忠霊塔

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千葉県忠霊塔、1954年(昭和29年)竣工(2009年5月2日撮影)

忠霊塔(ちゅうれいとう)とは、近代以降の日本において建造された、国家君主ために忠義や忠誠をもって戦争に出兵し戦死した者のに対して、顕彰または称え続けることを象徴として表すである。

歴史[編集]

明治新政府の誕生以降、帝国在郷軍人会が主体となり忠魂碑が各地に建立された。その後、1939年昭和14年)1月、内務省は各市町村に1基の忠霊塔の建立の許可を出し[1]、同年7月7日に大日本帝国陸軍は「大日本忠霊顕彰会」を設立し日本以外の地域での陸軍による戦争の跡地および日本国内の各市町村毎に1基ずつ忠霊塔の建立を奨めた[2][3][4][5]
大日本忠霊顕彰会には内閣総理大臣名誉会長菱刈隆陸軍大将を会長、各省大臣、海軍大将等が役員として名を連ねた[6]

塔の建立にあたっての資金は国や自治体の支援もあったが、その市町村の国民は「一日戦死」運動と呼び、1日分の収入が無かったつもりで1日分の給与の額を拠出している[2]1941年(昭和16年)9月には戦争の拡大にともない戦死者も増え,各地の陸軍墓地は陸軍省の通達が出され忠霊塔へとまとめられた経緯もある[7]。こうして各地方自治体毎に多くの忠霊塔が建立されたが第二次世界大戦後は戦争を賛美するとか軍国主義的であるとしてGHQの指示により多くは撤去された。一方一時、塔を土に埋めて隠し撤去を逃れたものもあるとされるが現在も各地に在る[2]

1952年(昭和27年)4月28日、日本国との平和条約日米安全保障条約が発効し、日本国民の主権の回復がされた後には忠霊塔に替わるものとして慰霊碑が建立された[8]。忠霊塔は西南戦争日清戦争日露戦争シベリア出兵満洲事変支那事変太平洋戦争大東亜戦争のそれぞれの戦死者の遺骨を納め、 塔の下部には戦死した者のが刻まれている[7][9]。千葉県忠霊塔など1954年(昭和29年)4月に新たに造られたものや○○県忠霊塔などと呼称を変えたものも幾つかある。

現在では忠霊塔は自治体や地元の人達のボランティアによって塔の周りの草取りや維持・整備が行われている[10]。例年、自治体や遺族らによって行われる戦没者の霊への顕彰・慰霊・追悼の対象の場として慰霊碑、慰霊塔と共に使われることが多い。

日本国内[編集]

日本国外[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 1939年(昭和14年)1月、社会、内務省1市町村に1基の忠霊塔建設許可”. 島根県立大学. 2009年4月5日閲覧。
  2. ^ a b c 【忠魂碑】”. 護国の神々の社 靖國神社. 2009年4月5日閲覧。
  3. ^ 土佐百景、種々の草木が優しく包む忠霊塔【高岡】”. 土佐市農業協同組合. 2009年4月5日閲覧。
  4. ^ 富士紀行(89)深き鎮魂の誠を捧げよ! (PDF)”. Teruo's book (2001年8月19日). 2009年4月5日閲覧。
  5. ^ 横山篤夫 (2007年3月30日). “東アジア研究第48号、「満州」に建てられた忠霊塔”. 大阪経済法科大学. pp. 頁125. 2009年4月5日閲覧。
  6. ^ 須賀博志 (1982-03-24判決). “箕面忠魂碑・慰霊祭違憲訴訟、理由[44]”. 京都産業大学. 2009年4月5日閲覧。
  7. ^ a b 原野昇 (1998年). “仏蘭西学研究』28号30-39.、広島のフランス人墓地、比治山陸軍墓地”. 広島大学. 2009年4月5日閲覧。
  8. ^ 相馬基編、非売品書籍:全國民「一日戰死」高唱、大日本忠靈顯彰事業、東京日日新聞社(現:毎日新聞)、昭和14年7月25日”. 全国愛書家連盟. 2009年4月5日閲覧。
  9. ^ 忠霊塔掃苔履歴平成20年1月18日”. 群馬県吾妻郡中之条町中之条町立伊参小学校. 2009年4月5日閲覧。
  10. ^ 例えば世界平和を願って、平和地区老人クラブ、忠霊塔の清掃 (PDF)”. 匝瑳市. 2009年4月5日閲覧。
  11. ^ 忠霊塔公園”. アットステージ. 2015年8月27日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]