吉田奈良丸
初代
[編集]吉田奈良丸(後の竹廼家養徳斎)(1851年 - 1915年1月1日)本名は竹谷 奈良吉。
大和の国広瀬郡百済村(現在の奈良県広陵町)の生まれ、幼少から芸事が好きで吉田音丸に入門し吉田奈良丸を名乗る。晩年は弟子の育成に力を注いだりネタの改作に力を注いだ。1902年には「奈良丸」の名を弟子小奈良に譲り、自らは竹廼家養徳斎を名乗った。
2代目
[編集]吉田奈良丸(後の吉田大和之丞)(1879年7月27日 - 1967年1月20日)本名は広橋 広吉。
奈良県下市生まれ、父は花川力山という祭文語りの名人。16歳で父の元で節の猛特訓を受ける。1893年に初代に入門し吉田小奈良、1902年に奈良丸を襲名。明治末期から大正にかけての桃中軒雲右衛門、初代京山小円と共に人気を三分した。雲右衛門の影響を受け、義士伝(忠臣蔵)物を多くかけるようになり、得意にする。1910年発売の「赤穂義士伝」のレコードは20万枚を売り[1]、1912年時点でのレコードの総売上は50万枚に達したといわれる[2]。後に流行する俗曲「奈良丸くずし」は奈良丸の「大高源吾」の流麗な節調を真似たものである[3]。1917年には渡米も果たす。1929年に弟子に奈良丸を譲り吉田大和之丞を名乗った。1921年には募金集って大石神社を建立。そのほかにも、京阪神を中心に東京などにも多くの寄席を経営し、財を成す。墓所は岸和田共同墓地。妹は吉田元女、妻は初代春野百合子(後に離婚)、実の子に2代目百合子、春野百合若(廃業)孫は吉田奈良丸嬢(廃業)がいる。弟子も吉田奈良秀、吉田奈良重、吉田宗右衛門、吉田桃太郎、吉田福若、吉田奈良衛、吉田奈良三、吉田奈良男、吉田美芳、吉田広若など100人近くいたといわれ最後の弟子は吉田朝日だといわれる。
3代目
[編集]吉田奈良丸(1898年11月6日 - 1978年11月12日)本名は炭田 嘉一郎。
和歌山県海草郡生まれ、小学校の頃から天狗連で活躍。12歳で2代目に入門、最初は四つ目と名乗り、翌年に吉田松若、14歳で真打昇進し初代吉田一若と改名、1929年に奈良丸を襲名。
師匠譲りの「義経堅田落ち~勧進帳」「安宅の関~勧進帳」などを得意とした。他に行友李風の「幻滅の忠治」や坪内博士の「桐一葉」等の新作もこなした。1970年6月に浅草国際劇場の浪曲大会で引退。
弟子に2代目一若がいた。
4代目
[編集]吉田奈良丸(1921年7月17日 - 2000年11月)本名は吉田 義明。
奈良県磯城郡生まれ、1931年に3代目に入門し茶良丸、同年札幌市で初舞台。一時戦争で召集され中断、戦後復員後復帰し1948年に吉田三笠と改名、1970年に奈良丸を襲名したが1974年に脳溢血で倒れ身体に障害を患う。リハビリで復帰したが思う様に活動できず弟子に奈良丸を譲った。1972年に大阪府社会教育功労賞受賞。晩年は浪曲親友協会相談役。
5代目
[編集]吉田奈良丸(1945年11月20日 - )本名は西川 幹彦。故人。
1970年に4代目(当時は吉田三笠)に入門し吉田若笠を名乗り翌年1971年に「矢頭右衛門七」で初高座、1996年に奈良丸を襲名。息子はピアニストの西川悟平。
脚注
[編集]- ^ 『大阪毎日新聞』1915年3月13日(倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍(東書選書 124)、1992年、65頁。ISBN 4-487-72224-1)。
- ^ 『東京朝日新聞』1912年5月5日(倉田喜弘『日本レコード文化史』66頁)。
- ^ 北川純子「浪花節の「家」による様式をめぐって : 《奈良丸くずし》は何をくずしたのか」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006225003
参考文献
[編集]- 倉田喜弘、林淑姫共著『近代日本芸能年表 附・付属資料/索引 全2巻』ゆまに書房、2013年。ISBN 9784843341407