薩摩琵琶

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薩摩琵琶

薩摩琵琶(さつまびわ)は、盲僧琵琶の系譜をひく語りもの音楽の一ジャンル。

概要[編集]

日本中世に生まれた盲僧琵琶は、九州地方薩摩国鹿児島県)や筑前国福岡県)を中心に伝えられたが、室町時代に薩摩盲僧から「薩摩琵琶」という武士教養のための音楽がつくられ、しだいに語りもの的な形式を整えて内容を発展させてきた[1]。歴史的には、宗教音楽としては、筑前盲僧琵琶が薩摩盲僧琵琶よりも古いが、芸術音楽としては、薩摩琵琶の方が筑前琵琶に先行する[2]

薩摩琵琶は、晴眼者の琵琶楽としては最古の段階に属し、また、プロフェッショナルによる音楽ではなくアマチュアの音楽としても年代的に古い[3]。道徳歌曲というべき特色を有し、平曲とは異なり、道徳性が文学性に優先する[3]

歴史[編集]

薩摩琵琶は16世紀に活躍した薩摩の盲僧、淵脇了公がときの領主、島津忠良(日新公)の命を受けて、武士の士気向上のため、新たに教育的な歌詞の琵琶歌を作曲し、楽器を改良したのが始まりと言われる。それまで盲僧琵琶に用いられた琵琶を改造し、武士の倫理戦記合戦物を歌い上げる勇猛豪壮な演奏に向いた構造にしたものである。盲僧琵琶では柔らかな材を使うことが多かった胴部を硬い製に戻し、で叩き付ける打楽器的奏法を可能にした。撥は大型化し、杓文字型から扇子型へと形状も変化させた。これにより、楽器を立てて抱え、横に払う形で撥を扱うことができるようになった。江戸時代には『木崎ヶ原合戦』など合戦を語った曲が作られて流行し、やがて武士だけでなく町民にも広まった。こうして剛健な「士風琵琶」と優美な「町人琵琶」の2つの流れが成立する。江戸時代末期には池田甚兵衛が両派の美点を融合させて一流を成し、以降、これが薩摩琵琶として現在まで続いている。

薩摩藩出身者が力を持っていた明治時代には東京に進出し、富国強兵政策とも相まって各地に広まり、吉村岳城辻靖剛西幸吉吉水錦翁などの名手が輩出した。また明治天皇が終生愛好し、1881年明治14年)5月には、元薩摩藩主・島津忠義邸にて西幸吉が御前演奏をしたことから、社会的な評価がさらにあがり、のちには「筑前琵琶」とともに「宗家の琵琶節」は皇室向けにしか演奏しない「御止め芸」となった。

勇壮な楽曲と豪快な演奏で知られた薩摩琵琶も、東京で流行するなかでしだいに洗練されて都会化し、優美でデリケートな芸風をもつものも現れた[4]。そうしたなか、永田錦心が現れて、歌い方の改革がなされ、都会的で艶麗な曲風を特徴とする錦心流を打ち立てた[注釈 1]。また、錦心は謡曲の歌詞や曲節も取り込んだため、これが評判となりさらに全国に普及した。

昭和に入ると、錦心流から現れた水藤錦穣が筑前琵琶の音楽要素や三味線音楽の曲風を取り入れた「錦琵琶」を創始した。楽器も筑前琵琶を取り入れて五弦五柱を持つよう改良された。その後、錦心流から出た鶴田錦史が五弦五柱をさらに改良するとともに、音楽的にも新しい分野へ飛躍させた。それまで語りの伴奏として用いられてきた琵琶に器楽的要素を大きく取り入れ、語りを伴わない琵琶演奏、西洋楽器やこれまで協奏することのなかった他の和楽器との合奏、また錦心流を基礎とした琵琶歌の改良など斬新なアプローチを行ったのである。鶴田錦史の流れを汲むこの一派を「鶴田流」あるいは「鶴田派」と呼称し、近年、注目を浴びている。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 錦心流の登場により、従前の伝統的な薩摩琵琶は「薩摩琵琶正派」と称される。吉川(1990)p.48

参照[編集]

  1. ^ 吉川「語りもの」(1990)pp.42-43
  2. ^ 吉川「琵琶」(1990)pp.46-47
  3. ^ a b 吉川「琵琶」(1990)p.47
  4. ^ 吉川「琵琶」(1990)p.48

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]