明月記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
明月記断簡(大阪府立中之島図書館蔵)

明月記』(めいげつき)は、鎌倉時代の公家藤原定家日記。定家が治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたり克明に記録した日記である。別名:照光記定家卿記

概要[編集]

後世、歌道書道において重んじられた藤原定家の日記である。『明月記』の名は後世の名称で定家が命名したものではなく、当人自身は「愚記」と読んでいた。没後、定家の末裔内では「中納言入道殿日記」の称を用いたが、一般的には「定家卿記」の名称が用いられていたようである。

南北朝の頃から『明月記』の名称が用いられるようになったとされる。広橋家記録によれば二条良基の説として『毎月抄』にある“定家が住吉明神参拝の際に神託によって作成した『明月記』”がこの日記であるとの考えが記されている。良基の説を証明するものはないが、当時の日記は公家が公事故実や家職家学の知識を子孫に伝えることを作成目的の1つとしていたことから、定家の日記=定家の奥義書『明月記』という認識が広く行われ、定家末裔を含めてこの呼称が用いられるようになったと考えられている。

定家自筆原本の大部分は冷泉家時雨亭文庫に残り、国宝に指定されている。なお、歌道、書道における定家の筆跡への尊崇から、『明月記』原本の一部は早くから流出し、断簡、掛け軸などとして諸家に分蔵されているものも少なくない。断簡は芸林荘・東京国立博物館京都国立博物館天理図書館などにある。

内容[編集]

歴史上著名な人物の自筆日記としての価値とともに、歴史書・科学的記録としても価値がある。ただし、漢文で記されていて難解な部分が多い。通説では現存本などを元に56年間の記録とされているが、後述の定家の子・為家譲状には「自治承至仁治」とされており、定家が死去する仁治2年(1241年)頃まで書かれていた可能性もある。

日記には何度か「客星」「奇星」なる星が現れ、その都度、夜空は明るく染まり、不安に駆られた定家は陰陽師を呼び寄せた。寛喜2(1230年)十一月に現れる客星は「此星朧々(ろうろう)光薄其勢非小」とある[1]

また、定家自身の体験に基づいていない記録も含まれる。例えば、客星古現例として天喜2年(1054年)4月中旬のかに星雲超新星爆発は、定家誕生以前の出来事であるが伝え聞いた内容として以下のように記載されている(安倍晴明の一族が非常に正確に星の観察をしていて、その記録が伝わった。ヨーロッパには全く記録はなかった。)[2]

後冷泉院・天喜二年四月中旬以後の丑の時、客星の度に出づ。東方にあらわる。天関星にはいす。大きさ歳星の如し。(原文読み下し)

他にも、一条院・寛弘三年四月二日1006年5月1日)のおおかみ座の超新星残骸・SN 1006の超新星爆発、高倉院・治承五年六月二五日1181年8月7日)の超新星残骸・SN 1181の超新星爆発についても書かれている。ひとつの文献に3つの記録が残っているのは世界で唯一。その記録が現代の天文学の最先端の研究にも役に立っている。

背景[編集]

定家の家は「日記の家」と呼ばれる家記(代々の日記)を通じて公事に関する有職故実を有していた家系ではなく、政治的な要職にも恵まれなかった。そのため、定家は『明月記』の中に自らが体験し、収集した知識を多く書き残して自身、あるいは子孫が「日記の家」として重んじられることを期待していたと見られている。

だが、定家の歌道、書道における名声は、結果的に『明月記』を筆頭とした「日記の家」(すなわち公家政権の官僚)としての御子左流の確立を阻むことになった。定家の子・為家が譲状を作成(文永10年7月24日1273年9月6日))した際に、自分が持っている『明月記』について「一身のたからとも思候也、子も孫も見んと申も候ハす、うちすてゝ候へハ」と述べて公事に熱心である庶子・冷泉為相に譲っているのも、歌道の家となった御子左流に公事の書と言える『明月記』の活用の余地が低いものになっていたことを為家が自覚していたからであると考えられている。結果的には定家子孫で唯一存続した冷泉家とともに『明月記』のかなりの部分が伝存されたものの、その冷泉家においても『明月記』は歌道・書道の家の家宝とされ、定家が子孫に伝えたかった有職故実については顧みられることがほとんど無かったのである[3][4]

自筆本[編集]

国宝[編集]

重要文化財[編集]

その他[編集]

写本[編集]

冷泉家時雨亭文庫に残る原本は虫食い等があり、外部に流出した部分も多いため、研究などには一般には原本に近いとされる徳大寺家本が使用されている。同本は翻刻本が出版されている。

参考文献[編集]

  • 松薗斉「藤原定家と日記―王朝官人としての定家」(初出:『愛知学院大学文学部紀要』25号(平成8年(1996年))/改題「藤原定家と王朝日記」(所収:松薗斉『王朝日記論』(法政大学出版局、平成18年(2006年)) ISBN 978-4-588-25052-1 第5章)
  • 「新指定の文化財」『月刊文化財』441号、第一法規、平成12年(2000年
  • 五味文彦 『明月記の史料学』 青史出版、平成12年(2000年)。ISBN 978-4-921145-08-8 

脚注[編集]

  1. ^ (「産経抄」産経新聞2014年11月30日)
  2. ^ 2014年05月01日 (木) くらし☆解説 「爆発間近?! ベテルギウス」水野 倫之 解説委員NHK公式サイト
  3. ^ 五味文彦は『花園天皇宸記正中2年12月30日1326年2月3日)条に「定家卿記」を読んだ事を記していることや『園太暦貞和2年閏9月6日1346年10月21日)条に「定家卿記」からの引用があることから、この時期に広く読まれたと説く。一方、松薗斉は反対に当時広く読まれた日記であればもっと多くの公家の記録や日記などに先例として引用されている筈であると指摘し、むしろ引用例の少なさが『明月記』が秘蔵されて一部の人の目にしか触れていなかったことを示すとしている。
  4. ^ 八代国治や五味文彦の研究によって、『吾妻鏡』の建暦年間前後かつ三善康信関係記事における『吾妻鏡』と『明月記』の記事が似ていることを指摘されている。これは『吾妻鏡』の編纂に関わった三善氏関係者が鎌倉幕府とのつながりが深く晩年を鎌倉で過ごした冷泉為相から提供を受けたと考えられている。
  5. ^ 盗難の日付は『文化財保護行政ハンドブック 美術工芸品編』(文化庁美術工芸課監修、ぎょうせい刊、1998)、p128、による。

関連図書[編集]

  • 『訓読明月記』全6巻、今川文雄訳、河出書房新社、昭和54年(1979年
  • 『明月記』全3巻セット、国書刊行会、昭和62年(1987年
  • 稲村榮一 『訓注明月記』全8巻索引2巻、松江今井書店、平成14年(2002年)12月
  • 明月記研究会編 『明月記研究提要』 八木書店、平成18年(2006年)11月。ISBN 9784840620246

外部リンク[編集]