俄
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俄(にわか)とは、一般的に江戸時代から明治時代を中心に祭りの往来や宴席などで即興的に行われた笑いの芝居のことを指す。仁輪加、仁和歌、二和加などとも書かれ、江戸の茶番(ちゃばん)も類似の芸と思われる。
「上方演芸事典」(上田勇)などによると、名前の由来は諸説あり、俄狂言(にわかきょうげん)の略で[1]、狂言(芝居)をにわかに演じたことからこう呼ばれたともされる。また路上で突然演じられて衆目を集めたため、「にわかに始まる」という意味から「俄」と呼ばれるようになったとも伝えられる。
俄といえば、江戸末期に大阪などで歌舞伎の演目の内容をパロディ的に滑稽に演じるものとして流行したことで知られる。しかし、吉原俄は踊りが中心だったらしく、全国の祭りで見られる民俗芸能では滑稽踊りのほかに仮装行列、漫才のような掛け合いなどさまざまな滑稽ごとが俄の名で呼ばれている。
起源
[編集]起源は定かではないが、「古今俄選」(1775年)では享保(1736〜41)のころに大阪の祭りの往来で始まり、京都から江戸など全国に広まったとされる。天和時代の京島原遊廓に源流の芸が存在、安永時代 (1772 – 1780年) の諸書に俄の芸が登場する。
にわか研究の第一人者でもある歌舞伎研究者・佐藤恵理によると、今でも民俗芸能として全国各地で見られる「俄」の内容は①オチのついたコント②踊り、③獅子舞④仮装⑤行列⑥山車や屋台などの造り物ーと多岐にわたる。
もともと各地にあった笑いの芸が俄と呼ばれるようになったとも、長い歴史の中で変化・派生した結果とも考えられる。このような多彩な笑いの精神を中世では総じて「風流(ふりゅう)」といった。この風流は、風情のある味わいを表す「ふうりゅう」とは別物で、前近代までの文学芸術を貫く美意識にみられる精神を指す。即席を目指した新鮮な趣向をその本質として、俄はこの風流の直系に立つといわれる。また風流は芸能史の動力として近世の歌舞伎を生み、俄は近代明治の新しい演劇や新喜劇を生み出したことも忘れてはならないだろう[2]。
各地の俄
[編集]大阪俄
[編集]大坂では浜松歌国著の「摂陽奇観」には享保時代に俄の芸能が存在したことがうかがえる。宝暦・明和時代には職業化されだし道頓堀相合橋には俄専門の舞台が作られた。寛政時代以後で、独自の芸名で江戸(東京)の寄席などに進出した。天保時代には村上杜陵が人気を博し、その後活躍からのちに大阪俄の中興の祖といわれるようになる。
文化時代以降には初春亭新玉、初春亭琴玉、豊年斎米加、磁石亭喜多丸、白象亭和楽、小松屋市丸、幕開亭三喜、信濃家尾半らが活躍。明治に入るまで彼らの門流が活躍した。
明治初年には御霊神社(現・中央区)にて柴田席の寄席小屋を開き、以降坐摩神社の吉田席、博労町の稲荷座など次々開場。明治中期には大和家宝楽、秋の家田螺、初代鶴家団十郎、大門亭大蝶、京都の三代目宇治の屋茶楽が人気を博した。中期以降は初代大阪屋町人、その町人に影響を受けた二代目一輪亭花咲、鶴家団九郎(のちの二代目鶴家団十郎)らが活躍。二代目花咲は1981年(昭和56年)に亡くなるまで一線で活躍した。以降大正期まで夜明家ガストウ、井上ハイカラなどがいた。一方で曾我廼家五郎、十郎が俄を飛び出し、喜劇の興行を打ち成功をする。1933年(昭和8年)には初代鶴家団十郎の門下の鶴家団道理らがNHK大阪放送局から「太閤記・十段目」を全国に生中継した。太平洋戦争後以降二代目花咲の指導の下で二代目露の五郎兵衛が二代目大阪屋町人や三代目一輪亭花咲を名乗って活動し、以降弟子らで受継がれている。
これらは新喜劇につながる系譜とされ松竹新喜劇の旗揚げメンバーであった曾我廼家十吾は子役の俄師として大門亭大蝶の一座にいた、また初代渋谷天外、田村楽太も俄出身でともに楽天会の主宰していた。
現在一般的な漫才などのお笑い文化の源流であると考えられていて、横山エンタツ・花菱アチャコのエンタツもかつて俄の流れをくむ時田一瓢の瓢々会にいた、またエンタツのかつての相方の杉浦エノスケも鶴家団九郎(のちの二代目鶴家団十郎)の門下であった、ほかにも初代林家染団治、林田五郎、林田十郎、浮世亭歌楽らが俄出身であった。また俳優として一時代を築いた鶴田浩二の叔父は二代目鶴家団十郎の門下の鶴家団福郎であった。
中部地方の俄
[編集]美濃流し仁輪加(にわか)
[編集]岐阜県美濃市において毎年4月に開催される美濃まつりの夜に行われる「流しにわか」。
文政(1818〜1830)年間の港町若衆連の帳面に記録があることから[3]、江戸時代後期にはこの地に伝わったと考えられる。また、万延・元治(1860~1865年)の頃、上有知(こうずち)の美濃和紙商人・篠田和兵衛が商用で大坂に出かけた折りに、当時の大坂で盛んだった「にわか」を見たのがきっかけで、美濃に戻ってから宴席で座興に「にわか」を披露し、町内に伝えた[4]との説もある。
特徴は ①町内ごとの若い衆の集団によって演ぜられる。②仁輪加は仁輪加車を中心とした笛、太鼓、小鼓などの仁輪加囃子を演奏しつつ、町中をまわり、指定の十数箇所で仁輪加を演じる(流し仁輪加) 。③仁輪加の内容はその年限りのものとし、いつも新作が用意されるため、社会現象をとらえた社会風刺的なものが多い。④出演者は2名から3、4名が多い。台詞のやりとりを中心とし、対話劇風の構成。 ⑤扮装は簡素であり、即興の趣を大切にする。⑥仁輪加のはじまりには必ず「口上」がつき、最後の落(おとし)をいうと「エッキョー」と全員が掛け声をかけて終わる。[5]
中国・四国地方の俄
[編集]甲山にわか
[編集]広島県世羅町で江戸時代から300年続く伝統の夏祭り「甲山廿日えびす」の中で行われる「だんじり仁輪加狂言」[6]。「廿日えびす」は火災で消失した龍華寺の建物再建を祝うために元禄15年(1702年)から町民が始めたとされ、「にわか」は大坂(大阪)から米等の物流を通して当地に伝わったと言われている[要出典]。
特徴は路上の中央でだんじりを止め、綱で囲った空間を舞台として行う「路上流しにわか」。拍子木がなり「東西とうざい…これなる外題は…」で始まり[7]、芝居の最後のオチがついたあと「にわかじゃわいのう」と囃し立てて終わる。オチには「物落とし」を多用する。
にわかの内容(外題)は、時代物・新劇(新派・現代劇とも呼ぶ)の二派に大きく別れる。明治・大正期は歌舞伎調の「にわか」が多かったが、戦後の歌舞伎衣装の不足、知識人の交代や資金不足などの理由で現代物・時代劇物が増えた[8]。
朝倉にわか芝居(朝倉にわか獅子、場華芝居)
[編集]朝倉矢矧神社(愛媛県今治市)の5月例大祭において、獅子舞とセットで奉納される「にわか芝居(場華芝居)」。当地では200年近くの歴史があるとの伝承があるが資料は存在しない。獅子舞を演じていた者が中から出てきてにわか役者となってにわか狂言を演じ、落ちがついたら再び獅子舞の中へと戻っていくという独特の形式を取っている[9][10]。一時は伝承の危機もあったが、NHK番組で取り上げられたことを契機に保存会が結成され、後継者育成と伝統継承が進められている[11]。
佐喜浜俄(二輪加)
[編集]佐喜浜八幡宮(高知県室戸市)の10月例大祭[12]で毎年奉納される。演題は町内の出来事から時事問題まで広く取り扱い、毎年新作が作られる。脚本内容は前日まで演者に渡されず、当日即興劇が演じられる[13]。
演技は、「しうち」と言われ、最後に争論となって証拠となる物をかかげ語呂合わせの「おち」で幕を閉じる[14]。
九州俄
[編集]博多俄
[編集]幕末にはすでに岡崎屋嘉平、馬場の宗七、市小路の吾平らが活躍。1879年(明治12年)には鬼若組が組織され、麩屋組、川丈組などが次々組織された。明治後期以降は初代博多淡海が活躍。大正以降は衰退するが、その芸は実子二代目博多淡海、また実子の三代目博多淡海(木村進)と受継がれた。また平田汲月は俄作家として大正・昭和と活躍した。また初代・二代目と親子で続いた生田徳兵衛は生田組と称して明治から昭和に活躍。二代目の孫は女優・生田悦子として活躍。また福岡藩黒田氏の御用商人で俄師でもあった十一代目帯屋治平の孫は戦後に放送作家などで活躍し日本放送作家協会九州支部長も務めた帯谷瑛之介である。
様式は「博多弁で会話」し「駄洒落で落ちを付けて話を纏める」もので、人数や台本によって「一人仁和加」や「掛合い仁和加」「段物仁和加」等の種類があるが、20世紀末から21世紀初頭にかけては1人で演じるショートコント型の「一口仁和加」が主流となっている。半面(目かづら)を付けて演じる。この半面は博多銘菓「二◯加煎餅(にわかせんぺい)」のモチーフにもなっている。伝統的には和紙製の「ぼてかづら」も着用するが、未着用で演じることも珍しくない。
肥後にわか
[編集]古くは日清戦争以降、熊本市の招魂祭(戦没軍人の慰霊祭)を中心に盛んに行なわれてきた熊本弁による俄。戦前は名人として知られた運船利平の運船組はじめ利幸商組、マチャン組、二本木組などが県内各地の祭礼に出て人気を呼んだ。
戦後の肥後にわか(こう呼ばれたのは戦後、戦前は熊本俄)の中心となったのは蓑田又雄がつくったばってん組(後のばってん劇団)。1948年(昭和23)に地元熊本日日新聞社専属の「熊日にわか」として本格的に活動を始め、熊本放送のラジオで毎週生放送されて人気を呼んだ。
ばってん劇団は1963年(昭和38)、東京に進出して浅草松竹演芸場で大宮敏充のデン助劇団と合同公演、翌年には地元でも合同公演を行った。団員はばってん荒川、ばってん太郎、ばってん千代呂松、ばってんちび子らがいたが、中でもばってん荒川は、後に歌やテレビ、映画などで全国的タレントとして活躍した。また荒川の教えを受けたばってん城次は「劇団きゃあ」を結成して公演を続けるだけでなく、にわかのハゲづら姿そのままに精力的にテレビなどでタレント活動を行なっている。晩年のばってん荒川と舞台を続けたキンキラ陽子率いるキンキラ劇団、若手の劇団きゃあ、素人のケンちゃん劇団が活動を続けているほか森都劇団などが最近まで活動してきた。
佐賀俄
[編集]幕末から存在が確認されているが、長らく途絶えていた。はっきりとして記録が残っているのは大正末に煮豆卸業であった佐賀県佐賀市西魚町の田代熊一が一座を編成、各地を巡業した。その一座は伊東栄城、三浦キメ、高良ハル、小野善一、石崎卯一を輩出。戦時中は佐賀俄の慰問団が組織され、戦後その慰問団は石崎卯一が中心に「葉がくれ劇団」を組織され中から古賀儀一、古賀梅子が活躍。梅子は儀一と結婚。梅子はのちに筑紫美主子と名乗り、1946年に二丈町温泉センターで興行を打ち以降一座で九州地方を廻った。美主子は2013年(平成25年)に亡くなるまで精力的に活動した。
ほかにも京家桃之助、中村勇、中村福之助、座木文子らが活躍した。
鹿児島俄
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
江戸吉原俄
[編集]吉原でも演じられ、職業芸人でない素人の即興芝居だった。明和4年(1767年)に始まり、毎年8月中旬から9月中旬まで街頭の屋台の上で幇間(ほうかん)や芸者などが行った。吉原の茶屋・桐屋伊兵衛の思い付きとされる。吉原三大景物の1つ[15]。喜多川歌麿の天明3年(1783年)初期作品「青楼仁和嘉女芸者部」、「青楼尓和嘉鹿嶋踊 続」で描かれた。後の歌麿の全盛期には「青楼仁和嘉女芸者部」のような揃物で、全身像で精緻な大判で各遊郭の屋台上の芸者たちが描かれた[16]。他にも多くの絵師によって描かれた吉原俄の浮世絵が残されている[17]。
樋口一葉の「たけくらべ」の中でも紹介された他、2025年にはNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」[18]の題材となった[19][20]。
東北地方の俄
[編集]名振のおめつき
[編集]宮城県石巻市雄勝町の名振地区の秋葉神社において、江戸時代から続く火伏せの伝統行事。祭りの中で住民が面白おかしくその場の「思いつき」で即興で寸劇を演じることから「おめつき」と呼ばれる。江戸時代に港町として栄えた名振地区に、江戸や大坂で盛んだった「にわか」が伝わり、「おめつき」として定着したと考えられる[21]。しかし高齢化や人口減、コロナの影響で祭りの担い手が不足し2020年から寸劇や山車は中断[22]。現在は神事のみ執り行われている[23][24]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ↑ 『広辞苑』「俄」
- ↑ 佐藤恵理「中世"風流"の精神いまに」、「熊本日日新聞」2017年9月27日付29面、熊本日日新聞社
- ↑ “美濃流しにわか[みのながしにわか - 岐阜県公式ホームページ(文化伝承課)]”. www.pref.gifu.lg.jp. 2026年9月6日閲覧。
- ↑ “俄狂言と流し仁輪加 - 地域文化研究所 | 岐阜女子大学”. gijodai.jp. 2026年9月6日閲覧。
- ↑ “美濃流しにわか - 美濃市”. www.city.mino.gifu.jp. 2026年9月6日閲覧。
- ↑ “ひろしま文化大百科 - だんじり仁輪加狂言”. www.hiroshima-bunka.jp. 2026年9月6日閲覧。
- ↑ “【新にほん風景遺産】300年の伝統が息づく だんじりにわか狂言 ~広島県世羅町 甲山廿日えびす~(仮)”. www.home-tv.co.jp (2017年9月6日). 2026年9月6日閲覧。
- ↑ “甲山廿日えびす 上組だんじり 公式ホームページ”. kamigumide.gozaru.jp. 2026年9月6日閲覧。
- ↑ “朝倉矢矧神社の獅子舞とにわか - えひめの文化財(たから)”. www.pref.ehime.jp. 2026年9月6日閲覧。
- ↑ “データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム”. www.i-manabi.jp. 2026年9月6日閲覧。
- ↑ “矢矧神社(今治市・朝倉地区) – 神仏探訪記” (2025年1月28日). 2026年9月7日閲覧。
- ↑ “江戸時代から伝わる即興劇で観客の笑い誘う 400年以上続くとされる佐喜浜八幡宮の例大祭【高知】 | 高知のニュース・天気|KUTV NEWS | KUTVテレビ高知 (1ページ)”. KUTVテレビ高知 (2024年10月15日). 2026年9月6日閲覧。
- ↑ “佐喜浜「神祭」 | 高知県室戸市”. muroto.inakamap.jp. 2026年9月6日閲覧。
- ↑ “佐喜浜の獅子舞、俄(にわか)”. 室戸市教育委員会. 2026年9月6日閲覧。
- ↑ 吉原俄:コトバンク2025年6月15日閲覧
- ↑ 浅野 1995, p. 48-54.
- ↑ “A6 吉原俄”. 国立音楽大学附属図書館 竹内道敬文庫の世界. 国立音楽大学附属図書館 (2019年10月28日). 2026年9月7日閲覧。
- ↑ 日本放送協会『(12)俄(にわか)なる『明月余情』 | 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」』2025年3月23日。2026年9月6日閲覧。
- ↑ 日本放送協会『「べらぼう」の世界 吉原俄(にわか)衆・コスプレ祭り | 浮世絵EDO-LIFE』2018年12月23日。2026年9月6日閲覧。
- ↑ 堀江宏樹. “『べらぼう』江戸初期の吉原が格調高かった理由と俄祭りという「素人演芸ショー」”. サイゾーオンライン/視点をリニューアルするニュースサイト. 2026年9月6日閲覧。
- ↑ “石巻雄勝 名振のおめつき (神事のみ)2024年1月24日|Yukihiko Yotsukura”. note(ノート) (2024年1月26日). 2026年9月7日閲覧。
- ↑ Inc, Nikkei (2020年1月27日). “240年続く奇祭が中止に 石巻、人口減で担い手なく”. 日本経済新聞. 2026年9月7日閲覧。
- ↑ 日本テレビ. “「おめつき」豊漁・家内安全を祈る 担い手不足で神事のみ…「形を変えながらできるようにやっていく」<宮城・石巻市>(2024年1月24日掲載)|ミヤテレNEWS NNN”. ミヤテレNEWS NNN. 2026年9月7日閲覧。
- ↑ “火伏せ、豊漁祈る 「おめつき」伝統絶やさず 寸劇、山車は中止 石巻・雄勝”. 河北新報オンライン (2026年1月25日). 2026年9月7日閲覧。
参考文献
[編集]- 大衆芸能史資料集成 第8巻[要ページ番号]
- 佐藤恵里「歌舞伎・俄研究」(新典社)
- 浅野, 秀剛、クラーク, ティモシー編著『喜多川歌麿・解説編』朝日新聞社、1995年11月。
- 浅野秀剛「歌麿版画の編年について」『喜多川歌麿・解説編』1995年11月、47-54頁。