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中村とうよう

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なかむら とうよう
中村 とうよう
『新刊展望』1966年8月1日号より
生誕 中村 東洋
(1932-07-17) 1932年7月17日
死没 (2011-07-21) 2011年7月21日(79歳没)
国籍 日本の旗 日本
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中村 とうよう(なかむら とうよう、本名:中村 東洋1932年昭和7年〉7月17日 - 2011年平成23年〉7月21日)は、日本音楽評論家編集者

略歴

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京都府丹後半島の付け根に位置する峰山町で生まれ[1]、太平洋戦争中に幼少期を過ごし[2]、1956年に京都大学経済学部を卒業した[1]。大学生のときにポピュラー音楽に夢中になり、京都では中南米音楽研究会京都支部に入会し、ラテン音楽とくにアルゼンチンやその周辺の民謡例えばアタウアルパ・ユパンキを好んだ[2]。大学卒業後、日本信託銀行[3]に勤務する一方1957年ごろから音楽雑誌などの記事執筆を始め、1960年に銀行を退職した[1]。退職の直接のきっかけは職場で役員をしていた労働組合運動での挫折だった[4]。銀行退職後、音楽評論家を目指した[5]当初はアメリカ合衆国およびラテンアメリカ民俗音楽を専門にし、最初の著書として『ラテン音楽入門』[6]を1962年に音楽之友社から刊行した[1]。1969年に『ニューミュージック・マガジン』誌を創刊[3]。誌名中の「ニューミュージック」は音楽ジャンル名である1970年代以降日本のいわゆるニューミュージックではなく、おもに当時のロックを指す[7][8]。この創刊について群馬県立女子大学教授の山崎隆広は「ロックを通じて時代を読み解こうとした」とみている[7]。1980年1月号で誌名を『ミュージック・マガジン』に改題する[7]

株式会社ミュージック・マガジンの元・取締役会長、代表取締役。「中村とうよう事務所」代表。武蔵野美術大学客員研究員。

ジャズロックフォークなどのポピュラー・ミュージックから、ワールド・ミュージック、国内・海外のルーツ・ミュージックまで、幅広く守備範囲とする評論家であり、また、多数のレコード、CDの企画・紹介を行っていた

2005年、趣味である、音楽関係を中心としたさまざまなジャンルの骨董収集コレクションの内容を本にまとめ、『中村とうようの収集百珍』として刊行した。2009年、『ミュージック・マガジン1月号』では、「アルバム・レヴュー」の「ワールド・ミュージック」のレヴュワー陣からの降板を発表した。これにより同誌ではコラム「とうようズ・トーク」のみを担当することになった。これは自身の死後を考え、サブカルチャーに理解の深い武蔵野美術大学にレコード、楽器、書籍などの音楽関係の資料をすべて寄贈することになり、その膨大な作業を進めるためであると、同号の「とうようズ・トーク」で説明されている。また、2008年10月に同校の客員研究員となったことも発表された。

2010年、『ミュージック・マガジン』12月号で、株式会社ミュージック・マガジンの会長職を辞したことが発表された。

2011年7月21日、東京都立川市柴崎町のマンション敷地内で倒れているのが発見され病院に搬送されたが、約1時間後に死亡が確認された。79歳没。警視庁立川署は、このマンションの8階の自宅から飛び降り自殺を図ったとみている[9]。没後に発刊された『ミュージック・マガジン』9月号では、遺書とともに執筆された「とうようズ・トーク」の最終回全文がそのまま掲載され、読者へ向けての最期の挨拶となった。「とうようズ・トーク」では年を取っても他人の世話にはなりたくないとして「でも自分ではっきりと言えますよ。ぼくの人生は楽しかった、ってね。この歳までやれるだけのことはやり尽くしたし、もう思い残すことはありません」と書かれていた。

生前の意思により葬儀は行われず、複数の「お別れ会」が行われた。特に9月28日の「お別れ会」では石坂敬一が発起人となり、約230人が参加した[10]

評伝として2017年に大和プレスから刊行された田中勝則著『中村とうよう 音楽評論家の時代』(ISBN 978-4-576-17100-5)がある。

エピソード

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1974年1月25日読売ホールで行われたジャック・エリオットのコンサートに、前座として出演した「アーリー・タイムス・ストリングス・バンド(高田渡友部正人加川良)」、なぎら健壱らに対して、中村が「ジャック・エリオットはいいが、前座の◯◯や◯◯はまるでなってない、あんな連中は出すことはない」というようなことを名指しで某雑誌に書いたことに腹を立てた高田渡が、『新譜ジャーナル』に「評論家のセンセイ方は、ボクたちの音楽をいじめることに生き甲斐を感じているんじゃないか[11]」と反論を書いた。それがきっかけで『新譜ジャーナル』にて高田渡との対談を組んだ。その際、高田が酒に弱い中村に酒を飲ませてベロベロにした。ついには青い顔をして吐いてしまった。高田に介抱されて、強気になれず言葉を失ってしまった。介抱しながら高田のダメ押し「そんなにいうなら、あんたが歌えばいいじゃないか」と評論家の一番弱いところを突いた。それでこの論争は解決というかウヤムヤになったという[12]

『ニュー・ミュージックマガジン』の編集長時代は、辛口採点で知られた中村だが、岡林信康がフォークから遠ざかり、演歌的アルバム『うつし絵』など出した後、フォーク的アルバム『ラブソングス』を出したとき、100点満点を出したことは大変に有名[13][14]

マイケル・ジャクソンの『スリラー』に対して、ミュージック・マガジン編集長時代のクロスレビューコーナー上で「黒人のもっともダラクし果てた姿を見せつけられた気がする。(中略)1980年代という時代にこんな安っぽい音楽が作られたことを後世の歴史家のための資料として永久保存しておくべきレコード」などと酷評し0点という評価を下した。北中正和はこの批判の根拠となる文書を中村が書いたことは記憶していないという[15]湯川れい子がインタビューでこの出来事を度々振り返っており、「これはブラック・ミュージックではない。(中村から)どうして『スリラー』をよかったと言えたのか教えてほしいと聞かれたが、いいものはいいとしか答えられなかった。」と述べている[16]。また、近田春夫と湯川の対談では、白人であるエドワード・ヴァン・ヘイレンのギターなどが入っていることに違和感を感じ、黒人の歴史への冒涜をするものだと思っていたのかもしれないと述べている。近田は湯川の発言を受け、中村には運動論として音楽を評価する面があったとして、(湯川の発言から)ポピュラー・ミュージックの歴史という新しさを追い求める主眼に、当時の中村がついていけなくなっていたのではないかと感じたと述べている[17]

現在ではオール・ミュージック・ガイドやピッチフォークなど、世界的な音楽メディアを中心にオルタナティブ・ロックの金字塔の一つとされ、高い評価を受けているソニック・ユースの『デイドリーム・ネイション』を、当時ミュージック・マガジン誌面上で「音楽の才能が無い人間が作った音楽。工場排水の垂れ流しのような演奏。」と10点満点中1点をつけ、酷評した[要出典]。中村は西洋クラシック音楽の修練の痕跡を持つアーティストを、決して認めようとしなかった[18][信頼性要検証]

出演番組

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著書

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単著

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中村東洋名義

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  • ラテン音楽入門音楽之友社、1962年12月5日。
  • 『ポピュラー専科 軽音楽をたのしむ本』実業之日本社、1966年。
  • 『フォーク・ソングのすべて : バラッドからプロテスト・ソングまで』東亜音楽社〈TAO Popular Library〉、1966年。

中村とうよう名義

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  • 『ロック音楽事典』主婦と生活社、1971年。
  • 『フォークからロックへ』〈ロック・ミュージック・ライブラリー〉、主婦と生活社、1971年12月。
  • 『ブルースの世界』主婦と生活社、1972年。
  • 『地球のでこぼこ : とうようズ・バラード』話の特集、1978年7月。
  • 『ブラック・ミュージックとしてのジャズ』ニューミュージック・マガジン、1978年12月。
  • 『大衆音楽の真実』ミュージック・マガジン、 1986年1月。
  • 『アイウエ音楽館』筑摩書房〈ちくまプリマーブックス〉、1988年6月。
  • 『地球のでこぼこ 2:とうようズ・ブルース』話の特集、1989年6月。
  • 『地球が回る音』筑摩書房、1991年9月。
  • 『俗楽礼賛』北沢図書出版、1995年8月。
  • 『アメリカン・ミュージック再発見』北沢図書出版、1996年11月。
  • 『雑音だらけのラヴソング 1970年代篇』ミュージック・マガジン〈とうようズコレクション〉、1999年4月。
  • 『雑音だらけのラヴソング 1980年代前篇』ミュージック・マガジン〈とうようズコレクション〉、1999年4月。
  • 『雑音だらけのラヴソング 1980年代後篇』ミュージック・マガジン〈とうようズコレクション〉、 1999年5月。
  • 『ポピュラー音楽の世紀』岩波書店〈岩波新書〉、1999年9月。
  • 『ロックが熱かったころ』ミュージック・マガジン〈とうようズコレクション〉、1999年9月。
  • 『大衆音楽としてのジャズ』ミュージック・マガジン〈とうようズコレクション〉、1999年10月。
  • 『ニッポンに歌が流れる』ミュージック・マガジン〈とうようズコレクション〉、1999年11月。
  • 『雑音だらけのラヴソング 1990年代篇』ミュージック・マガジン〈とうようズコレクション〉、2001年12月。
  • 『中村とうようの収集百珍』ミュージック・マガジン、2005年7月。

共編著

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訳書

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  • カール・ベルツ『ロックへの視点』(三井徹共訳)音楽之友社、1972年。
  • ハムザ・エルディーン『ナイルの流れのように』筑摩書房、1990年4月。
  • ピーター・マニュエル『非西欧世界のポピュラー音楽』ミュージックマガジン、1992年6月。
  • ピーター・ファン=デル=マーヴェ『ポピュラー音楽の基礎理論』ミュージック・マガジン、1999年6月。

CDプロデュース

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他多数

関連文献

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脚注

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注釈

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出典

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  1. 1 2 3 4 中村とうよう『ラテン音楽入門』音楽之友社、1962年、奥付
  2. 1 2 中村とうよう『フォークからロックへ』主婦と生活社、1971年、13-14頁。
  3. 1 2 中村とうよう」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社、コトバンク。2026年7月5日閲覧。
  4. 中村とうよう『フォークからロックへ』主婦と生活社、1971年、36頁
  5. 中村とうよう『フォークからロックへ』主婦と生活社、1971年、44頁
  6. 北中正和ほか「70年代ロック黄金期、音楽業界の舞台裏:音楽評論家と振り返る熱狂の時代〜天辰保文氏×北中正和氏インタビュー【前半】」『musicman』2024年2月5日。2026年7月6日閲覧。
  7. 1 2 3 山崎隆広、聞き手:河村能宏「反抗の象徴から商業音楽へ 吉本隆明がロックの過渡期に果たした役割」『朝日新聞』2025年12月3日。2026年7月6日閲覧。
  8. 北中正和「7月17日は『ニューミュージック・マガジン』を創刊した中村とうようの誕生日」『ニッポン放送 NEWS ONLINE』2018年7月17日公開、2020年1月12日更新。2026年7月6日閲覧。
  9. “音楽評論家の中村とうようさん、飛び降り自殺か”. Sponichi Annexインターネットアーカイブのキャッシュ). 2011年7月22日. 2014年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2014年1月17日閲覧.
  10. “中村とうようさん お別れ会”. 東京新聞インターネットアーカイブのキャッシュ). 2011年10月6日. 2011年10月6日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2016年12月24日閲覧.
  11. かまやつひろし『我が良き友よ』ワニブックス〈ワニの本〉、1975年6月5日、32頁。
  12. なぎら健壱『日本フォーク私的大全』筑摩書房、1995年9月25日、84-85頁。
  13. 『伝説 信康』小学館、1991年8月1日、125-129頁。
  14. 岡林信康『岡林、信康を語る』disk union、2011年7月13日、ISBN13:OKBOOK1、ISBN10:OKBOOK1、123-124頁。
  15. 北中正和 (2022-11-01). “ポップ現象という怪物-『スリラー』と中村とうよう 1983年の本誌クロス・レヴューと『スリラー』の音楽的魅力を考える”. ミュージック・マガジン (株式会社ミュージック・マガジン) 第54巻 (通巻734号): 27.
  16. 田部井徹 (2025年6月16日). (2ページ目) 湯川れい子の変わらないスタンス“いいものはいい、もっと知って欲しい”マイケル・ジャクソンをいち早く推した理由|オリジナル|インタビューサイト 双葉社 THE CHANGE”. 双葉社 THE CHANGE. 2026年5月24日閲覧。
  17. 「65年続けてきたのは“推し活”」…レジェンド音楽評論家・湯川れい子(90)が開拓したミーハー魂とロジカル論評の黄金バランス(CREA WEB)”. Yahoo!ニュース. 2026年5月24日閲覧。
  18. 2011年に自死した中村とうようは執拗に坂本龍一を批判し続けたらしい”. kj-books-and-music.hatenablog.com (2023年5月5日). 2024年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月2日閲覧。

関連項目

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