安政南海地震

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安政南海地震
安政南海地震の位置(日本内)
安政南海地震
本震
発生日 1854年12月24日
発生時刻 16時半頃(日本標準時
震央 日本の旗 日本 南海道
北緯33度0分0秒
東経135度0分0秒
[注 1]座標: 北緯33度0分0秒 東経135度0分0秒[注 1]
規模    M8.4, MW8.5 -8.7
最大震度    震度6:-7: 紀伊新宮土佐中村
津波 太平洋沿岸、特に紀伊水道、土佐湾。最大16.1m
地震の種類 海溝型地震
逆断層
被害
死傷者数 死者 数千人
被害地域 畿内山陰道山陽道南海道西海道
プロジェクト:地球科学プロジェクト:災害
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安政南海地震(あんせいなんかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月5日1854年12月24日)に発生した南海地震である。

南海トラフ巨大地震の一つとされ、約32時間前に発生した安政東海地震東南海地震含む)と共に安政地震安政大地震とも総称される[1]。この地震嘉永年間に起きたが[2]、この天変地異や前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して呼ばれる[3]。当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。

安政南海地震の2日後には豊予海峡M 7.4の豊予海峡地震が発生。また翌年には安政江戸地震(M 6.9-7.4)が起きた。本地震や安政東海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれ、伊賀上野地震から1858年飛越地震まで安政年間に連発した一連の大地震を安政の大地震とも呼ぶ。

江戸時代には南海トラフ沿いが震源域と考えられている巨大地震として、この他に慶長9年(1605年)に起きた慶長地震[注 2]、および宝永4年(1707年)の宝永地震の記録がある。

地震[編集]

地震動[編集]

安政南海地震の震度分布[4][5]

嘉永七年甲寅十一月五日庚午下刻(七ツ半)(1854年12月24日、日本時間16時半頃)、紀伊半島から四国沖を震源(北緯33.0°、東経135.0°[注 1])とする巨大地震が起きた。フィリピン海プレートユーラシアプレート下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた海溝型地震と考えられている[6]

当日、土佐は小春日和の快晴で、高知城下は南川原にて相撲巡業があり、見物客が群集をなすところに地震が襲い、一時大混乱に陥った[7]。『桑滄談』の記録によれば土佐入野(現・黒潮町大方地区)においては、初めゆるゆる震い次第に強くなりやがて激震になったという[8]

畿内では昨日の東海地震に続いて「又々大地震」となり、三河吉田田原および名古屋など前日に地震津波で甚大な被害となった東海地方各地でも、又々長い地震動に続いて西方から雷鳴が聞かれた。新居宿では暮六ツ時(17時頃)に地震少々震う内に日の入りとなり、申酉(西)の方から「どう/\/\」と鳴音が大雷の如くなりと記録されている(『安政大地震』新居町関所資料館[9]

小浜(現・小浜市『続地震雑纂』)や尾鷲九鬼(現・尾鷲市『九木浦庄屋宮崎和右衛門御用留』)では地震動は南海地震より東海地震の方が強く感じられたが、那智勝浦(現・那智勝浦町『嘉永七年寅十一月 大地震洪浪記録書』)や湯浅(現・湯浅町深専寺門前碑文』)・広(現・広川町濱口梧陵手記』)では南海地震の方が強く感じられた[9]京都(現・京都市)では東海地震の方がやや強いか(『安政元寅年正月より同卯ノ三月迄御写物』)、ほぼ同程度で(『御広間雑記』)、大坂でも両地震の強さは同程度であり(現・大阪市『鍾奇斎日々雑記』)、破損の度合いを加えたが、南海地震では津波被害も加わった[9][10]

この地震に関する古記録は歴史地震としては非常に多く残されている[9][10][11][12][13][14]。安政の頃になると日記に加えて手紙などにも地震の記述が現れるようになり、被災時の人々の詳細な行動記録まで残るようになる[15]

震度6と推定される領域は四国太平洋側から紀伊水道沿岸部、淡路島大阪平野および播州平野、震度4以上の領域は九州から中部地方に及び[16]、震源域の長さは約400kmと推定される[17][18]

『中国地震歴史資料彙編』には江蘇粛県や嘉定(上海市郊外)で「水溢地震」、上海で「黄浦水沸二三、嘉定、蘇州皆同」と記されており[19]、震央から約1300km離れた中国の上海でも有感であったという[20]

被害[編集]

被害は中部地方から九州地方へ及び、2つの巨大地震が重なった近畿地方では東海地震における被害と明確に区別ができない。その上、伊予豊後、特に肥後人吉等では約40時間後に発生した豊予海峡地震被害との区別が困難である。

宝永地震と同じく、出雲杵築周辺でも震動が強く潰家が150軒あった(『嘉永甲寅諸国地震記』)。一方で宝永地震とは異なり、冬至頃の気温の下がる夕刻でかつ夕食の支度で火を使う時間帯であり火災が多く発生した。特に高知、中村および宿毛は大火事に見舞われた[21]。土佐国(現、高知県)での死者は、藩主:山内豊信により372名と集計・報告されている[22]

吉野川下流域では液状化現象が見られ、加賀須野村では「土砂多数吹上川之如くに相成り跡に而砂取捨地毎に数百石申出候川筋は津波壱程参り候由下吉衛築新田大荒白海之如く相成り」(『大地震実録記』)と記録される。上板町の神宅遺跡にもこの地震による液状化の痕跡が見られる[23]

なお、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では、坂本龍馬江戸にいるときに地震を感じた(江戸で強震であったのは東海地震)と描かれているが、史実では地震当日に既に土佐に滞在していた。

街道 推定震度[4][5]
畿内 京都(4-5), 伏見(5), 宇治(5), 門真(5-6), 服部(6), 大坂(5-6), 布施(6), (5), 岸和田(5-6), 奈良(5), 郡山(5), 五条(5), 尼崎(5-6), 西宮(5-6), 神戸(5)
東海道
(宿場町)
江戸(e) - 品川 - 川崎 - 神奈川 - 程ヶ谷 - 戸塚 - 藤沢(E) - 平塚 - 大磯 - 小田原 - 箱根 - 三島 - 沼津 - - 吉原 - 蒲原 - 由比 - 興津 - 江尻(E) - 府中 - 鞠子 - 岡部 - 藤枝 - 島田 - 金谷 - 日坂 - 掛川(4-5) - 袋井(4-5) - 見附 - 浜松 - 舞阪 - 新居(E) - 白須賀 - 二川 - 吉田(E) - 御油 - 赤坂 - 藤川 - 岡崎 - 池鯉鮒 - 鳴海 - - 桑名(4-5) - 四日市(5-6) - 石薬師 - 庄野 - 亀山 - - 坂下 - 土山 - 水口 - 石部 - 草津 - 大津(S) - 京都(4-5)
東海道 銚子(E), 熊谷(M), 習志野(e), 塩山(e), 甲府(4-5), 相良(4-5), 西尾(E), 田原(e), 名古屋(4-5), (5), 久居(E)
東山道 真岡(e), 中之条(e), 諏訪(E), 駒ヶ根(e), 飯田(E), 福島(E), 中津川(E), 大井(E), 高山(e), 大垣(5), 垂井(5), 上石津(5), 彦根(S)
北陸道 分水(e), 柏崎(e), 高岡(E), 氷見(M), 金沢(4), 大野(E), 福井(5), 鯖江(E), 小浜(4-5)
山陰道 亀山(4), 園部(4-5), 篠山(4), 宮津(E), 出石(E), 豊岡(5), 生野(e), 鳥取(5), 境港(5), 松江(5), 広瀬(5), 大社(5-6), 益田(4-5), (5), 長門(4)
山陽道 明石(5-6), 加古川(6), 姫路(5), 龍野(5-6), 網干(6), 赤穂(5-6), 津山(4-5), 勝山(e), 岡山(5), 児島(5), 倉敷(5), 三次(5), 福山(5-6), (5), 尾道(5), 三原(5), 竹原(5-6), (5), 広島(5), 岩国(5), 下松(5), 山口(4)
南海道 新宮(6-7), 勝浦(6), 古座(5-6), 串本(5-6), 白浜(5), 田辺(6), (5-6), 和歌山(5-6), 洲本(5-6), 鳴門(6), 徳島(6), 由岐(5-6), 日和佐(6), 浅川(6), 海陽町鞆浦(6), 宍喰(6), 祖谷山(5), 津田(5), 高松(6), 坂出(5-6), 丸亀(5-6), 多度津(5-6), 善通寺(5), 琴平(4-5), 川之江(5), 多喜浜(5), 西条(5-6), 小松(5-6), 今治(5), 松山(5), 大洲(5), 吉田(5-6), 宇和島(5-6), 甲浦(5-6), 野根(6), 室津(5-6), 夜須川(6), 赤岡(6), 長岡郡後免(5-6), 高知(5-6), 吾川郡浦戸(6), 佐川(5-6), 高岡郡宇佐(6), 須崎(6), 高岡郡上ノ加江(5-6), 窪川(5-6), 梼原(5), 幡多郡入野(6), 中村(6-7), 中浜(6), 柏島(6), 宿毛(6)
西海道 小倉(5), 博多(e), 対馬(e), 大宰府(e), 久留米(4), 佐賀(4-5), 諫早(e), 柳川(E), 熊本(5), 八代(5), 人吉(5-6), (4), 中津(4-5), 杵築(5), 日出(5), 別府(5-6), (5), 大分(5-6), 臼杵(5-6), 佐伯(5), 高千穂(5), 延岡(5), 高鍋(5), 佐土原(5)
S: 強地震(≧4),   E: 大地震(≧4),   M: 中地震(2-3),   e: 地震(≦3)

地殻変動[編集]

地震による地殻変動の結果、四国、紀伊半島は南東上りの傾動を示し、串本(現・串本町)は1-1.2m、室戸岬は1.2mそれぞれ隆起した(汐四尺程へり『久保野繁馬所蔵記録』)。足摺岬は伊佐浦で五尺(約1.5m)隆起した(『嘉永七寅年地震津浪記』)[24]

加太(現・和歌山市)1m、甲浦(現・東洋町)は1.2m沈下、高知周辺も3.5尺(約1m)沈下して潮江村、新町下知一円など新田の所が海となった(『続地震雑纂』)[7]。宇佐(現・土佐市)でも「宇佐福嶋一面の海と成る」(『眞覚寺日記』)の記録があり、上ノ加江(現・中土佐町)では『大変略記』に「上の賀江久礼平生潮より五尺高、在所に迄汐入る」とあり[10]地盤は1.5m沈下した[25]

地震により道後温泉は106日間湧出が停止し翌年2月23日(1855年4月9日)から再び湧き出し(『松山市要』)、湯ノ峰温泉も翌年の2 - 3月頃まで出湯が停止した(『田所氏記録』)[5]

このような南東上がりの地殻変動は宝永地震および昭和東南海南海地震と同様であり、南海トラフ西側においてユーラシアプレート衝上する低角逆断層のプレート境界型地震であることを示唆している[6]

規模[編集]

河角廣(1951)は規模MK = 7. を与え[26]マグニチュードM = 8.4に換算されている。宇佐美龍夫(1970)はこの河角の規模と気象庁マグニチュードの関係を検討し、やはり8.4に近いであろうと推定したが当時はモーメントマグニチュードという概念は存在せず、1960年のチリ地震M 8.5とされていた[5][27]、数値実験から2つの大きな断層モデルが仮定されている。各断層個別のモーメントマグニチュード Mw は西側からそれぞれ、8.4, 8.2(合計で Mw = 8.5)と推定された。この断層モデルは1946年南海地震の紀伊半島側の断層モデルを北側にずらし四国側の断層モデルを延長して、それぞれのすべり量に多少の変更を加えたものであった[28][29]

内閣府の「南海トラフの巨大地震モデル検討会」による「南海トラフ沿いの巨大地震による長周期地震動に関する報告」では、東海地震を含む安政地震全体としてMw8.84の断層モデルが想定され[30]、同モデルを用いた建築研究所では安政東海地震の断層モデルとして地震モーメントM0 = 9.02 × 1021N・m (Mw8.6)を想定しており[31]、この地震モーメントを差し引けば安政南海地震はMw8.7となる。

余震[編集]

眞覚寺、安政南海地震およびその余震について記した『眞覚寺日記』で知られる。右下は昭和南海地震津波碑。高知県土佐市宇佐。

この地震の約40時間後、11月7日下刻(1854年12月26日9時頃)には豊後水道付近を震源とする豊予海峡地震(M 7.4)があり伊予から豊後付近で激しく揺れ伊予大洲伊予吉田で潰家があった[11]

安政元年大晦日辰刻(1855年2月16日8時頃)に高知付近で大規模な余震があり徳島(『徳島県板野郡誌』)および田辺(『田所氏記録』)でも強く感じられ、その直後余震数が急増している[5]

土佐市宇佐眞覚寺の住職、井上静照師による地震被害の詳細な記録である『眞覚寺日記』には毎日の地震が記録され、余震は文久3年極月卅日(1864年2月7日)「此頃地震もなきニ馬鹿らしく何を書そへ下手ノ横好」と地震日記を締め括るまでの9年間で2979回(計2981回、東海地震・南海地震の本震2回は除く)記録された。有感余震回数は昭和南海地震を大幅に上回るものであった。この余震回数を改良大森公式に当てはめると係数p = 0.9-1.0、c = 0.8-1.0となる[32]

高知城下では番匠町の水門の番人により、地震後1ヶ年間に817回の余震が記録されている[7]。この高知城下における有感余震数は、震源域に近い宇佐よりも少ない[33]

地震度数
高知城下 番匠町 宇佐『眞覚寺日記』
地震
嘉永七年十一月 7 44 196 247 2 5 22 89 118
安政元年十二月 3 20 73 96 2 16 40 88 146
安政二年正月 8 107 115 3 229 91 396 719
二月 7 56 63 47 48 34 129
三月 6 42 48 27 69 12 108
四月 1 4 41 46 29 69 11 109
五月 1 2 31 33〔ママ 1 18 49 2 70
六月 1 31 32 19 52 5 76
七月 6 30 36 21 46 67
八月 10 9 19 15 52 1 68
九月 2 19 20 2 16 39 1 58
十月 1 28 29 11 40 51
十一月 18 18 16 33 49
十二月 14 14 6 42 2 50

津波[編集]

紀伊半島以西では東海地震よりさらに激しい津波が襲来し、波高は串本15m、宍喰5-6m、室戸3.3m、種崎11m、久礼で16.1mに達した[5][34]。『末世之記録大地震大津浪上り』には熊野新宮(現・新宮市)より東は四日の地震にて津波が上ったと記され、那智勝浦では昨日の津浪に対し思いの外軽く見えたと記録されている(『藤社家雑録』、『新田家過去帳』)。潮岬以西の津波被害は主に南海地震津波によるものであった[25]

波高は全般的に見て土佐湾沿いで昭和南海地震より2倍程高く、宝永地震の半分程度であるが、美波町田井ノ浜の池の津波堆積物の厚さによる推定から徳島県東岸等では一部宝永津波を上回った所もあった[35]

津波の被害状況
地域 推定波高・遡上高
古文書の記録 今村
(1935-40)
[36]
羽鳥
(1977-84)
都司
(2007-11)
その他
伊豆下田 現・静岡県下田市 夕六ツ半頃、又津波来り申候。下田岡方村江上り候得共、最早流し候人家無故に、さして騒ぎ不申候。二の潮も凡十町許の方まで上り申候。『伊豆下田より之書状』 2m[20]
紀伊勝浦 現・和歌山県那智勝浦町 五日七ツ時迄ニ又々大地震ニテ、又津浪起リ、(中略)此辺ハ昨日ノ浪ヨリ思ノ外小浪ニテ『藤社家雑録』 2m[37]
串本 現・串本町 江田組・二色にて凡浪重五丈余『和歌山県串本町誌』 4.5m[37] 6m[38][39] 15m[5]
古座 現・串本町 袋湊は常水より三丈の溢れ入りたるよし『地震洪浪の記』 4.5-5m[37] 9m[5]
田辺 現・田辺市 津浪は会津川筋の秋津、釘貫井辺迄、町中は上片町小坂迄、袋町小坂迄、下長町、伊丹屋新七宅前迄『和歌山県下に於ける宝永安政年度の津浪状況調査』 12尺[40] 3-3.5m[37]
現・広川町 八幡下の俗称一本松の根元まで来た 海岸6m、
一本松8.0m[41]
5m[42]
湯浅 現・湯浅町 津浪は南別所勝楽寺下及『和歌山県下に於ける宝永安政年度の津浪状況調査』 5.1m[41] 4.2m[42]
和泉 現・大阪府堺市 暮なんころ俄に津波たちて、川すしへけハしく込いり『擁護璽碑文』 2.5m[37] 2.5m[43]
大坂 現・大阪市 船着の海岸雁木の処、五段は泥に成、夫より上四五段往来迄も水上り候『大坂地震津波荒増日記写』 2.5-3m[37] 3m[43][44]
播磨赤穂 現・兵庫県赤穂市 五日晩より夜分へ沖汐高くさし引不定津浪参り候と申立夜四つ時前ニ騒き申町灘目も一統山へ逃登り候『年中用事扣』 3m[45] 3m[43]
備前虫明 現・岡山県岡山市 平水より凡七尺余を増し『邑久郡誌』 2m[45] 2m[43]
備後三原 現・広島県三原市 浦嶋通り/\海中泥水ニ相成候事『上田家文書』 1.5m[45]
因島 現・尾道市 2m[43]
安芸大崎下島 現・呉市 又々如何体之大風吹替り高波内当テ候程も難計『地震損所土留方御願書附』 1.5m[45]
広島 現・広島市 芸州宮嶋大津浪ニ而損し候よし『嘉永雑記』 1m[45]
周防徳山 現・山口県周南市 海辺五日の夜以来不時に汐満干度々有之候間、同夜干汐に六尺位も満上り、六日迄も少々宛汐の動有之候由同断『部寄』 1m[45] 1.5m[43]
伊予西条 現・愛媛県西条市 1-2m[43]
高松 現・高松市 塩溜坪五百十二崩申候、塩浜石垣三千七百六十九間崩申候、汐除堤七千二百二十六間大破仕候『靖公実録』 1.5m[45] 1.5m[43]
阿波撫養 現・徳島県鳴門市 津波が一丈四・五尺の高さで撫養に襲来し、人家塩田は多くが浸水し、山西庄五郎の持船をはじめ多くの船が破損流失した。『鳴門市史』 4m[45] 1-2m[46]
牟岐 現・徳島県牟岐町 汐の高さ三丈余、又山々の麓へ指込みし汐先は五六丈とも見えたり『安政元年地震被害高抄出』 5-6m[47] 9m[39] 9m[5]
浅川 現・海陽町 津浪高サ弐丈ヨリ処により三丈余り観音堂石磴廿五段迄『浅川御崎神社大地震津浪記』 7m[47] 6.5-7.2m[46]
宍喰 現・海陽町 港口の辺にて二丈三尺余『阿波海嘯誌略』 5-6m[47] 6m[5]
土佐室戸室津 現・高知県室戸市 津浪汐先は御家中町各々下も一丁位い浸る市中江は汐不入又下地は勿論新町近辺は是又各々下も一丁位い浸る昔宝永年中の津浪は大門前迄海の様に成と云此度津浪汐先き如此『大変記』 3m[47] 3.3m[5]
安芸 現・安芸市 御留山二二ヶ所・塩田八ヶ所・普請七四ヶ所大破した『安芸郡史考』 4-5m[47]
種崎 現・高知市 二本松の根もとを浸した 11m[36] 5m[47]
高知 現・高知市 海面ヨリ高キコト凡ソ二十尺ナリ『浦戸港沿岸震浪記』 1.8m[47]
宇佐 現・土佐市 宇佐の地勢は前高く後低く東は岩崎西は福島の低みより汐先逃路を取巻故昔宝永の変にも油断の者夥敷流死の由今度もその遺談を信じ取あへず山手へ逃登る者皆恙なく『萩谷名号碑』 8.5m 7-8m[47] 5.8-8.9m[46]
須崎 現・須崎市 七ツ時大地震半時バカリアリテ大塩入来其時地震ニ而家蔵潰レ地少々引サケ候ニ付浜町五六軒ノ者一同小船四五艘ニ取乗地震ノ難ヲ海上ニノガレ候場合イ大潮押来右船ノ者大凡流失ス『発生寺過去帳』 5m 5m[47] 8.9[48] 5.5m
吾井郷7-8m[46]
久礼 現・中土佐町 五十人許八幡社山に登り難を免れた『三災録』/社殿に懸れる絵馬の釘の辺まで浸水 海岸12.1m、
焼坂16.1m
5.2m[49] 5.6-8.3m[46]
入野 現・黒潮町大方地区 先を争ふて山頂に登山上より両川を窺見るに西牡蠣瀬川東吹上川を漲り潮正溢る是即海嘯也初潮頭緩々として進第二第三相追至第四潮勢最猛大にして実に肝を冷す家の漂流する事数を覚ず通計に海潮七度進退す初夜に至て潮全く退く園は砂漠となり田畛更に海と成る『加茂神社震災碑』 6.5m[49] 6-6.5m[46]
大岐 現・土佐清水市 南は大岐下港海浜より新庄田に来り竹の花通寺の下を経て坪の内に至る『幡南探古録』 5.5m[49] 4.9-5.3m[46]
清水 現・土佐清水市 越と清水の間は双方より浸し来れる津浪の為陸地僅に残りて帯の如き地陜となり、蓮光寺の下方にある家の仏壇には磯魚を打ち上げ『嘉永七寅年地震津浪記』 3.5m[49] 4m[46]
柏島 現・大月町 海上にて見及申処、騒動中三度許山の如き浪押入、そりや見よ柏島浦人どもは、残らず押潰したりと見る所『三災録』 4m 4m[39] 3.3m[46]
宿毛大島 現・宿毛市 ハイタカ神社の石段七段目『甲寅大地震御手許日記』 3.2m[50][46]
伊予吉田 現・宇和島市 海岸附村方等は高浪に而、所々破損仕『書付留』 4m[45] 3.7m[46]
宇和島 現・宇和島市 宇和島城下は不残汐入候よし『続地震雑纂』 4m[45] 2-3m[46]
伊方 現・伊方町 川永田津波『安政及び寳永年度の南海道地震津浪に関する史料』 3m[45]
豊後杵築 現・大分県杵築市 沖鳴致高潮来り候と口々ニ呼叫走帰り大混雑不一方、其中六軒町より不時之潮烈敷満来り『杵築町役所日記』 1.5m[43]
佐伯 現・佐伯市 申之下刻、俄ニ高汐川内ニ込入、枡方大土手外水一面ニ相成『御用日記』 3m[51] 7m[52]
日向延岡 現・宮崎県延岡市 『勤向日記』 洪波ニ而浜方浪打越候場所茂有之 2m[51]
美々津 現・日向市 『勤向日記』美々津の儀は五日未明より遠沖汐合不穏之所、大地震にて高汐湊へ込入船々破損等も御座候由 2-3m[51]
外浦 現・日南市 2-3m[51]
サンフランシスコ 1フィート[20] 0.3m

津波襲来前には各地で大砲を撃つ様な音が聞こえ、紀伊田辺では「又坤に当て黒雲の中より火の玉飛出、海中に入事七八ツ、夫れより海鉄砲の音トーン/\と鳴渡り」(『干鰯屋善助翁手記』)という記録もある[10]。また田辺の新庄では「海鉄砲三ツ鳴り、峯に登り少し過し候得ば津浪にて大土手崩れ白波立チ来り申候」(『塩崎幸夫家文書』)という記録もある。

同文書には前日の東海地震では「震(中)五ツ時分、半時余り」とあり浪が入ったことが記され、五日の南海地震は「震(大)七ツ時分よりゆり出し井戸の水も飛出申候」とあり、さらに津波は第3波が最大であったことが記されている[12]

津浪之事

一番潮ニ峯之家流れ、其外小家ハ下拙家より外下へ皆流申候

二番潮ニて大分家流れ申候

三番潮高サ三丈余、此時下拙之家倉其外納屋一度ニ流れ申候、峯之倉も此時流れ申候、其外五反田迄流れ申候

四番ヨリ大潮も段々少しニ成申候、下拙ハほそ入山畑ヨリ見候故然とハ存不申候

廿度程寄候

  • 大坂では地震動の後2時間足らずで波高2.5-3mの津波が安治川木津川の河口から遡上し、河口付近に碇泊していた数百隻の千石船などの大船が押上げられ橋を破壊し多くの溺死者を出し、周辺の家屋や土蔵にも破損や倒壊の被害を及ぼした。これは宝永地震津浪の時と全く同じ様相であった[44]
  • 阿波では東由岐(現・美波町)で家屋が百数十戸流失し死者が夥しく(『東由岐修堤碑』)、牟岐(現・牟岐町)では高さ3丈余の汐で浜先の家々数百軒が将棋倒のように破壊され、人々が山上に逃げ登り、20人余が流死した(『牟岐町誌』)。宍喰(現・海陽町)では家141軒が流失し8人が流死(『阿波海嘯誌略』)した[10][53]
  • 土佐においては上刻(17時頃)に第一波が到達した。須崎(現・須崎市)および久礼(現・中土佐町)では被害が甚だしく(『地震日記』)、宇佐(現・土佐市)では8-9度の津浪が入り、1番より2番、3番の引汐に浦中の家が流失した(『眞覚寺日記』)[12]

一方で前日に起きた東海地震の教訓が生かされ被害が軽減された面もある[55]

  • 阿波海部郡の浅川港では前日の東海地震の揺れと津波で丘に避難し翌日も丘で様子を見ている所に南海地震とそれに伴う津波が起きた[23]

地震および津波の被害は家屋の全壊2万、半壊4万、焼失6千、流失1万5千、死者3千とされる。

津波碑[編集]

安政南海地震津波および、その他歴代南海地震津波により被害を受けた地区には被害状況、教訓などを記した災害記念碑がしばしば見られる。

  • 大地震両川口津浪記 : 大阪府大阪市浪速区大正橋の石碑 - 地震津波は船で避難してはならない。宝永地震(1707年)の際にも船で逃げ多数の死者出ている。このとき(147年前)の教訓を生かせず、350人ほど亡くなった。翌年石碑が建てられた。[57]
  • 堺市大浜公園擁護璽石碑文 : 大阪府堺市
  • 大地震津なみ心え之記碑 : 和歌山県有田郡湯浅町深専寺
  • 感恩碑、広村堤防 : 和歌山県有田郡広川町 - 濱口梧陵と稲むらの火。
  • 津浪警告碑 : 和歌山県日高郡美浜町
  • 帽巖(ぼうげん)跡 : 徳島県小松島市金磯町(1910年建立)[58] 地震破壊帽岩
  • 蛭子神社百度石 : 徳島県徳島市南沖洲
  • 庚申塔 : 徳島県那賀郡那賀町谷内下傍示・妙法寺
  • 震災碑 : 徳島県海部郡美波町志和岐 - 四日朝五ツ時大地震不時ニ汐高満有此時浦中家財を寺或ハ高き人家へ持運ひ翌五日七ツ時亦ゝ大地震忽ち津浪押来リ舩網納屋
  • 修堤碑 : 徳島県海部郡美波町東由岐
  • 石灯籠 : 徳島県海部郡美波町木岐・王子神社 - 大汐三度込入軒家流失凡四丈余上リ当宮流失
  • 大震潮記念碑 : 徳島県海部郡牟岐町
  • 「大地震津浪記」扁額 : 徳島県海部郡海陽町浅川・浅川千光寺
  • 鞆浦海嘯記 : 徳島県海部郡海陽町鞆浦 - 海溢に大荒の所ゝは二三丈も潮あがりて命うしなひし者も多かるに、許の浦は壱丈二尺はかりなれば屋舎もさまていたます人はひとりの怪我たになきこそ誠に有がたきさちなりけれ
  • 夜須観音山碑 : 高知県香南市夜須町坪井
  • 萩谷名号碑 : 高知県土佐市宇佐町
  • 入野加茂神社震災碑 : 高知県幡多郡黒潮町大方入野
  • 伊田海岸石碑 : 高知県幡多郡黒潮町大方・金比羅神社
  • 中浜港地震碑 : 高知県土佐清水市中浜
  • 池家墓碑 : 高知県土佐清水市中浜峠
  • 潮位碑 : 高知県宿毛市大島はいたか神社 - 石段の7段目まで浸水。

地震痕跡[編集]

前兆[編集]

『今昔大変記』には「大地震する時は四、五年前より天気不順するものなり」とあり、約一か月前の10月1日頃には干潟が広がり異常な干潮により船を出すのに往生したという(『三災録』)。地震の3 - 5日前には海底の鳴動、地鳴り、遠音、虹が見られ、浦戸湾で現れる「孕のジャン」は古来より大地震前後に鳴動があったことで知られる[21][61]

また、ミミズが地中より這い出し死に(『三災録』)、井戸水が枯れたり濁るなどの現象(『今昔大変記』)も見られた[62][63]。以上のような現象が古文書には記載されており、地殻変動による隆起と思われるものもあるが、地震との因果関係については不明な点が多い[21]

南海地震発生の日の朝、熊野地方や高知付近で太陽が異様に赤色や黄色に染まる現象が見られたとされるが(『古座年代史』、『嘉永土佐地震記』)、これは前兆ではなく前日の東海地震による火災の粉塵が舞い上がったことが原因と推定されている[64]

土佐入野において地震の前日には『桑滄談』に「朝辰刻(8時)小地震ありて長し。」との記録があり、土佐伊田(現・黒潮町佐賀地区)では『大潮大変記』には「漣(すずなみ)と言うもの入来り」とあり潮の満ち干が四五度見られ、当時この地方に壊滅的打撃を与えた南海地震津浪の前兆のように云われたが、これらは東海地震とその津波によるものと見られる[8]

次期南海地震への警戒[編集]

南海トラフ沿いの巨大地震は凡そ90年から150年周期で繰り返されており、1946年に発生した昭和南海地震(Mj = 8.0, Mw = 8.4)よりも宝永地震や安政南海地震の震害や津波災害の方がより甚大であったこと、さらに次期東南海地震東海地震と連動する可能性があることから、21世紀中に起こると予想される地震への対策が求められている[65][66]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。
  2. ^ 慶長地震の震源域には諸説あり、南海トラフ沿いの地震ではないとする見解も出されている。- 石橋克彦, 原田智也(2013): 1605(慶長九)年伊豆-小笠原海溝巨大地震と1614(慶長十九)年南海トラフ地震という作業仮説,日本地震学会2013年秋季大会講演予稿集,D21‒03, 松浦律子(2014): [講演要旨]1605年慶長地震は南海トラフの地震か? (PDF) , 歴史地震, 第29号, 263.

出典[編集]

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