コンテンツにスキップ

忠霊塔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千葉県忠霊塔、1954年(昭和29年)竣工(2009年5月2日撮影)

忠霊塔(ちゅうれいとう)とは、近代以降の日本において建造された、国家君主ために忠義や忠誠をもって戦争に出兵し戦死した者のに対して、顕彰または称え続けることを象徴として表すである。忠魂碑とは異なり忠霊塔は納骨堂を備えていることが前提である。

歴史

[編集]

明治新政府の誕生以降、帝国在郷軍人会が主体となり忠魂碑が各地に建立された。

1930年代後半、戦時色が強まる中、各地で遺骨を祀る忠霊塔を建設する機運が高まった。 1938年昭和13年)3月、内務省警保局は「時期尚早につき暫く時期を待つよう」通牒を発したが、流れを押しとどめることはできず、1939年(昭和14年)1月18日、内務省は各市町村に忠霊塔建立許可の方針を定め、次の条件を提示している[1][2]

  • 忠魂碑、表忠碑等の記念碑または遺骨を納める忠霊塔は一市町村一基とする。
  • 建設場所は私有地を避けて墓地取締規則に準拠する。
  • 忠霊塔の構築様式または内容で、神社に紛らわしいものは禁止する。
  • 碑表の建設を競い、華美壮大を争い、式典行事等に多額の費用を投じたり、建設者の売名、宣伝行為にならぬよう厳戒する。
  • 忠霊塔の場所、維持管理をめぐり寺院または教派、宗派間の紛議の恐れなきよう注意すること。

同年7月7日に大日本帝国陸軍は「大日本忠霊顕彰会」を設立し日本以外の地域での陸軍による戦争の跡地および日本国内の各市町村毎に1基ずつ忠霊塔の建立を奨めた[3][4][5][6]
大日本忠霊顕彰会には内閣総理大臣名誉会長菱刈隆陸軍大将を会長、各省大臣、海軍大将等が役員として名を連ねた[7]

塔の建立にあたっての資金は国や自治体の支援もあったが、その市町村の国民は「一日戦死」運動と呼び、1日分の収入が無かったつもりで1日分の給与の額を拠出している[3][8]1941年(昭和16年)9月には戦争の拡大にともない戦死者も増え,各地の陸軍墓地は陸軍省の通達が出され忠霊塔へとまとめられた経緯もある[9]。こうして各地方自治体毎に多くの忠霊塔が建立されたが第二次世界大戦後は戦争を賛美するとか軍国主義的であるとしてGHQの指示により多くは撤去された。一方一時、塔を土に埋めて隠し撤去を逃れたものもあるとされるが現在も各地に在る[3]

1952年(昭和27年)4月28日、日本国との平和条約日米安全保障条約が発効し、日本国民の主権の回復がされた後には忠霊塔に替わるものとして慰霊碑が建立された[10]。忠霊塔は西南戦争日清戦争日露戦争シベリア出兵満洲事変日中戦争太平洋戦争のそれぞれの戦死者の遺骨を納め、 塔の下部には戦死した者のが刻まれている[9][11]。千葉県忠霊塔など1954年(昭和29年)4月に新たに造られたものや○○県忠霊塔などと呼称を変えたものも幾つかある。

現在では忠霊塔は自治体や地元の人達のボランティアによって塔の周りの草取りや維持・整備が行われている[12]。例年、自治体や遺族らによって行われる戦没者の霊への顕彰・慰霊・追悼の対象の場として慰霊碑、慰霊塔と共に使われることが多い。

日本国内

[編集]
三國第一山新倉富士浅間神社の忠霊塔

日本国外

[編集]
台南忠霊塔

中国には日本軍が13基建設したが戦後破壊されたといわれる[19]

脚注

[編集]
  1. ^ 1939年(昭和14年)1月、社会、内務省1市町村に1基の忠霊塔建設許可”. 島根県立大学. 2009年4月5日閲覧。
  2. ^ 市町村単位で一基、内務省が通牒『東京朝日新聞』(昭和14年1月19日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p481 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  3. ^ a b c 【忠魂碑】”. 護国の神々の社 靖國神社. 2009年4月5日閲覧。
  4. ^ 土佐百景、種々の草木が優しく包む忠霊塔【高岡】”. 土佐市農業協同組合. 2009年4月5日閲覧。
  5. ^ 富士紀行(89)深き鎮魂の誠を捧げよ!” (PDF). Teruo's book (2001年8月19日). 2009年4月5日閲覧。
  6. ^ 横山篤夫 (2007年3月30日). “東アジア研究第48号、「満州」に建てられた忠霊塔”. 大阪経済法科大学. pp. 頁125. 2009年4月5日閲覧。
  7. ^ 須賀博志 (1982-03-24判決). “箕面忠魂碑・慰霊祭違憲訴訟、理由[44]”. 京都産業大学. 2009年4月5日閲覧。
  8. ^ CiNii忠靈塔物語 : 全國民「一日戰死」提唱 : 大日本忠靈顯彰事業 東京日日新聞社編 東京日日新聞社, 1939.10Archived 2023-03-02 at the Wayback Machine.
  9. ^ a b 原野昇 (1998年). “仏蘭西学研究』28号30-39.、広島のフランス人墓地、比治山陸軍墓地”. 広島大学. 2009年4月5日閲覧。
  10. ^ 相馬基編、非売品書籍:全國民「一日戰死」高唱、大日本忠靈顯彰事業、東京日日新聞社(現:毎日新聞)、昭和14年7月25日”. 全国愛書家連盟. 2009年4月5日閲覧。
  11. ^ 忠霊塔掃苔履歴平成20年1月18日”. 群馬県吾妻郡中之条町中之条町立伊参小学校. 2009年4月5日閲覧。
  12. ^ 例えば世界平和を願って、平和地区老人クラブ、忠霊塔の清掃” (PDF). 匝瑳市. 2009年4月5日閲覧。 Archived 2012-01-13 at the Wayback Machine. 忠霊塔の清掃。広報ようかいちばH15.5.1 ページ8
  13. ^ 忠霊塔公園”. アットステージ. 2015年8月27日閲覧。
  14. ^ 読売新聞2022年8月16日13版千葉2、20面
  15. ^ 静岡新聞社. “戦没者忠霊塔、老朽化で解体へ 静岡市清水区、遺族会員らが神事|あなたの静岡新聞”. www.at-s.com. 2021年3月14日閲覧。
  16. ^ 庄山の麓に忠霊塔が建立(昭和17年10月28日 朝日新聞(徳島版)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p643 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  17. ^ 久留米市教育委員会 (2005年3月31日). “歴史散歩No.23 平和への願い・久留米の戦争遺跡(2) 陸軍墓地 久留米市野中町”. 久留米市. 2023年7月15日閲覧。
  18. ^ 外尾誠 (2022年8月18日). “戦禍伝える忠霊塔の案内板 みやま市遺族会が新設”. 朝日新聞デジタル. https://www.asahi.com/articles/ASQ8K7316Q8DTGPB004.html 2023年7月15日閲覧。 
  19. ^ Archived 2014-05-18 at the Wayback Machine. 日本軍が中国に建設した十三基の忠霊 横山篤夫『日本研究』No.49(2014)2枚目頁58下段左端

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]