮮戦争に日本の占領を担当していたイギリス連邦占領軍を派遣し、「朝鮮イギリス連邦軍」の名で国連軍として参戦させる一方で、イギリスの原子爆弾開発を決定した[5]。
辞任[編集]
1951年10月に行われた総選挙で、チャーチル率いる保守党に敗北したことにより、首相を辞任した。
首相辞任後[編集]
首相を退いた後の1954年には、中華人民共和国を訪れて西側の要人で初めて毛沢東と会見[6]している。なお、首相辞任後も労働党党首の座に留まっていたが、労働党が1955年5月に行われた総選挙で、チャーチルに代わって新たに党首に就任していたイーデン率いる保守党に敗北したことで、12月に党首を辞任し下院議員を辞職した。しかしその後爵位を授かり(初代アトリー伯兼プレストウッド子爵)、以後は貴族院議員となるが、1967年10月に肺炎で死去した。
参考文献[編集]
脚注[編集]
- ^ 中村久司 『観光コースでないロンドン イギリス2000年の歴史を歩く』 高文研、2014年、247頁。ISBN 978-4-87498-548-9。
- ^ British note recognising the People's Republic of China
- ^ Taiwan-UK Relations - Taipei Representative Office in the U.K. 駐英國台北代表處
- ^ Farrington, Anthony, "Britain, China, and Tibet, 1904-1950".
- ^ Thorpe, Andrew. (2001) A History of the British Labour Party, Palgrave; ISBN 0-333-92908-X
- ^ Letter from Mao Zedong to Clement Attlee sells for £605,000China
関連項目[編集]
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