コンテンツにスキップ

藤圭子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤 圭子
基本情報
出生名 阿部 純子
別名 藤 圭似子
Ra U(RA U)
生誕 (1951-07-05) 1951年7月5日 / 岩手県一関市
出身地 日本の旗 日本・北海道旭川市
死没 (2013-08-22) 2013年8月22日(62歳没)
日本の旗 日本・東京都新宿区
ジャンル 演歌・歌謡曲・ロック
職業 歌手
活動期間 1969年 - 1979年
1981年 - 1998年
レーベル RCAビクター
RVC
CBS・ソニー
リバスター音産
ポリドールレコード
クラウンレコード
センチュリーレコード
共同作業者 U3、石坂まさを、榎本襄

藤 圭子(ふじ けいこ、1951年〈昭和26年〉7月5日[1] - 2013年〈平成25年〉8月22日[2])は、日本の演歌歌手・俳優。本名は宇多田 純子(うただ じゅんこ)[3]。

夫は音楽プロデューサーの宇多田照實、娘はシンガーソングライターの宇多田ヒカル。元夫は歌手の前川清。実兄は1970年にデビューし、引退後飲食店などの経営を経て、2022年に復帰した演歌歌手の藤三郎。姪は三郎の長女で、父の活動再開と同時に歌手デビューした[4]。

1960年代末から1970年代初頭にかけ、夜の世界に生きる女の情感を描いた暗く哀切な楽曲(怨歌[注 1])をハスキーボイスで歌唱し、その可憐な風貌とのギャップも相まって一世を風靡した。代表曲は『新宿の女』『女のブルース』『圭子の夢は夜ひらく』『京都から博多まで』など。

来歴

[編集]

生い立ち

[編集]

浪曲師の父・松平国二郎こと阿部壮(つよし)[6]、同じく浪曲師であり曲師・瞽女[7]でもある寿々木澄子[8]こと母・阿部澄子(旧姓・竹山)[6]との間に3人きょうだい末子・阿部純子として誕生。生まれたのは父の出身地である岩手県一関市の県立磐井病院で、一家は当時巡業中で汽車の中で産気づいた[要出典]。

一家は純子の誕生まもなく母親の実家がある北海道名寄市へ渡る。道内・東北を中心に祭り・炭鉱・寺の御堂・旧家大広間などの旅回りの巡業をしながら細々と生計を立てていた。仕事のないときは、長女・富美恵に乳飲み子の純子を背負わせ、澄子は三味線を抱え、壮は長男・博(のちの歌手・藤三郎)の手を引き風呂敷包みを背負いながら一軒一軒農家を門付して廻り、一家は赤貧を洗うがごとき暮らしに明け暮れ、その日の糧にも事欠くほどの貧しい日々を送った[9]。純子が3歳ころから旭川で暮らした[10]。

小学校に入った後も転校を繰り返した。旭川市立大有小学校の担任は「在学証明書を一度に4~5枚も重ねて提出してきたことにまず驚かされた」と語る。一家はその日の食事に困るほど困窮していた[11]。旭川市旭町にあった住まいは、畳もなく床が剥き出しで、裸電球一つぶら下がる部屋であった。両親が巡業から戻るのが遅くなり、食費に困った幼い兄弟は納豆や豆腐を売り歩き日銭を稼ぐこともあったという[12]。

純子が小学校5年生の頃、北海道の演芸大会で壮と澄子の公演を予定していた所、壮が突如腹痛で舞台に出られなくなったため、澄子が楽屋でお手玉遊びをしていた純子を出演させ、畠山みどりの『出世街道』や美空ひばりのヒット曲を歌ったところ大反響となる[13]。その後、休日に両親の巡業に同行する。

5年生の夏に旭川市立神居小学校に転校。旭川市立神居中学校3年の夏まで過ごす。

中学3年生半ばで岩見沢市の温泉施設・きらく園に住み込みの専属の歌手として雇われ、一家は岩見沢に転居し、純子は「三条純子」の芸名で活動する[14]。純子は一家の稼ぎ頭となり、貧しかった暮らしは純子の収入によって次第に安定し、一家は借家を購入した[15]。

1967年2月に岩見沢市内で行われた雪祭り歌謡大会のステージで、東京から来るはずの歌手が来られなくなったことから急きょ代役として出場、北島三郎の『函館の女』を歌い居合わせた作曲家・八洲秀章がその才能を評価し両親に上京を勧めた。純子は勉強好きで成績優秀であったが、家計を支えるために高校進学を断念し[6]、買ったばかりの家を90万円で売り払い、北海道を後にした[16][注釈 1]。

上京、石坂まさをとの出会い

[編集]

中学の卒業式の日に両親と上京。荒川区西日暮里の六畳一間のアパートに住み[16]、八洲秀章のレッスンを受け、歌手「島純子」として『ホテル層雲小唄』『島牧音頭』『島牧小唄』『火まつり音頭』などを録音し、本人作詞による『男の仁義』をソノシート制作[要出典] (のちに作曲家の上條たけしの下に師事[17])。この時期純子は、蕎麦屋の店員や錦糸町や浅草などで母と流しをして生活した。純子は歌うために未成年にもかかわらず酒を飲むことを強いられたり、体を触られる、卑猥な言葉を投げかけられるなどのセクハラを受けることもあった。純子の姉と兄は定職に就くことなく、壮は朝からパチンコ三昧の日々を送っていた[16]。

1968年秋[18]、コーラスグループ・花菱エコーズのリードボーカル品川芳輝を通じ[17]、作詞家の澤ノ井龍二と知り合う。澤ノ井は純子の歌う『星の流れに』『カスバの女』を聴き、ドスの効いた声と人生の哀愁をにじませた退廃的な歌い方に圧倒され[19]、澤ノ井の慕う育ての母・千恵のお墨付きもあったことから純子をスカウトし、純子のデビューに音楽人生を賭けることとなる[17]。澤ノ井は純子のマネジメント業務や営業業務も担い、純子は澤ノ井の自宅に住み込み弟子となり[20]レッスンを受け、いくつかのレコード会社のオーディションを受ける。しかし、純子の持つ暗さが仇となり[21]、全て不合格。純子はボイストレーニングの他にも竹部バレエ団やドラムの学校にも通うようになった[22]。澤ノ井は、RCAレコードの当時のディレクター・榎本襄を紹介。純子の歌う『星の流れに』『カスバの女』を聴いた榎本襄も同じく圧倒され、コロムビア・レコードのデノンレーベルの内定の話が進んでいたところを断って自社からのデビューを強く勧めた[23]。

デビュー

[編集]

澤ノ井は東芝専属作詞家を辞し[24]、純子のプロダクションが決まらなかったため、澤ノ井が発起人となり独立プロダクション開業の出資を募り[25]、日本音楽放送社長の工藤宏を社長に据えた「藤プロダクション」を設立する[26]。純子は「藤圭子」、澤ノ井は「石坂まさを」に改名し[27]、1969年9月25日、RCAレコードよりシングル『新宿の女』でデビュー。キャッチコピーは「演歌の星を背負った宿命の少女」とした[28]。

藤は自宅では澄子と麻雀をし、手役をつくって上がると笑い転げる陽気な一面もあったが、歌手活動では演歌の陰鬱なイメージが崩れるとのことから[注釈 2]、歌手活動では笑うことを制止され、虚像のキャラクターを演じていた[29]。

デビュー曲『新宿の女』をヒットさせるべく、またプロモーション活動費が低予算であったことから、石坂と藤は営業に東奔西走した。時に石坂は違法である新宿駅大ガード下や、百貨店や駅ビルの女子トイレに忍びポスターを貼ったり[30]、スポーツ紙に「父親を殺したい」[31]「藤圭子、男湯に飛び込んで、アッ!」「藤圭子、マネージャーにヘリから吊るされる!」[32]などのショッキングな見出しで気を引かせる[33]こともあった。

一躍、スターダムへ

[編集]

石坂は、高度成長期に地方から都市に流れ込んできた多数の若者たちが都会の中で孤独を抱えながら彷徨っているのではないかと考え、「新宿25時間キャンペーン」と銘打って、藤を新宿の街頭に立たせた。美容院、喫茶店、レコード店、一杯飲み屋などに飛び込み営業をするなど藤と2人で地道な巡業を続け、午前2時に新宿コマ劇場前の噴水のある広場ですでに『新宿の女』を80回以上歌っていると、次第に黒山の人だかりが生じるようになった。 年末には念願のテレビ局の歌番組にも各局出演を果たした[34]。

1970年年明け、シングル『新宿の女』は売上30万枚を突破。1月3日、錦糸町の江東劇場で「藤圭子ショー」を開催し、藤はオープニングでドラムパフォーマンスと共に石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』を披露した。2月には『新宿の女』の売上は50万枚を突破[35]。同月発売の二枚目のシングル『女のブルース』はオリコンチャート初登場1位を記録した[36]。

3月にファーストLP『新宿の女/演歌の星 藤圭子のすべて』を発表すると、作家の五木寛之から

ここにあるのは「演歌」でも「援歌」でもない。これは正真正銘の「怨歌」である――[37]。
— 五木寛之

と紹介された。

LPからのシングルカット『圭子の夢は夜ひらく』も4月に発売されると、オリコン初登場1位を記録し、シングル『女のブルース』とともにヒットチャートの1位、2位を四十数週間独占した。同一歌手の曲が1位と2位を占めることは、歌謡曲史上かつてない快挙であった[38]。

しかし程なくして、父の壮が澄子とともに、アパート経営計画を口実に、石坂のもとに数千万単位の金銭を無心するようになる。石坂は藤プロダクションの工藤との話し合いの結果、工藤は藤の両親に3000万円を出資した。その後も壮がマンション設計を口実に工藤に800万円をせがんだことから、工藤は藤プロの経営にほとほと懲り、事業を退いた。その後石坂が「澤ノ井音楽事務所」を設立し、所属の藤1人に対し15人のスタッフを雇った[39]。壮と澄子は資金で世田谷区若林に4階建ての小さなマンションを建て、4階全部を両親の部屋にし、新品の調度品を揃え、くるぶしまで埋まりそうな絨毯を敷き詰めていた[39]。

1970年時点で、藤のレコード・カセットテープの総売上は概算61億円に上り[40]、同年に作った3月20日から7月27日付のシングルとアルバム双方18週連続同時1位という記録は、2026年時点でも誰にも破られていない[41]。ポスターは貼るそばから盗まれ、藤は殺人的スケジュールに追われた。宮崎市で行われた「藤圭子ショー」では、5~6000人の収容人数に対し、8000人ものファンが詰めかける事態となった。同年6月、石坂が結婚したことから藤はほどなく石坂の家を出て、東京厚生年金会館前のマンションに引っ越した[42]。

結婚・引退・渡米

[編集]

1971年6月、20歳の藤は当時ともに絶頂期であった内山田洋とクール・ファイブのボーカル・前川清と婚約。8月2日、前川の地元である長崎県佐世保市の教会で挙式を行った[43]。だが、大スター同士の結婚生活はすれ違いが重なり、翌1972年にスピード離婚となった。石坂は藤のマネージャーを退任し、後任は花菱エコーズのメンバーであった大川光久が担い手となった[44]。翌1973年、壮と澄子も離婚した[45]。

1974年、喉のポリープの手術を受けたことで、自身が強みと考えていた声の特徴が失われたと悩むようになり、引退を考え始める。

1975年2月、藤の申し出により石坂まさをの澤ノ井音楽事務所を退所。新栄プロダクションに移籍。

1979年10月17日、RCAレコード本社で引退の記者会見を開いた。1979年12月26日、新宿コマ劇場で引退公演を行ったのち、渡米する。

1981年7月29日に帰国。同年8月1日より「藤 圭似子」の芸名でニュージャパンプロダクションに所属し[46]、RCAレコードからCBSソニーに移籍し、第一弾となるシングル『螢火』を発表した。

再婚、出産

[編集]

1982年に、宇多田照實と再婚。以降、照實との間で7回の離婚・再婚を繰り返す。

1983年1月19日、ニューヨークにて、長女・光を出産。当時網膜色素変性症を発症し、視力が徐々に低下していたことから「我が子から光が失われないように」という願いを込め「光」(ひかる)と命名した[47]。その後、光を世界で通用する歌手に育てるため、1990年から照實とともに光を連れて初めて渡米、お金が足りなくなると日本に戻って歌い、お金が貯まるとまた渡米することを繰り返した。その際にはいくつかのテレビ番組にも顔を出しており、複数回出演した『THE夜もヒッパレ』(日本テレビ)では光とのエピソードを交えつつ、当時のヒット曲を歌唱している[48]。光デビュー直前の1997年まではテレビ出演を続けていた。

光は15歳となった1998年に宇多田ヒカルとして歌手デビューし、ファーストCDアルバム『First Love』はセールス枚数累積約770万枚、アルバムとしてオリコン史上歴代1位の売上記録として日本記録を樹立する社会現象を巻き起こし[49]、これを機に藤も再び注目を浴びた。しかし、光のデビューと入れ替わるように自身は歌手活動を封印、以降ほとんどステージで歌うことはなくなった。

死去

[編集]

2013年8月22日午前7時ごろ、都内で倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。衣服の乱れや争ったような跡がないことなどから、新宿警察署は自死と断定[50]。享年63(62歳没)。照實と光はそれぞれコメントを発表し、藤が1988年ごろから精神疾患を患っていたことを公表した[3]。なお、亡くなった8月22日の翌日は、同年3月に他界した石坂の関係者有志による「石坂まさをを偲ぶ会」が都内の会場で開かれる予定日であった(会は予定通り催された)[51]。

葬儀は遺言書に従って執り行わず家族のみの直葬とし[52]、遺灰は海に散骨された[53]。その後、藤の実家の阿部家側によって、ファン有志とともに「しのぶ会」が行われた。

年譜

[編集]
  • 1969年9月25日 -RCAビクターよりシングル『新宿の女』で歌手デビュー。
  • 1970年
    • 2月5日 - 2枚目のシングル『女のブルース』が発売され、オリコンシングルチャートにて3月30日から5月18日まで8週連続首位を記録する。
    • 3月5日 - 初アルバム(LP)『新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて』を発売。同年3月30日から8月10日の計20週に亘りオリコンアルバムチャート連続首位。
    • 4月25日 - 3枚目のシングル『圭子の夢は夜ひらく』が発売され、オリコンシングルチャートで5月25日から8月3日まで10週連続首位を獲得。シングル部門で『圭子の夢は夜ひらく』・『女のブルース』が5月25日、6月1日に1位と2位を独占。
    • 7月5日 - セカンドアルバム『女のブルース』発売。ファーストアルバム『新宿の女』と入れ替わるかたちで8月17日から12月7日まで17週連続首位を達成。
    • 10月15日 - 『圭子の夢は夜開く』で第3回日本作詩大賞特別賞受賞。
    • 11月9日 - 『圭子の夢は夜ひらく』で第1回日本歌謡大賞大賞を受賞。
    • 12月 - 6日、『命預けます』で第3回日本有線大賞・優秀スター賞を受賞。
    • 31日 - 第12回日本レコード大賞大衆賞を受賞。NHK紅白歌合戦に初出場。
    • 内山田洋とクール・ファイブとの混成アルバム『演歌の競演 清と圭子』発売(発売日データ不明)。アルバム『女のブルース』と交替で12月14日から翌1月11日まで5週連続首位となり、圭子のアルバム作品はこの年の3月30日から翌1971年1月11日までの通算42週連続首位を獲得する前人未踏の記録を樹立。また、3月30日から8月3日迄の19週間はシングル・アルバム両チャートにて首位を独占。この記録は、オリコンチャート開始から現在に至るまで、未だ誰にも破られていない[54]。
    • 同年受賞日不明 - 第3回日本レコードセールス賞受賞。
  • 1971年
    • - 1月8日、第8回 昭和45年(1970年)度ゴールデン・アロー賞大賞を演歌歌手としては初めて受賞。19歳での受賞は吉永小百合と同じ最年少記録。後年山口百恵が17歳で受賞し最年少記録を更新。だが石坂は藤に当日あえてスケジュールを入れ、藤を出席させず、石坂が藤にかわってトロフィーを受け取った[55]。
    • - 8月、前川清と結婚。 前川の地元である長崎県佐世保市俵町教会で挙式。
  • 1972年 - 8月、前川と離婚。離婚会見は12日に赤坂プリンスホテルで行われた。
  • 1974年 - 5月、喉の結節切除手術。
  • 1979年 - 5月、日本劇場にて「10周年記念リサイタル~圭子のすべて!」を開催。ステージにて前向きな意欲を語ったものの、10月突如「普通の女になりたい」と引退を表明。12月末引退。年明けアメリカに渡る。
  • 1980年 - アメリカ・ニューヨークに滞在。ライターの田家正子と3ヶ月共同生活を営む。またこの時、米国でコーディネーターをしていたミュージシャンの宇多田照實と出会う[56]。当時「コロンビア大学のジャーナリズム科に通う予定だった」と圭子は田家に話していた[57]。
  • 1981年 - 7月帰国。「藤圭似子」の名で芸能界に復帰。10月、ドラマ『新海峡物語』で主演を務める。同時にシングル『螢火』をリリース。
  • 1982年 - 照實と結婚(再婚)。
  • 1983年 - 長子・光(宇多田ヒカル)を出産。
  • 1984年 - 芸名を藤圭子に戻す。
  • 1988年 - このころから照實・光・澄子へ攻撃的な言動が見られるようになる。現実と妄想の区別が曖昧となり、自身の感情や行動のコントロールを失うことも見られるなど精神状態が悪化したと考えられている[58]。照實が通院を薦めるも拒絶。澄子とも被害妄想による金銭トラブルになるなど家族関係も悪化したとみられる[59]。
  • 1993年
    • 照實とともに有限会社ユースリー・ミュージックを資本金300万円で東京都杉並区に設立し、自らも取締役になる。
    • 照實と光の3人で音楽ユニット「U3」を結成してセンチュリーレコードと契約し、アルバム『STAR』を発表。
  • 2002年 - 照實・光と別居。ニューヨークを拠点に、気まぐれに世界中を旅する生活を最期まで営む。家族には時々電話をかけていた。
  • 2006年 - ニューヨークのケネディ国際空港にて約42万ドル(当時のレートで約4900万円)に上る多額の現金を没収される騒動を起こし、世界各国のカジノなどで5年の間に5億は使ったと述べている[60]。
  • 2007年 - 照實と最後の離婚[61]。以降、二度と再婚することはなかったが、照實と絶交することはなく、姓は宇多田のまま、本名は宇多田純子であった。
  • 2009年 - 2006年の米空港での42万ドル没収事件について、事件性がないとして全額返還された[62]。
  • 2010年 - 11月、澄子が肝癌にて80歳で逝去。
  • 2013年
    • 8月22日 - 逝去。享年62歳。遺言書はこの年のはじめにしたためられていた。また8月14日には、圭子から照實に電話をかけていた。照實は「この時は珍しく明るい口調で、元気そうな純子の声でした。約8分間、世間話を含め、お願いごとを何件か受け、了承し電話を切りました」と語った。本人の強い遺志により通夜・葬儀はなく、火葬のみ執り行った[63]。
    • 12月20日 - 第55回日本レコード大賞特別功労賞受賞[64]。

エピソード

[編集]
  • 少女時代は、コント55号の萩本欽一のファンであった[65]。
  • 「藤圭子」の芸名の由来は、石坂が日本音楽放送の工藤宏と縁が出来たことから、280万円を出資した工藤を社長に据え、藤プロダクションを設立したことに由来される。工藤の"藤"、工藤の妹の名である桂子の"圭"が採用されたかたちとなっている[66]。
  • 圭子の人物像について、光は「とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です」[67]、照實は「出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられましたが、心を病んでいるというよりも、類い稀な『気まぐれ』な人としか受け止めていませんでした。僕にとっては十分に対応出来る範囲と捉えていました」[67]と評している。
  • マスコミが「一卵性母娘」と名付けるほど母子仲がよかった。レコード歌手になろうとしたのも、母に楽をさせてあげて、不自由な目を治してあげられるかもしれないからだったという[68]。だが、1990年ごろに精神状態悪化からの金銭トラブルになり母とは絶縁状態となった[69]。
  • 生前、石坂に「アメリカ人になりたい」と話しており[70]、デビューしてから間もなく、熱心なファンのハーフの少女と友人になって英語の勉強を始めていた[69]。デビュー当時、マネージャーであった成田忠幸は、藤から「いつか、アメリカに行きたい」と聞かされており、藤はアメリカでロックを歌いたいのだろうなと感じたという[69]。1979年に引退する前、八代亜紀は藤から「アメリカに行って、ロックを歌うんだ」と聞かされている[71]。
  • 紅白出場に執着があった。1974年は落選を受けてダウンし、母親が医師に往診を頼んだほどである。結局それ以降1週間にわたって仕事をキャンセルしている[72]。
  • 娘の光を天才と信じ、知り合いの音楽関係者にことあるごとに光を売り込んでいた。その売り込みは光が9歳のとき、石坂まさをにも行われ、光がいかに天才歌手であるかを力説していた[69]。同じころ、藤がデビュー前に世話になった初代林家三平の妻である海老名香葉子のもとにも訪れ、光の歌を吹き込んだデモテープを聴かせている[69]。
  • 他の歌手のヒット曲も幅広くカバーしている。『うそ』をカバーされた中条きよしは「こんなにうまく歌われたらたまんないよ」と作曲者の平尾昌晃に伝えた[73]。
  • 大の虫嫌いで虫全部が嫌いだと述べている[74]。光が子供のころ、いたずらで体中にセミの抜け殻をまとって帰宅したところ、それを見た藤が卒倒してしまったという[75]。
  • 宇多田家の自宅には、藤の蒐集したビートルズ・T・レックス・シャーデーなどのCDが並んでおり、光が11~12歳の頃はヒップホップに熱中した。ドクター・ドレーの『The Chronic』とスヌープ・ドッグの『Doggystyle』を光とともに愛聴し、ヒップホップのダンス教室でレッスンを受け、「この曲のキックドラムが凄い」「ノリが、グルーヴがどうだ」など語っていたという[76]。また1999年、宇多田ヒカルのシングル『Automatic』がエンディング曲となっていたフジテレビ系列のバラエティ番組『笑う犬の生活』を、家族3人で大笑いしながら観ていると光が同番組へEメールで報告していた[77][78]。
  • 沢木耕太郎 が1979年の引退を前に藤圭子にインタビューした著書『流星ひとつ』(2013年)のあとがきで「水晶のように硬質で透明な精神。美しかったのは「容姿」だけではなかった。「心」のこのようにまっすぐな人を私は知らない。まさに火の酒のように、透明な烈しさが清潔に匂っていた」と語った。
  • 2016年発売の宇多田ヒカルの8枚目アルバム『Fantôme』は、光が逝去した藤へ「母に捧げるアルバム」であると語っている[79]。

音楽

[編集]

シングル

[編集]
#発売日A/B面タイトル作詞作曲編曲オリコン
最高順位
規格品番
RCA/日本ビクター→ビクター音楽産業→RVC
1 1969年
9月25日
A面新宿の女石坂まさを
みずの稔
石坂まさを小谷充 9位 JRT-1037
B面生命ぎりぎり 石坂まさを池田孝
2 1970年
2月5日
A面女のブルース 石坂まさを猪俣公章成田征英 1位 JRT-1057
B面あなた任せのブルース森川登池田孝
3 1970年
4月25日
A面圭子の夢は夜ひらく曽根幸明 原田良一 1位 JRT-1077
B面東京流れもの不詳
4 1970年
7月25日
A面命預けます 石坂まさを曽根幸明 3位 JRT-1097
B面ネオン街の女池田孝
5 1970年
10月25日
A面女は恋に生きてゆく 7位 JRT-1117
B面盛り場数え唄石坂まさを中村泰士原田良一
6 1971年
2月5日
A面さいはての女彩木雅夫 池田孝 8位 JRT-1137
B面東京花ものがたり 石坂まさを
7 1971年
5月5日
A面恋仁義 石坂まさを 曽根幸明 21位 JRT-1167
B面涙ひとしずく野々卓也池田孝
8 1971年
6月5日
A面みちのく小唄 23位 JRT-5
B面会津磐梯山 不詳
9 1971年
7月5日
A面愛の巡礼浅木しゅん石坂まさを高田弘 44位 JRT-1177
B面圭子の三度笠 石坂まさを池田孝
10 1971年
10月25日
A面知らない町で 石坂まさを 曽根幸明 46位 JRT-1197
B面圭子の網走番外地不詳池田孝
11 1972年
1月25日
A面京都から博多まで 阿久悠 猪俣公章 20位 JRT-1207
B面街の子竹村次郎
12 1972年
5月25日
A面別れの旅池田孝 14位 JRT-1237
B面哀別石坂まさを中村泰士馬飼野俊一
13 1972年
9月25日
A面花は流れて 鈴木邦彦 池田孝 19位 JRT-1257
B面遊侠の人
14 1972年
12月5日
A面悲しみの町浜圭介 竜崎孝路 JRT-1267
B面白い坂道が見える窓野々卓也
15 1973年
3月25日
A面明日から私は山上路夫 鈴木邦彦 21位 JRT-1277
B面別れ道石坂まさを
16 1973年
7月25日
A面花小唄 野々卓也 池多孝春 JRT-18
B面新東京小唄神坂薫
17 1973年
8月25日
A面遍歴 石坂まさを曽根幸明 50位 JRT-1297
B面愛の孤独たつみりょう馬飼野俊一
18 1973年
11月5日
A面恋の雪割草山口洋子猪俣公章竹村次郎 41位 JRT-1327
B面御用牙石坂まさを 曽根幸明
19 1974年
4月5日
A面京都ブルース なかにし礼 馬飼野康二 JRT-1337
B面女の人生
20 1974年
6月5日
A面火の国小唄石坂まさを野々卓也池多孝春 JRT-21
B面萩の女はぞのなな森山慎也竜崎孝路
21 1974年
7月5日
A面私は京都へ帰ります山口洋子猪俣公章池多孝春 JRT-1357
B面雨の仙台石坂まさをたつみりょう馬飼野俊一
22 1974年
9月5日
A面命火 石坂まさを小杉仁三 34位 JRT-1377
B面夜のブルース原田良一
23 1975年
1月25日
A面あなたの噂山口洋子猪俣公章竹村次郎 JRT-1397
B面銀座のお恵ちゃん石坂まさを三条ひろし長作幸男
24 1975年
4月25日
A面生きてるだけの女浜岡幸賀川幸生小山恭弘 JRT-1417
B面さすらい花石坂まさを岡千秋小谷充
25 1975年
9月25日
A面さすらいよしかわかおり 遠藤実 斉藤恒夫 JRT-1447
B面風子二十四不幸せ島田幸一
26 1975年
11月5日
A面はしご酒はぞのなな赤坂通小山恭弘 43位 JRT-1457
B面裏町流し唄石坂まさを岡千秋佐藤まさと
27 1976年
4月25日
A面女だから 小谷夏 中村泰士 馬飼野俊一 RVS-1007
B面あなたはもう他人
28 1976年
8月25日
A面聞いて下さい私の人生 六本木哲池多孝春 RVS-1027
B面薄化粧石坂まさを若林いさむ竜崎孝路
29 1977年
2月5日
A面哀愁酒場 平尾昌晃 竜崎孝路 RVS-1047
B面あなたへの未練山田孝雄
30 1977年
6月25日
A面貴方ひとすじ 石坂まさを若林いさむ 池多孝春 RVS-1077
B面新宿エレジー上條たけし
31 1977年
11月5日
A面面影平野 阿木燿子 宇崎竜童 馬飼野俊一 RVS-1107
B面圭子のドンデン節
32 1978年
5月
A面銀座流れ唄 大村雅朗 RVS-1127
B面猫と女
33 1978年
10月
A面酔い酔い酒場 小山恭弘 RVS-1148
B面女文字
34 1979年
3月
A面北の港町 遠藤実斉藤恒夫 RVS-1167
B面わくらばの宿一条貴之岡千秋池多孝春
35 1979年
9月21日
A面可愛い女 中山大三郎 船村徹 栗田俊夫 RVS-1197
B面赤ちょうちんブルース
CBS・ソニー
36 1981年
10月1日
A面螢火[注 2]阿木燿子三島大輔 若草恵 07SH-1057
B面恋狂い一文字まこと森川範一
ロリーポップ
37 1984年
7月
A面あいつが悪い[注 3]伊藤アキラ 浜圭介 桜庭伸幸 a-15267
B面(カラオケ)-
リバスター
38 1984年
10月
A面蝶よ花よと鳥井実西谷翔池多孝春 7RC-0037
B面酒の駅荒川利夫立木達也南郷達也
ポリドール
39 1986年
6月25日
A面東京迷路[注 4]浅木しゅん 杉本真人 松井忠重 7DX-1436
B面(カラオケ)-
40 1987年
2月25日
A面新宿挽歌なかにし礼船村徹丸山雅仁 7DX-1471
B面北国流れ旅八坂こうじ武田芳美斉藤恒夫
41 1988年
3月25日
A面旅路 星野哲郎 北原じゅん 馬場良 7DX-1547
B面群馬慕色
42 1989年
2月25日
A面新地の雨[注 5]桂三枝 美波有 桜庭伸幸 7DX-1591 (EP)
H10P-40012 (CD)
B面浪花の女藤田まさたか
センチュリーレコード
43 1994年
4月21日
01酒に酔うほどRa U[注 6]Ra U
Sking U
平岩嘉信 CEDC-10390
02婚約解消 Ra U
日本クラウン
44 1996年
8月21日
01天国 荒木とよひさ 三木たかし 若草恵 CRDN-341
02献身
45 1996年
9月25日
01冷たい月[注 7] Ra U & Sking U 宮川彬良 CRDN-347
02ゴールデン・エラ[注 8]
46 1996年
10月23日
01千年のかがり火 曲保 曽根幸明 CRDN-2011
02MY FRIENDS
47 1997年
10月22日
01男と女 Ra U Ra U
Sking U
Como-Lee CRDN-511
02抱いて…
スバック
48 2014年
2月13日
01母子舟[注 9] 石坂まさを 平尾昌晃 竜崎孝路 SVCA-241
02恋して母は

アルバム

[編集]

オリジナル・アルバム

[編集]
発売日 規格 規格品番 アルバム
RCA
1970年3月5日 LP JRS-7067 新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて
1970年7月5日 LP JRS-7087 女のブルース
1971年3月5日 LP JRS-7117 さいはての女
1971年7月5日 LP JRS-7137 圭子の人生劇場
1971年12月25日 LP JRS-7174 圭子のわらべ唄
LP JRS-7177 知らない町で
1972年6月25日 LP JRS-7194 別れの旅
1972年12月5日 LP JRS-7221 遠くへ行きたい/「演歌の旅」
1973年2月25日 LP JRS-7237 悲しみの町
1973年6月 LP JRS-7251 演歌の旅 緋牡丹博徒
1973年9月 LP JRS-7277 遍歴/明日から私は
1974年2月 LP JRX-14 女のブルース/藤圭子ブルースを唄う
1974年4月 LP JRS-7303 京都ブルース
1974年7月 LP JRS-7321 夜とあなたが
1974年9月 LP JRS-7327 圭子のにっぽんひとりあるき
1974年10月 LP JRX-16 藤圭子演歌の世界
LP JRS-7328 命火
1975年3月 LP JRS-7347 あなたの噂
1975年6月 LP JRS-7356 生きてるだけの女
1976年6月 LP RVH-7017 女だから
1976年12月 LP RVL-7081 南国土佐を後にして
LP RVL-7082 明治一代女
LP R4J-7037 緋牡丹博徒
LP RVL-7084 霧の摩周湖
LP RVL-7085 女の意地
LP RVL-7086 黒い花びら
1977年4月 LP RVL-7020 哀愁酒場
1977年7月 LP RVL-7024 貴方ひとすじ
1977年12月5日 LP RVL-7041 面影平野
CBS・ソニー
1981年11月 LP 28AH-1374 螢火-右・左-
リバスターレコード
1984年11月 LP 28RL-0012 蝶よ花よと

ライブ・アルバム

[編集]
発売日 規格 規格品番 アルバム
RCA
1970年12月5日 LP JRS-9039/40 歌いつがれて25年 藤圭子演歌を歌う

※ 1970年10月23日 渋谷公会堂ライブ

※ オリコン2位獲得

1971年10月5日 LP JRS-7157 藤圭子リサイタル

※ 1971年7月5日 サンケイホール ライブ

LP JRD-3014 圭子の網走番外地/藤圭子のミニ・リサイタル
1972年5月25日 LP R4J-7010 藤圭子オン・ステージ

※ 1970年発売の渋谷公会堂ライブの一部を4チャンネルステレオ化

1976年11月5日 LP RVL-2001/2 聞いて下さい私の人生/デビュー七周年記念 藤圭子リサイタル

※ 1976年9月24日 新宿コマ劇場ライブ

1978年5月 LP RVL-7045 ビッグ・ショー演歌・浪曲・おんなの涙

※ 1978年2月26日『NHKビック・ショー』ライブ

1980年2月21日 LP RVL-2079 さよなら藤圭子

※ 1979年12月26日 新宿コマ劇場 さよなら公演ライブ

ベスト・アルバム

[編集]
発売日 レーベル 規格 規格品番 アルバム
1972年 RCA LP JRS-9123/24 藤圭子ベスト24
1973年 RCA LP JRX-10 オリジナル・ゴールデン・ヒット曲集
RCA LP RHL-3007 ベスト28
1974年 RCA LP JRX-32 ゴールデン・ヒット・デラックス
1976年 RCA LP RVL-7055 藤圭子≪第1集≫
1976年 RCA LP RVL-10002 ゴールデン・ヒット・デラックス16
1976年 RCA LP RVL-10029 スター・ベスト・ヒット・エッセンス
1977年 RCA LP RVL-2019/20 藤圭子スペシャル
RCA LP JRS-9095/6 豪華版 藤圭子 第1集
RCA LP JRS-9237/8 藤圭子大全集 ダブル・デラックス
RCA LP JRX-8021/2 ビッグヒット20
1978年 RCA LP RVL-10026 マイ・セレクション 藤圭子※ 藤が自ら選曲したベストアルバム。
1980年 RCA LP RHL-3007 スーパー・ツイン藤圭子
1999年5月21日 BMG JAPAN CD BVCK-37032 圭子の夢は夜ひらく 藤圭子 HIT COLLECTION
CD BVCK-37033 藤圭子 POPS COLLECTION
1999年10月21日 CD BVCK-37046 藤圭子 伝説の名曲
2005年10月26日 Sony Music Direct CD BVCK-38110 GOLDEN☆BEST 藤圭子
2005年12月11日 エー・アール・シー CD ASB-1027 スーパーベスト
2010年12月8日 GT music CD MHCL-1825 GOLDEN☆BEST 藤圭子 ヒット&カバーコレクション 艶歌と縁歌
2012年9月1日 CSレコード CD DQCL-2101 藤圭子 ベスト・ヒット
CSレコード CD DQCL-6001 藤圭子 スーパー・ヒット
2012年11月1日 CSレコード CD DQCL-2112 藤圭子 ベスト・ヒット 昭和歌謡を歌う
CSレコード CD DQCL-6012 藤圭子 スーパー・ヒット 昭和歌謡を歌う
2013年9月30日 ニュー
センチュリー
レコード
CD NCCR-130930 宇多田純子さん安らかに

企画アルバム

[編集]
発売日 レーベル 規格 規格品番 アルバム
1970年12月 RCA LP JRS-7100 演歌の競演 清と圭子

※ 前川清と藤圭子の代表曲を片面ずつ収録したアルバム。

1978年12月20日 RCA LP RVL-7207 歌謡劇場
  • 第一幕:「歌謡浪曲」
  • 第二幕:NHK-FM「歌謡ドラマ/圭子の夢は夜ひらく」

で構成されたアルバム。

1979年5月 RCA LP RVL-7220 10周年記念 涙唱!藤圭子 船村徹・遠藤実作品集
1973年12月5日 RCA LP JRS-9221/8 演歌全集8枚組
  • 『故郷/艶姿』
  • 『任侠/港灯』
  • 『憂愁/恋心』
  • 『巷歌/出発』

と分冊でも発売

1993年9月17日 センチュリー CD CECC-10307 STAR

※ 「U3」(RA U(藤圭子)、SKING U(宇多田照實)、H。IKASO U(宇多田ヒカル)らが1990年に家族3人で結成した音楽ユニット)で発表したアルバム。

2000年12月20日 BMG JAPAN CD BVCK-37085 聞いて下さい私の人生〜藤圭子コレクション(通販限定・6枚組CD-BOX)
  • 『シングル・コレクション1』
  • 『シングル・コレクション2』
  • 『ブルース』
  • 『怨歌・任侠・さすらい』
  • 『昭和の名曲』
  • 『リサイタル』

合計101曲収録。

2005年9月21日 BMG JAPAN CD 藤圭子 コンプリート・シングル・コレクション 〜15年の輝石〜(通販限定・6枚組CD-BOX)
  • 『シングル・コレクション1969~1971』
  • 『〃1971~1973』
  • 『〃1974~1976』
  • 『〃1976~1984』
  • 『任侠・股旅&80'S歌謡』
  • 『大正~昭和名曲集』
  • RCA時代のシングル盤A面B面全曲他 合計109曲収録。
2010年11月1日 CSレコード CD DYCL-1695 藤圭子 艶・怨・演歌(通販限定・5枚組CD-BOX)
  • 『オリジナルを歌う』
  • 『男の情を歌う』
  • 『女心を歌う』
  • 『人生・昭和を歌う』
  • 『ふるさと・叙情を歌う』

の五つのテーマで構成されている。

自身のヒット曲22曲に加え、男性歌手の曲や抒情歌などカバー曲を86曲、合計108曲収録。

2016年10月19日 Sony Music CD 藤圭子劇場(通販限定・6枚組CD-BOX)
  • 『歌いつがれて25年 藤圭子演歌を歌う』
  • 『藤圭子リサイタル』
  • 『聞いて下さい私の人生』
  • 『さよなら藤圭子-1』
  • 『さよなら藤圭子-2』(同タイトルLPのリマスタリング)
  • 『ディレクターズ・セレクション』(榎本襄選曲によるスタジオ録音8曲)

合計110曲を収録。

付録の小冊子には、デビューから引退までの10年間担当だった元RCAディレクター榎本襄のインタビューも掲載。

2016年11月15日 CSレコード CD DYCL-3291

CMソング

[編集]

NHK紅白歌合戦出場歴

[編集]
年度/放送回回曲目出演順対戦相手備考
1970年(昭和45年)/第21回初圭子の夢は夜ひらく13/24西郷輝彦
1971年(昭和46年)/第22回2みちのく小唄09/25舟木一夫内山田洋とクール・ファイブのメインボーカル代理として

『港の別れ唄』も歌唱[注 11]

1972年(昭和47年)/第23回3京都から博多まで13/23美川憲一
1975年(昭和50年)/第26回4さすらい03/24堺正章
1976年(昭和51年)/第27回5はしご酒15/24殿さまキングス

(注意点)

  • 対戦相手の歌手名の( )内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。

主な出演作

[編集]

映画

[編集]

舞台

[編集]

テレビ番組

[編集]

書籍

[編集]
タイトル 著者 出版年月 出版社 備考
演歌の星 藤圭子物語藤圭子1971年7月10日ルック社絶版
宇多田ヒカル 母娘物語石坂まさを1999年11月1日ゴマブックス絶版
きずな 藤圭子と私石坂まさを2013年10月10日文藝春秋1999年刊行『きずな』の再発売 現在は電子版が入手可能
流星ひとつ沢木耕太郎2013年10月11日新潮社
藤圭子 追悼 夜ひらく夢の終わりに編集:阿部晴政2013年10月29日河出書房新社KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 藤圭子
悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾大下英治2013年11月1日イースト・プレス
怨歌の誕生五木寛之2013年12月12日双葉社表題作は1970年6月7日付毎日新聞日曜版エッセイ

『艶歌と援歌と怨歌』に加筆[注 12]。現在は電子版が入手可能

漫画

[編集]

アニメ

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ↑ 五木寛之による表現[5]。
  2. ↑ 藤圭似子名義。
  3. ↑ 圭子名義。
  4. ↑ ホース音楽出版から発売された自主制作盤も存在する(規格品番:a-18222)。
  5. ↑ 桂三枝とのデュエット。
  6. ↑ 藤のペンネーム。
  7. ↑ 藤圭子 with cubic U名義(宇多田ヒカルとのデュエット)。
  8. ↑ 1999年5月5日に、本楽曲とそのカラオケ版の2曲を収録したシングルCDが発売された(規格品番:CRDP-214)。
  9. ↑ 1984年ごろに録音された未発表曲2曲を収録したシングルCD[80]。
  10. ↑ 灘五郷(西宮)震災後酒造部門廃業。
  11. ↑ 当時の夫であった内山田洋とクール・ファイブメインボーカル前川清が急病でダウンしたため。内山田洋とクール・ファイブの出番自体はフォーリーブスに振り替えられたが、『港の別れ唄』は藤がメインボーカルを担当し残りのメンバーがバックコーラスを務める形で歌われた。
  12. ↑ 初出:オール讀物(文藝春秋)1970年10月、1971年『 四月の海賊たち』で単行本化。

出典

[編集]
  1. ↑ 『藤圭子』河出書房新社、2013年10月30日、2頁。ISBN 9784309978147。
  2. ↑ 『藤圭子』河出書房新社、2013年10月30日、7頁。ISBN 9784309978147。
  3. 1 2 Hikki's WEBSITE (2013年9月5日). “09.05(THU) 09:44 藤圭子を長年応援してくださった皆様へ”. 2013年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月5日閲覧。
  4. ↑ 藤圭子のめいが演歌デビュー 本人は「叔母さんにはかなわない」「(宇多田)ヒカルちゃんもすごい」 - デイリー新潮、2022年8月29日配信。
  5. ↑ “「藤圭子の衝撃、まちがいなく怨歌」五木寛之さん”. 朝日新聞デジタル. 2013年8月22日. 2014年7月26日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2019年3月20日閲覧.
  6. 1 2 3 “宇多田の祖母逝く…娘、孫との再会の願いかなわず”. Sponichi Annex (日本語). 2010年11月6日. 2010年11月7日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2014年8月23日閲覧. {{cite news}}: |work=、|newspaper=引数が重複しています。 (説明); 不明な引数|1=が空白で指定されています。 (説明)CS1メンテナンス: 認識できない言語 (カテゴリ)
  7. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、11頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  8. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、12頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  9. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、13頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  10. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、14頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  11. ↑ “藤圭子さん“怨歌”体現!不世出の歌手”. 神戸新聞NEXT. 2013年8月22日. 2025年1月17日閲覧.
  12. ↑ “藤圭子さん、旭川で過ごした少女時代の光と影”. 株式会社北海道経済 (2013年9月19日). 2023年3月20日閲覧。
  13. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、14-15頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  14. ↑ ““怨歌”伝説に翻弄された宿命の歌手・藤圭子 「子どものころから歌が好きと思ったことは一度もなかった」”. 株式会社 朝日新聞出版 (2023年5月7日). 2026年10月6日閲覧。
  15. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、16頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  16. 1 2 3 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、16-17頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  17. 1 2 3 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、116頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  18. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、112頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  19. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、8-9頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  20. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、116頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  21. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、117頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  22. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、119頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  23. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、122-123頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  24. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、118頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  25. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、127頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  26. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、136頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  27. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、126頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  28. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、131頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  29. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、143-144頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  30. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、150頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  31. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、147-148頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  32. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、156頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  33. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、147-148頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  34. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、159-161頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  35. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、161頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  36. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、162頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  37. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、165頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  38. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、166頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  39. 1 2 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、168頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  40. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、170頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  41. ↑ “今年、令和6年(2024年)9月25日、デビュー55周年を迎えることになりました。”. 株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント (2024年9月25日). 2026年10月7日閲覧。
  42. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、174頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  43. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、179-180頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  44. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、181頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  45. ↑ 『週刊プレイボーイ』1973年6月19日号
  46. ↑ “東京地方裁判所 昭和57年(ワ)5969号 判決 - 大判例 with 政治団体オープンサイエンス”. daihanrei.com. 2022年7月19日閲覧。
  47. ↑ 視力低下の病に悩んだ藤圭子「光が失われないで」と娘を命名 NEWSポストセブン 2013年9月6日
  48. ↑ 藤圭子さんが音楽番組で踊ったステップ。デビュー前の宇多田ヒカルが教えていた。 TechinsightJapan編集部 真紀和泉 2013年9月1日
  49. ↑ “【オリコン平成ランキング】平成No.1のヒットアルバムは宇多田ヒカル『First Love』 700万枚超え歴代最高売上枚数”. オリコン株式会社 (2019年4月11日). 2026年10月7日閲覧。
  50. ↑ “藤圭子さん飛び降り自殺 数年前「話す人いなくて寂しい」”. スポニチ. 2023年8月2日閲覧。
  51. ↑ “藤圭子さん“葬儀なし”の怪 「偲ぶ会だけでも…」の声も”. ZAKZAK. 2026年4月25日閲覧。
  52. ↑ 藤圭子さんの遺言書あった…宇多田が明かす「母らしい遺言書」 スポニチ 2013年9月5日
  53. ↑ 宇多田ヒカル、散骨した藤圭子さん偲ぶ デイリースポーツ online 2016年3月21日
  54. ↑ “BARKS 藤圭子の歴史は、誰にも破られていない伝説の歴史”. ジャパンミュージックネットワーク株式会社 (2013年11月26日). 2023年3月23日閲覧。
  55. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、170頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  56. ↑ “NEWSポストセブン 藤圭子さん 米国滞在時、愛車に乗り家族3人で7年間地方旅行”. 小学館 (2013年8月31日). 2023年3月21日閲覧。
  57. ↑ “藤圭子がニューヨークで待っていた作家・沢木耕太郎!引退インタビューきっかけに接近”. J-CASTニュース (2013年10月25日). 2020年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月21日閲覧。
  58. ↑ “MESSAGE from Hikki”. 宇多田ヒカル (2013年9月5日). 2023年3月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月21日閲覧。
  59. ↑ “宇多田照実氏のコメント全文/藤さん悼む”. 日刊スポーツ (2013年8月27日). 2023年3月21日閲覧。
  60. ↑ MSN産経ニュース (2009年1月28日). “藤圭子さんに42万ドル返還へ 米空港で06年差し押さえ”. 2009年1月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年1月29日閲覧。
  61. ↑ “藤圭子、宇多田照實氏と“離婚7回”の理由 〈週刊アサヒ芸能 2013年 9/5号〉”. Asagei Plus. 徳間書店. 2015年7月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月20日閲覧。
  62. ↑ MSN産経ニュース (2009年1月28日). “藤圭子さんに42万ドル返還へ 米空港で06年差し押さえ”. 2009年1月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年1月29日閲覧。
  63. ↑ “MESSAGE from Hikki”. 宇多田ヒカル・宇多田照實 (2013年8月26日). 2013年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月21日閲覧。
  64. ↑ “第55回日本レコード大賞”. 公益社団法人 日本作曲家協会 (2013年12月30日). 2026年10月10日閲覧。
  65. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、118頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  66. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、127頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  67. 1 2 “8月22日の朝”. 株式会社ソニー・ミュージックレーベルズ (2013年8月26日). 2026年10月6日閲覧。
  68. ↑ 1971年3月発行 月刊平凡 圭子の自叙伝 第2回
  69. 1 2 3 4 5 大下英治著「悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾」 イースト・プレス[要文献特定詳細情報]
  70. ↑ 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋、2013年10月10日、204頁。ISBN 978-4-16-376900-4。
  71. ↑ “「姉」が藤圭子さんのママぶりを振り返る 〈週刊朝日〉”. AERA dot. (アエラドット). 朝日新聞出版. 2019年3月20日閲覧。
  72. ↑ 1974年12月発行 週刊明星 紅白落選に呆然 大ショック 藤圭子が突然発病、ダウン!
  73. ↑ Asagei+plus 藤圭子、デビュー時のインパクトは宇多田ヒカルを超えていた 2018年12月26日閲覧
  74. ↑ 沢木耕太郎『流星ひとつ』新潮社、2013年10月。ISBN 978-4103275169。 [要ページ番号]
  75. ↑ utadahikaruのポスト(217777656861687810)
  76. ↑ “<完全版インタビュー Part.1>時代、そして自分自身と向き合いながら。ポップミュージックの最前線を更新し続ける、2020年代の宇多田ヒカル”. ビルボード・ジャパン (2021年6月2日). 2023年3月23日閲覧。
  77. ↑ フジテレビ系列『笑う犬の生活』1999年3月3日
  78. ↑ “宇多田ヒカルがテレビにあらわれた!”. 世紀末アラウンド (2024年4月20日). 2026年10月10日閲覧。
  79. ↑ NHK総合『SONGSスペシャル 宇多田ヒカル』2016年9月22日放送
  80. ↑ Sponichi Annex 2013年12月21日付
  81. ↑ “くだん書房:目録:マンガ:雑誌:集英社:りぼん”. www.kudan.jp. 2024年10月20日閲覧。

外部リンク

[編集]
  1. ↑ 1967年3月、北海道の岩見沢市立栄中学校(1983年閉校)を卒業
  2. ↑ また、歯が大きいこともあり笑顔が強調されやすい一面もあった
引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注釈"/> タグが見つかりません