印西市

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いんざいし
印西市
千葉ニュータウン中央駅周辺.JPG
Flag of Inzai Chiba.JPG
印西市旗
Inzai Chiba chapter.JPG
印西市章
1980年11月1日制定
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 千葉県
団体コード 12231-9
法人番号 1000020122319
面積 123.79km2
総人口 95,878
推計人口、2017年5月1日)
人口密度 775人/km2
隣接自治体 柏市我孫子市白井市
八千代市佐倉市成田市
印旛郡栄町酒々井町
茨城県北相馬郡利根町
市の木 サクラ
市の花 コスモス
他のシンボル 市の鳥:メジロ
市の魚:ナマズ
印西市役所
所在地 270-1396
千葉県印西市大森2364-2
北緯35度49分56.3秒東経140度8分44.6秒
Inzai city hall.JPG
外部リンク 印西市

印西市位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

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印西市(いんざいし)は、千葉県北西部に位置する面積123.8km², 人口約9万7千人の

印西市と周辺2市に広がる「千葉ニュータウン」があり、市民の約6割がこの地域に住む。東京都特別区部への通勤率は24.2%(平成22年国勢調査)。

地理[編集]

東京の都心から約40km、千葉市から約20km、成田国際空港から約15kmに位置する。面積は123.80km²。三方を利根川印旛沼手賀沼に囲まれた水と緑豊かな市。周辺の佐倉市四街道市白井市八街市成田市富里市酒々井町栄町と合わせて「印旛地域」と称される。

地形[編集]

千葉県北部に位置し、標高20から30メートル程度の平坦な下総台地利根川印旛沼手賀沼などからなる周辺の低地により構成されている。台地と低地部の境には、低地部から台地に入り込む浸食谷や、谷津と呼ばれる地形が広がる。地質は、台地上は洪積層に属し関東ローム層からなっており、低地部は沖積層に属し一般に肥沃な土地が広がっている。 土地利用は台地上は主に畑や山林として利用されてきたが、近年は強固な地盤であることから、千葉ニュータウンをはじめとした市街地が広がっている。低地部は豊かな水に恵まれ水田として利用されてきた。現在も谷津田など、緑豊かな田園風景が見られる。

自然

全て利根川水系の河川であり、本流は市北端を流れている。

池沼

隣接する自治体[編集]

隣接する自治体のうち、利根町とは直接的な往来はできない。我孫子市または栄町を経由する必要がある。千葉県で他県と接していながら直接的な往来ができない自治体は印西市のみである。また、千葉ニュータウン中央駅の西隣の小室駅船橋市にあるため船橋市と隣接していると思われがちだが、実際には白井市を挟んでいるため隣接していない。

歴史[編集]

江戸時代は利根川の水運が盛んで、物資移送や香取神宮鹿島神宮息栖神社の三社詣などで木下街道付近にあった木下河岸が栄えた。

太平洋戦争と印旛飛行場[編集]

 西の原地区は、その昔、印旛郡船穂村草深(そうふけ)という地名の通り、広大な草深野であり、歩む人の見上げる月が見え隠れするほどに雑草木が深く、その道は雨が降るとまるで池のように冠水し、水捌けも悪いため、沼のように泥状になり、バス等の大型車両は、そのぬかるみにはまって、常々交通網に支障が出てしまい、近隣の住民は、常に困らされていました。そのため、当時の町村長が会合の席で、この広い土地の有効活用を模索するなかで、国からの提案により、航空機乗員養成所の誘致に同意することになります。1938年(昭和13年)逓信省航空局航空機乗員養成所が創設に至りました。表向きは、民間と軍の搭乗員育成所でありましたが、実際のところは、第一次世界大戦で航空機の重要性を認識した政府が、一向に収束が見えない日中戦争の拡大を予見し、航空戦力の強化を目的とした軍学校としての要素が強かった。そのため、学費は無料かつ全寮式で、軍隊式の生活、講師は予備役軍人であった。運用前から軍人の育成目的は明白ではありましたが、草深い土地を切り開き、広い土地の有効活用を行いつつ、幹線道路の整備や養成所を基点とした土地開発を行いたい近隣町村との思惑が一致し、早期実現したものでありました。この頃、政府は日本全国に15ヶ所の航空機乗員養成所を創設するほど積極的であり、その中の一つが印旛飛行場である。1940年(昭和15年)欧州諸国では、第二次世界大戦が勃発し、日本は日独伊三国同盟により対米英との緊張が高まる中、完成を急がされたため、周辺の住民や学徒を滑走路整備に動員し、土地の買収と山林の伐採や滑走路、宿舎や道路等の整備、工場や倉庫等の飛行場施設の建設を進めて、ようやく飛行場の一部が完成するに至りました。翌年1月には、教官による初飛行が行われ印旛飛行場の運用が開始され、1942年(昭和17年)飛行場が全面的に完成するに至りましたが、真珠湾攻撃マレー沖海戦により飛行機の重要性が世界で再認識されとと同時に、政府でも航空戦力を早期に増強することが、太平洋戦争を早期終結させる命題となったため、印旛飛行場では、滑走路の全面完成を待たず、逓信省印旛地方航空機乗員養成所を開設し、早期育成のためのスパルタ教育が実施された。生徒は厳しいながらも初等機、中等機、高練へと滞りなく修練を積み、短期間で高度な飛行技術を習得し卒業して行きました。生徒の中でも特に優秀だった者は、松戸の高等航空機乗員養成所に進み、更に高度な教育が行われ、戦線で活躍する搭乗員を幾人も輩出することもできました。養成所の生徒の中には、民間航空への道を望む者が少なからず存在しましたが、ミッドウェー海戦での大敗により、正規空母4隻の喪失と多くのベテラン搭乗員を失ったため、戦力となる搭乗員を補うことが軍部の急務となり、養成所の卒業生は、軍専属の航空隊に配属されることがほとんどでありました。1943年(昭和18年)になると太平洋戦争の戦局は、連合国による猛烈な攻勢により完全に暗転し、ガダルカナル島の戦いアッツ島での度重なる玉砕の報を受け、大本営は、いずれ絶対国防圏の維持が難しくなり、連合国による本土空襲を危惧し始めます。本土防衛として、首都京浜工業地帯を秘密裏に最優先事項と判断したため、太平洋からの敵機飛行ルート下になると思われる印旛飛行場を迎撃用の航空基地とするため、拡張工事が急きょ始まることになります。その後、養成所は軍用施設への転用が正式決定し、陸軍飛行第二十三戦隊印旛飛行場に名称が変更となります。1944年(昭和19年)には、陸軍飛行第二十三戦隊が駐留し、戦隊の本部や射撃場、新しい誘導路や宿舎、防空壕も設置されました。一式、二式単座戦闘機を含めた数十機ほどの戦闘機が配備されることになりましたが、当の養成所生徒が操縦する機会はほとんどなく、飛行機や滑走路の整備に動員され、もっぱら陸軍の身の周りを世話するといった日々でありました。その後の戦局はサイパングアムレイテマリアナ沖海戦と度重なる玉砕や航空戦での敗北により、日本は絶対国防圏の制空権を完全に失い、防衛計画が完全に崩壊してしまいます。すると11月には、米軍の新型爆撃機B29による東京への初空襲を記録します。大本営は、散発的な空襲であると国民に広報しますが、その後、本土空襲が当たり前になり始め被害が拡大し始めると都市部では学童疎開をすることが当たり前になってきます。この頃になりますと、攻撃目標となりやすい印旛飛行場からも新潟、群馬等に学童疎開する生徒も出始めるようになっていました。1945年(昭和20年)2月、印旛陸軍飛行場にグラマンF6FF4U コルセアなど米軍数百機が来襲の報が入り、勇猛果敢に迎撃を試みましたが、性能に劣る日本機に敵機の撃墜は難しく、逆に藤田重郎戦隊長など5名が戦死する結果となってしまいました。この後、日本機より性能が高く速力のあるP-51は狙わずにB29の大型爆撃機のみを狙って迎撃する方針に切り替えられ、その後も度々迎撃は続けられました。時には銃爆撃のために印旛沼上空に低空飛行してきた敵機P-51との格闘戦に果敢に挑み、どうにか撃退して近隣の住民を銃爆撃から守ったこともありましたが、戦局に影響を与えることは出来ませんでした。終戦間際の7月、迎撃を続けてきた印旛飛行場が、ついに米軍機の標的となり、P-51の猛烈な銃爆撃を受け生徒7名が死亡してしまいます。その後、甚大な被害を受け修復を続けるなか、間もなく終戦を迎え、ポツダム宣言の受諾により戦闘停止となりました。連合国軍最高司令官総司令部の占領政策により、航空機の研究・設計・製造は全面禁止となってしまいます。そうなると飛行場は不必要な存在となり、何時しか印旛飛行場は姿を消してしまいました。その名残りとして、戦後から昭和中期までは、飛行機を格納する掩体壕跡を見ることが出来ましたが、近年の千葉ニュータウン開発でほとんどがマンションや戸建に変わり消失してしまい、完全体で確認できるのは、印西市草深の1基だけとなっております。また、新住民の増加により、印旛飛行場の存在認識は薄れ、多くが忘れ去られてしまっており、現在では、休日、子供たちが多く遊ぶ西の原公園の片隅に、逓信省印旛地方航空機乗員養成所跡地、陸軍飛行第二十三戦隊印旛飛行場跡地を示す平和の碑があるだけであります。

平城京から来た皇女 松虫姫[編集]

 奈良時代、遠方の平城京からに乗った一人のお姫様が乳母と従者数人を従え、下総の萩原(印西市松虫)に参られました。彼女は身なりからも高貴な立場であり、聖武天皇の皇女(不破内親王)が来たことに村人達は大層驚いたといいます。幼き頃から都でも評判になるほど彼女は美しかったのですが、年頃になると、不幸にも難病である癩病を患い、手の施しようがありませんでした。日々、思い悩む夜を送る彼女のもとに下総国萩原出戸の薬師如来が現れ、「われが鎮座するもとで祈れば平癒しよう」とのお告げがあり、その出来事を聞いた父である聖武天皇は、お告げのとおり、東国へ下向させました。薬師堂の近くに留まり始めた彼女は、村人達と分け隔てなく交流し、乳母や従者は、機織り裁縫養蚕など都の技術・文化を伝えながら親交を深めていきました。その一方、薬師堂でのお祈りを一日も欠かすことなく、一心に数年間続けたところ、見事、願いは叶えられ、病を治癒することが出来ました。その吉報は、聖武天皇に届けられ、その後、皇女は都に帰ることとなりましたが、共に都から来た乳母は文化や技術を下総国に広めるため村に残ることを決意しました。また、共に来たも、すっかり年老いてしまい、都までの遠路は難を極めるため、同じく村に残すこととしました。松虫地区に伝わる伝承では、姫と共に都に帰れないことを知った老牛が深く悲しみ、近くの大池に投身したというのがあります。その池は現在も実在し、「牛むぐりの池」(松虫姫公園)と呼ばれています。  松虫姫が東国から帰京すると、皇女の病が完治したことを天皇は心から喜び薬師如来に感謝しました。その意として都から大工を下総の萩原(印西市松虫)に派遣し、薬師堂に立派な一寺を建立させました。その寺は、松虫寺と命名され、その地域は、松虫(現在の印西市松虫)と呼ばれるようになりました。  その後の松虫姫(不破内親王)ですが、朝廷の皇族や貴族の権力争いに巻き込まれ、波乱の人生を歩むことになります。天武天皇の孫である塩焼王の妻となり子を儲けますが、夫の塩焼王藤原仲麻呂の乱に名を連ねて、天皇に擁立されようと画策していたことがわかり、殺害されてしまいます。また、松虫姫や子供も連坐となりかけてしまいますが、松虫姫が称徳天皇と異母姉妹であったことが幸いし、なんとか刑罰から免れることができました。難を逃れた松虫姫ですが、その後も苦難の人生は続きます。今度は、称徳天皇呪詛し、自分の子供を皇位につけようと松虫姫が企んでいると嫌疑をかけられてしまいます。それに激怒した称徳天皇は、内親王の身位を剥奪し、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ※台所の女という意味)へと改名させ、長年住んできた平城京内からの退去も命じられました。また、息子の氷上志計志麻呂土佐国に配流が決定し、家族が離散することになりましたが、後ほど虚偽が判明し、冤罪であったため、松虫姫(不破内親王)と子の禁が解かれ、元の身位である内親王に復帰し都に戻ることになります。しかし、10年後、息子の氷上川継が、朝廷の転覆を計画していたことが発覚し、伊豆国に配流となったことに連坐して、松虫姫は娘と共に淡路国へ流されました。その後、和泉国に移され、都に戻れたかは不明です。朝廷内の皇族や貴族たちの権力争いに巻き込まれ、数奇な運命を辿った松虫姫(不破内親王)は、死に臨む際、自分の遺骨の一部を松虫寺に納骨することを望んだと言います。彼女の死後、その望みは叶えられ、松虫寺に分骨塚が築かれました。現在「松虫姫御廟」と呼ばれています。また、近くには、下総に都の技術・文化を伝え、姫の乳母の墓である「姥塚」が残されています。

人口[編集]

Demography12231.svg
印西市と全国の年齢別人口分布(2005年) 印西市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 印西市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
印西市(に相当する地域)の人口の推移
1970年 28,011人
1975年 28,862人
1980年 29,970人
1985年 35,745人
1990年 55,131人
1995年 72,278人
2000年 79,780人
2005年 81,102人
2010年 88,176人
2015年 92,670人
総務省統計局 国勢調査より
  • 世帯数は36,193世帯[2](2015年6月末現在)。

行政[編集]

市長 : 板倉正直(いたくら まさなお)、2012年7月28日就任(1期目)2016年7月10日再選(2期目)

初代市長は、伊藤利明(元印西町長、1983年 ‐ 1996年、1期{町長時代を含めると4期}、市制施行直後の1996年6月に在職のまま急逝)。

2代目市長は、海老原栄(1996年 - 2004年、2期、市長退任後に急逝)。

3代目市長は、山﨑山洋(やまざき・さんよう、﨑の正字は『崎』)(2004年 - 2012年、2期)。

2012年7月8日、印西市長選挙の投開票が行われ、市(町)議を10期務めた板倉が現職の山崎を破り初当選、4代目市長となる。初登庁は同月30日。

2016年7月10日、印西市長選挙の投開票が行われ、現職の板倉が再選を果たす。2期目となる。

行政機関[編集]

役所[編集]

  • 印西市役所
  • 印旛支所
  • 本埜支所
  • 中央駅前出張所
  • 牧の原出張所
  • 小林出張所
  • 船穂出張所
  • 滝野出張所
  • 岩戸出張所
  • 平賀出張所

消防[編集]

  • 印西地区消防組合 - 白井市および本市で構成されている。
    • 印西地区消防組合消防本部
      • 牧の原消防署
      • 印旛消防署
      • 本埜消防署
      • 印西西消防署
      • 印西消防署

警察[編集]

  • 印西警察署
    管内は、印西市・白井市並びに印旛郡栄町の一部(布鎌地区)。

広域行政[編集]

  • 印旛郡市広域市町村圏事務組合
    佐倉市、四街道市、白井市、八街市、成田市、富里市、印旛郡酒々井町、栄町および本市の7市2町で構成されている。
  • 印西地区環境整備事業組合
    白井市、印旛郡栄町および本市の2市1町で構成されている。
  • 印旛利根川水防事務組合
    八千代市、白井市、佐倉市、四街道市、成田市、印旛郡酒々井町、栄町および本市の6市2町で構成されている。
  • 印西地区衛生組合
    印旛郡栄町と本市で構成されている。
  • 長門川水道企業団
    印旛郡栄町と本市で構成されている。

県の機関[編集]

  • 千葉県企業庁地域整備部ニュータウン・内陸建設事務所
  • 千葉県水道局船橋水道事務所千葉ニュータウン支所
  • 千葉県手賀沼土地改良区

市町村合併[編集]

2003年、印西市・白井市印旛郡印旛村本埜村の2市2村の合併が検討され、2003年4月1日には「印西市・白井市・印旛村・本埜村合併協議会」が設立されていたが、2004年7月の白井市で行われた住民投票で反対票が過半数をしめ、合併計画は白紙となった。詳しくは、北総市を参照。

その後、2008年に印西市・印旛村・本埜村の1市2村の枠組みで、市町村の合併の特例等に関する法律(新合併特例法)の期限である2010年3月末までの合併に関する話合いを行うために、2008年10月24日に合併問題懇談会が、それぞれの市村の長および議会議員の代表により構成され設置された。そして、2009年1月9日には合併協議会[3]が設置された。

合併の期日は2010年平成22年)3月23日、合併方式は印西市に印旛村・本埜村を編入する編入合併、新市の名称は「印西市」とすることで合意したが、本埜村の小川利彦村長(当時)が、「現時点で合併の必要を感じていない」などと発言し、実現性が不透明な状態となった。混乱の末、2009年12月に小川村長のリコールが成立し、これを受けて合併申請が行われ、2010年3月5日総務省告示第73号で合併が決定した。これにより、予定通り2010年3月23日に「新・印西市」が誕生することになった。

条例[編集]

2008年1月15日歩行喫煙、ポイ捨て等防止条例が施行となり、千葉ニュータウン中央駅周辺が重点区域に指定された。指定喫煙場所以外の喫煙・空き缶などのごみのポイ捨ての違反者に対し命令に従わない場合、同年4月1日から過料徴収を実施している。

市議会[編集]

印西市議会

  • 定 数:22名
  • 任 期:2015年(平成27年)4月30日 - 2019年(平成31年)4月29日
  • 議 長:小川 義人 (無会派、4期)
  • 副議長:橋本 和治 (公明党、3期)
会派名 議席数 議員名(◎は代表者)
至誠 6 ◎藤代武雄、松尾榮子、近藤瑞枝、岩崎成子、米井重行、稲葉健
創進 4 ◎酢﨑義行、増田葉子、櫻井正夫、小川利彦
新政 3 ◎板橋睦、軍司俊紀、海老原作一
公明党 2 ◎橋本和治、浅沼美弥子
日本共産党 2 ◎山田喜代子、伊藤真一
ひびき 2 ◎金丸和史、玉木実
無会派 2 小川義人、山本清
21

※2017年4月1日現在、中沢氏が市長選立候補のため、辞職により市議会は「欠員1」である。

商業[編集]

 千葉ニュータウンの開発により多くの企業が進出した。千葉ニュータウン中央駅および印西牧の原駅周辺は、印西市における経済産業の中心地となっている。また、関東平野の中で活断層が無く岩盤が強固[4]とされることから、防災上の理由で多くの金融機関が千葉ニュータウン内に事務センターや郵便局の東日本貯金事務計算センターを配置している。  東日本大震災以降、災害へのリスクヘッジとして、大企業が印西市を拠点に置くことが増えたと同時に、北千葉道路の一部開通により、都心と成田空港の中間に大敷地でアクセスが良いのが注目され、物流倉庫が多く建設された。別名「物流城下町」と呼ばれている。宅地造成やマンションの建築も盛んであり、分譲地には有名ハウスメーカーが競争して販売している。

市内に事務センターを置く主な金融機関[編集]

企業[編集]

市内の主な大型商業施設[編集]

地域[編集]

千葉ニュータウン中央・印西牧の原地区[編集]

木下地区[編集]

  • 木下町。市の北西部に位置し、市役所や警察署が所在する行政の中心地。古くからの町並みが残る旧市街地であり、利根川および木下街道に沿って発展している。

印旛地区[編集]

  • 市の東南部に位置し、旧・印旛村地区にあたる。北総エリアの基幹病院である日本医科大学千葉北総病院があり、印旛日本医大駅を中心とした千葉ニュータウン「いには野」地区では宅地化が進行する。一方で谷津田をはじめ自然も多く残されており、樹齢300年を超える「吉高の大桜」や「ナウマン像発掘」の地などの観光名所がある。

本埜地区[編集]

  • 市の北東部に位置し、旧・本埜村地区にあたる。北印旛沼に面して水田が広がり、冬には越冬のために800羽を越す白鳥が飛来する。印西牧の原駅北側の千葉ニュータウン「滝野」地区では宅地化が進行する。また、成田空港に近いため、近年国道464号線の沿道のみどり台などには研究所物流センターなどの進出が目立つ。

主な住宅団地[編集]

UR都市機構(旧住宅・都市整備公団)により開発された住宅団地のほか、民間のデベロッパーにより複数の大規模住宅団地が開発されている。

  • 小林団地
  • アバンドーネ原
  • 原山団地
  • 高花団地
  • 内野中央団地
  • 内野東団地
  • 内野西団地
  • 内野南第一団地
  • 内野南第二団地

教育[編集]

大学[編集]

全3校

中等教育学校[編集]

高等学校・専門学校等[編集]

全2校

市立中学校[編集]

全9校

廃校[編集]

市立小学校[編集]

全20校

廃校[編集]

特別支援学校[編集]

幼稚園[編集]

公立[編集]

  • 大森幼稚園
  • 瀬戸幼稚園
  • もとの幼稚園

私立[編集]

  • 天神幼稚園
  • 小林天神幼稚園
  • 印西しおん幼稚園
  • きかり幼稚園
  • 原山幼稚園
  • 西の原幼稚園

保育園[編集]

公立[編集]

  • 木下保育園
  • 大森保育園
  • 内野保育園
  • 木刈保育園
  • 高花保育園
  • 西の原保育園
  • もとの保育園

私立[編集]

  • 原山保育園
  • どんぐり保育園
  • 銀の鈴保育園
  • しおん保育園
  • 山ゆり保育園
  • 牧の原宝保育園

認可小規模保育園[編集]

市立図書館[編集]

  • 大森図書館:蔵書数163,145冊
  • 小林図書館:蔵書数45,663冊
  • そうふけ図書館:蔵書数75,513冊
  • 小倉台図書館:蔵書数147,194冊
  • 印旛図書館
  • 本埜図書館

印西市立図書館年報 平成20年度-平成19年度より(2008年3月31日現在)

交通[編集]

鉄道[編集]

千葉ニュータウン中央駅が市内で最も乗降人員が多いがJTB時刻表には木下駅が中心駅として記載

未成線[編集]

バス[編集]


道路[編集]

観光[編集]

栄福寺薬師堂

名所・旧跡[編集]

観光スポット[編集]

温泉[編集]

博物館[編集]

祭り[編集]

  • 印西よかっぺ夢まつり
  • 別所の獅子舞(宝泉院地蔵寺・地蔵堂)
  • いなざき獅子舞(和泉鳥見神社)
  • ほくそう春まつり(千葉ニュータウン中央駅周辺)

催事[編集]

  • 東日本実業団対抗駅伝競走大会(2007年まで)
元日に行われる全日本実業団駅伝の予選会を兼ねていて、テレビ中継(録画)もされていた時期もあった。
  • 関東大学女子駅伝対校選手権大会が、印西市千葉ニュータウン周回コースで2008年の第14回から開催されている。
  • 花火大会(2016年)市制施行20周年記念し15年ぶりに利根川河川敷で予定されていたが、打ち上げが中止となった。
番号 種別 名称 所在地 所有者または管理者 指定年月日 備考
1 建造物 宝珠院観音堂 小倉1138 宝珠院 昭和9年1月30日 永禄6年頃(室町時代後期)。
2 栄福寺薬師堂 角田2 栄福寺 昭和29年9月17日 文明4年(室町時代後期)建立年代が明確な県下最古の建造物。
3 泉福寺薬師堂 岩戸1671 泉福寺 昭和52年6月27日 室町時代後期。
5 彫刻 銅造不動明王立像(1躯) 結縁寺516 結縁寺 大正3年4月17日 鎌倉時代の作品。嘉元元年九月ノ銘アリ。
6 木造薬師如来坐像(1躯) 松虫7 松虫寺 昭和34年6月27日 平安時代の作品。
7 木造薬師如来坐像(6躯) 松虫7 松虫寺 昭和34年6月27日 平安時代の作品。
番号 種別 名称 所在地 所有者または管理者 登録年月日 登録番号 備考
1 建造物 岩井家住宅主屋(旧武蔵屋店舗) 木下1645 個人 平成19年12月05日 第12-0089号 大正3年頃。木造2階建、瓦葺、建築面積99m2
番号 種別 名称 所在地 所有者または管理者 指定年月日 備考
1 天然記念物 木下貝層 木下1944ほか 平成14年3月19日 木下万葉公園内。約12 - 13万年前の地層。

スポーツ施設[編集]

  • 習志野カントリークラブ
1973年の第一回大会から1997年までサントリーオープンゴルフトーナメントが開催されていた。また、フィランソロピー・LPGAプレイヤーズ・チャンピオンシップの第二回・第三回(最終大会)の会場でもあった。
  • 総武カントリークラブ
1998年から、最終大会となった2007年までの間、総武ゴルフコースにおいてサントリーオープンゴルフトーナメントが開催されていた。
  • 松山下公園陸上競技場
  • 平岡自然公園
  • 成田射撃場
2013年に開かれた第68回国民体育大会スポーツ祭東京2013)では唯一の千葉県内の会場だった。

放送[編集]

CATV[編集]

市内ではらーばんねっとケーブルテレビを運営している(印旛地区・本埜地区を含む)。

名誉市民[編集]

出身著名人[編集]

印西市を舞台にした作品[編集]

印西市でロケがおこなわれた作品[編集]

その他[編集]

  • かつて、法務省印旛少年院があったが、1983年に地方公共団体(千葉ニュータウン開発)へ渡財産や払い下げされ、現在は存在しない。
  • 2011年に、印西市のマスコットキャラクターが、いんザイ君[6]に決定した。
  • 市政施行直前には全国で最も人口の多い町となり、印西市文化ホール(市役所隣)前には全国町村人口日本一の記念碑が建てられている。

脚注[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]

行政
観光