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(ひしお、字体について後述)は、ペースト状の調味料、あるいは味の濃い食品の総称である。日本では食品を食塩によって発酵させて製造した調味料または食品と認識される。中国語では同文字を jiàng (チァン)と発音する。これに倣い中華料理の分野では日本語でも「ジャン」と読むことが多い。

醤は原料に応じさらに細分される。その際、原料となる主な食品がであるものは肉醤のものは魚醤果実海草のものは草醤、そして穀物のものは穀醤である。なお、現代の日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当する。そこから発展した液状のものが現在の日本の醤油である。一方で現代中華料理で有名なXO醤は、原料となる食品の種類が非常に多いため、こういった分類に該当しない。

麹と食塩で発酵させてつくる塩辛も元々は醤の一種とされ、現代でも中国では「醤」の字をこの意味にも用いる。

現代日本語で醤(ひしお)と呼ぶ場合、液状の調味料のみを指すことが多い。

なお「醤」の字体は印刷標準字体では「醬」つまり上部がであり、「醤」は簡易慣用字体である[1]。本記事内では文字化けを回避する趣旨で可能な限り「醤」と記す。

歴史[編集]

醤の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。

日本では、縄文時代後期遺跡から弥生時代中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然発酵によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。5世紀頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている。古代になると、701年(大宝元年)の大宝律令に官職名として「主醤」(ひしおのつかさ)という記載が現れる。なおこの官職は、宮中の食事を取り扱う大膳職にて醤を専門に扱う一部署であった。主醤が扱ったものには、当時「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた(現代の)味噌も含まれていた。このことから味噌も醤の仲間とされていたことがわかる。

醤の日本語の訓読みである「ひしお」の用例は平安時代の903年(延喜3年)に遡る。同年の『和名抄』(日本最古の辞書)において、醤の和名に「比之保」(ひしほ)が当てられている。また927年(延長5年)に公布された『延喜式』には、醤の醸造例が記され、「京の東市に醤を売る店51軒、西市に未醤を売る店32軒」との旨の記述もある。さらに1116年(承久4年)の太政大臣藤原忠通の年賀の献立を記した『類聚雑要抄』(るいじゅうぞうようしょう)には、具体的な図による描写も現われ、そこには塩、酒、酢とともに小皿に入れられたものが『四種器』(よぐさもの)と記されている。

なお、室町時代に醤は「漿醤」となって、それに「シヤウユ」との訓読みが当てられた。

現代の日本の醤油の原型は、味噌の液体部分だけを絞ったたまり醤油である。江戸時代に現代の醤油の製法が確立している。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 平成12年12月8日 国語審議会答申「表外漢字字体表」、No.491参照。