浪曲

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浪曲(ろうきょく)は、明治時代初期から始まった演芸で「浪花節」(なにわぶし)とも言う。三味線を伴奏にして独特の節と語りで物語をすすめる語り芸。一つ30分ほどである。近年、長い低迷期から抜け出し、人気は復活しつつある[1][2]。 

浪曲は現在も口演される。写真は国本武春曲師沢村豊子

概説[編集]

浪曲は、主に七五調で演じられ、「泣き」と「笑い」の感情を揺さぶる[3]。時代に翻弄されつつ、いつも人々の心に寄り添ってきた芸能[4]である。

声を出して演じる者を「浪曲師」(ろうきょくし)と呼び、三味線伴奏者を「曲師」と呼ぶ。

一つの物語を(ふし)と啖呵(たんか)で演じる。節は歌う部分で物語の状況や登場人物の心情を歌詞にしており、啖呵は登場人物を演じてセリフを話す。重視する順を「一声、二節、三啖呵(いちこえ、にふし、さんたんか)」と言う。先の二つを「声節(こえふし)」と呼び、特に重要視する[5]

落語は「噺す」、講談は「読む」、浪曲は「語る」芸能と言われるように、聴かせ所が異なり、三味線入りである浪曲[6]は、都市中心に盛んになった講談・落語と比べ、鉄道網の発達と軌を一にするように、当時の最新メディアである、レコードラジオを媒介として、都市部から地方部に至るまで全国的人気を保った[7]歌謡浪曲から演歌へ、人気は連綿と続く。そのため演歌と共に、「田舎臭い」「通俗的」と軽蔑的に評されることもあった。反面、伝統的叙情や鎮魂の力が備わっているとも言える[8]

日本国内では大衆に愛された浪曲であるが、知識人と江戸っ子から嫌われた。特に文学者に浪花節嫌いを公言する者は多く、蛇蝎の如く嫌われ、尾崎紅葉、泉鏡花、夏目漱石、芥川龍之介、永井荷風[9][10]の浪花節嫌いは有名で、しばしば作品の中でも、登場人物の下卑た趣味として浪曲が出てくる[11]

物語の内容から、転じて「浪花節にでも出てきそうな」という意味で、言動や考え方が義理人情を重んじ[12]、通俗的で情緒的であることを俗に「浪花節的な」あるいは単に「浪花節」と比喩する[13](多分に『不合理』の意味が込められる)。

思わず真似をして唸りたくなる節回しという間口の広さと、その実うまくなるには鍛錬を要する奥の深さを同時に持つ。近接した芸能を(郷土芸能も含め)どん欲に取り込み、浪曲師が節の運びなどに各人各様の創意工夫をすることで発展した。自由さ、融通無碍ぶりが大きな特徴である[14]

浪曲(浪花節)の実演を表す動詞には様々あり、「うなる」・「語る」・「読む」・「うたう」・「口演する」などがある。使用する局面によって多少使い分けているが基本的に同じ意味である[15]

台本は存在するが譜面はなく[16]、浪曲師と曲師の呼吸が合うかどうかが重要である。春野恵子の説明によれば「浪曲師と曲師が舞台で繰り広げるやりとりは、『ジャズセッションのよう』とも言われ、そのライブ感が浪曲の魅力」である [17][18]

三味線の伴奏者(相方)のうち、主たる相手は「相三味線(あいじゃみせん)」と呼ばれる[19]。浪曲の三味線は太棹を用い、調弦は三下り(さんさがり)にする。小ぶりの撥で弾く[20]。上方では曲師とギター奏者がつくこともある[21]

男女共に古くから活躍する芸能である。およそ伝統的な日本の芸能で男女が全く対等に活躍するものは数少ない[22][23]

現在、浪曲の定席(常打ちの寄席)は、東京都台東区浅草の「木馬亭[24]大阪府大阪市天王寺区の「一心寺門前浪曲寄席」のみとなっている [25]

声・節・タンカ[編集]

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遠くまで伝わる大音(だいおん。響き渡る大きな声)が上とされ、必然的に胴声(どうごえ)=白声(しらごえ)=寂声(さびごえ)=いわゆる塩辛声=ダミ声=しわがれ声[26]で唸る事が浪曲であった。胴声は、ホーミーのように倍音豊かな発声を指す[27][28]。特徴的な声を作るために、喉から血が出るような修業を積んだという苦労談は多々出てくる[29][30][31]。旧来からの声が良い典型として寿々木米若初代春日井梅鶯を挙げることができる[32]

が、マイクが発達して以降は、必須ではなくなり、小音(しょうおん。マイクなしでは寄席の後方まで届かないような小さな声)であってもその才能が生かされるようになる。木村若衛のように、上声(うわごえ)を使う事が主流となり、三門博のように、裏声を巧みに取り入れ特徴にした者さえもいる。

また、広沢瓢右衛門のように自他共に認める悪声であっても、それ以外の部分を磨き続け、ブレイクすることもあった。かつては喉の酷使が祟り、舞台で使う声が出なくなり引退したり、残った啖呵のうまさを活用してまれに講談に転じる者もあった(例:一心亭辰雄、初代木村友衛)。

節(フシ)[編集]

(広義の)フシとは、日本における水泳のスタート前アナウンス、大相撲の呼び出しや行司の声のように、他の場所でも意識することなく使われているものである[33]。 現在の浪曲では大別すると関西節、関東節、中京節(合いの子節)で三つに分けられる。浪曲師の節、曲師の調弦の音高、曲師が繰り出すフレーズの基本形など、すべて異なる。

  • 関西節が一番古く、浮かれ節と呼ばれた。低調子(または水調子)とも言う。ベンベンと低い。
  • 関東節は、高調子ともいい、三味線の調子が「カンカンカン」と高く、哀切、悲壮感が漂う。三味線の手としては単純。
  • 中京節は、関東節と関西節を上手くミックスした形。アクセントとしてよく利用される[34]

元来、浪曲のフシは独流のものであって、原則として師匠のフシは継承しない[35]。よって「一人一節」というほど細かい節回しは異なる。各々が、他の浪曲師や民謡、伝統芸能から取り入れるなど、特徴的な「個人的メロディ」といってよい声節[36]を曲師と共に作り上げる。関東節、関西節はあくまで基本の節調(ふしちょう)、目安である。

代表的なところでは、佐渡おけさを採り入れ、哀調が特徴の名作「佐渡情話」を作り上げた米若節寿々木米若、関東節と中京節をミックスして虎造節を作り、当たり芸「清水次郎長伝」を演じた二代目広沢虎造[37]、低調子が主流の関西節のなかで、高音でノリのよいテンポの幸枝若節を作り、「河内十人斬り」や「左甚五郎」を演じ、戦後の浪曲界を支えた初代京山幸枝若、中京節では、浪曲に新内節をミックスして三門節を作り「唄入り観音経」を演じた三門博が挙げられる。また、天才少年浪曲師初代天中軒雲月から女性浪曲師2代目天中軒雲月に引き継がれた、明るく平易な雲月節が、のちに数多くの女流浪曲師の節作りの土台となる[38][39]

キッカケ、道中付け、うれい節、セメ節、浮かれ節、バラシなどについては、こちらを参照のこと。澤孝子公認ページ|浪曲語辞典(解説:大西信行)

大まかにいって、関西節は節を聞かせる事に主眼をおき、関東節はタンカを聞かせる傾向が強い。

関東にも関西節の系譜を持つ一派があり、現在は、関西には関西節のみ、関東には関東節と関西節がいる。東西で相互に特徴を取り入れることも徐々に進み、三波春夫によれば中京節が「現在の主流となって」[40]おり、純関東節、純関西節といえる存在は現在は少ない[41]

同じ演題、同じ台本であっても、素読みにするか、節をつけて歌うかなど、浪曲師の演出次第、またはその日の声の出方、体調により、大きく変えることも可能である。

稽古として「声調べ」(こえしらべ)を行う。三味線の音色に「〽何が何して何とやら」から始まる、無意味な歌詞を乗せて、浪曲の練習を行う[42][43]

〽何が何して何とやら  モノがモノしてモノとやら  何から何まで何とやら

啖呵(タンカ)[編集]

タンカとは、畳み掛けるような言葉使いを指し、「寅さん」などの実演販売でもお馴染みの啖呵売(たんかばい)と同様の用法から、今は単に節のつかない部分を指す。全盛期には「ケレンはトリを取れない」と言われるなど、タンカ読み(タンカを得意とする者)は傍流扱いされた。ケレンは、浪曲においては歌舞伎用語とは違う意味を持ち、「滑稽」とほぼ同義である。(泣きは節主体、タンカが笑いの部分を主に扱う)。

特に得意としたところは、関西のケレン読みの浪曲師(東京に転じ落語の定席に出続けた「落語浪曲」の二代目広沢菊春、悪声であったが滑稽で晩年にブレイクした広沢瓢右衛門、歯切れの良く明るく時にボヤキ口調の入るケレンが魅力の京山幸枝若も含まれる)、古くは「節の奈良丸、啖呵の辰雄、声のいいのが雲右衛門」と並び称されるほどであった一心亭辰雄(後に喉を痛めて講談に転出、服部伸と名乗る)、独特な江戸前の啖呵が魅力であった東武蔵、同じく江戸前で愛嬌のある小気味良い啖呵が大きな魅力であった二代目広沢虎造、が挙げられる。

衰退期に入ると、お涙頂戴より笑いの要素がより重視されるようになり、広沢瓢右衛門が明治の演題を引っさげブレイクした頃からひとつの潮流として明確になる[44][45]

特にタンカは落語や講談と共通点が多いが、浪曲は曲師が合いの手としてフレーズを挟み、印象は異なる。

浪曲の構成[編集]

一席一話完結(端物)から、好評の場合は話を膨らませて、何段[46]にもわたる長いシリーズ物も作られた。時間にすると一席は30分位にまとめられている。しかしかつては、雲右衛門の舞台における一席1時間弱にわたる長講や、逆にSPレコードに吹き込むために3分ごとの細切れにまとめられたものも多数あり、融通無碍ゆえに演芸の中ではメディア対応が素早く、いち早いレコード吹き込みに重宝された[47]

現在は、寄席の連日出演が常態でない、ラジオでも単独浪曲師の番組がなくなって久しいなど、口演形態の変化によりシリーズ物を通しで味わう「連続読み」を味わう機会は極端に少なくなっている[48]。今でもおなじみの締めの台詞「ちょうど時間となりました」は、今日ではあまり聴けるものでは無くなった[49][50]

寄席や大会などの正式な場においては、まずマイクで演者の紹介があったのち、幕が開き浪曲師が登場する。あいさつがあった後に[51]演題に入る。木頭が鳴り、曲師が弾き出しを奏でる。

冒頭の部分はゲダイ(外題・解題・下題)付け、またはヒョウダイ(表題・標題)付け[52]と呼ぶ。

客から期待を込め、声がかかることもある(待ってました!、たっぷり!、名調子!など)[53][54]

浪曲の衣装・舞台セット[編集]

舞台に上がる浪曲師は和服姿であり、正装として特にを多く用いる[55]

演じる時の舞台のセットはまず舞台の中央、浪曲師の後ろに金屏風を置く。その前に腰ぐらいの高さの小さめのテーブルを置きその上に、華やかな柄の特製のテーブルかけ[56]をかけてある。真後ろに背もたれの長い椅子があり、演者の多くは立ちながら演じている[57]

観客から見て右手の方に曲師が座っている。現在、曲師は定席など正式な舞台では衝立を挟んで観客から見えないようになっており、中では浪曲師に正対するように座っている。が「出弾き」と呼ぶ客前に出て弾くスタイルも少数だがある[58][59]

高座の座布団に座り語る「座り高座」(現在の文楽語りとほぼ同じスタイル)[60]は、前身である芸能の「説経浄瑠璃」、「デロレン祭文」などから引き続き、雲右衛門以前には主流であった。雲右衛門により立ち演説スタイルが主流になった後にも、落語の定席が主な活躍の場であった広沢菊春など[61]、現在に至るまで時おり見ることができる。

広沢虎造の「石松三十石船」は一世を風靡した。

浪曲の代表的な演題(外題)[編集]

武芸物、出世物、任侠物(三尺物ともいう)、悲恋物、ケレン物(お笑い)など多種多様である。特に赤穂義士伝忠臣蔵)ものは派生する人気の演題(外伝)が非常に多く、義士伝で一ジャンルを成している。大別すると、武士道を鼓舞するような内容の金襖物(きんぶすまもの)と、(広義の)世話物(せわもの)に分かれる。

講談(成立期から講釈ダネをフシ付けすることで大きく発展した)、落語文芸作品、歌舞伎や浄瑠璃、ニュース[62][63]、歌謡曲など多くのジャンルから題材を採り、物語が作られる。浪曲からの他分野への影響は#浪曲の周辺・影響の節を参照のこと。また、昭和戦前期までの演題の多くは映画化され、共有された。

自作自演も多く、野口甫堂(東家楽浦の筆名)、鈴木啓之(三門博)、池上勇(広沢菊春)、広沢瓢右衛門、阪口三夢(天龍三郎)の作・脚色のように他の浪曲師がネタを引き継ぐ場合もあるが、雲右衛門の頃[64]からレコード会社により、(作詞家の前身的に)原作として長谷川伸行友李風尾崎士郎子母沢寛など。正岡容や、畑喜代司本多哲小菅一夫萩原四朗水野春三(水野草庵子)、秩父重剛中川明徳室町京之介房前智光木村学司芝清之大西信行、現在の芦川淳平稲田和浩のように、浪曲台本を手がける作家もいる[65]

文芸浪曲は酒井雲や初代林伯猿が端緒で、菊池寛「恩讐の彼方に」や泉鏡花「滝の白糸」など文芸作品が浪曲化された。それまで欠けていると指摘され続けた藝術的な薫りを浪曲の世界に加えた。後の女流浪曲にその芸風は引き継がれている。

また、演目の東西交流は早くから進んでおり、関西の浪曲師が関東が舞台の演題をするケースが多いがその逆の演題もある。

※以下は浪曲で代表的とされる演目である。右の名はその作品で代表的な演者(または現在聞きやすい演者)。

このジャンル分けは便宜的なものである。出征して戦死し、靖国神社に祀られた息子への心情をうたった「親子物」で「戦争物」である「九段の母」など。

任侠物(三尺物)
股旅物
白浪物
世話物(悲恋・スキャンダル)
出世物
武芸物
お家騒動物(金襖物)
赤穂義士伝
戦争物
親子物
相撲物
歌舞伎物
浄瑠璃物
滑稽物(ケレン、お笑い)
落語物
怪談・怪奇物
その他

歌謡浪曲[編集]

歌謡浪曲とは、伴奏が三味線でなく洋楽器で、より歌うことを重視した、浪曲と歌謡曲の中間的形態である。浪曲のもともと持っていた自在性・融通性により生まれ、戦後の高度成長期に大きく膨らみ、主流となっていく。

先駆として、戦前に宮川松安が実演した洋楽器を使う楽浪曲の試みや、「浪謡曲」芙蓉軒麗花、洋楽器伴奏で演じた初代筑波武蔵など。戦中になると軍歌入りの浪曲となり、木村若衛の「歌謡浪曲」が放送局で企画放送される。戦後になると「歌謡節」を各人が創設する[68]

1957年(昭和32年)、当時若手浪曲師であった三波春夫村田英雄は、奇しくも同年に、伴奏が洋楽器でより歌うことを重視した歌謡曲(のちに演歌)の世界へ転進[69]、そのレパートリーとして歌謡浪曲を歌うようになる。

歌謡浪曲の定義は難しいが、浪曲の中に歌謡曲を一部取り込むものと、浪曲をオーケストラ伴奏で「歌う」(芸態は全く変わらないが歌謡曲に合わせてこの表現)ものをどちらも歌謡浪曲と呼ぶ[70]

ラジオ浪曲も全盛を過ぎ、小屋自体の数が減った寄席や同じく減った通常の巡業より、一流大家ばかりが競演することが売りの大会形式の興行が地方部でも増えてきた、そのごろを境に若手の修業する機会は急速に失われていく。スタンスの取り方はさまざまで、女流では天津羽衣二葉百合子などの大きな流れ自体がほぼ歌謡浪曲そのものであった。浪花節は歌謡浪曲を通して現在の演歌に強い影響を与えた。

また男性では、関西の真山一郎一門が、浪曲界の中で「演歌浪曲」と称した歌謡浪曲を専ら演じている[71]など現在も、東西の高座で歌謡浪曲スタイルを披露する浪曲師はいる。

浪曲の周辺・影響[編集]

全盛期は芸能界(戦時体制で生まれた言葉である)[72][73]の王様と評されたこともあり、その影響は広範囲に及ぶ。

河内音頭[編集]

河内音頭は浪曲と密接な関係を持つ。現在は関西の浪曲師の多数が音頭取りとして参加し、渾然一体となっており[74][75]、河内音頭からの浪曲入りもある。その代表作として初代京山幸枝若の「河内音頭河内十人斬り」がある[76]

節劇・映画のタナ読み[編集]

一人ではなく二人以上で一つの演目を分担して語る「掛け合い浪曲」は今でも口演される[77]。役柄で割り振るなど、節劇の前駆形態とも目される。

無声映画からトーキーへの過渡期に作られた『月光赤城颪』(東亜キネマ)は無声映画『忠治笑へば』に活弁と寿々木米若の浪曲を付け改題、昭和5年に地方で上映された
紺屋高尾1952年製作。三門博がタナ読みをしている。
1952年製作の映画「清水港は鬼より怖い」。虎造出演。東映配給

節と語りで物語を回す浪花節の形式は、現在の歌舞伎文楽における義太夫の形の代替のように使われ、剣劇と共に現在の大衆演劇のルーツの一つ、浪花節劇=「節劇」[78][79]が、長らく演じられていた。大舞台での名手としてコメディアンの堺駿二玉川良一芦屋雁之助がいる[80]。古く雲右衛門以前から演じられた[81]。特に盛んだったのは九州で、大歌舞伎の役者でも義太夫替わりに浪花節を使わなければ、客が納得しなかったという[79]。地方回りの一座に、売れない浪曲師が帯同し上演された[82]。最盛期は敗戦直前[83]である。大衆演劇俳優、沢竜二の父は「桃中軒雲富士」という名で、浪曲師から大衆演劇に流れたのもその一例である。

派生して、浪花節を無声映画の活弁代わりに使う連鎖劇も生まれた。吉本興業が一時期推進した映画興行路線[84]の中、「浪曲トーキー」を打ち出した。アメリカで有名になり、後に帰国した桃中軒浪右衛門(とうちゅうけん なみえもん)は、同様な弁士として活躍し、アメリカ市民権を取得し活動していた。映画「カポネ大いに泣く」の主人公は彼がモデルである。

これらは1957年(昭和32年)革新的な試みの舞台「きりしとほろ上人伝」につながっていく。武智鉄二演出、浪曲(木村若衛国友忠が幕毎に分担)が物語の進行、操り人形と役者が共演する舞台であった[85]。その後も影響を受けた浪曲ミュージカルなどが民音制作でいくつか作られている。

日本映画で繰り返し映画化されてやまない素材が「忠臣蔵」と「清水次郎長」であったように、興行の点で共通する部分を持っていた浪花節は[86]、「節劇」のタナ読みの立場で多く出演し、佐渡情話(1934年公開)、石松夢道中(1940年公開)、虎造を出演させた次郎長三国志シリーズ(東宝版。1952年 - 公開)、浪曲子守唄(1966年公開)などがある。中で役者としても活躍した虎造[87]は、浪曲の枠をも超えた最大級のスターだったのである。浪曲映画はこれ以外にもプログラムピクチャーとして[88]数多く制作され(一例として、1960-1961年、自社製作の時代劇が黄金期の東映の第二番線として公開された第二東映のラインナップにも多く浪曲で馴染みの主題が見られる)、寿々木米若二代目雲月伊丹秀子)などが複数の映画に出演している[89]

演歌[編集]

大正、昭和の流行歌、戦中の軍歌も基本は西洋音階のメジャー旋律を使った曲が多かった。それが、歌謡浪曲以降、和の旋律、マイナー音階が(流行歌→)歌謡曲に多く用いられるようになり、演歌につながる[90]三波春夫村田英雄の演歌の両巨頭は浪曲界を去った[69]が、それぞれに浪曲を随時取り上げる。特に三波春夫は劇場閑散期である毎年8月歌舞伎座での座長公演を引き受け、浪曲色の強い演出で長年満員にする。他に1984年(昭和59年)、木村友衛(二代目)の演歌レコード[91]浪花節だよ人生は」は、細川たかし水前寺清子などと競作となり大ヒットをする。2009年(平成21年)には、股旅物を得意とする氷川きよしの「浪曲一代」がヒットした。また浪曲師が演歌歌手を兼任し、レコードリリースする例は未だに多い。 他に浪曲の影響が明らかな美空ひばりや、幼少期に浪曲と民謡のスパルタ訓練を行い独特のうなり節を売りにした都はるみ、影響を公言する例で八代亜紀がある。

レコード[編集]

吉田奈良丸のニッポノホン広告。レーベルを代表して本人が登場している。
明治時代に大道で見られた蓄音機屋。浅草寺裏。個人宅に普及するまではこのような場景が見られた。

浪曲のレコードは、浪花亭愛造以降大変多くの吹込みがあり日本でのレコード普及と軌を一にする[92]。日本の高度成長期にあたる、浪曲の衰退期に入ると浪曲師でデビューをして人気者になってもレコード発売がされないことが増え(逆に言えばそれまでほぼ全ての人気者は音源化された[93] )、昭和40年代に関西でローオンレコード[94]、昭和50年代に東京でベルボアレコードが設立され、独立レーベルとしてユニークな活動をした。

民謡[編集]

津軽三味線小原節[95]には浪曲「壺坂霊験記」を取り入れた演題がある。また安来節のアンコに浪曲を取り入れたのは、曲師の山本太一の存在が大きいという[96]

八木節.堀込源太のテーブルかけ
安来節.大和家三姉妹とテーブルかけ

また、浪花節でテーブルかけが標準的になるほど流行した影響で、その後に全国的に流行した八木節安来節河内音頭津軽三味線、逆輸入の形で山形県のデロレン祭文でもテーブルかけが作られた[97]

ラジオの浪曲[編集]

ラジオでは日本放送協会発足の前、実験放送から出演しており、日本の軍国化に伴いその比重を増す[98]。戦後、民放ラジオが続々発足すると、地方での人気に目を付けたスポンサーの要請で、浪曲番組を大量に制作した[99]。詳しくは歴史の節を参照のこと。また、レコード会社への専属契約に準じた、放送局への専属制度が浪曲に限らず、演芸界全体、民放に広がった[100]

朝日放送の「おはよう浪曲」は長い歴史を終えた。

テレビと浪曲[編集]

テレビで本格的に浪曲を取り上げた番組の数は極めて少ない。浅草木馬亭で収録が行われた二葉百合子玉川良一司会の東京12チャンネル涙の浪曲劇場」がある。それ以前には素人のど自慢として民放テレビ創成期のKRTテレビ(後のTBSテレビ)浪曲天狗道場」や後にフジテレビテレビ浪曲道場」など[101]。「浪曲は動きが無いからテレビ向きではない」との定評が立つ[102]。朝日放送の「おはよう浪曲」はテレビ版も続いた[103]NHKは以前より分量は減ったが、現在に至るまで継続的に本格浪曲を取り上げ続けている。

色物演芸とコント・バラエティ番組[編集]

川田義雄

色物演芸の世界では、浪曲の物まね(特に節まねと呼ぶ)[104]の、古くは浮世亭信楽(うきよてい しがらき)[105][106][107]、戦後期まで活躍した前田勝之助隅田梅若(すみだ うめわか)(どちらもラジオ浪曲天狗道場の指南役を務めたことでも有名)、浮世亭雲心坊、他には浪曲修行の経験の有無に関わらず、よく舞台で演じられた[108]。先駆として井口静波、虎造節を取り入れた「地球の上に朝がくる」のボーイズ川田義雄、「歌謡浪曲カルテット」とうたっていた玉川カルテット、既に名を成していた四代目宮川左近が結成した宮川左近ショー浪曲漫才として(砂川捨丸などの音曲万才の系譜を色濃く受け継ぐ形で)転出した浪曲師はタイヘイトリオなど多数である[69]。浪曲はテレビ番組の形式としては成功せず、しかしバラエティ番組としては「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」の度肝を抜く「アッと驚くタメゴロー[109]」、時は下って「オレたちひょうきん族」にてアダモステ(仇申亭 北)、鬼瓦権造が浪曲をモチーフに使い[110]、時折強い印象を残している。

こども向け[編集]

こども向けに浪曲を親しませる機会としては、フジテレビひらけ!ポンキッキ」にて、玉川カルテットが数え方をその芸風そのままに伝えた事がある[111]2000年4月 - 9月、「アニメ浪曲紀行 清水次郎長伝」が毎日放送をキー局にして放映された。また、2001年に浪曲絵本として「ねぎぼうずのあさたろう」が発売された。国本武春が協力。長谷川伸を思わせる股旅物になっている。2008年にはアニメ化、テレビ朝日系列で放映された。近年ではNHK教育テレビにほんごであそぼ」のうなりやベベン役を国本武春が演じた。

落語[編集]

3代目三遊亭圓歌の「浪曲社長」のように、逆に浪曲から落語に影響を与えた作品もある。浪曲を取り込む落語は時折見られ[112]田舎回りで訛りの酷い浪曲師を滑稽に取り上げた5代目古今亭志ん生の落語「夕立勘五郎」は当時の浪曲に対するイメージを今に伝える(弟子筋の古今亭志ん輔が現在もよく演じる)。甚五郎物のネタは、講談から題材を採った二代目広沢菊春のよく演じた「落語浪曲」から、落語の三代目桂三木助のネタになった。立川談志は子供の時分から浪曲が好きだっただけでなく、実際に幾つかのネタは浪曲師から仕入れている[113]快楽亭ブラック_(2代目)の代表作の一つ「英国密航」は広沢瓢右衛門の浪曲を落語化したものである[114][115]。大阪では、笑福亭福笑の改作「浪曲ヤクザ」[116]。近年でも三遊亭白鳥作「流れの豚次伝」シリーズ(任侠流山動物園)全10段は、2代目広沢虎造の「清水次郎長伝」からの影響を公言するなど、浪曲へのオマージュあふれた作品で、柳家喬太郎柳家三三他も演じている。また春野恵子瑞姫玉川太福によりそれぞれフシ付け(浪曲化)され共有化している。既に講談化もされ、(落語経由ではあるが)浪曲的主題の講談への逆輸入という珍しい事態が起きている、とも言える。

その他[編集]

広沢瓢右衛門の突如のブレイク後、漫画「自炊男爵瓢々記」が山松ゆうきちにより描かれた。

1979年(昭和54年)、田中小実昌が小説『浪曲師朝日丸の話』などで直木賞を受賞した。

「浪曲師を目指した」例は、演歌界の他にも植木等の父、アナウンサーの小島一慶など、未だに時折エピソードが披露されるほどある。

国本武春の活動の両輪のもう一方である「三味線ロック」→「三味線弾き語り」がある[117]。本人は亡くなったが、跡を継ぐように、同様に浪曲と別ジャンルを同時平行的に活動する者も徐々に現れてきている。

歴史[編集]

「浪花節」という字面だけを見て関西で出来た物である、と短絡をするのは以下にみるように誤りである。注意されたい[118]。芸としての源流が関西にあるとしても、その源流は前進の芸能、デロレン祭文のように関東にもある。「浪花節」という名は東京発である。また、桃中軒雲右衛門二代目広沢虎造のように東西を股に掛けた交流、旅回りが浪曲の歴史の重要な部分[119]と言える。

形成期から、芸としての成立へ[編集]

天明期には既にちょんがれ本があったという。

浪曲は、いずれも願人が多く演じていた、「ちょぼくれちょんがれ」(阿呆陀羅経)を基礎にデロレン祭文(貝祭文)など近接する門付諸芸[120]が徐々に合流し、同じく源流を共にする説経節の影響を強く受け[121]大道芸として始まった。成立に先行する文化・文政年間上方の浪花伊助(なにわ いすけ)が、阿波浄瑠璃、祭文春駒節、ほめら等を取り入れて「浮連節(うかれぶし)」と名付け、新しく売り出した芸を源流とするが、伝説である[122]。後述する雲右衛門が「浪花節」の名で関西で口演した後、明治36年以降も大阪の芸人は浮れ節で登録があった。大阪でも「浪花節」になるのは大正12年である[123]。大阪から西の地方では「浮かれ節」という呼び方が主であった。中村幸彦の研究により、大阪の浮かれ節は明治4年より前には寄席出演を果たしている事が判明している[124][125]

成立期の浪花節ヒラキの風景
明治22年、建設中のニコライ堂から。左奥に見える空地が秋葉原火除地(今の秋葉原駅)、中央にある橋が元の筋違、万世橋である。右の神田川、柳原土手は奥の両国広小路脇から隅田川に至る。左に進むと上野山下、左奥には佐竹が原、その奥が浅草寺である。いずれも徒歩圏内

横浜・本牧のヒラキで祭文を語って活躍していた青木勝之助(後に美弘舎東一。玉川派の祖)が、寄席進出の運動に私費を全て投じ、東京・四谷の寄席「山本亭」に出演したことを嚆矢とする[126]。浪花節は差別され[127]、組合結成後も寄席への出演は容易にはかなわず、相変わらず浅草・奥山、両国広小路[128]や上野山下[129]神田筋違秋葉っ原[130]、八丁堀三角、銀座采女が原[131]、桜田久保町の原[132]、下谷佐竹っ原[133]、本所津軽っ原[134]といった盛り場ヒラキがその中心であった[135]

明治23年に開かれたとされる、東京浪花節組合の花見の集合写真。道化に扮装している

東京における浪花節の成立・同業組合の結成・寄席出演の時期は諸説ありはっきりせず[136][137]、明治12年までには遊芸人の鑑札を得ていたようである。また「浪花節」と称したグループだけでなく、周辺芸能と推定されている「歌祭文節」「都節(一中節ではない)」「七色節」などが、それぞれに盛り場ヒラキで活動し、勢力を維持していた。唯二郎『実録浪曲史』によれば、1882年(明治15年)(当時の浪花節組合頭取は芝新網の藤本清助と芝浜松町の春日井善太郎の2名)から1888年(21年)に至るまで「浪花節」より「七色節」の芸人の数が大きく上回っていた。それが、1891年(明治24年)を境として情勢は一変し、「七色節」の人数は激減する。「都節」「歌祭文節」も減少し、「浪花節」だけが微減にとどまった。なお、当時の浪花節は芝新網、七色節は浅草、神田に多く、また、七色節は浪花節と大差はなく、あわせて越後の五色軍談との強い関連性が指摘されている[138]。この頃、春日井から組合頭取を引き継いだ浪花亭駒吉は、講釈の昼席に通い演題を仕入れ、また説経節の日暮龍卜に節調を習うことで、相三味線の戸川てるとともに、浪花節という芸の向上に努め、後に「関東節の祖」と呼ばれるようになる。

当時は、釈台を前に着流し姿で裾をはしょる姿で、説経節に伝わる「小栗判官」や「刈萱」などの寺社縁起物[139]、「鬼神のお松」「八百屋お七」などの巷間に残る語り物などが主に演じられ、「風呂帰りの手ぬぐいを肩にしたその日稼ぎの勤労者」が聴いているというのが普通の寄席風景だったという[140]。また1889年(明治22年)大阪・名護町の寄席では「まだ大道芸時代の猥雑な雰囲気を残す小屋の中で演じられている浮かれ節は「暁天星五郎、新門辰五郎、国定忠治」といった侠客物や白浪もので」あった[141][142]

また、吉川小繁(後の桃中軒雲右衛門)は、この時期ヒラキに出ていた。新聞紙上で自身が連載にて告白した所によれば、浪花亭浜勝(駒吉の弟子)の手下として三度ボリ(山場で3回集金に回ること)をしたという[143]

浪花亭駒吉

寄席芸としての隆盛期[編集]

その後、山の手の端席[144]から徐々に都心の大きな寄席への進出が盛んになっていく。しかし、職域を侵され始めた講談や落語からは「ご入来」と蔑視されていた。

浪花節の寄席で口演風景

大阪でも浮かれ節専門の寄席(1884年(明治17年)から1889年(明治22年)にかけて、天満・国光席、松島・広沢館、千日前・愛進館など)や浮かれ節の組合(岡本義治の版権問題に対応する必要から愛国社を明治28年に結成[145]。のちの「親友派組合」から親友協会に至る)ができた。

1892年(明治25年)頃には、浪花節の寄席定着があり[146]、東京では勢いが増す。落語や講談と紛争が起きている。明治25年か26年に講釈師落語家と浪花節語りとの合同演芸会が企画されたが、講談・落語側が共演を拒否。手打ちとして1894年(明治27年)2月10日・11日 神田・錦輝館にて、三派大集演芸会が開かれる。(落語柳連)三代目春風亭柳枝初代談洲楼燕枝、(浪花節連)初代鼈甲斎虎丸浪花亭駒吉、(落語三遊連)四代目橘家圓喬初代三遊亭圓遊[147][148]

1897年(明治30年)、斎藤緑雨がその作品「おぼえ帳」に書いた[149]頃には、都心の東京日本橋葺屋町(元吉原そば)の「大ろじ」[150]に浪花節が出演し[151]、駒吉や、門下の浪花亭峰吉浪花亭愛造の活躍もあり、1900年(明治33年)には、東京市内の寄席120軒のうち53軒が浪花節を主にかける(定席)までに勢いを増す[152]。従来「御入来」(ごにゅうらい)と言われ、代名詞として蔑まれた要因でもあった外題付け(物語の導入部)を、主題ごとに改め、物語の内容を改良し、衣装を黒紋付袴姿にするなどして芸格を上げる。

このように明治中期には東西で、主任を務める形の寄席芸としての地位が確立された。

東京の浪花節には増えた出番を求めて、名古屋(早川辰燕初代鼈甲斎虎丸末広亭清風など)や大阪(京山大教、京山恭為など)から浮かれ節語りが続々と上京・参入する[153]。出番を巡って神田・市場亭や芝・伊皿子亭などの有力席亭主側と関東の地元芸人側で対立し、芸人を中心に「関西派(神田組)」と呼ばれる愛進舎(辰燕、虎丸、清風、三河家梅車、二代目吉川繁吉(後の雲右衛門)など)と「関東派(浅草組)」と呼ばれる共盛会(浪花亭一派、初代東家楽遊武蔵家嘉市春日亭清吉など)に分かれ[154][155]、この構図はさらに分派を産みながら大正時代も続く[156]

「糸入り講談」の美当一調

また別の流れとして、熊本から九州一帯を制覇していた「糸入り軍談美当一調が、1898年(明治31年)に上京し九段偕行社にて、東宮他皇族、各大臣、陸軍将校の前での公演を、1902年(明治35年)には6月18日から6日間、東京・銀座歌舞伎座で浪花節関連では初の公演をしている。昼夜二回にわたり教育活動写真と合わせて、日清戦争談や北清事変を口演(神田錦輝館明治座でお名残公演を行っている)[157] 。明治39年末にも上京、浪花節連の助演を得て慈善公演する。

1903年(明治36年)、愛造は浪曲界で初めてのレコード盤吹き込みをする(当時はSP盤)[158]。ちなみに当時、浅草寺の境内で見世物の一つとして聞くことが出来た蝋管レコード[159]の浪花節の演目は「中山(堀部)安兵衛、赤垣源蔵、大岡政談、五寸釘寅吉、鍋島猫騒動、雷電小野川、国定忠治、安中草三郎、宮本六三四(武蔵)、天一坊、桂川力蔵、幡随院長兵衛、檜山大作、明石仁王、宮本左門之介、桜川五郎蔵、御笑、山中鹿之助、鼠小僧、姐妃お百、河内山宗俊」というものだった[160]。講談が盛んに取り入れられ、義士伝が浪花節の演目として加わり始めていた。 1906年(明治39年)には東京で浪花節人気が大きく盛り上がり、10月には都新聞の演芸三傑の投票があり(芸能界の人気投票は明治時代には既に盛んであったわけである)、その年の流行をまとめた「エスペラントと浪花節」という言葉が新聞に踊った[161][162]

雲右衛門の東上・劇場芸・レコード[編集]

雲の東京・本郷座での口演は話題となり二六新報では連日戯画化され速報された
吉田奈良丸の本
桃中軒雲右衛門の本『雪の曙義士銘々伝』
奈良丸の節調を元に作られた「奈良丸くずし」の唄本

日露戦争勝利の余韻もまだ冷めない1907年(明治40年)、三河家梅車の妻お浜との駆け落ちにより雌伏し、突如弟子入りを志願してきた大陸浪人宮崎滔天を配下にしていた[163][164]桃中軒雲右衛門が、総髪紋付姿で屏風を背に、「不弁」と言うのみで(つまり外題付けも無しに)いきなり本題に入るという新演出、「武士道鼓吹」を旗印にし、演目は玄洋社の助力により台本内容を高めた義士伝ばかりという新機軸[165]で、一息が非常に長い「三段流し」を駆使し、研鑽の地・九州(炭坑夫港湾労働者から火が点き、それまで多く行なっていた慈善興行(美当一調を踏襲している)により上流・中流の婦人に人気があったという[166])から神戸(有栖川宮妃の御前口演もあった)、大阪、京都と東上しつつ続々と沸かせてゆく。それが新聞記事により大きな話題になる中、ついには6月、東京の大劇場本郷座に進出、27日もの間、連日3時間以上の長講、2500人収容の劇場を超満員にする[167]。風雲児・雲右衛門により、人気は大衆的なものから、当時から浪花節を嫌悪していた上流・中流層にまで広がり、世を席巻する。雲右衛門のインパクトは強く、浪曲のスタイル確立へ大きく影響した反面、居丈高なイメージも浪曲の一般的なイメージ形成にいまだ影響を与えて続けている[168]

直後の1908年(明治41年)2月、大阪の吉田奈良丸も対抗するように「日本一」の呼び声を伴い東上し、新富座に出演[169]、さらに11月には京山小円も同座に上がるなど、寄席芸として定着してわずか20年ほどの新興演芸・浪花節は、一気に千人以上の客席を埋めることが出来る劇場芸能となる。

雲の東上後に桃中軒如雲[170]天中軒雲月[171]篠田実[172]山田芳夫[173]梅中軒鴬童などが「天才少年」として全国から続々登場し、それぞれ人気を呼ぶ。

浪花節の番付(明治44年版)
雲右衛門や奈良丸も出た浪花節大会。大正元年12月両国国技館

こうして浪花節は、明治末期には落語講談をはるかにしのぐ人気となる[174]。明治38年には東京の浪曲師の数が落語家や講談師を抜き、明治40年には448名とピークを迎える。落語家の2倍強、講談の4倍弱である。当時の寄席読みの名人としては、東西に一心亭辰雄、春日亭清吉、初代東家楽遊改め悟楽斎三叟や岡本鶴治(おかもと かくじ)などがいる。

奈良丸のレコードが発売され、代名詞となった「日本一」の流麗な語りで、合わせて売上50万枚に及び、誕生間もない日本のレコード・蓄音機の全国的普及[175]に大きな貢献を果たす[176][177](この時期以降の浪花節(浪曲)の人気者はほぼ全て吹き込み音源化されている)。その後、三河屋円車の「どんどん節」[178]や、奈良丸のメロディを使った俗曲「奈良丸くずし[179][180]が流行する。また、この時期に落語や講談から一足遅れで、浪花節でも速記本が多数出版される。

創立当初の講談社が路線を転換する一因となった告知

そんな中で1913年(大正2年)、「講談倶楽部」の臨時増刊「浪花節十八番」刊行に当たり、講釈師連と出版元・講談社の対立[181]も起きる[182][183]。また、この時期[184]、関東では浪花節の名の元となった言われるほどの名門浪花亭から重勝、重松、重友、重正など木村一派が独立する騒動が起きる。

「浪花節」が「浪曲」と呼ばれ始めたのは新聞紙上で[185]、その後徐々に広まり、昭和に入ってから「浪花節」の呼び名に取って代わるようになる[186]。この頃から多くの浪曲師により忠臣蔵が浪花節で演じられる。あまりに義士伝ばかりがかかるため、「義士伝禁止」の貼紙が楽屋に掲げられたり、当時の川柳に「武士道も ついに彼らに 鼓吹され」と言われるほどで、その内容は、武士道に拍手をする民衆の視点よりも、武士道それ自体の宣伝にと視点が変わっていった[187][188]

わかりやすさを買われて浪花節は早くより民衆教化に利用され、1919年(大正8年)、国民思想統一を旗印に古賀廉造らの肝煎りで「通俗教育研究会」が結成され、翌1920年(大正9年)の第1回国勢調査で大阪市・東京市の要請を受け、宣伝と説明の役を担う[189]。また、当時盛んに行われ急増した海外移民に対する排日感情が高まる中、移民を追って奈良丸[190]を始めとした浪曲師たちにより、台湾朝鮮満州はもちろんのこと、ハワイや欧米、ブラジル[191]まで海外巡業が行われるようになる。

左から楽燕、初代雲月、三代目虎丸、重友。都新聞に掲載。

一時停滞した浪花節も、前記の三巨頭の次の世代、三代目鼈甲斎虎丸[192]東家楽燕木村重友で「三羽烏」、さらに初代天中軒雲月を加え、四天王と称される。1923年(大正12年)、関東大震災のあと、篠田実のレコード「紺屋高尾」が空前の大ヒットを飛ばす。寄席は、内容が飛躍的に充実していく活動写真映画)に興行的に押され始める。弁士に転向した例も多くあったという。

一握りである劇場読みの大家は、大きな資産を持つほどになる[193]が、多くの無名浪曲師は地方巡業や寄席出演で糊口を凌ぐ[194]。大家の偽物や紛らわしい芸名のエピソードも数多くあった。

以下は、(大正8年)に関西のオリエントレコードを傘下にし、日本の蓄音器レコード界の最大のメーカーとなったニッポノホン(日本蓄音器商会。現・日本コロムビア)総目録(1926年(大正15年)5月発行)のジャンル別内訳である[195][196][197]

ジャンル 発売枚数 代表作品
童謡 37 十五夜お月本居みどり子など
独唱唱歌 74 埴生の宿原信子、「シューベルトの子守唄英語版三浦環など
お伽歌劇 29 一寸法師」など
歌劇劇歌 13 ゴンドラの唄」故松井須磨子、「カルメンの唄中山歌子など
吹奏楽管弦楽 42 君が代行進曲海軍軍楽隊、「ダニューブ・ワルツ」「軍艦行進曲陸軍戸山軍楽隊など
独奏 15 ヴァイオリン>「ミニュエット」<ベートーヴェンカスリーン・パーロウ英語版など
ハーモニカ 37 ラ・パロマ」「越後獅子川口章吾など
合奏 11 <和洋合奏>「新内流し」「奴さん」など
尺八 30 都山流琴古流>など
琵琶 117 錦心流筑前琵琶高峰琵琶>など
謡曲 21 隅田川宝生九郎など
長唄 116 娘道成寺芳村伊十郎など
清元 55 神田祭喜久太夫など
常磐津 33 将門松尾太夫など
新内 13 蘭蝶富士松加賀太夫など
歌沢 16 夕ぐれ歌沢寅右衛門など
端唄小唄 64 都々逸」「大津画」「さのさ」「海晏寺」「鬢のほつれ」「御所車」[198]
俚謡 64 安来節三津島かつ子、「磯節」安中<関根>、「追分」「八木節」など
歌舞伎 43 与話情浮名横櫛尾上梅幸など
映画説明 10 アントニーとクレオパトラ染井三郎ほか
太神楽

阿呆陀羅経

11 伊勢音頭梅坊主など
落語 28 そこつ長屋柳家小さんなど
浪花節 207 東家楽燕吉田奈良丸天中軒雲月篠田実、故桃中軒雲右衛門など
義太夫 74 「寺子屋」竹本南部太夫など

ラジオの登場・戦時協力[編集]

ラジオ放送が始まると[199]1925年(大正14年)演芸の一つとして初めてラジオに登場[200]、その日本放送協会(のちのNHK)ネットワークの完成で浪花節の人気は全国的に広まる。

地方 一位 二位 三位 四位 五位
関東 浪花節 講談 落語・人情噺 琵琶 里謡・民謡
関西 浪花節 落語・人情噺 講談 琵琶 義太夫
東海 浪花節 義太夫 落語・人情噺 講談 琵琶
中国 浪花節 琵琶 義太夫 謡曲 里謡・民謡
九州 浪花節 謡曲 義太夫 琵琶 ラジオドラマ
東北 浪花節 里謡・民謡 講談 琵琶 謡曲
北海道 浪花節 里謡・民謡 謡曲 琵琶 講談

浪曲は昭和初年においては庶民に支持され、1932年(昭和7年)に実施された「全国ラジオ調査」では、ラジオ聴取者の好む番組の第一位は浪曲で、全体の57パーセントを占めた[201][202]肉弾三勇士事件が起きると、熱狂の中、他の芸能と先を競うように寿々木米若三代目吉田奈良丸初代木村友衛梅中軒鴬童などがいち早くレコード化をする[203]。昭和9年頃から浪花節の慰問が増え始めたという[204]。この時期、東家楽燕を校長として、日本浪曲学校が設立され、のちの三波春夫が入学している[205]

昭和初期に東京の寄席での浪曲出演者を伝えるビラ。虎造など人気者が複数のトリを務めている。

忠君愛国」「義理人情」を賛美した演題が国民教化に利用される。より一層ラジオで放送され[206]、七五調に乗った平易な節調と軽快なセリフ(啖呵)がもてはやされて、庶民の人気を博した。浪花亭綾太郎の壺坂霊験記、二代目広沢虎造の清水次郎長伝、二代目玉川勝太郎の天保水滸伝、寿々木米若の佐渡情話、三門博の唄入り観音経、初代春日井梅鴬の赤城の子守唄などが次々と一世を風靡し、戦前まで全盛を迎える。また、二代目天中軒雲月(戦後に伊丹秀子に改名)の七色の声で「杉野兵曹長の妻」や「九段の母」が大ヒットする。当時の軍人政治家は浪曲好きが多く、歴代総理大臣の趣味は浪花節と相場は決まっていたという。例として林銑十郎など[207]

天中軒雲月(二代目)。慰問会出演の様子。於:東京第一陸軍病院

「一人一芸」「個人芸」と巷間いわれるほど、浪曲師各自の節の個性が人気や知名度、さらに収入に直結し、浪曲の寄席は東京において、徐々に減り続け、次代育成機能を持つ場は戦中期に、音羽座から浅草・金車の一軒ぐらいになる。一方レコードやラジオによる全国的知名度の獲得と収入、浜町明治座や京橋新富座、京都南座、大阪道頓堀角座など以前より馴染みの劇場だけでなく、銀座歌舞伎座[208]、丸の内帝国劇場[209][210]をはじめとした一流大劇場での独演会や浪曲大会[211]での大収入、知名度を生かした地方の地方巡業といった後の演歌にも類似した構造があらわになる。

浪花節と同様の演題を持ち、大家がラジオ出演を重ねた講談[212]や、禁演落語[213]などにより時節柄、下火になるが、戦後に大きく復活・興隆する落語(戦中期には講談落語協会として統合される)とは対照的に、当時最新の新興芸能であった漫才などと共にもてはやされ(わらわし隊などの慰問団)隆盛を迎える。

1940年(昭和15年)には、総動員体制の中、戦争協力の促進を企図し国威発揚のために「浪曲向上会」が結成され、多くの浪曲師や作家が動員される。愛国浪曲情報局の肝いりで続々作られることとなる。

愛国浪曲原作集→愛国浪曲発表大会(明治座松竹座・大阪中座[214]

同1940年(昭和15年)晩夏、広沢虎造映画出演問題を巡っての、浅草田島町殺傷事件は、浪曲家の伝統生活中の、最も悪質に属する部分のあらわれと見てよい[215][216]

愛国浪曲は、それまでとかく低俗、下品なものとされてきたことへの対抗する路線の延長線上にあり[217]、一つの集大成でもあった。古代ローマや現代のアメリカなど、古今東西で戦争が起きると、下層に生きる人々が報国によりその地位向上を目指した構図が、ここでも繰り返されている。試みは概ね定着せず、しかし結果浪曲は、先の大戦で積極的に加担した芸能[218]としても記憶された[219]

虎造や米若、鶯童と共に佐官待遇で南方を戦地慰問する春日井梅鴬(初代)。[220]

戦中の1943年(昭和18年)には、浪曲師の数はピークを迎え、東京だけで約千名、全国的には3千名いた[221]という[222]

戦後の復活・民放発足によるラジオ浪曲のブーム[編集]

1945年(昭和20年)太平洋戦争敗戦後は一転、GHQに「前時代的、反動的」と他の演芸と同様に疎まれる存在となる[223]。しかし、その体制下でも地方巡業を中心にした大家は「所得番付」に多く顔を出す[224]など、農漁村を中心に根強い人気[225]を維持する。

ラジオ東京『浪曲天狗道場』の放送風景(1956年)

1951年(昭和26年)の民放ラジオの登場と共に、その根強い大衆的人気から、広沢虎造の俗称「虎造アワー[226]や、新進浪曲師国友忠の「銭形平次[227]広沢菊春の「姿三四郎」などの連続浪曲読み番組、素人の浪曲のど自慢番組(ラジオ東京浪曲天狗道場など)が続々と編成され、全国放送のNHKも巻き込んだラジオ浪曲のブームとして昭和30年代初頭に再び最盛期を迎える。

番組名 放送局 聴取率
浪曲天狗道場 ラジオ東京 23.8%
浪曲学校 文化放送 12.8%
浪曲十八番集 ラジオ東京 11.4%
歌のパラダイス ラジオ東京 10.3%
歌謡ベストテン 文化放送 10.0%
浪曲次郎長伝 ラジオ東京 9.8%
私と貴方の三つの歌 文化放送 9.6%
歌の風車 ラジオ東京 9.4%
浪曲歌合戦 文化放送 9.2%[228]

民放ラジオ番組の聴取率ベストテンに6つもランクインする「浪曲天狗道場」は断トツの聴取率23.8%であった。再びお茶の間を席巻し、巷間で「銭湯に行けば、虎造の『〽旅ゆけば~』を真似した声が湯船で必ず聞こえる」と言われたのは戦後のこの時期であった。また当時の子どもはみな、虎造の「〽旅行けば~」や二代目玉川勝太郎の「〽利根の川風たもとに~」といった外題付けを知っていた[229]

昭和30年代中頃までは、どんな小さい街にも劇場があり、ほとんどは映画館である。街によっては芝居小屋もあった。芝居小屋がなくても映画館には芝居がかかったり、浪花節(浪曲)や流行歌の公演がおこなわれたりもしていた。公民館体育館などでも、よくそういう芸能公演があった[230]。レコード吹込みやNHK・民放ラジオ・映画というメディアに露出する一握りの浪曲師に人気が集中する一方、この時期にもまだ浪曲の門付けをしたという証言が複数ある[231][232]など、ラジオ浪曲のブームに乗らない大半の浪曲師は、高度成長の開始とともに衰退していく[233]

大阪歌舞伎座で開かれた浪曲大会(1957年)

銀座歌舞伎座[234]、大阪文楽座、浅草国際劇場など大劇場で戦前に引き続き「浪曲大会」が定期的に開かれるなどする。

衰退から現在[編集]

ラジオ普及率のピークから転げ落ち、テレビに移り変わる。NHK放送五十年史より。

この辺りは、同時平行的に記述するため、注意されたい。 民放の発足ともに始まった最後の大ブーム、ラジオ浪曲のブームは急激なラジオ離れで、10年程で去るが、NHKは粘り強いサポートを続け、現在まで続くラジオ番組「浪曲十八番」だけでなく、台本作家や若手浪曲師の育成機能までを一時担うようになり、新作の発表数は一時的に増えた。毎月公演の形で開催していたNHK浪曲研究会は17年間の歴史を重ね、1972年(昭和47年)3月25日に終了した。後継として「NHK東西浪曲大会」を開催[235]

歌謡浪曲スタイルの大流行はあったものの(昭和47年(1972年)には二葉百合子が吹き込んだ「岸壁の母」がロングヒット)、戦後の寄席は大阪では、空襲から辛うじて焼け残った飛田筋・天王寺館、今里・双葉館、九条・若春館、東京は全て無くなり、東京は1952年(昭和27年)8月に上野「桜亭」、1955年(昭和30年)8月13日に南千住「栗友亭」が唯一の浪曲寄席として開場するが、長くは続かなかった。1955年(昭和30年)開業の船橋ヘルスセンターをはじめとした、各地の健康ランドでの巡業や、「福祉浪曲大会」などの地方部での浪曲大会、老人ホームの慰問[236]などが主な活動範囲となる。民音労音もこの頃は地区ごとに浪曲大会を開いている。浅草木馬館が改装し、1970年(昭和45年)5月上席からついに定席化し「木馬亭」として安定するまでは、東家浦太郎や、四代目天中軒雲月木村若衛松平国十郎の戦後四天王をはじめとした大家は引き続き健在だが[237]、若手の将来性という点では苦境が続いた[238]

関西においても、初代京山幸枝若冨士月の栄や戦後入門組の真山一郎二代目春野百合子が「関西戦後四天王」として活躍したが、一足遅れで同じ状況になる。既に寄席はなくなり、昭和50年代の関西浪曲の中心として浪曲大会が開かれた道頓堀朝日座1984年(昭和59年)2月に閉鎖され[239]、戦後長らく浪花節を舞台にのせていた道頓堀五座の最後の一つ、中座1999年10月の「浪曲お別れ興行」をもって閉鎖された。

バブル崩壊後、少々復活の兆しが見えている。玉川福太郎の証言によれば、バブル崩壊後に浪曲師を志望する若者が急増し曲師が不足する事態になったという[240]

生活の中で三味線の音色が聴こえる環境がいつの間に消えていく中、聴き手である浪曲(や主題や世界観を共有する時代劇演歌など)に馴染みのある世代的に最後の固まり(昭和30年代までに生まれ、ラジオ番組で馴染んだ世代、つまり概ね団塊の世代まで)の退場が間近に迫り、浪曲自体の将来が危ぶまれている。後述するように、浪曲においても徐々に女性が入門者の中心となる。関東では玉川福太郎から次の国本武春が入門するまで15年間、その後に続く男性浪曲師として玉川太福が福太郎に入門するまでも25年という長い空白期間がある[241]などのボトルネック状態があった[242]がそこは脱している。浪曲の未来を考える上で唯一の希望と呼ぶにふさわしい孤軍奮闘を見せていた国本武春が2015年末に突如亡くなり[243]、武春イズムを受け継ぐ若手浪曲師達に正念場が訪れている[244]。また、深刻な曲師不足に対する策として、「iPad浪曲」を発案、実演する動きもある[245]

浪曲師[編集]

大きな名前については、その名にあやかり芸を継承するために襲名する事(名跡化)がある。浪曲の名跡一覧も参照のこと。逆に本名(または本名の一部)を使用することもあった。新興芸能であった時期は他の演芸同様に、師弟関係は固定化されておらず、師匠を遍歴する者や、師匠無しの独立独歩の者もいた。また、曲師との転出入の歴史的な多さ、戦後においての演歌民謡歌手や色物演芸との比較的自由な行き来は特筆に値する[246]。現在の浪曲師は落語のように徒弟制度が整い、3年以上の年季奉公、1年の御礼奉公が一般的である。

もともと浪花節は、他の演芸に比べても女性の進出が早く、成立前の江戸末期から曲師はもちろん既に女流もおり、明治・大正期には女流浪曲団がいくつも結成され巡業に出て好評を得ていた[247]。そのような所から戦前期より、著名な初代春野百合子冨士月子二代目天中軒雲月、戦後期には天津羽衣二葉百合子二代目春野百合子が登場する。後に浪曲への入門者全体が減る中で女性に偏りだし、近年は講談と同様に現役浪曲師の男女比が逆転する状況になっている。

明治期より大相撲を真似た「浪曲師番付」が多数発行され配布された。地方巡業をする際に活用され、当時の位付けの一端は覗うことができる[248]

東西交流が多く、東・名・阪・九州の間で拠点を移す者は、他の演芸に比べても、(浪曲師・曲師ともに)古くから多い。

現役浪曲師については日本浪曲協会浪曲親友協会の浪曲師一覧、または浪曲師一覧も参照のこと。[249]


※五十音順

関東の浪曲師[編集]

関西の浪曲師[編集]

中京の浪曲師[編集]

中京の浪曲師、というより主に関東に進出していった中京節の一覧である。

九州の浪曲師[編集]

九州出身で九州色が強い大看板の浪曲師の一覧になる。切り節、祭文と呼ばれていた土壌があり、雲右衛門の後(美当一調の後)に九州出身の浪曲師は多い[250]。 中京地区と同じく、彼らは関西や関東に更なる活躍の場を求めて移っていった。地回りの浪曲師が九州には特に多く、興浪会結成の基盤にもなった。

(* 美当一調

浪曲師の所属団体[編集]

関東と関西を代表する上記2団体のほか、過去には(興浪会→)西日本浪曲会が福岡にあった。また、戦時総動員体制の中、統合される形の団体「日本浪曲会」が敗戦までの1年間存在した。戦後は中京浪曲協会が名古屋に存在した。

寄席[編集]

現在[編集]

過去の主要な寄席(浪曲定席中心)[編集]

  • 京山亭 - 四谷の山本亭を京山大教が買い取り改名。(M39山本亭)
  • 虎丸亭 - 初代虎丸東京進出のために同郷の人間が作る。小菅一夫に拠れば、浅草猿若町。
  • 神田・錦輝館 - 自由党板垣退助遭難の場所として歴史に名が残る。浪花節初の合同演芸会の会場。
  • 大ろじ - 東京日本橋・葭町。大円朝も出た大店。明治30年頃は浪花節を多く出す。
  • 都川亭 - 本所区外手町(現・墨田区石原)
神田・市場亭。後に桃中軒雲右衛門が買い取り、入道館。その後三代目鼈甲斎虎丸が民衆座とする。
  • 市場亭 - 東京神田美土代町3-1。またの名を「本市場」。席主・奥津万吉。関西(から進出)派の拠点。愛進舎から神田組へ。凱旋後の雲右衛門が買収・改装した後、神田「入道館」→雲の没後三代目鼈甲斎虎丸の手に渡り「民衆座」。定員は700人、寄席としては巨大レベル。(M39)(T15)(現在ベルサール神田の角の位置)
浅草公園の浪曲寄席「新恵比寿亭」。現在のヨーロー堂の真裏の位置。
浪曲の歴史に重要な寄席、浅草新恵比寿亭の番組。1910年(明治43年)10月15日から。
  • 新恵比寿亭 - 東京浅草ちんや横丁[251]。明治24年築。浪花亭駒吉を中心とする関東派の拠点。浅草では最大の浪曲定席。午前10時から夜11時まで、毎日営業。1人持ち時間40分。共盛会から浅草組へ。席数257[252]。席主・中沢源之助。大正3年まで営業を確認[253]
  • 伊皿子亭 - 東京・。関西組の拠点の一つ。芝区伊皿子40。後に「万盛館」。
  • 栄寿亭 - 芝烏森 愛造『美声絃入り講談』の看板(M39)
  • 東京亭 - 日本橋南伝馬町34。愛造が変調を来たした場所(漫語)
1920年、天満天神付近の興行場図。国光席も見える。
  • 天満・国光席(くにみつせき) - 明治16年に浮かれ節の定席としてできた天満天神裏・吉川館が改称[254]。第二次大戦の空襲で焼けた。
大阪・松島・広沢館
  • 松島・広沢館 - 広沢虎吉(井上晴夢)が経営しチェーン化した。吉本に買収される。
  • 千日前・愛進亭(または愛進館) - 大阪市内各地に第一から第四まである寄席チェーンであった。持ち主は井谷亀之助。終戦前は南条一。1910年(明治43年)10月に娘義太夫の大阪における一番の定席、播重席を買収し第五愛進亭と改名するが、引き続き娘義太夫を興行[255]。その後曲折があり[256][257]、昭和4年の「入場料調査」では浪花節でカウントされ[258]、そのころ浪花節定席に変わる[259]
  • 喜楽席 - 堺市。広沢瓢右衛門の初舞台の席。
  • 寿亭 - 横浜・伊勢佐木町。横浜の顔役(親分)の沢野巳之助が経営。
  • 二山亭-青山通り(現246)沿い(M39)
  • 浪花館 - 深川・富川町(M39)(T15)
  • 桜館 - 深川・黒江町(M39)(T15)
  • 広尾亭 - 麻布・広尾(M39)(T15)
  • 福槌 - 麻布・宮下町(M39)(T15)
  • 喜扇亭 - 日本橋人形町。
  • 浦安亭 - 千葉県浦安。漁師町。客の気性が荒いことで名が知られ、浪曲に限らずデロレン祭文、落語なども行われた。昭和40年代半ばまであったという[260]
  • 花岩亭 - 本所・緑町(M39)(T15)終戦まで。
  • 金車亭 - 東京浅草。一流が集う講釈場だったが昭和11年暮、浪花節席に変わった。浅草1-40-5[261]
  • 栗友亭 - 南千住コツ通り。戦後、ラジオ東京「浪曲天狗道場」ヒットの時期に浪曲定席として開けるが時期は短い。

脚注[編集]

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  1. ^ 日本経済新聞 2017年5月8日夕刊16面
  2. ^ 「平成の浪曲時代がやってきた!」『東京人』380号p.12
  3. ^ 日本浪曲協会主催で度々開かれる大会等イベントは「笑う浪花節vs. 泣く浪花節」
  4. ^ 『東京人』380号p.16
  5. ^ 国本武春『待ってました名調子!』p.43-44
  6. ^ エーピーピーカンパニー『江戸東京芸能地図大鑑』付属冊子p.23
  7. ^ にっぽん芸能史p.123
  8. ^ 山折哲雄「『歌』の精神史 第3回 浪花節と演歌」『中央公論』2005年7月号。いわゆる「泣き」の部分である
  9. ^ 「荷風と音楽」『季刊芸術』12(3)p.111
  10. ^ 当時登場して間もないラジオの物音を「此の物音中でも、殊更に甚しくわたくしを苦しめるものは九州弁の政談、浪花節、それから学生の(続く)」『墨東綺談』五の冒頭部分 出典:和田博文『コレクション・モダン都市文化 32 ラジオ放送局』の解題より。
  11. ^ 『にっぽん芸能史』p.122。主に雲右衛門、楽燕の亜流による「義士伝」「乃木将軍」などの押しつけがましさによると推測されている
  12. ^ 浪花節の主要なテーマに『義理人情』がある。『義理人情』は、社会生活の喜怒哀楽を生み出す源泉である。(中略)既存の人間関係を保持しようとする〈義理〉と、積極的に他者と関わり、思いやることをすすめる〈人情〉を両立させようとする登場人物の言動は、しばしば感動を引き起こし、涙を誘う。浪花節の物語、特に『義理人情』をテーマとするものには、逃避できない日々の暮らしの中で耐え忍び、なんとかして生きていく人々の姿がえがかれる。なかでも〈義理〉は様々な拘束を生みだす。受動的なきっかけにより生じた〈義理〉は、定着後、人の言動をコントロールしてゆく。真鍋2017 p.161
  13. ^ 出典:デジタル大辞泉
  14. ^ 竹本義太夫が決定打であった義太夫節鶴賀新内新内節のような、様式を決定付ける存在は未だ出ておらず(小沢昭一『ドキュメント また又日本の放浪芸 節談説教』)、伝統邦楽界では一般的である「家元制度」に象徴される分派主義(杵屋正邦「一邦楽系作曲家の体験的発言」『科学と思想』1976(10)p.322)とは様相を異にしている
  15. ^ 現代人からすれば「歌う」であるが、詳しくは語りものの項に説明があるので参照のこと
  16. ^ 広沢龍造編『独習で上達する浪曲の習い方』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2477920
  17. ^ 日本が誇るエンターテイメント「浪曲」を世界へ! 浪曲師・春野恵子がNY公演にチャレンジ!-世界を変えるクラウドファンディングサービスCOUNTDOWN
  18. ^ 浪曲師と曲師がどう呼吸を合わせて演奏しているかは国本武春『待ってました名調子!』に詳しい。東家みさ子p.46、岩崎節子p.96、沢村豊子の項p.100などを参照のこと
  19. ^ 相三味線は歴史的に配偶者、つまり女房が多かった。かなり比率は減っているが、今も東家一太郎に東家美など例はある。現代に向かっていく中で、高野東海山本太一など男性の高名な曲師もおり、また曲師不足に起因するフリー曲師の増加もあり、現在は組合せに特別なものはない
  20. ^ 『まるごと三味線の本』p.117
  21. ^ 出典:『上方伝統芸能あんない』浪曲の章p.89-102。『日本浪曲史』南北社版(1968年刊)p.373(中川明徳による補章)は、天龍三郎がギター奏者をつけ始めたことを批判的に書いており、その頃より始まり一手法として京山幸枝若など上方に定着した様子が伺える
  22. ^ 出典:ワッハ上方『上方演芸大全』p.295
  23. ^ 男性の浪曲師が女性浪曲師より多かった。演題の多くは男女の区別なく共有され、男性中心の史観で事足りた。真鍋2017 p.227
  24. ^ 他に関東では永谷の演芸場などで浪曲公演が毎月ある。
  25. ^ 東京・渋谷にて定期開催されている「渋谷らくご」公演に、浪曲師が一枚、必ず加えられ、若い世代に浪曲が伝わってきている
  26. ^ この特徴的な声については、『日本の古典芸能 9 寄席』p.44に中村幸彦による説明がある。
  27. ^ 正確には、よく言われるような(理想的な)浪曲師の声としてのシオカラ声・しわがれ声・ダミ声は誤り。
  28. ^ 『待ってました名調子!』p.70
  29. ^ これはただただ怒鳴る。そうしてカラカラに声を枯らしてしまう。そこをいよいよふた調子も三調子も張り上げて、血を吐く思いで歌いつづける。すると枯れがれに枯れつくした底の底のまた底の方から滾滾と美しい声の泉が噴き上げて来る。即ちそれが、自分の研がれ、磨かれ、鍛え上げられたほんとうの「声」なのだ。-正岡容『日本浪曲史』南北社版 p.357-358
  30. ^ ジャンルは違うが、以下一例。「すると先生は「まず声の訓練をせよ」とおっしゃいました。ごうごうと落ちる滝、ざあざあと流れる川、どうどうと打ち寄せる波、そういうものに向かって、それらの音に敗けない声でお経をせよ。三日か四日で声はつぶれるが、それでも出ない声でやる。そのうちのどから血が出る。それでもまだやる。そうして三十日か四十日たったころに何日も何日もしゃべっても決して枯れない声になる。本格的な布教師になるならば、それに耐える努力をしなければならないがどうか、というわけです。」-祖父江省念『節談説教七十年』p.69
  31. ^ また、声をよくするためにナメクジを呑み込む話は広沢瓢右衛門などがしている。出典:『悪声伝』
  32. ^ 「『台詞の不味い』という点では『両横綱』であった米若と春日井梅鶯について、房前は『タンカを吹き飛ばしてお釣りの来る』ような『素晴らしい』声とフシを二人はもっていたと評している」真鍋2017p.85
  33. ^ 『うなる』p.27-29
  34. ^ 北川純子は現役の曲師でもあり、東西の寄席に出演している。おもな発表論文に北川純子. “関東節の浪曲における三味線 (PDF)”. 2014年4月25日閲覧。大阪教育大学)や北川純子. “日本音楽における「間」概念の検討―浪曲三味線の現場から― (PDF)”. 2014年4月26日閲覧。(大阪教育大学)がある
  35. ^ 『うなる』p.25
  36. ^ ワッハ上方『上方演芸大全』p.282。「独自の基礎曲」と表現されている
  37. ^ 虎造節は、時の試練を越えて保存会が結成・活発な活動がなされている
  38. ^ にっぽん芸能史
  39. ^ 『まるごと三味線の本』p.117-118
  40. ^ 出典:三波春夫『歌藝の天地』
  41. ^ 正岡容『日本浪曲史』南北社版 p.342-343 もそれを裏書きする
  42. ^ 以上、『まるごと三味線の本』p.117
  43. ^ 南博、永井啓夫、小沢昭一編『芸双書7 うなる―浪花節の世界』白水社、1981年11月。p.8
  44. ^ 傾向については『待ってました名調子!』p.82
  45. ^ 瓢右衛門ブームによって浪花節の断末魔にポッと灯がともったようであるが(中略)傍流も傍流だったケレン浪曲―滑稽味、諧謔味のつよい、いわば都会的センスの浪花節だったからである。出典:小沢昭一「浪花節と私」『うなる』p.40
  46. ^ 一話を一段と呼ぶ
  47. ^ にっぽん芸能史
  48. ^ 『上方演芸大全』p.299
  49. ^ 大西信行『浪花節繁昌記』p.76
  50. ^ それを逆手に取ったのが、京山幸枝若の巧みな芸であった。実際には無いのに「この後続きはレコードで」などがある。出典:『待ってました名調子!』p.84
  51. ^ 「本日のお外題は」という形で演題名を紹介することも多い
  52. ^ 読みのみ一定していて、表記に揺れが見られる場合はカタカナで表記するルールに基づく
  53. ^ 国本武春『待ってました 名調子!』に掛け声講座あり。p.174,付属CD
  54. ^ 主に歌舞伎大向う女義太夫の慣習からの移行と考えられる
  55. ^ もちろん例外もあり、雲右衛門は入道姿で舞台をこなした例、同様に東武蔵や玉川勝太郎が袈裟姿で高座をこなした例もある。国本武春がイベントでサングラス姿やクマのプー太郎に扮した例さえもある
  56. ^ 芝居における引幕、落語における後幕、相撲の化粧回しと同じくファンが浪曲師に送る物であり、寄贈者名が記してある事が多い。
  57. ^ 更に浪曲大会などの格式張った舞台になると、テーブルの両サイド、離れた位置にさらに小さなテーブルを置き、松の盆栽を置く
  58. ^ 上方では一風亭初月がひんぱんに、関東でも沢村豊子・佐藤貴美江・玉川みね子が、時おり出弾きを披露する
  59. ^ 曲師を隠すのは、明治時代活躍した桃中軒雲右衛門が、曲師をしていた美しい妻を観客が狙わないように隠したことに由来するという俗説があるが、実際にはそれ以前に美当一調が始めた 出典:安田宗生編『美當一調・桃中軒雲右衛門関係新聞資料』
  60. ^ 三味線を持つ曲師は、ついたて無しに右隣に座る
  61. ^ 最初は釈台を使ったが、後には釈台もなく語った 出典:唯二郎『実録浪曲史』p.169-170
  62. ^ 新聞(しんもん)読み→際物浪曲
  63. ^ 五寸釘の寅吉、海賊房次郎、松平紀義のような有名な犯罪者が、懺悔と称して当人の語る実録浪曲として舞台に立つ事は、明治・大正期にはしばしば見られた。詳細については倉田喜弘『芝居小屋と寄席の近代』や正岡容『定本日本浪曲史』p.30を参照
  64. ^ 正確には少し前
  65. ^ 浪曲作家は浪曲史研究家を兼ねるケースが非常に多く、その著作数は多い
  66. ^ 京山若丸作。広島県矢野村に住む貧しい小作農夫、松岡幸造のもとに召集令が下り、病気の妻と幼子2人を残し戦地へ行くことになる。周囲の目は冷たく、高利貸に罵倒されても誰の助けもなく、仕事先の組頭にも、残る家族の世話を断られる。妻は夫の心残りを察して2人の子供も殺して自分の元へ送ってくれと書き遺して自殺していた。悲しみのうちに松岡が子供に手をかけようとする間一髪、ただ一人の理解者である警官が飛び込んで松岡を諭す。様子を聞いていた高利貸も飛び込んで非を詫び、松岡は出征していく。日露戦争後の社会の疲弊と成金の出現を痛烈に批判した全く架空の話だが、そのリアルさ故、モデルの松岡を名乗る男が出現するほどヒットした。関東では東家楽燕、関西では天光軒満月がそれぞれ脚色して受け継いだ。出典:ワッハ上方『上方演芸大全』p.292欄外
  67. ^ 雲月が、本格的なスターダムにのし上がったのは、1935年(昭和10年)に発表した「杉野兵曹長の妻」であったといわれる。1935年夏に台本が書き下ろされ、秋に発表されたと記されている。その後、時をおかずに、1936年1月分新譜として「銅像を涙で洗う女 杉野兵曹長の妻」(テイチク1765-68)が発売されたと推測される。 真鍋2017 p.230
  68. ^ 実録浪曲史
  69. ^ a b c ワッハ上方編、織田正吉「漫才」『上方演芸大全』p.58
  70. ^ にっぽん芸能史p.186
  71. ^ また関東においても、三門博玉川福太郎などがレコードを出している
  72. ^ 矢野誠一『昭和の演藝二〇講』p.148
  73. ^ 「芸人」を「芸能人」というようになったのは、たしか戦前の昭和十五、六年ごろだったように記憶している。時の情報局が考え出したように思うから、つまり’’官製語’’である。‘‘芸’’と’’人’’の間に‘‘能’’が加えられたからといって、たちまち有能になったわけもあるまいが、そそっかしい芸人は芸能人とよばれることで、ハクがついたように嬉しがった者もあったらしい。出典:『大衆芸能』高橋博、教育史料出版会、1980年。p.3
  74. ^ 朝日放送の浪曲の項目には「浪曲と同根のものである河内音頭は」とある。放送演芸史p.188-189
  75. ^ また関西テレビの節に浪曲ジャンルの出演者として鉄砲光三郎も入れられている。放送演芸史p.297なお、章末の放送演目一覧表には独立して「音頭」の項目がある放送演芸史p.314
  76. ^ 以上この節は『まるごと三味線の本』p.146
  77. ^ 現在でも時折、定席以外の場で見られる。出典:『上方伝統芸能あんない』浪曲の章、『待ってました 名調子!』、『浪曲定席 木馬亭よ、永遠なれ。 芸豪烈伝+浪曲日記』
  78. ^ コラム:節劇|大衆芸能編・寄席|文化デジタルライブラリー
  79. ^ a b 『大衆演劇お作法』ぴあ株式会社、2004年3月6日。p.69
  80. ^ 澤田隆治「昭和三十年代、ギャグの基盤に浪曲があった。」『東京人』380号p.67
  81. ^ 明治35年1月18日 - 高松市歌舞伎座 三都合併うかれ節芝居興行。吉川辰丸。「関東五人侠客国定忠治伝」「水戸黄門漫遊記」「忠臣蔵」など 明治35年1月21日付 [香川新報] 『明治の演芸7』p.155
  82. ^ にっぽん芸能史p.247
  83. ^ 戦中である1943年(昭和18年)末に発表された大日本興行協会の全国統計によると、浪曲専門の一座は255座、浪曲・漫才の座は49、浪曲及び舞踏は4、浪曲劇専門は41、時代劇と浪曲劇を併演するものは12。出典:『実録 浪曲史』p.118 ★要確認
  84. ^ 林正之助によれば1925年(昭和10年)吉本はJ.O及び日活と提携し、寿々木米若、篠田実による浪曲トーキーを公開した:出典『上方笑芸の世界』「宮川左近ショー」p.124
  85. ^ 同年芸術祭賞受賞 (PDF)
  86. ^ 浅沼圭司他編『新映画事典』美術出版社、1980年9月20日。佐藤忠男「日本映画の体質」p.370
  87. ^ 戦前はこちらが詳しい
  88. ^ キネマ旬報年間ベストテンには、戦前に浪曲でもおなじみの主人公の映画がいくつかランクインしているが、「浪曲映画」は戦前戦後を通して一つもランクインしていない。参考サイト
  89. ^ 出典:『実録 浪曲史』、ムービーウォーカー、jmdb日本映画データベース
  90. ^ にっぽん芸能史p.187
  91. ^ 浪曲そのままのタイトル、浪曲師でもある2代目友衛のヒット曲であるが、歌謡浪曲の特徴は備えておらず、その点もあってか浪曲の範疇には取られないことが多い
  92. ^ SPレコードレーベルに見る 日蓄-日本コロムビアの歴史には、京山小円奈良丸の写真入りレーベルが納められている。写真入りレーベルは本文中にもあるようにセールスが確実に見込める限られた物だけ発行された
  93. ^ 浅草・イサミ堂のページには浪曲演者一覧があり、より深く浪曲を知りたい人には便利である。
  94. ^ 浪曲(ろーきょく)と(河内、江州)音頭(おんど)で「ローオン」である。出典:『日本一あぶない音楽 河内音頭の世界』p.193
  95. ^ 本調子であり、浪曲とは異なっている
  96. ^ 石田信夫『安来節』中国新聞社 1982年 p.201-
  97. ^ 津軽三味線に明治期テーブル掛けがあった記述は武春『待ってました名調子!』p.111
  98. ^ 芝清之の労作「浪花節 ラジオ・テレビ出演者一覧」を参照のこと
  99. ^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』に詳しい。
  100. ^ 唯1999p.108-109,228ー231「ラジオの専属契約」
  101. ^ いずれも1クール(3ヶ月)程度の短いもので、テレビでも人気が定着したとは言い難い
  102. ^ 当時ラジオからテレビのディレクターに転じた澤田隆治の証言。「昭和三十年代、ギャグの基盤に浪曲があった」『東京人』380号p.66
  103. ^ 司会の芦川淳平が書いた「浪曲の神髄」に放送リストがある。
  104. ^ 浪曲の世界ではまず先人の節まねから入り、徐々に自分の節使いを創造していくのが常道である。節まねは特別なものでなく、今でも二代目東家浦太郎など、高座の余興で披露する場合がある
  105. ^ 得意は木村重松木村重友初代港家小柳丸など 出典:桂文楽『あばらかべっそん』
  106. ^ 「雲右衛門の弟子で雲太夫といった人が、(柳亭)左楽さんの門下になって、信楽を名乗った。本名を鈴木政吉という。今西の正蔵がこしらえた『墓誌』に出ております」出典:三遊亭円生『寄席切絵図』(桃中軒雲太夫といえば東家楽燕のことであり、おそらく芸談の類であろう)
  107. ^ 大正10年に浪曲から落語家に転じ、没年昭和2年3月2日。出典:『古今東西落語家事典』。また朝日新聞1926年(大正15年)8月5日朝刊5ページにも記事あり。
  108. ^ 井上宏編『放送演芸史』世界思想社 1985年
  109. ^ 元は浪曲「清水次郎長」の本座村の為五郎のタメゴローである。澤田隆治『東京人』380号p.67
  110. ^ 高田文夫『東京人』380号p.22
  111. ^ スポット
  112. ^ yahoo知恵袋に投稿された「浪曲の出てくる落語をおしえてください」
  113. ^ 『談志百選』p.390-391には広沢瓢右衛門から「鈴が森」「佐野山」他の稽古をつけてもらったことを書いている
  114. ^ 落語を観るならこのDVD 瀧口雅仁
  115. ^ 平岡正明「快楽亭ブラックの毒落語」p.7 なお、この演目は明治の講釈師伊藤痴遊が作ったものを瓢右衛門が蘇らせた
  116. ^ ワッハ上方『上方演芸大全』p.226
  117. ^ 『まるごと三味線の本』p.146-148
  118. ^ 『痴遊雑誌』に転載された「浪花節漫語」の上欄、北村大巴(浪花容峰)の寄稿にもあるように、古くから関西で「浪花節だから浪花(大阪)」と単純化をする傾向が見られる。出典:『痴遊雑誌』復刻2巻p.882
  119. ^ 雲右衛門は凱旋の頃にはフシを関東節から九州の芸も取り入れ、関西節の低調子に切り替えた 出典:ワッハ上方『上方演芸大全』p.287
  120. ^ 大西信行『浪花節繁昌記』
  121. ^ その源流として古くから伝わる節談説教声明。さらなる源流として大陸伝来の京調(きょちん)、打鈴(だいしん)出典:三波春夫『歌藝の天地』
  122. ^ ワッハ上方『上方演芸大全』p.284。浪曲の章は執筆:芦川淳平
  123. ^ 出典:倉田喜弘『芝居小屋と寄席の近代―「遊芸」から「文化」へ』p.152
  124. ^ 中村(1983)p.302-303。なお、1)蝶浮連節=浮れ節=チョンガレで興行届を同じ代表が書いている。2)届けに浅草在の「浪花節」の鑑札の写しがある(届けの年月日不明)
  125. ^ 江戸東京で「ウカレブシ」の呼称では駄目な理由をきちんと説明した文献は関東側には一つとしてなく、雑誌『上方』144号(1943.(1))の「関西浪花節の今昔」に「江戸名物の都々逸、大津絵、甚句、などが『浮かれ節』として」あったためとあり、これが明確な説明である。出典:『日本近代歌謡史』p.2258-2260。『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』にも「うかれぶしさわぎ」という名の今の浪花節とは別の音曲(演者・立花家圓左衛門、富士松ぎん蝶)の収録がある。同じ演者にある「浮世節」の別称であろう
  126. ^ 異説として、神田橋の寄席「渡辺亭」 出典:高橋博『大衆芸能』p.95
  127. ^ 同時期に寄席に登場したオッペケペーの浮世亭○○こと川上音二郎娘義太夫などと比べても明らかである
  128. ^ 明治6年までで取り壊された
  129. ^ 現在の上野駅構内。1882年(明治15年)11月に閉鎖される
  130. ^ 明治期に入り火除地となる。明治23年に閉鎖。その後は日本鉄道の貨物駅用地となる
  131. ^ 采女橋脇に空き地があった
  132. ^ 今の新橋駅日比谷口近辺
  133. ^ 佐竹藩の屋敷跡。現在の台東区台東 『竹町の人とくらし(台東区文化財調査報告書 第18集)』 台東区教育委員会文化事業体育課、1995。
  134. ^ 本所の津軽藩屋敷跡。今の墨田区緑図書館の近辺
  135. ^ いずれも後に周辺に寄席が出来ている
  136. ^ 中村1983p.300
  137. ^ 明治5年とする石谷華堤説と明治10年以降とする平林説が主にある。全容については芝清之『浪花節 東京市中・寄席名及び出演者一覧』の冒頭を参照のこと。しかしながら「遊芸稼人」の歴史における重要な明治8年刊『諸芸人名録』に浪花節の名はなく、それ以降に結成されたと具体的に推定できる
  138. ^ 唯二郎『実録浪曲史』p.4-6
  139. ^ 節談説教の演目と重なり、その強い影響が伺える
  140. ^ 唯二郎『実録浪曲史』p.26
  141. ^ 大我居士『貧天地飢寒窟探検記』飢寒窟編p.14
  142. ^ 上島敏昭「仇討ちのドラマトゥルギー―浪花節の忠臣蔵をめぐって―」『芸能』33(12) p.30
  143. ^ 唯p.9 「雲入道一代」二六夕刊1912年(大正元年)8月27日 - 9月4日まで7回?6回連載。確認済
  144. ^ 江戸時代は大名屋敷が並ぶ武家地であった所も、戊辰戦争と共に荒廃、さらに「桑茶政策」により都市化が逆行し影響が長く残った http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0703kaidoku06_1.htm
  145. ^ 『上方芸能』(136)p.28
  146. ^ 東京・神田・市場亭、浅草雷門・新恵比寿亭が共に開場するのが明治25年。
  147. ^ 出典:近代日本芸能年表・上 p.95。萬朝報他、読売新聞など当時の在京紙の多くの紙面に残っている。
  148. ^ その場に実地見学でいた一心亭辰雄の回想録によれば、講談の邑井貞吉が南部坂をやったという。(上記新聞記事に講談の出演記載無し)三好貢編『浪花節一代』朋文社、1957。JP番号:58000659 p.63-65
  149. ^ 「○猶敗北の例をいはば、浪花節といふもの、都の中央にては大ろじといふに折々かかるのみなりしが、この程は宴席の余興にも召されて、これが寄席に旦那様奥様の黒の羽織を見ること、敢えて珍しからずと聞く。」発表は『太陽』明治30年10月号。確認済。出典:坪内祐三編『明治の文学 15 斎藤緑雨』筑摩書房 2002年p.410
  150. ^ 大円朝こと三遊亭圓朝も出演した大店である 出典:三遊亭圓生『寄席切絵図』
  151. ^ 1885年(明治18年)3月下席には早くも美弘舎東一、浪花亭駒吉が出演している。出典:芝清之『浪花節 東京市内・寄席名及び出演者一覧』
  152. ^ 万朝報1900年(明治33年)10月13日付 出典:兵藤『<声>の国民国家・日本』 確認済。
  153. ^ 『うなる』p.106
  154. ^ 大西信行『浪花節繁昌記』によれば明治24年
  155. ^ 浪花亭駒子(一心亭辰雄)の回想録 出典:『浪花節一代』p.70-71
  156. ^ 芸人同士の深刻な対立ではなく、合併興行をする場面も多くあった
  157. ^ 松竹株式会社『歌舞伎座百年史 資料編』p.53,安田宗生 編『美當一調・桃中軒雲右衛門関係新聞資料』,唯二郎『実録 浪曲史』p.334
  158. ^ 来日したグラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグによる。以下はその復刻版。『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』TOCF 59051
  159. ^ 後のドーナツ盤レコードの前
  160. ^ 山口亀之助『レコード文化発達史』 録音文献協会、昭11。p.21なお『定本 日本浪曲史』によれば、これは幟に書かれた演者本人が吹込みをしたものではなく、鼈甲斎雲竜による節まねであったという
  161. ^ 朝日新聞 1906年10月2日
  162. ^ 唯二郎『実録浪曲史』p.10-11
  163. ^ 実際には今でいうブレーン的役割を果たした
  164. ^ この上京の前、佐世保での公演後に二人は別れ、宮崎は「白浪庵滔天」の名を芸名としても使い、後に伊藤痴遊一心亭辰雄と関西巡業している
  165. ^ 秩父久方によれば「当時の壮士演説会のようすを模倣し、芸能的にショーアップしたものであろう」出典:「浪曲」『日本大百科全書』18巻p.531
  166. ^ 岡本和明『俺の喉は一声千両』
  167. ^ 寄席の入場料が十銭の時代に、一等一円の料金を取り、最初の5日間で費用を回収、それ以降は入場料がそのまま利益という近代興行界最大の快挙であった。出典:倉田喜弘「浪曲」『日本音楽大事典』平凡社
  168. ^ 2016年1月10日、初席浅草演芸ホールでの古今亭志ん輔によるマクラは、浪曲の従来からある一般的なイメージに乗るもので「無駄に威張るが内容に乏しい」と指摘するものであった(現在の浪曲の大勢からは若干のずれがある)。
  169. ^ 派手な宣伝は相当なもので、東京市中に「日本一の奈良丸」とビラなどで告知、関東の浪花節語りは一斉に反発しビラを叩き落として回ったという逸話が残る
  170. ^ 1908年(明治41年)6月15日 福岡日日新聞によれば当年13歳
  171. ^ 1910年(明治43年)6月27日 福岡日日新聞によれば12歳
  172. ^ 1911年(明治44年)9月29日 河北新報によれば13歳
  173. ^ 成人し、後に娘が天津羽衣
  174. ^ 『実録 浪曲史』p.8 表2。
  175. ^ つまりレコードも上・中流階級から普及し、隠れるように浪花節を聴いたのである。 出典:西沢爽『日本近代歌謡史』別冊付録「日本流行歌大系・略史」p.3
  176. ^ 山口亀之助『日本レコード発達史』p.164
  177. ^ 倉田喜弘『日本レコード文化史』
  178. ^ 明治35年頃には「どんどん節」は流行っている。円車の節を織り込んだのは明治44年に流行。出典:西沢爽『日本近代歌謡史』
  179. ^ 大正3年から4年。出典:西沢爽『日本近代歌謡史』
  180. ^ 『日本のうた 第一集 明治・大正』p.221によれば、最後の一節が奈良丸の浪花節の節調をそのまま採り入れている。また三番の歌詞「月が出た出た月が出た/セメント会社の上に出た/東京にゃ煙突が多いから/さぞやお月様煙たかろう」はのちの炭坑節の元となった。出典:東京のうた.84 奈良丸くずし 朝日新聞 1968年(昭和43年)5月1日
  181. ^ これは創立間もない講談社が速記から創作(今に至る路線である)に転じる重要なきっかけとなる
  182. ^ 背景には、浪花節がその社会的地位を一足飛びに上げていく中で、そのネタ元として、講釈師の高座やその速記本を大いに利用していたこともある
  183. ^ 講談社『講談社の90年』p.60-61
  184. ^ 『講談社の90年』には、明治44年「講談倶楽部」創刊号には「浪花亭重松」で速記掲載があったが、問題の大正2年の増刊「浪花節十八番」発売記念の浪花節芸者大会に「木村重松」で出演していることが確認できる
  185. ^ 一部で定説化した「大正6年12月20日付の「都新聞」紙上で初めて使用された」という事実は無いが、直後の年明け大正7年1月3日付には同紙上で記述を発見できる。関西でも大正9年8月18日付の大阪毎日新聞にある。その頃既に浪曲の世界を「浪界」と呼ぶ記述は見られ、「浪界」の初出は明治41年6月15日福岡日日新聞よりは以前。以上は芝清之『新聞にみる浪花節変遷史』明治編、大正編でも確認可能
  186. ^ NHKで「浪花節」から「浪曲」へ言い換えるようになったのは1957年(昭和32年)のことである。放送演芸史p.61
  187. ^ 上島敏昭「仇討ちのドラマトゥルギー―浪花節の忠臣蔵をめぐって―」『芸能』33(12) p.30
  188. ^ 安田宗生『国家と大衆芸能』p.13
  189. ^ 大阪朝日 1920年(大正9年)8月21日付、都新聞 同年8月23日付など
  190. ^ 奈良丸の渡米は1917年(大正6年)。3月8日サイベリア丸で鹿島を立ち、5月13日SFユーイングフィールド野球場にて邦字紙「新世界」主催読者大会で口演。7月8日ウィルソン大統領に単独面会、後の首相・原敬の後押しで。その後アメリカ・ビクターで吹き込み。出典:『浪曲の神髄』p.97-105
  191. ^ 移民一世を中心に第二次世界大戦後も一定の人気を保ち続け、「コロニア浪曲」と呼ばれる現地制作のレコードも作られた。出典:細川周平『遠きにありてつくるもの―日系ブラジル人の思い・ことば・芸能』みすず書房 2008年
  192. ^ 1912年(明治45年)3月17日、神田・市場亭にて「安中草三」を6時間に及ぶ通し読みをし、一躍名を上げた 出典:二六新報 1912年3月15日夕刊、同3月20日夕刊
  193. ^ 二代目東家楽遊の浜町御殿や鼈甲斎虎丸の中野御殿、また、初代雲月の唐津の大邸宅の一帯が「雲月町」と呼ばれていた例、戦後に寿々木米若の伊東温泉割烹旅館「よねわか荘」など。また、大和之丞(二代目奈良丸)が中心となって1935年(昭和10年)京都で大石神社を創建した例がある。
  194. ^ その様は、梅中軒鴬童『浪曲旅芸人』などに詳しい
  195. ^ 西沢爽『日本近代歌謡史』p.3794-3795。「いわゆる今日の流行唄(書生節)がどれほどの数値であったかを見ること」に眼目が置かれている。
  196. ^ また他に、当時レコードを活用し音楽(主にクラシック)の講演(今でいうレコードコンサート)をしていた田辺尚雄のエピソード。明治末年には「地方の講演は」「学校の講堂でやる」。「蓄音器を一台」準備を頼むと「レコードは浪花節か端唄か民謡」しかないが用意しときますと返事されたという。初めて聞く交響曲やピアノソナタ、オルガン曲に非常な驚きを示したと。(田辺尚雄「明治音楽物語」p.301)
  197. ^ 音楽評論家中村とうようは、レコードが本格的に商品になった時期を1927年から1929年にかけてとみている。真鍋2017 p.91
  198. ^ なお次項に「俚謡」の部があるが、端唄小唄の部に「鴨緑江節」「汐来節」「仙台節」「木曽節」「大島節」などが混載されている
  199. ^ 公開実験放送の段階にも登場している。東京・上野不忍池で1924年(大正13年)10月30日に東家楽燕の「南部坂雪の別れ」 出典:南利明「”浪花節“放送局の実態 草創期のJOCK」『放送研究と調査』1983年10月号p.56
  200. ^ 5月15日、試験放送中の大阪放送局(BK)に宮川松安の浪花節。関東は開局から3ヶ月遅れでAKに春日亭清吉が登場する 出典:唯二郎『実録浪曲史』p.49
  201. ^ 兵藤裕己. “オーラル・ナラティブの近代 (PDF)”. 2014年3月13日閲覧。成城大学
  202. ^ 同様のものに1941年(昭和16年)朝日新聞中央調査会が行った「地方娯楽調査資料」があり、浪曲はやはり全国的に人気を得ていた事がわかる。出典:『近代庶民生活誌 第8巻 (遊戯・娯楽)』に収録
  203. ^ 国会図書館「れきおん」に多数録音が残されている
  204. ^ 堀江誠二『悪声伝 広沢瓢右衛門の不思議』p.171
  205. ^ 「日露戦争後、沸騰的に浪花節が勃興して市中の各席は殆どが浪曲の寄席となった時代から見ると全く夢のやうです、現在では市中には浪曲専門の寄席が見られなくなりました、従つて語る人々も地方へ地方へと流れ込んで、残された者こそ、全く選り抜きの大看板丈けとなりました。此の人達はレコードに、放送に、浪曲映画や、浪曲名人会と相当に発展をして居ります。近く東家楽燕が、九段に浪花節学校を創立して、後進を養成している、其の第一回公演が過般、九段小劇場で開催されました、其の夜楽燕に逢って抱負を聞きましたが誠に結構なことと思つて居ります。現在一流の浪曲家としては、楽燕、虎丸、重友、大蔵、重勝、武蔵、友衛、虎造、米若、綾太郎、勝太郎、栄楽等であります。」出典:青山光太郎編『大東京の魅力』1936年(昭和11年)1月1日発行、東京土産物協会 コレクション・モダン都市文化31 p.259「浪花節」の部分。
  206. ^ 放送演芸史p.7
  207. ^ 唯1999 p.84
  208. ^ 1938年(昭和13年)8月29日から3日間の二代目天中軒雲月の襲名5周年記念独演会や、1940年(昭和15年)8月28日、29日の春日井梅鴬独演会など 出典:『歌舞伎座百年史』p.272,284,289,298
  209. ^ 情報局に講堂として接収され、1941年(昭和16年)1月30日に愛国浪曲試聴会。出典:唯二郎『実録浪曲史』p.101
  210. ^ また1943年(昭和18年)12月30日の「芸能従軍壮行 浪曲大会」。出演は春日井梅鴬、広沢虎造、梅中軒鴬童、寿々木米若。出典:『帝国劇場100年のあゆみ』p.89
  211. ^ 1942年(昭和17年)には欠くこともなく毎月劇場での浪曲大会が続いたという 出典:『実録 浪曲史』p.112
  212. ^ 放送演芸史p.41
  213. ^ 講談落語協会が禁止演目を浅草妙本寺のはなし塚に葬ったのは1941年10月30日のことであった。 唯 p.104
  214. ^ 『実録浪曲史』p.96本文・表14
  215. ^ 『日本浪曲史』p.30
  216. ^ 詳細については猪野健治『興行界の顔役』冒頭を参照
  217. ^ 歌川光『愛国浪曲小説集』大衆文芸社、1941。JP番号 44008870。序の部分
  218. ^ [1]
  219. ^ 戦後に日本文化放送(今の文化放送)(当時はキリスト教会の意向が強く反映された局であった)開局の際、浪曲を番組に採るか否かで論争が起きた。結局、浪曲番組は開局時から放送することで決着する
  220. ^ 真鍋2017 p.130
  221. ^ 出典:『大衆文化事典』浪曲の項(芝清之)要確認★
  222. ^ 寿々木米若の昭和15年1月から昭和26年12月までの地方巡業の記録が芝清之『浪花節 東京市内・寄席名及び出演者一覧』と真鍋昌賢『浪花節 流動する語り芸ー演者と聴衆の近代』せりか書房、 2017年3月。784796703635に詳しく載っている
  223. ^ CCDから禁止演目など具体的な指示通達を受けたことがわかっている 出典:唯二郎『実録浪曲史』p.155-156
  224. ^ 芸能人の長者番付 東京財務局調査 朝日新聞 1949年4月12日付に三門博、広沢虎造、春日井梅鶯の名
  225. ^ 唯1999 p.176
  226. ^ 唯二郎『実録浪曲史』p.306 TBSに入局し、スポーツアナウンサーとして活躍した虎造の息子、山田二郎(虎造節継承会)も談話で言っている
  227. ^ 「銭形平次」(ラジオ東京 - 文化放送)は異例の長期間にわたる番組であった。脚本は全て国友の自作
  228. ^ 「関東全地域・夏期 民放在京3局 高聴取率番組 昭和32年度」唯1999p.261表32右。ちなみに左に31年度があり、ニッポン放送の浪曲玉手箱も10位にランクインしている(9.1%)。NHK調べ
  229. ^ 兵藤裕己『声の国民国家・日本』p.12
  230. ^ 宮崎学「ヤクザと芸能の世界」『ヤクザと日本』ちくま新書 p.112
  231. ^ 小沢昭一『放浪芸雑録』「トクダシ小屋のトクちゃんの一代記について/語り手=徳ちゃん」
  232. ^ 大利根勝子『浪曲波乱万丈!』(DVD) での告白
  233. ^ (関西で)「昭和20年代半ば、浪曲は急速に人気を失った」と明記あり。ワッハ上方『上方演芸大全』p.58
  234. ^ 1965年(昭和40年)から1993年(平成6年)までは毎年開催 出典:松竹(株)・(株)歌舞伎座「歌舞伎座百年史」平成7年(1995年)発行
  235. ^ 1995年、NHKテレビ『日本の話芸』から浪曲外れる。永田衛『木馬亭よ、永遠なれ』創英社、2014。ISBN 9784881428337 p.196
  236. ^ 『日本浪曲大全集』
  237. ^ いずれも戦前修業組であり、戦前世代を主な客層とした
  238. ^ この時期の新聞記事に頻繁に出てくる
  239. ^ 芦川淳平『浪曲の神髄』p.47-48
  240. ^ 「メロディーとともに (7)「浪曲・次郎長伝」『神戸新聞』1999年6月4日付夕刊、3面。
  241. ^ その間、入門者がいなかった訳ではないが、浪曲界に居続け、大成した者はいない
  242. ^ 多くの一門芸脈の消滅に悪影響は現れている
  243. ^ 浪曲の隆盛のため孤軍奮闘 国本武春さんをしのぶ 油井雅和 - 毎日新聞
  244. ^ 「浪曲人気復活 落語に続け」日本経済新聞2017年5月8日夕刊p.16
  245. ^ 2017年6月10日木馬亭イベント「電気浪曲の会」虎造節大会関係者中心に天狗連
  246. ^ 小、坊については修行中を表す意味が強く、その名を持つ浪曲師だけを集めた大会もしばしば開かれた。 出典:唯二郎『実録浪曲史』p.90
  247. ^ 唯二郎『実録浪曲史』「明治・大正女流列伝」p.33
  248. ^ 巡業した浪曲師自身を持ち上げたお手盛りの番付も多く、そこは御愛嬌であるとされる。
  249. ^ この節は、稲田和浩『浪曲論』彩流社 2013年 ISBN 978-4779119088、正岡容著 大西信行編 『定本日本浪曲史』岩波書店 2009年 ISBN 978-4000242639 を参考にした。
  250. ^ 福岡から佐賀、長崎出身の浪曲師は桃中軒雲右衛門の登場以来数多い。安斎竹夫『浪曲事典』1975年刊にも九州が本拠地の浪曲師の掲載がある
  251. ^ 浅草公園の図。明治40年。右下の雷門の位置の左側に新恵比寿亭
  252. ^ 松山伝十郎編『浅草繁昌記』実力社 1910年 p.154
  253. ^ 『写真にみる浅草芸能史』芝清之による解説。p.203
  254. ^ 堀江誠二『悪声伝 広沢瓢右衛門の不思議』p.31
  255. ^ 大阪毎日新聞1910年11月29日付
  256. ^ 大阪毎日1910年12月21日付
  257. ^ 大阪毎日1912年1月29日付
  258. ^ 村島帰之調査『大大阪』
  259. ^ 桂米朝『上方芸人誌』p.177
  260. ^ 稲田和浩『浪曲論』p.25
  261. ^ エーピーピーカンパニー『江戸東京芸能地図大鑑』

参考資料[編集]

主な参考文献[編集]

・(画像資料)

音声資料[編集]

  • (CD)『浪花節名演集 SP盤復刻』全5枚日本コロムビア、2011年。COCJ-37011 - 15(美当一調の「糸入り講談」や、中川明徳『浪花節発達史』で録音された前身芸能の数々も再収録されている)
  • (CD) 小沢昭一『ドキュメント「日本の放浪芸」小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸』ビクター、1999年。VICG-60231 - 37
  • (CD) 小沢昭一『また又日本の放浪芸 節談説教 小沢昭一が訪ねた旅僧たちの説法』ビクター、1999年。VICG-60243 - 48
  • (CD)『全集・日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』ユニバーサルミュージック、2001年04月25日。TOCF-59061 - 71

関連項目[編集]

外部リンク[編集]