黒江保彦
黒江 保彦 Colonel Yasuhiko Kuroe, JASDF | |
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渾名 | 「魔のクロエ」 |
生誕 |
1918年2月17日![]() |
死没 |
1965年12月5日(47歳没)![]() |
所属組織 |
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軍歴 |
1937 - 1945(帝国陸軍) 1952 - 1965(空自) |
最終階級 |
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指揮 | 第6航空団司令(空自) |
戦闘 |
ノモンハン事件 日中戦争 太平洋戦争 |
出身校 | 陸軍航空士官学校(50期) |
黒江 保彦(くろえ やすひこ、1918年(大正7年)2月17日 - 1965年(昭和40年)12月5日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官(戦闘機操縦者)。航士50期。最終階級は、帝国陸軍では陸軍少佐、航空自衛隊では1等空佐[1]。
生涯[編集]
エース・パイロット[編集]
鹿児島県日置郡・中伊集院村(現:日置市)にて、陸軍砲兵大尉・黒江敬吉[注 1]の四男として生まれる。伊集院中学を経て陸軍士官学校予科(後の陸軍予科士官学校)に進んだ[1]。朝鮮・平壌の飛行連隊での隊附勤務を経て[5]、1938年(昭和13年)6月に陸軍航空士官学校(航士)卒業・航空兵少尉任官(航士50期)[1]。航士50期の同期生に、石川貫之(第10代航空幕僚長)がいる。少尉任官後に明野陸軍飛行学校で戦技教育を受け、同年10月に卒業。同年11月、飛行第59戦隊(戦隊長:今川一策中佐)附として日中戦争(支那事変・日華事変)中の漢口飛行場に着任し、航法訓練、編隊飛行、単機戦闘、射撃訓練などの訓練を受けた。
1939年(昭和14年)ノモンハン事件の勃発により、8月29日に飛行第59戦隊は満蒙(現中国・モンゴル)国境の採塩所飛行場に移動する。黒江はソ連労農赤軍機を相手に初めて実戦を経験し、ノモンハン事件停戦の日9月15日の午前、ソ連領内タムスクの爆撃に参加しソ連機I-15を2機撃墜した。停戦後は漢口へ帰還し、広東、海南島近海、南寧奥地などを転戦した。
1941年(昭和16年)1月、陸軍航空士官学校教官として着任する。3月、大尉に進級。9月、陸軍航空審査部(部長今川一策大佐)に転任となり、審査部編成の独立飛行第47中隊(通称かわせみ部隊)に編入される。黒江は後に二式戦闘機「鍾馗」となる試作重戦闘機キ44を使用し、明野飛行学校や海軍の横須賀航空隊に出かけて戦技を磨き研究した。
同年12月太平洋戦争(大東亜戦争)開戦に先立って独立飛行第47中隊[注 2]は南方戦線に移動[6]する。翌1942年(昭和17年)1月から戦闘に参加し、1月15日シンガポール攻略で「鍾馗」による撃墜第1号の戦果を挙げ戦闘を継続した。その後タイ、3月にはビルマへ順次前進した。しかし、4月に内地に対するドーリットル空襲を受けると独立飛行第47中隊は本土への帰還命令[7]を受けた。黒江は4月に「加藤隼戦闘隊」の異名を持つ飛行第64戦隊へ異動となり、第3中隊長に補された。
戦闘機隊指揮官[編集]
5月22日の加藤建夫戦隊長の戦死[注 3] 後は、先任中隊長として歴代の戦隊長を補佐し続けた。1943年(昭和18年)2月12日、八木正巳戦隊長が、2月25日、明楽武世戦隊長が相次いで戦死した後、広瀬吉雄少佐の指揮の下、後に戦隊長となる宮辺英夫大尉らとともに部隊の中級指揮官として任務を遂行した。
1944年(昭和19年)1月、陸軍航空審査部に再び着任する。4月、1か月間スマトラ島パレンバンへ出向し、油田防空担当の第9飛行師団の戦闘機隊にタ弾攻撃の伝習教育を実施。その後は東京都福生飛行場で各種試作戦闘機や武装の審査を担当しながら防空戦闘にも出動した。鹵獲したアメリカ軍機で各種試験飛行を行なうテストパイロットとしても従事し、B-29が偵察飛行に飛来した際、鹵獲したP-51C戦闘機[注 4]に搭乗して一緒に飛行するなど、多くの逸話を残した。黒江はP-51の性能を高く評価し、来るべき日本本土上空での空戦を見越し、4月より陸軍航空審査部による戦闘機隊を対象とした戦技指導を開始させた。その皮切りは飛行第244戦隊であり、飛行第47戦隊、飛行第70戦隊、飛行第51戦隊、飛行第52戦隊、明野飛行教導師団、飛行第56戦隊、飛行第246戦隊で実施された。その際、P-51の高性能さと黒江自身の持つ戦闘機操縦技量により訓練相手を圧倒する事もあったため、新米パイロットが相手の際は自信喪失しないようにあえて手心を加えた場合もあった。模擬戦後に「あれでもP-51はまだ本気を出していない」と強く釘を刺す等、現実主義者でありまた理論派でもあった。
航空自衛隊入隊[編集]
1945年(昭和20年)秋、敗戦・陸軍の解体により郷里に帰り農業に従事。田畑を耕し馬を飼ったが、食糧難時代で体も痩せ細った。闇商売、行商、サルベージ業など様々な商売を手がけて失敗が続き、莫大な借金を背負い、昭和27、28年ごろは精神的には平然を装っても日々の食べ物にこと欠くどん底状態に陥った。その後、上京し民間の富士航空を経て航空自衛隊に入隊する。ジェット戦闘機の搭乗員として空を飛ぶ生活に戻ることができ、生き生きとした状態を取り戻したという。
航空自衛隊では1年間イギリス空軍への留学に派遣され、必死に勉強したと伝えられる。帰国後はジェット戦闘機隊の指揮官などを務めた。1965年(昭和40年)12月5日[1]、1等空佐として石川県小松基地で第6航空団司令を務めていた黒江は[1][8]、「将来の航空総隊司令官」と嘱望されていたが[9]、妻が止めたにもかかわらず悪天候の中を福井県の越前海岸に磯釣りに出かけ、高波に飲まれて水死した。満47歳没。12月7日の部隊葬では軍歌として知られる飛行第64戦隊歌で送られた。
人物[編集]
100キロの大きな体躯に天衣無縫なおおらかさと、きめ細やかな感情と心配りの人だった。明るく豪快ながら心配りある人柄は多くの部下に慕われた。タバコの煙をふかし痛飲、放歌高吟では加藤隼戦闘隊の歌をよく歌ったと伝えられる。思ったことは即行動し、家族を驚かすことも多かった。釣りが大好きで釣りに行くと決めたら他の意見をまったく聞かなくなる性分でもあった。
また、才能ある文筆家の顔も持ち、第64戦隊時代には同戦隊の第二部隊歌を作詞[注 5] したり、戦後の著書も数ある陸海軍戦闘機操縦者らによる空戦戦記の中では文学としても評価が高い[要出典]。
著書[編集]
- 黒江保彦 つばさの血戦 (戦記シリーズ)、鱒書房、1956年
- 黒江保彦 『空の男 ジェットパイロットの記録』、光文社、1957年
- 黒江保彦 雑誌『丸』「印緬国境陸鷲"隼"血戦譜」、1971年
- 黒江保彦(遺稿) 『あゝ隼戦闘隊』、光人社、1985年
注釈[編集]
- ^ 従四位旭六瑞三功五。1879年生まれ、陸士14期、野戦砲兵第1連隊大隊長[2] を経て同連隊附、横須賀重砲兵連隊附[3]。1931年8月に大佐、同月に予備役[4]。
- ^ 南方派遣直前に独立飛行47中隊は9機編成で第一編隊長に坂川敏雄少佐、第二編隊長に神保進大尉、第三編隊長に黒江保彦大尉が当てられた。尚、隊号に因み赤穂四十七士が討ち入りに用いた山鹿流の陣太鼓を部隊章として機体に描いた(実際には吉良邸への討ち入りに陣太鼓は用いられていない)。1943年(昭和18年)10月、飛行第47戦隊に改編。
- ^ 加藤中佐は大の宣伝嫌いであったため、黒江は戦死後のジャーナリズムの大宣伝を知られたら烈火のように憤慨されたはずだと回想している。
- ^ 1945年1月16日に日本軍の蘇州飛行場を攻撃していた第51戦闘航空群第26戦闘飛行隊のサミュエル・マクミラン・ジュニア少尉(2./Lt. Samuel McMillan, Jr.)のP-51C #44-10816は対空砲火を受け不時着。マクミラン少尉は捕虜となった。機体は損傷が少なく鹵獲された後に修理を受け、3月に日の丸を描かれ陸軍航空審査部へと運ばれた。この機は黒江により多用されたが7月の飛行第246戦隊における戦技指導の際に発電機が故障した為、飛行不能となった。
- ^ 伊藤久男の吹き込みによりレコード化の上、1944年4月に発売された「印度航空作戦の歌」(黒江大尉作詞、ビルマ派遣軍軍楽隊作曲、ニッチク、100876)。
脚注[編集]
- ^ a b c d e 秦 2005, p. 61, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:黒江保彦
- ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(大正13年9月1日調)472コマ
- ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(昭和5年9月1日調)436コマ
- ^ 『陸軍予備役将校同相当官服役停年名簿』(昭和9年4月1日調)426コマ
- ^ 黒江 1957, p. 22
- ^ 大陸命第五百八十号、「二 左ノ部隊ヲ南方軍戦闘序列中ノ南方軍直属航空関係部隊ニ編入ス」「独立飛行第四十七中隊(戦闘)」、昭和十六年十二月八日
- ^ 大陸命第六百十七号、「二 左ノ部隊ヲ南方軍戦闘序列中ノ直属航空関係部隊ヨリ除キ第五十一教育飛行師団長ノ隷下ニ入ラシメ且之ヲ防衛総司令官ノ指揮下ニ入ラシム」「独立飛行第四十七中隊(戦闘)」、昭和十七年四月二十一日
- ^ 『自衛隊年鑑(1966年版)』防衛産業協会、1966年1月1日、993頁。
- ^ 『鵬友』平成2年11月号 (航空自衛隊幹部学校 幹部会): 66. (1990).