木村進

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きむら すすむ
木村 進
本名 木村 進
別名義 1. 博多小淡海
2. 3代目博多淡海
生年月日 (1950-07-29) 1950年7月29日
没年月日 (2019-05-19) 2019年5月19日(68歳没)
出生地 福岡県福岡市
死没地 大阪府大阪市
職業 俳優
ジャンル 喜劇
活動期間 1966年 - 2019年
著名な家族 二世博多淡海(父)
所属劇団 吉本新喜劇
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木村 進(きむら すすむ、本名同じ、1950年7月29日 - 2019年5月19日[1])は、日本お笑い芸人、喜劇役者。かつて吉本興業に所属していたがその後、フリー。「木村進劇団」の代表。多様なボケに、ツッコミも二枚目もできる稀有な芸達者ぶりを発揮し、23歳の若さで吉本新喜劇の座長となった。随一の人気を誇っていたが、38歳で病(脳内出血)に倒れ、惜しまれつつ退団した。親交のあった間寛平とは、お互いにベストパートナーであり、良きライバルでもあった。

来歴・人物[編集]

福岡県福岡市出身[2]。祖父は初代博多淡海、父は二代博多淡海。母は博多淡子。妹は博多和美、娘・木村優も吉本新喜劇に在籍していた。お笑い界の「サラブレッド」である。進も一時「三代博多淡海」を号したが、その後元の芸名に戻す。

祖父の初代・博多淡海(本名・木村平三郎)は福岡市の伝統喜劇である「博多にわか」の素人役者だったのがプロ役者に転じたもので、父の二代・博多淡海(本名・木村平三)は父の死によって23歳で跡を継ぐと、松竹芸能に所属して東京進出を果たし、おばあさんの格好で正座したまま1mもジャンプする曲芸なみのギャグや藤山寛美との共演で有名となる。

進は高校中退後、16歳で父の劇団、淡海劇団に入門し「博多小淡海」を名乗るが、次第に「親の七光り」と「父の重圧」に耐えかね、19歳の時に松竹芸能のライバルだった吉本興業へ父の許可を得ず転籍する。このためしばらくの間は親子絶縁状態だったという。実際のところ、広島宮島のヘルスセンター、近鉄センターにて芙蓉軒愛花と淡海劇団が合流、愛花の紹介で吉本に入団したといわれている。後年、新喜劇の舞台に二代・博多淡海が劇終了後に舞台へ上がり、「木村進をよろしくお願いします」と観客に向かって土下座をしたことがあり、和解が成立した。

下積み生活はわずかな期間で終わり、元々早くから芸事を修行して素質があった進は、23歳で吉本新喜劇の座長となる。新喜劇で名コンビとなったのが、晩年まで私生活で交流の続くことになる間寛平である。

吉本新喜劇では主力級の役者として人気を博し、「オカマキャラ」でも人気を得る[3]

1970年代中盤から1980年代前半は進の人気絶頂時代で、関西のテレビでは進の出ない日はないといっても過言ではなく、新喜劇以外にバラエティー番組にも進出した。もっとも多いときには月60本の番組をこなすなど、過酷なスケジュールとの闘いだった。

また歌手としても『博多花嫁』を徳間音楽工業(ミノルフォンレコード)から発売したこともある。

1985年以降は所属していた吉本新喜劇自体がマンネリ化していった。吉本からの要請もあり、進は心機一転、[要出典]父の跡を継ぐために1987年に「三代目博多淡海」を襲名した。襲名後の「博多淡海チーム」の新喜劇にはマンネリを打開しようとする試みも見られた[要出典]。同年から全国巡回の襲名披露公演を行うが、翌1988年、最終公演地で故郷でもある福岡市で脳内出血に倒れた[4]。長年の深酒や油物料理を好んだことなどが原因とされる[4]

その後、一命は取り留めたものの、左半身に重い障害が残り、歩行ができなくなった。その結果、新喜劇を退団し吉本興業も退社した[1]一時は松竹芸能への移籍話も挙がっていたが、それも自然消滅した[要出典]。当時の妻である風間舞子(元日活ロマンポルノ女優)とも離婚した[5]。芸人としても肉体に致命的な障害を背負うことになったため、マスコミの前からは姿を消すこととなり、同時に三代目博多淡海の名跡を自ら返上することとなった[要出典]

その木村がマスコミの前に再び姿を表すようになったのは、盟友である間寛平の賜物である。1999年10月10日になんばグランド花月にて行われた『間寛平芸能生活30周年記念公演』で、木村は端役ながらゲスト出演を果たし、間と舞台上で共演した。この時、木村は電動車椅子に乗っての出演だった。以降、端役ではあるが、間とドラマや映画で共演することが多くなった。短い出演時間でありながらもたびたび障害者の役を演じ、話題になっている。また、その後も間は木村のリハビリ費用などのためにカンパを集めていると言われている。

その後、「木村進劇団」を設立し障害者施設への慰問などを中心として活動をしていたが、骨折をして以後は休業していた[4]。前述の通り左半身不随のため、車椅子か松葉杖なしには移動および歩行が困難となり、舞台の上でも電動車椅子または松葉杖を使用して出演する姿が見られた。

2度の離婚経験者で、その後は再婚しておらず独身である。最初の妻との間に一人娘がおり、一時は子役として吉本新喜劇に出演していたが、2006年4月に結婚。9月に木村にとって初孫(男の子)が誕生した。

1990年代後半頃まで、大阪市天神橋筋商店街や大阪府内に100円ショップ「木村進の店・多売来屋(たばこや)」を経営していたが、その後は経営から手を引いており、別の会社が運営している。100円ショップの大阪での発祥の店とされる。

帯谷孝史は木村について、2015年のMBSよしもと新喜劇座員紹介のインタビューの中で「あの人の芸が、半分でもいいから欲しかった」と述べている[6]

2019年5月19日15時14分、腎不全のため、大阪市内の病院で死去[1][4]。68歳没。実妹によれば、同月14日に木村が「頭が痛い」と訴えたため、大阪市内の病院へ搬送。亡くなる前日の18日に間が見舞いに訪れたがこの時点で木村の応答がなかったという。19日に楠本見江子らの見舞いを受けた後に容態が急変し、最期は実妹に看取られた[7]

同月21日に通夜、翌22日葬儀・告別式が大阪市都島区の葬祭場で行われ、間、池乃めだか船場太郎末成由美、帯谷孝史、やなぎ浩二島田一の介内場勝則未知やすえ夫妻、川畑泰史すっちーらの吉本新喜劇新旧メンバーのほか、桂文枝桂小文枝オール巨人桂文珍月亭八方[7][8][9]が参列した。

ギャグ[編集]

船場太郎と並ぶ当時の新喜劇2枚目役者だったが、見た目とは対照的な、父親譲りのおばあさん役で知られた。

「イーッヒッヒッヒッヒッ…」
にやけた独特の笑い声。特に相手を威嚇する時や相手をどっきりで驚かす時に用いられる。
「おや、こんなところに水たまりが…」
おばあさん役での持ちネタ。ありもしない水たまりを飛び越える仕草をする。
「聞いてください、婦人会の皆さん」
同じくおばあさん役のネタ。その場で持ち上がっている事件の内容によく似た身の上話を切々と語る。関係者が「あなたはひょっとして○○さんでは?」(例えば、「お母さんでは?」)と尋ねると「いえ、赤の他人です」と言って落とす。
バリエーションとして、犯人や悪役が捕まってその場で糾弾されていると「待って下さい!お待ち下さい!」と突然登場し、彼の身の上話を切々と語りながら「この子をお許し下さい…」などと泣き崩れる。関係者が「あなた、この人のお母さんですね?」と尋ねると、「赤の他人です」と言う。
「待って下さい!この子は悪い子じゃないんです、この子を許してあげて下さい…(周りから「おばあちゃん、(あなたは)この人のおばあちゃんですか?」と聞かれ)赤の他人ですぅ…」
本番中、ある演者が周囲から責められていると、突然舞台に現れ、土下座して泣きながら長々とその演者を庇うが、実は全く関係がない。そして(主にゲストの女優から)「この人のおばあちゃんですか?」と言わせたあと、「赤の他人です」と言って周りを全員ズッコケさせる。
(おばあさん役で、娘役などと絡み)「ええやないか、久しぶりやねん!」「ワシが産んだ娘やないか!」
桑原和男にも同様のギャグがある。女性から、「お母ちゃん、男になってる!!」とつっこまれ、「いやらしい方…」と顔を赤くするときもある。
「アハーン、イヤーン、やめて! イヤヤ、アアアッ、スキャンティが…(誰かと顔を合わせて)ギャー!」
男と女の1人2役を演じるギャグ。
「許ーるさんっ!」
自分がコケにされたり、誰かに悪さされたりした時に声を押し殺して吐くセリフ。

出演した番組[編集]

テレビ[編集]

レコード[編集]

  • 「かんにんな」 - 間寛平とデュエット
    • B面 「君が欲しい」
  • 「博多花嫁」
    • B面 「関門海峡の落日」

著書[編集]

  • 『同情するなら笑うてくれ』(光文社、1998年)

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 吉本興業, ed. (1989), 吉本新喜劇名場面集 1959-1989, データハウス  - 編集長は竹中功。編集は堰守、仲谷暢之、竹本浩三