赤穂事件

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赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で、高家吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央[注釈 1]に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討った事件を指すものである(「江戸城での刃傷」と「吉良邸討ち入り」を分けて扱い、後者を『元禄赤穂事件」としている場合もある)。

概要[編集]

名称に関して[編集]

史実としての本事件を指す用語としては、「赤穂事件」で統一されている[1]。一方で、歴代の赤穂藩主時代の家中において発生した事件との混同を避けるため、池田家において藩主池田輝興が狂乱し正室などを殺した「正保赤穂事件」、森家において攘夷派が藩政を私物化した家老の森主税を暗殺するという「文久赤穂事件」と区別をつけて「元禄赤穂事件」とも呼ばれる。

また赤穂事件を扱った創作物は、人形浄瑠璃歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』以降、本事件を忠臣蔵と呼ぶことが多い。講談では赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。

吉良を討ち取った47人(四十七士)の行為を賞賛する立場からは、四十七士のことを赤穂義士(あるいは単に義士)と呼ぶ。それ以外の立場に立つ場合は、四十七士を含めた赤穂藩の浪人を赤穂浪士と呼ぶことが多いが、この名称は事件のあった元禄時代には一般的な言葉ではなく、作家の大佛次郎がそれまでの義士としての四十七士像を浪人としての四十七士に大転換する意図を持って書いた小説『赤穂浪士』で一般的になったものである[2]。(ただし先行作にも使用例あり[3])。

このため「赤穂浪士」という言い方を避け、赤穂浪人という言い方がなされる場合もある[4]

事件の概要[編集]

「仮名手本忠臣蔵三段目」、歌川国輝

この事件は元禄14年3月14日 (旧暦)1701年4月21日)、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城松之大廊下で、高家吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ、「よしなか」とも[5])に斬りかかった事に端を発する。斬りかかった理由は、詳細は不明である(詳細は#刃傷の理由参照)。

事件当時、江戸城では、幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所がらもわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、第五代将軍徳川綱吉は激怒。浅野内匠頭は即日切腹、浅野家は所領の播州赤穂を改易された。それに対し吉良には咎めはなかった。

しかし浅野のみ刑に処せられた事に浅野家家臣達は反発。筆頭家老である大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に対応を協議した。反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にした。この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心とした浅野家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである[6]

一方、同じ赤穂藩でも江戸に詰めている家臣には強硬派(江戸急進派)がおり、吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。彼らは吉良邸に討ち入ろうと試みたものの>、吉良邸の警戒が厳しく、彼らだけでは吉良を打ち取るのは難しかった。そこで彼らは赤穂へ行き大石内蔵助に籠城を説いたが、大石はこれに賛同せず、赤穂城は予定通り幕府に明け渡された[7]

吉良を打ち取ろうとする江戸急進派の動きが幕府に知られるとお家再興に支障が出てしまうので、主家再興を目標とする大石内蔵助は、江戸急進派の暴発を抑える為に彼らと二度の会議を開いている(江戸会議山科会議)。

しかし浅野内匠頭の弟である浅野大学の閉門が決まり、播州浅野家再興の道が事実上閉ざされると、大石内蔵助や江戸急進派をはじめとした旧浅野家家臣(以降赤穂浪士と記述)達は京都の円山で会議(円山会議)を開き、大石内蔵助は吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[8]。そして仇討ちの意思を同志に確認するため、事前に作成していた血判を同志達に返してまわり、血判の受け取りを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけを仇討ちのメンバーとして認めた[9](神文返し)。その後、大石は宣言通り江戸に下り(大石東下り)、吉良を討ち取る為に深川で会議を開いた(深川会議)。

そして元禄15年12月14日 (旧暦) 1703年1月30日)、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった(吉良邸討ち入り)。この時討ち入りに参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。引き上げの最中には、四十七士のうち一人(寺坂吉右衛門)がどこかに消えているが、その理由は謎とされている。

寺坂を除いた四十六人は、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹した。

原因に関して[編集]

なお、浅野吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある[10]

赤穂事件の経過[編集]

松之大廊下の刃傷まで[編集]

江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀の挨拶をしており、朝廷もその返礼として勅使を幕府に遣わせていた[11]この時、3-10万石程度の所領を持つ大名が勅使饗応役として勅使の接待役を務め、典礼などの指南を行うのが高家であった。

元禄14年の勅使饗応役は浅野内匠頭で、2度目の饗応役であった。また、吉良上野介は高家肝煎であり、正月に幕府の使者として上洛しており、並行して浅野内匠頭に儀式指南を行っていた[11]

吉良上野介の返礼として、3月11日東山天皇の勅使・柳原資廉高野保春および霊元上皇の院使・清閑寺煕定が江戸城内の伝奏屋敷に到着、浅野内匠頭以下赤穂藩士、吉良上野介らが接遇にあたった。14日は儀礼の最終日で、将軍徳川綱吉が本丸御殿内の白書院で勅使に奉答する予定であった[11]

松之大廊下の刃傷[編集]

江戸城本丸跡(東京)

元禄14年3月14日1701年4月21日)巳の下刻(午前11時半過ぎ)、吉良上野介が本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下を歩いていたところ、浅野内匠頭が上野介の後ろから声をかけ、あるいは「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけて小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う[12])で肩先を斬りつけ、更に斬りつけたところ、上野介が振り返ったので小さ刀は吉良の眉の上を傷つけた。小さ刀は上野介の烏帽子の金具にも当たり大きな音をたてた[13]。そして上野介が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた[11]

すぐさま、内匠頭はその場に居合わせた梶川与惣兵衛に刀の鍔を押し留められ、異変に気付いて駆けつけた周囲にに取り押さえられ、柳之間の方へと運ばれた。一方の上野介は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に御医師之間に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた。上野介の傷は外科の第一人者である栗崎道有により数針縫いあわせられている[11]

その後、目付が双方から事情を聴取し、老中に報告、側用人柳沢吉保を経て将軍徳川綱吉にまで伝えられた。即日内匠頭には切腹の裁定が下り、一方の上野介は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。

「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」

[14]

浅野内匠頭の切腹・赤穂藩改易[編集]

浅野内匠頭の切腹(2009年赤穂義士祭にて撮影)

浅野内匠頭は目付より取り調べを受けたのち、幕府の裁定を待つため、芝愛宕下[注釈 2]陸奥一関藩田村建顕の屋敷にお預けとなる事になった。

内匠頭はこの時点から罪人としての待遇になっており、乗せられた駕籠は江戸城の平川門から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった[14]。16時頃に田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ態勢ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた[15]

内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、畳2枚、若しくは筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた<[14]。このしつらえは内匠頭の身分に不相応な略式であり、おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたとされる[16]

一方で、当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていたので、内匠頭は切腹を言いつけられた事に礼を言った上で切腹をした[14]

切腹の際の立会人は検使正使の大目付庄田安利(下総守)と、 検使副使の目付多門伝八郎大久保権左衛門、介錯は御徒目付磯田武太夫であった[14]

遺体は浅野家の家臣達の片岡源五右衛門礒貝十郎左衛門田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内によって引き取られ、菩提寺の泉岳寺でひっそり埋葬された[17]

同時に赤穂藩の改易も決まった。まず伝奏屋敷に詰めていた赤穂藩士は、内匠頭が御馳走役を外されたことを理由に退去を命じられ、急遽御馳走役を引き継いだ佐倉藩主戸田忠真が到着したのと入れ違いに、上屋敷へと引き上げた。この時、藩士らが騒動を起こしたときに備え。武力で抑えられるよう上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた[16]。14日夜、内匠頭の正室の阿久里は剃髪し、名を瑤泉院と改め、翌15日明け方に実家の三好藩主浅野長澄に引き取られた[17]

15日からは江戸詰めの藩士が藩邸を退去、町家の借家に引き上げ始めた。18日には内匠頭の従弟の大垣藩主戸田氏定が、赤穂藩の地権書である朱印状を幕府へ老中土屋政直へ変換している。17日には上屋敷、18日には赤坂下屋敷、22日には本所下屋敷がそれぞれ、幕府に収公された。この騒動の最中、町人の中で藩邸に忍び込んで空巣をやる者がおり、大垣藩や浅野本家の広島藩から警護のものが派遣されている[18]

改易当初の藩士の所見[編集]

早水藤左衛門萱野三平 から刃傷事件の報告を受ける大石内蔵助赤穂市大石神社)。

事件が起こるとすぐに、事件を知らせるための早駕籠が赤穂藩へと飛んだ。

第一報は、14日未の下刻(午後3時半頃)に早水藤左衛門萱野三平が早駕籠に乗って江戸を出発し、19日寅の下刻(午前5時半頃)に赤穂に到着した。この時点では、刃傷沙汰のみが伝えられた[19]。次いで14日夜更けに江戸を発した第二の早駕籠(原惣右衛門大石瀬左衛門)が19日の内に赤穂に到着し、浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の改易を伝えた。江戸・赤穂間の早籠は通常7日程度かかるが、この時は昼夜連続で駆け続け、4日半程度で赤穂に着いている[19]。一方、吉良上野介の生死が赤穂側に伝わったのは3月下旬であった[19]

筆頭家老の大石内蔵助は、第一報が届いた時点で藩士に総登城を命じ、事件を皆に伝えた[20]。そして大石を上座に据え、連日[19]、城に集まって対応を議論した(『浅野綱長伝』)[20]。幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、赤穂藩士は内匠頭の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである[19]。一方で親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた。

家臣達の意見は、上野介が処罰されなかった事に対する抗議の意思を籠城によって示すというものが多かったが、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったためある[6]

また、内匠頭の弟にあたる浅野大学に迷惑がかかると大石が考えたのも、籠城を辞めた理由の一つである[6]。大石は城内での議論と並行して、上野介の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出していたが[19]、この事が大学の耳に入ったため、籠城が大学の指示だと思われるのを恐れたのである[6]

連日の議論を経て、大石の出した結論は、赤穂城の前で皆で切腹しようというものであった[6]。こういう決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も上野介への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたからである[6]。また、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある[6]

最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余りが提出した[6]

なお、議論がすぐに収束しなかったのは、次席家老の大野九郎兵衛等による反対意見もあった事による[6]。大野はとにもかくにも主君の弟である大学が大事だから、まずは穏便に赤穂城を幕府に明け渡すのが先決だと考えていたのである[21]

しかし切腹の神文を提出する段になって、原惣右衛門が「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出した[6]。なお原はもしこのとき大野が立ち退かなかったら大野を討ち果たしているところだったと後で回想している[21]。大石は[[4月12日 (旧暦)|4月12日に赤穂城の明け渡しを最終的に決定した[22]

一方で、この時点ですでに吉良邸討ち入りを明確に標榜していたのは、江戸藩邸詰めの堀部安兵衛奥田孫太夫高田郡兵衛の3人であった。3人はこの時点で、20人ほどの同志を得られたら直ちにでも討ち入りをする算段であったが、賛同者は得られなかった。国元での世論については情報を得られなかったため、籠城・討ち死にも視野に入れて赤穂へ向かい、4月14日に到着した。大石は3人に対し、将来の御家再興を視野に入れての自重を求めた。3人は他のものとも意見交換をしたが、いずれも一旦の恭順をとるという大石の意見に従っていたため、3人はこの時点での討ち入りを断念した[7]

赤穂城引き渡し[編集]

これらの議論が行われるのと並行して、収公に向けた手続きが行われた。

まず、藩札の引き換えの方針が早々に決定された。藩庁は、藩札の交換レートを六分、つまり額面価格の6割と定め、改易の報が赤穂に届いた翌20日から換金に応じた[19]。この比率は他の藩札処理の事例と比べて破格の高さであった[注釈 3]。このとき大石内蔵助は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにしたが、広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断っている[24]。この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けた[24]

そして、城に収められた武器については、城付き武具のほかは売り払いの許可がでたため、赤穂入藩時に前藩主池田輝興から引き継いだ分の武器以外は、大坂の商人が落札した。

これらの実務作業のほか、必要とされる書類については、元禄7年(1694年)の備中松山藩の転封の際に浅野内匠頭が受け取りを担当、大石以下赤穂藩士もこれに関わっていたため、書類作成もスムーズに進んだ。

4月19日、幕府派遣の受城目付荒木政羽榊原政殊、代官石原正氏、受城使脇坂安照木下㒶定立会いの下、赤穂城引き渡しが完了した。この引き渡しは特に厳戒態勢で行われ、脇坂・木下がともに軍勢を引き連れてきたほか、近隣の岡山・姫路・明石・徳島・高松・丸亀・松山の各藩が陸上・海上に軍勢を展開させた[25]

その後も大石ら一部藩士は遠林寺会所を間借りして残務作業を続け、5月18日に全ての書類引継ぎが終了した。同日、奉行・小役人に魚料理が振る舞われ、士分のものには金子が渡された。

大石と堀部との対立[編集]

赤穂城引き渡しという喫緊の課題が片付き、旧藩士の内江戸藩邸詰は町家の借家に、国元勢はそれぞれの伝手を頼るなどして赤穂町内および京都・伏見・大坂など上方一円に[26]、それぞれ居を移して身辺を落ち着けると、浅野家中としての今後の身の振り方を巡って対立が発生した。おもに大石内蔵助と堀部安兵衛とを軸に慢性的な対立状態が続き、前者は上方漸進派、後者は江戸急進派と呼ばれる[27]

大石は、浅野内匠頭の弟・大学による御家再興を至上命題として[28]、幕閣や近親諸藩、将軍綱吉と近いと思われる寺院などの伝手を辿って運動を行っていた[29]。大石家は浅野家と血縁関係が近しく、代々赤穂藩に仕えていたことから、大名・浅野家が復活することを、自身の「忠義」ととらえていた[14]。また、大石にとっても、浅野家の「人前」が立つという目的のもと、吉良家に対しても何らかの処分が下ることを希望していた。

一方、堀部は、引き続き吉良邸への討ち入りを念願し、旧藩士から同志を募っていた。堀部は父の代で浪人になってから剣豪として身を立て、高田馬場の決闘で名をはせて浅野家に召し抱えられたことから、堀部の主従意識は、浅野家代々ではなく、浅野内匠頭個人に対してのものであって[30]、堀部にとって大学は「主君の弟」に過ぎなかった。堀部にとっての「忠義」は、内匠頭が伝来の御家を捨ててまで鬱憤を晴らそうとして、その遺志を継いで、吉良上野介を討ち果たすことにあった[28]

赤穂藩が廃藩になってから数カ月の間、吉良上野介および大学の処遇は明らかにならず、また上方の大石と江戸の堀部との間で書簡が交わされたが意見の一致を見ず、事態は膠着状態のまま推移した。大石の御家再興運動は好転する兆しが見えず、一方で堀部は討ち入りが成功するためには大石ら上方の旧藩士の協力が必要で、上方の旧藩士には大石が大勢での江戸下向を厳禁していたためである。当事者である大学は、事件後は閉門されて旧藩士と連絡が取れなくなっており、その意志は不明のままであった[31]

吉良の屋敷替えと江戸会議[編集]

吉良上野介は、刃傷事件で負傷した時点ではおとがめなしであったが、一部では浅野内匠頭に対する裁定の厳しさに対する同情論から[32]、上野介に対して厳しい見方も存在した。例えば『易水連袂録』にはもし内匠頭が上野介に対して「意趣」があり、それが「堪忍しがたきもの」なら内匠頭の行動は「乱気」でも「不行跡」でもないはずだと[32]、内匠頭の行動に理解を示している。また武士道の観点からいえば、売られた喧嘩を買わずに逃げるのは、武士にあるまじき不名誉な行為のはずである[33]

上野介はこうした世評を意識して、高家肝煎の辞職願を出さねばならなかったし、傷は14、5日で治ったのにわざと重く見せかけねばならなかったという(『栗崎道有記録』)[34]。上野介は3月23日付でお役御免となった[35]

その後、8月19日に吉良家は呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。大名屋敷の多い呉服橋と比べ、本所は人気のない構外であったことから、討ち入りをしやすくするために上野介を郊外に幕府が移したのではないか、とのうわさが江戸に流れた[36][35]。幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じたかは不明だが、『江赤見聞記』巻四によれば、吉良邸の隣の蜂須賀飛騨守は、旧赤穂藩士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていたというので、こうした事情が影響した可能性はある[36]

堀部安兵衛ら急進派はこの屋敷換えを討ち入りの好条件ととらえ[35]、大石内蔵助に討ち入りを迫った。そこで大石は急進派を説得する為、9月はじめ頃に原惣右衛門潮田又之丞中村勘助の3人を派遣し、さらに10月に進藤源四郎大高源五を派遣したが、どちらも逆に説き伏せられて急進派に同調してしまった[37]。そこで大石は自ら急進派を説得すべく、10月23日、奥野将監河村伝兵衛岡本次郎左衛門中村清右衛門を伴って隠棲先の山科を出発した。

一方堀部、奥田孫太夫高田郡兵衛は、大石合流前の10月29日、討ち入りを決意するための神文を作成する。ここでは、従来の堀部の主張通り、内匠頭の意志を継いで吉良邸討ち入りを果たすことを誓い、末尾の罰文には、通常は神仏の罰とするところを「御亡君の御罰遁るべからざる者也」とした。また、討ち入りを決行する時期として、翌年3月の一周忌まで、と具体的に期限を定めた。

11月10日、芝で旧藩士の会合が開かれた(江戸会議)。参加者は、大石、堀部、原、進藤、奥野、河村、岡本、奥田、高田である。堀部は、浅野大学が閉門中に討ち入りをすれば、大学の赦免後にも「人前」が立つし、君臣の礼儀にもかなう、と述べた。一方大石は、大学の安否を見届けることを主張した。結局、先乗りしていた上方の同志をすでに説得していた急進派が優勢のまま会議は進んだ。期限を区切らないと皆の士気が下がる、という堀部の主張を大石も受け入れ、翌年3月に結論を出すことを約束した[35][37]

吉良の隠居[編集]

12月11日、吉良上野介の隠居と、嫡男義周(左兵衛)の家督相続が許可された[38]

これを聞いて堀部安兵衛たち急進派は焦り始めた。隠居した上野介が、米沢藩上杉家に養子入りしていた実子の綱憲に引き取られてしまうと、討ち入りが難しくなってしまうからである[38]。堀部たちは、江戸会議のために下向してそのままとどまった原惣右衛門、大高源五と相談の上、上方へ戻っていた大石内蔵助へ書状を送り、上野介の居場所を継続して監視する手はずは整えており、自分は2月に上洛するのでそこで談判し、3月上旬には江戸にもどって討ち入りを行いたい、と具体的なスケジュールを提示してせかした[39]。また、渡世を度外視した浪人生活が一年近くに及び、当座の生活にも苦しくなる旧藩士の実情をも訴えた。

一方、大石にとっては、討ち入りの条件として「浅野家再興 および 吉良家への処分」がどちらもなされないこと、としており、後者がなくなった時点で討ち入りに反対する理由はなかった。しかし、浅野大学に対する処分が下る前に討ち入りをした場合は御家再興に影響が出る可能性があるため、引き続き討ち入りを先延ばしすべきだと主張した[38]。上野介が無理なら息子の左兵衛を討てばよいし [39]、閉門はたいてい三年で解けるものだから、大学の閉門が解かれるであろう主君の三回忌まで討ち入りを待ち、後悔しないようにすべきだといった[40]

堀部は、大石が前言と違うこと(上野介がお咎めなしになったのに、討ち入りに賛同しないこと)を言い出し、更に期限を浅野内匠頭の三回忌まで延ばすことを提案したことから大石に対して不信感を抱き、原、潮田、中村、大高らと連携し、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃える方向を模索し始めた。

山科会議[編集]

翌元禄15年(1702年)正月9日、原惣右衛門と大高源五が上洛、大石内蔵助と面会して堀部の訴えを伝えた。その後も京都周辺の旧藩士らと会合を重ねるが、上方勢は吉良上野介の隠居を「是切(これきり)の事と覚悟」はしながらも、早急に討ち入りを決行する方向へはまとまらなかった。大高は彼らの態度について「生煮え」と評し、落胆している。この頃、原から堀部安兵衛へ充てた上方勢の情勢報告では、討ち入り案への理解者として、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、潮田又之丞、中村勘助、岡嶋八十右衛門、千馬三郎兵衛、中村清右衛門、中田理平次、矢頭右衛門七の名前を挙げている。

2月15日から数日間、山科に大石、原らが集まり、今後の行く末を決める会議が開かれた(山科会議[38]。この会議は、先立つ旧藩士間での会談内容の色彩が強く[41]、「浅野大学の処分を待って事を起こす」という大石の従来の主張が通った。また、討ち入り期限としても、大石が新たに設定した「浅野内匠頭の三回忌」(翌年3月)が通った[38]。原らにとっても、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃えるめどが立たなかった以上、大石の提案に賛同するよりほかなかった。

山科会議での決定を受け、討ち入り案件は「大学の処分待ち」となり、堀部ら急進派は大石による御家再興の運動を見守ることになった。この頃の大石は、大学の閉門が解かれたら、すぐさま大学に討ち入りの許可を取り、その上で吉良を討つことを考えていた[42]。大石がこのような仇討ちにこだわった理由は、事件当時「仇討ち」というのは、親や兄などの目上の親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったからである[43]。しかし主君・内匠頭の弟である大学の指示によって上野介を討てば、従来通り兄の仇を討つという枠組みに収まる事になる。だから大石は、大学と無関係に討ち入りしようとする堀部達の意見には賛同できなかった[42]。後述するように、結局吉良邸討ち入りは大学の許可を得ずに行っている。このため討ち入りの際の口上書では、「君父の讐、共に天を戴くべからず」と仇討ちの概念を「父」から「君父」へと拡大している[44]。こうした拡大された価値観が武士社会へと受容される事で、赤穂事件は武士の生き方と道徳を変え、武士道概念の体系化を促し、大名の「家中」が武士の帰属する唯一の集団へと変わっていくのである[44]

4月に入ると堀部らは再び大石抜きでの討ち入りを模索し始める。4月2日の原の堀部宛書簡では、大石抜きでも同志は14,5人ほど集められるめどであると報告(名指しされたのは原、堀部、奥田、武林唯七、大高、潮田、中村、岡野、小野寺幸右衛門、倉橋伝助、田中貞四郎の11人で、その他に3,4名ほど得られる目算であったと思われる)、7月中には江戸へ下る予定であった。大石が気にする大学への影響についても、大石に近いものを外して自分たちだけで討ち入りをしたら、大学に迷惑がかかることもないであろう、と推測した。また、大石の討ち入り期限の後ろ倒しに賛同した一部同志を名指しで非難するなど、大石・堀部両派の確執が深まっていった[45]

大石は重ねて自重を呼びかけたが、堀部は6月に入ると十人ほどでも討ち入る覚悟を示し、大学の御家再興を待って帰参する心積もりの旧藩士らを「腰が立たない」言語道断のものであると切り捨てた。6月末に堀部は上洛して原、大高らと大石外しの相談に及び、7月中に頭数を揃えて江戸へと下る予定であった[45]

浅野大学閉門と円山会議[編集]

そのさなかの7月18日、浅野大学に対して「広島藩預かり」という処分が下った。これはお家再興が事実上あり得ない事を示していた。大学は同日、本家の広島藩邸に移った[8]

大学処分の報せが上方に届いたのは、24日であった。大石内蔵助が最後まで望みを託していた浅野家再興の望みは絶たれ、また堀部安兵衛らの突き上げを喰らって旧藩士が分裂寸前の状態にあっては、もはや討ち入りを止めることはできなかった。

7月28日、急ぎ京都の円山にある安養寺の塔頭「重阿弥」に近隣にいた同志が呼び集められ、会議が開かれた(円山会議)。この席で、大石は10月に江戸に下り吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[8]。この会議に参加したのは、大石、堀部のほかに、大石主税、大石瀬左衛門、潮田又之丞、小野寺十内、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、間瀬久太夫、間瀬孫五郎、原惣右衛門、貝賀弥左衛門、武林唯七、不破数右衛門、矢頭右衛門七、三村次郎左衛門、大石孫四郎、岡本次郎左衛門の19名で、この内、大石孫四郎、岡本次郎左衛門を除く17名が最終的に討ち入りの浪士の中に含まれている[46]

なお円山会議は秘密会議であった為、議論の詳細は一切分かっておらず、今日伝わる円山会議の「詳細」と称するものは初期の実録本『赤城義人伝』で創出されたものである[47]

堀部達は江戸に戻ると、隅田川で二艘の船を借り、月見の宴を装いつつ、船の中で同志達に円山会議の報告をしている(船中会議[48]

神文返しと討ち入り候補の絞り込み[編集]

討ち入りの決行が正式に決まると、討ち入りに参加する旧藩士の絞り込みが始まった。

討ち入りの意志表明の身安になっていたのは、大石内蔵助が赤穂城受け渡しの時と深川会議の時に集めた神文で、最大時には120名ほどが提出していた。しかし、廃藩に伴って解散してから連絡が取れていない旧藩士も少なくなかったため、横川勘平が江戸、貝賀矢左衛門と大高源五が上方の同志の間を一人一人訪ねて回り、討ち入りの意志の確認が行われた。具体的には、「敵討ちをやめるほかない」とまず説明して提出済みの神文を返却し、受け取りに抵抗したものを志あるものとみなして、盟約に加えた(神文返し[9]。ここで一旦盟約に加えたものの中からもさらに離脱するものがあり、最終的に討ち入りを行った47人になったのは決行の数日前であった。

この際、大石の親戚でありこれまで大石の行動を支えてきた奥野将監、小山源左衛門、進藤源四郎の三人が脱盟している[49]。大石は討ち入りの際、家中の主だった面々が加わっている事を強く期待していたが、位の高い彼ら三人が脱盟したことにより、それはかなわなくなった[49]

深川会議[編集]

大石内蔵助は円山会議での約束にしたがい、10月7日に京を出て、11月5日に江戸に到着している[50]。道中には箱根を通り、仇討ちで有名な曾我兄弟の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという[51]10月26日には平間村の家に入り、討ち入りの計画を練っている[50]

このころ、同志たちはすでに困窮を極めており、大石瀬左衛門は秋も深まったのに着替えすら買えなかったというし、磯貝十郎左衛門も家賃が2カ月も払えなかったという。大石は彼らに金銭的な援助をしたが、すでに赤穂藩の残金も少なくなっており、もうあまり猶予はなかった[52]

12月2日 頼母子講を装って深川八幡前の大茶屋に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた(深川会議[53]

討ち入り日の決定[編集]

赤穂浪士達は討ち入りの日を12月14日に決めた。 これは、吉良上野介がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである。茶会の情報を手に入れたのは 大石内蔵助の一族である大石三平であった。三平は茶人山田宗徧の弟子だが、三平と同門の材木屋の所に在宅していた羽倉斎が江戸で新道や歌道を教えており、その関係で羽倉は吉良邸にも出入りしていて、この情報を聞いたのである[54]

また赤穂浪士の一人である大高源五もやはり山田宗徧の弟子で、彼も同じく14日の吉良邸での茶会の情報をつかんでいたという。しかし宮澤誠一は、これは歌人として人気の高かった大高に活躍の場を与えるための初期の実録書以来の俗説として退けている[55]。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたという話は『江赤見聞記』に記されているため可能性は否定できない[54]

直前の脱盟[編集]

11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、小山田庄左衛門(100石。片岡源五右衛門から金と着物を盗んで逃亡[56])、田中貞四郎(小姓あがり、150石。酒乱をおこして脱盟[要出典])、中田理平次(100石[57])、中村清右衛門(小姓、100石[57])、鈴田重八郎瀬尾孫左衛門(大石内蔵助家来)、矢野伊助(足軽5石2人扶持)が姿を消した[58]

そして討ち入り三日前の12月11日まで同志の中にいた毛利小平太(大納戸役[要出典]20石3人扶持[57])も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった[54]

討ち入り[編集]

吉良邸討ち入り。二代目山崎年信画、1886年

元禄15年12月14日(1703年1月30日)、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にて着替えを済ませ、寅の上刻(午前4時頃)に借宅を出た。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は掛矢(両手で持って振るう大型の木槌)で門を打ち破り吉良邸に侵入した[59]

表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱を竹竿にくくりつけ、玄関の前に立てた[60]

裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした。吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる[59]

四十七士は吉良上野介の寝間に向かったものの、上野介は既に逃げ出していた。茅野和助が上野介の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した。上野介はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は上野介を探した[61]

そして台所の裏の物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き殺した。この老人が上野介であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた。無事上野介を討ち取ったのである[62]

そこで合図の笛を吹き、四十七士を集めた[62]。ここまでわずか二時間程度であった[63]

双方の死傷者は、吉良側の死者は15人、負傷者は23人であった[30]。一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は2人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎[64] と戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっている[61]

浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り2日後の14日[疑問点]の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほど[注釈 4]、すぐさま噂として広まった[68]

吉良の最期に関して[編集]

山本博文は、武林唯七が即死に追い込んだ吉良の首を間十次郎が取ったのだろうとしている[62]

その根拠は『江赤見聞記』巻四で、同書には四十七士の武林唯七が物置の中の人物を十文字槍でついたところ小脇差を抜いて抵抗してきたので間十次郎が刀で首を打ち取ったとしており、さらに同書によれば引き上げの際、間十次郎が吉良の首を取ったのを自慢した所、武林唯七が「私が突き殺した死人の首を取るのはたいした事ではない」と憤慨したという[62]

一方、宮澤誠一は四十七士の不破数右衛門の書簡に「吉良は手向かいせず唯七と十次郎その他にたたき殺された」という趣旨のことが書かれているのを根拠に、本当は不破の言うように吉良はたたき殺されたのに、記録が後世に残るのを意識して残酷さを和らげるために間十次郎が一番槍をつけたのだと記したのではないかとしている[69]

泉岳寺への引き上げ[編集]

浅野内匠頭が埋葬された泉岳寺

吉良上野介を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった。

途中、吉田忠左衛門富森助右衛門の二人が大目付の仙石伯耆守に討ち入りを報告すべく隊を離れた。また寺坂吉右衛門も理由は分からないがどこかに消えた。寺坂が隊を離れた理由は古来謎とされている(#寺坂吉右衛門問題[70]

泉岳寺についた一行は内匠頭の墓前に上野介の首を供え、一同焼香した[70]

上野介の首と共に内匠頭の遺品の小刀も供えられた。鞘から抜かれた小刀は、軽く三度上野介の首に当てられた。この儀式をそこにいた浪士全員が行った。近松行重が書いたとみられる記録では、上野介を墓前にお連れしたと記載し、内匠頭自身がそれを討って悔いを晴らしたとする[71]

首の返還と遺体の供養[編集]

吉良上野介の首はその後箱に詰められて泉岳寺に預けられた。寺では僧二人が吉良家へと送り届け、家老の左右田孫兵衛斎藤宮内が受け取った。この時の二人の連署が書かれている、上野介の首の領収書(首一つ)が泉岳寺に残されている。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が上野介の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、上野介は菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。

この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが大正期に「万昌院」と名を改めて中野へ移転し、それに伴って墓も改葬して現在は歴史史跡に指定されている。

赤穂浪士の大名家お預け[編集]

赤穂浪士の吉田と富森から討ち入りの報告を受けた大目付の仙石伯耆守は、月番老中の稲葉丹後守正往にその旨を報告し、二人で登城して幕府に討ち入りの件を伝えた。

幕府は赤穂浪士を、細川越中守綱利松平隠岐守定直毛利甲斐守綱元水野監物忠之の4大名家に御預けとした[72]。赤穂浪士達は預け先にて、細川家などで罪人扱いではなく、武士としての英雄として扱われたとする話が残る[73]。一方、毛利家には浪士の部屋をくぎ付けにするなど罪人として厳しい扱いをした記録も残る[74]。その他、各大名家で多少の混乱もあった[注釈 5]

浪士切腹の決定[編集]

赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士等の処分を議論し、元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めた。赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたからである[75]

ここで重要なのは幕府が「主人の仇を報じ候と申し立て」という言い回しをしている事である。あくまで赤穂浪士達自身が「主人の仇を報じる」と「申し立てて」いるだけであって、幕府としては討ち入りは「徒党」であり仇討ちとは認めないという立場なのである[75]

通常、このような罪には斬首が言い渡されるが[75]、赤穂浪士達の立場を考慮したのか、武士の体面を重んじた切腹という処断になっている。

切腹[編集]

泉岳寺の赤穂浪士の墓
花岳寺の赤穂義士の墓

元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した[76]

切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた[77]

当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた[76]。ところが、久松松平家では無体に扱った記録も残っており、「切腹者が小脇差を取り上げ腹に当てる前に首を打つ」「左の手にて髻(たぶさ)を持って落とした首をもち上げ[78]、目付に見せる」などの記述がある[79](松平家の扱いを揶揄した狂歌が今に伝わる)。間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている[80][76]

赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された[76]。赤穂の浅野家菩提寺である花岳寺にも37回忌の元文4年(1739年)に赤穂浪士達の墓が建てられている[81]。(墓には赤穂浪士の遺髪が埋められたと伝えられる[81])。

その他処分[編集]

吉良家への処分

赤穂浪士の切腹と同日、上野介の跡を継いだ吉良左兵衛義周諏訪忠虎(信濃高島藩主)にお預けとされた[82][83]

幕府が左兵衛の処分を命じた理由は、義父・上野介が刃傷事件の時「内匠に対し卑怯の至り」であり、赤穂浪士討ち入りのときも「未練」のふるまいであったので、「親の恥辱は子として遁れ難く」あるからだとしている。ここで注目すべきは吉良上野介の刃傷事件の時のふるまいが「内匠に対し卑怯」であるとしている事で、幕府は赤穂浪士の討ち入りを踏まえ、刃傷事件の時は特にお咎めのなかった上野介の処分を実質的に訂正したのである[82]

左兵衛はその後20歳余りの若さで亡くなり、ここに三河吉良家(西条家、義央系)は断絶する事になった[84]

赤穂浪士側への処分

赤穂浪士の遺児らも、15歳以上の男子は伊豆大島遠島、15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、15歳になるのを待って遠島という処分が幕府から下された[85](女子は構いなし)。

15歳以上の男子は4人(吉田伝内中村忠三郎間瀬惣八村松政右衛門)おり、彼らは処分にしたがって遠島に処せられたが、赤穂浪士の名声は伊豆大島まで届いていた為、彼らの待遇は良かったと伝えられる[85]

間瀬惣八のみ伊豆大島で病死したが、残りの3人は浅野内匠頭の正室・瑤泉院をはじめとした旧赤穂藩の関係者の働きかけにより、宝永3年に赦免された。他の遺児たちも綱吉が死去した宝永6年に大赦とされた[86]

その後[編集]

浅野家

綱吉が死去した宝永6年8月には、内匠頭の実弟である浅野大学長広も赦免され、安房国朝夷郡平郡に500石を与えられた。赤穂新田3,000石から減封のうえ、播磨からも移封ではあるが、旗本として浅野大学家(長広系)は続く事になった[87][84]。その後、長栄で男系は絶え、長楽の代で断絶した[88]

吉良家

三河吉良家(西条家)の断絶後、武蔵吉良家(東条家)の義叔(上野介の実弟)は、姓を蒔田[注釈 6]から吉良に戻す許可を幕府に求めていたが、宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された。武蔵吉良家は高家の職および西条家の祭祀を引き継ぎ、幕末まで続く[89][注釈 7]

大石家

大石内蔵助の三男である大三郎良恭(よしやす)も、広島の浅野宗家に内蔵助と同じ1,500石で召抱えられた[90][84]。明和5年(1768年)3月18日に隠居。男子が2人あったが、小山良至(小山良速の孫)の五男良尚を養子に迎えて大石家の家督を継がせた。

その良尚は、後継男子(大石良完)とその嫡男が相次いで先立ち、自身も病んで大石家を去り、実家の小山家に帰って没した。嫡流が絶えた大石家は一旦断絶となった。ただし、寛政9年(1797年)以降に一族の横田温良が大石に改姓し、大石の名跡を再興した[91]という。

赤穂藩

浅野家の改易後、赤穂藩には元禄14年(1701年)の内に永井直敬が引き継ぐ(下野国烏山藩より転封、3万2000石)。5年後の宝永3年(1706年)には森長直に交代し(備中国西江原藩より転封、2万石。永井氏は信濃国飯山藩へ転封)、そのまま廃藩置県まで異動はなかった(12代165年)[92]

吉良庄

吉良家の断絶後、高家職などは上野介の弟・東条義叔が継承したが、知行は武蔵国児玉郡と賀美郡内の自身の領地にとどまり、吉良庄は西尾藩のほか大多喜藩や沼津藩などの飛び地、寺社領、天領といった様々な領主の統治下に置かれた[93]。また、上野介の官名に因む、上野国白石の吉良家飛び地700石は、吉井藩、佐野藩、天領ほか、複数の旗本が統治した[94]

なお、吉良義央の男系子孫である鷹司(松平)信謹(義央の仍孫)は、元治2年(1865年)から吉井1万石の藩主となり、吉井陣屋にて吉良の旧領の一部を統治した。

明治維新後

明治維新によって徳川幕府が崩壊して以降は、公儀に対する反逆者であった赤穂浪士に対して、公式に顕彰する動きが出てきた。

事件についての学術的な議論[編集]

刃傷事件の裁定の妥当性について[編集]

松之大廊下における刃傷事件に対して、加害者である浅野内匠頭は切腹となった一方、吉良上野介はお咎めなしとされた。この幕府の裁定を巡り、吉良側も喧嘩両成敗によって何らかの処分を受けるべきではないか、といった意見があり、旧赤穂藩士による討ち入りや、その後の「忠臣蔵」作品における浅野・赤穂藩士サイドを擁護する理由付けになった。

喧嘩両成敗は、常に帯刀している武士の間では口げんかが容易に抜刀、刃傷沙汰になり、さらに家族親類家臣知人にまで波及しかねない危険をはらんでいたことから、喧嘩が発生したこと自体を罪とし、双方を罰することにより、喧嘩に対する抑止力として定められたものである。今回のケースでは、事件発生時には二人は現場で一切言葉を交わさないまま浅野が吉良に一方的に切りつけ、吉良は抜刀、応戦せずにそのまま逃げようとしており、現場証拠だけでは吉良は浅野に対して一切の敵意を示していない。この意味では、喧嘩両成敗は成立しない。

しかし、浅野が切りつけた理由が遺恨によるものであり、その「遺恨」の内容が、浅野が切りつけるに足る程度のものであったならば、「遺恨」と刃傷とをあわせて「喧嘩」とみなされ、吉良にも処分が下るべきになる。そのため、今回のケースで裁定を下すには、「遺恨」の内容が重要になってくる。

幕府は刃傷直後に浅野、吉良双方に聴取を行ったが、いずれも、遺恨について具体的に口にしなかった。結局浅野はそのまま切腹したため、遺恨の内容について当事者からは語られないままであり、公式には「不明」である。

また、浅野の「乱心」の可能性もあるが、浅野本人は「乱心ではない」と供述しており、幕府側もこれを認めている。

「遺恨」の内容について[編集]

幕府当局は、まずその場に居合わせた梶川与惣兵衛より状況を聴取、吉良が抜刀していないことを確認してから、ついで浅野を聴取し、内匠頭は刃傷の際言ったとされる「此間の遺恨、覚えたるか」(『梶川与惣兵衛筆記』写本)の「遺恨」について尋ねた。これに対する浅野の回答は、一言の申し開きもないとしたうえで、

私的な遺恨から前後も考えずに、上野介を討ち果たそうとして刃傷に及んだ。どのような処罰を仰せ付けられても異議を唱える筋はない。しかし、上野介を打ち損じたことは残念である。

というものであった。

一方、吉良は遺恨の内容について思い当たることがあるのではないか、と問われたが、

恨みを受ける覚えはなく、内匠頭は乱心したと思う。老体の身でもあり、恨みを買うようなことを言った覚えもない

と答えた。しかし身に覚えがあると言えば立場が悪くなるのは目に見えているので、身に覚えがあったとしても隠してこのように証言した可能性もありうる[97]

四十七士の一人堀部弥兵衛が討ち入り前に書いた『堀部弥兵衛金丸私記』には、以下のように原因が吉良の悪口にあると記している:

伝奏屋敷において、吉良上野介殿品々悪口(あっこう)共御座候へ共、御役儀大切に存じ、内匠頭堪忍仕り候処、殿中において、諸人の前に武士道立たざる様に至極悪口致され候由、これに依り、其の場を逃し候ては後々までの恥辱と存じ、仕らすと存じ候[97]
(伝奏屋敷で、吉良上野介殿がいろいろと悪しざまにおっしゃいました。御役儀を大切に考え、内匠頭は堪忍しておりましたが、殿中において、諸人を前にして武士道が立たないようなひどいお言葉をかけられましたので、そのままにしておくと後々までの恥辱と思い、斬りかけたものと存じております)[97]

仮に、浅野が吉良に「武士道立たざる様に至極悪口」を言われたとしても文脈から刃傷事件当日のことと推察でき、堀部弥兵衛はその事情を伝聞以外で知ることは出来ないはずである。この記述の信頼性には疑問があるが、少なくとも家臣達にはそのように言われたと信じていたと推察できる[97]

なお堀部弥兵衛は続けて「悪口は殺害同様の御制禁」と書いており、吉良がその御制禁を犯したから内匠頭はそれに応じたまでだとしている[97]

他に塩田を巡る諍いも挙げられるが、信憑性が低い(吉良領には塩田はなく、堺屋太一『峠の群像』の誤認による創作が広まったとされる)[98]

賄賂[編集]

当時の文献には吉良が暗に賄賂を要求したのに浅野内匠頭が十分な賄賂をおくらなかった事が両者の不和の原因だとするものがある。ただし、五千石の高家である吉良から浅野などの大名が指南を受ける場合、指南料や何らかの贈り物をするのが当時としては慣例となっており、当然だった[99]

賄賂に関して書かれた文献には例えば『江赤見聞記』の一巻があり、以下のように記されている:

上野介欲ふかき人故、前々御務めなされ候御衆、前廉より御進物等度々これ有る由に付き、喜六、政右衛門、御用人どもまで申し達し、御用人共も度々その段申し上げ候処、内匠頭様仰せにも、御馳走御用相済み候上にてはいか程もこれを進らせらるべく候、前廉に度々御音物これ有る儀は如何しく思し召され候由、仰せられ候。尤も、格式の御付届けの音物は前廉に遣わされ候由也[99]
(上野介は欲が深い人なので、以前に御勤めなさった方も、前もって御進物等を度々していたので、喜六や政右衛門、御用人たちまで伝え、御用人たちも度々その段を申し上げたけれども、内匠頭様は「御馳走御用が済んだ後にはどれほどでも進(まい)らせたいと思う。しかし、前もって度々御進物を贈るのは、如何かと思う」と仰せられました。もっとも、決まった御付届けの進物は前もって遣わされていたということです[99]

文中にある「喜六、政右衛門」は建部喜六(250石)と近藤政右衛門(250石)で、ともにこうした折衝にあたる江戸留守居役である[99]

また事件直後に書かれた『秋田藩家老岡本元朝日記』にも次のようにある

吉良殿日頃かくれなきおうへい人ノ由。又手ノ悪キ人二て、且物を方々よりこい取被成候事多候由。先年藤堂和泉殿へ始て御振舞二御越候時も、雪舟ノ三ふく対御かけ候へハ則こひ取被成候よし。ケ様之事方々二て候故、此方様へ御越之時も御出入衆内々二て、目入能御道具被出候事御無用と御申被成候由二候[100][99]
(吉良殿は平生から横柄な態度で有名な人物だということです。また手の悪い人で、方々から物をせびりなさる事が多いということです。先年藤堂和泉殿(高久、伊勢津藩主)へはじめて御振舞に御越になった時も、雪舟の三幅対の御掛け軸をかけたところ、せびって自分の物にしたということです。このような事を方々でなされるので、こちら様へ御越の時も御出入の旗本衆が内々に、よい御道具は出されない方がよいと御申しなされたという事です[99]

ただしこの記事は事件直後のもの[99]

尾張藩士の朝日重章も『鸚鵡籠中記』に次のように記している:

吉良は欲深き者故、前々皆音信にて頼むに、今度内匠が仕方不快とて、何事に付けても言い合わせ知らせなく、事々において内匠齟齬すること多し。内匠これを含む。今日殿中において御老中前にて吉良いいよう、今度内匠万事不自由ふ、もとより言うべからず、公家衆も不快に思さるという。内匠いよいよこれを含み座を立ち、その次の廊下にて内匠刀を抜きて詞を懸けて、吉良が烏帽子をかけて頭を切る[99]
(吉良は欲が深い者なので、前々から皆贈り物をして物を頼んでいたが、今度の内匠頭のやり方が不快だということで、何事につけても知らせをせず、内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。内匠頭はこれを遺恨に思って座を立ち、その次の廊下で、刀を抜き、声を懸けて吉良の烏帽子ごと頭を斬った)

朝日は当時名古屋にいたため、全国的に広まった噂だったとみられる[99]

浅野内匠頭のストレス[編集]

『冷光君御伝記』によれば、浅野内匠頭は勅使御馳走役が嫌で仕方がなかったらしく、「自分にはとても勤まらない」と述べている[101]。 御馳走役はほぼ家中をあげて準備をしなければならず、接待費は藩ですべて持たねばならず、しかも典礼の詳細は高家肝煎である吉良の指図を受けねばならないなど、ストレスの溜まる仕事であった[101]。特にこの年は、綱吉が最愛の母を慣例に反してまで従一位に推そうとしていたため、綱吉は公家の接待に熱心であり、例年よりも緊張を強いられた[102]

また内匠頭は11日ころから持病の痞(つかえ、詳細後述)が出るなど、心身に不調をきたしていた[101]史実から考察するに、内匠頭に御馳走役を務めるに当たり心理的ストレスが蓄積され、ストレスの暴発により、刃傷に及んだ可能性も考えられる[101]

前回の勅使御馳走役の差[編集]

浅野内匠頭はこの時二度目の勅使御馳走役であったが、それゆえ「前々の格式」にこだわりすぎ、そこから吉良との確執が生まれたのかもしれない[101]

また前回の勅使御馳走役の後、急激な物価上昇があった為、前回の額面が通用しなくなっていた[101]。 浅野内匠頭が「前々の格式」にこだわりすぎたとすれば、物価上昇ゆえ、現実にそぐわないものになっていたであろうし、 風説にあるように吉良に「付届け」が必要だったとすれば、その額も物価上昇ゆえに少なすぎるものになっていたであろう。

浅野内匠頭の性格[編集]

吉良を治療した金瘡外科の栗崎道有は『栗崎道有記録』で「我慢できない事でもあったのか、内匠頭は普段から短気な人間だったというが、上野介を見つけて小さ刀で抜き打ちに眉間を切りつけた」と述べ、さらに内匠頭と上野介の人間関係はかねてからよくなかったと記している[103]

『土芥寇讎記』という、元禄3年時点での大名の家計、略歴、批評等を書いた本には「内匠頭は智のある利発な人物で、家臣の統率もよく領民は豊かである。しかし女好きが激しく、内匠頭好みの女性を見つけてきた者が立身出世し、女性の血縁者も禄をむさぼる状態にある。昼夜を問わず女色に耽っており、政治は家老に任せきったままだ」とある[103]

そして同書は大石内蔵助と藤井又左衛門を主君の内匠頭を諫めない不忠な家臣としている[103]

元禄14年春に作成された『諫懲後正』には内匠頭は武道を好むが文道を好まず、知恵もなく短慮だが職務を怠らず不行跡なことはないとしている[103]

多門伝八郎は内匠頭が「私は乱心したわけではないから離してほしい」と内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛に言っていたと書き留めており、当人の言によれば内匠頭は「乱心」したわけではない。幕府は当初、内匠頭が乱心したと思い、外科の栗崎道有を呼んだが、結局乱心ではないと判断されたため、治療の判断を上野介にゆだね、治療費は上野介の自費になった[104]

吉良のいじめ[編集]

史実に俗説を取り交えて書かれた[105]『赤穂鍾秀記』(元禄16年元加賀藩士の杉本義鄰著)の憶測によれば、吉良は元来奢侈で利欲深く、いつも過言し「付届け」の少ない者には指図を疎かにしたり陰口をたたいたりする人物であったという[105]。 同書によれば、浅野が吉良に付届けをしなかったので吉良は不快に思い、浅野が勅使をどこで迎えるべきかと吉良に問うたところ、「そんな事は前もって知っておくべきだ」と嘲笑し、「あのような途方もないことをいう人間にごちそう人が勤まるか」と少し声高に雑言したという[105]。同書はさらに、勅使が休憩する増上寺宿坊の畳替えを吉良が指示せず浅野内匠頭が危うく失態を招きそうになったという話や、「吉良から無礼な事をされても堪忍すべきだ」と親友の加藤遠江守から浅野が忠告されたという話が載っている[105]

また後の「赤穂義士」観に決定的な影響を与えた室鳩巣の『赤穂義人録』(元禄16年10月著、宝永6年改訂)では、さらにはっきりと吉良が儀式作法を伝授する際「賄賂」を受け取っていたと書かれている[105]。同書によれば、浅野は公私をわきまえず贈り物をする気は全くなかった事が吉良との不和の根本原因となったという[105]。そして「大広間の廊下」で浅野は勅使の迎え方で吉良から侮辱される[105]。梶川が「勅答の礼が終わったら連絡してほしい」と浅野に伝えると、吉良は横から口を挟み、「相談は私にすべきだ。そうでないと不都合が生じるでしょう」と浅野を侮辱し、さらに吉良が「田舎者は礼を知らない。またお役目を辱めるだろう」と追い打ちをかけた為、浅野は刃傷に及んだという[105]。こうした記述に対し、刃傷の場に居合わせた梶川与惣兵衛の書いた『梶川与惣兵衛筆記』の記述と矛盾がある[105]ことが指摘されているが、刃傷沙汰当日の記述に相違がある事だけから「吉良のいじめ」自体が無かったとするのには無理がある。

他にも江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』の元禄十四年(1701年)三月十四日条には、

世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて、積年朝儀にあづかるにより、公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし。よって名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し、毎事その教を受たり。されば賄賂をむさぼり、其家巨万をかさねしとぞ。長矩は阿諛せす、こたび館伴奉りても、義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて、何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみ、かゝることに及びしとぞ

とあり、吉良が行っていたいじめに関して、当時から公然と認知されていた事が伺える。

否定された理由[編集]
持病説

浅野内匠頭は3月11日未明に勅使一行が到着してから心身に不調をきたしており持病の痞(つかえ)が出たと『冷光君御伝記』にある[106]

立川昭二はこの痞は今で言う偏頭痛か緊張性の頭痛だろうと考察している[107]。 一方痞とは癪の事とも解され[108]、中島陽一郎の『病気日本史』によれば、癪は「胃痙攣、神経性の胃痛、心筋梗塞、慘出性肋膜炎、胃癌、後腹膜腫瘍、脊髄の骨腫瘍、ヒステリーなどを含んでいる」と考えられる[108]

『江赤見聞記』によれば、浅野内匠頭は「持病の痞のために行動に対する抑制が利かなくなり刃傷に及んだ」という趣旨の事を述べている[108]が、痞が癪の事だとすれば、「痞が刃傷の原因だとはとても信じられない」[108]。 宮澤誠一も、「痞」が精神発作を起こしたという説を、「単なる推測の域を出ない」ものとしている[105]

また浅野内匠頭の母の弟である内藤和泉守忠勝も延宝八年に殺害事件を起こしているため、浅野内匠頭も刃傷を起こしやすい血縁にあったという説があり、『徳川実紀』にも母方の伯父(つまり内藤和泉守)が狂気の者であったと記しているが[109]、この説は「そう考えれば考える事もできる」という程度のものである[17]。 しかも『徳川実紀』は江戸後期に編纂されたもので、必ずしも当時の記録によったものではない[109]

仮にこうした持病説が正しいとしても、それは事件を及ぼす為の要因の一つであってもそれだけで事件の原因を十分説明しきれるものではない[109]

塩の生産をめぐる対立
赤穂の塩田(赤穂市立海洋科学館

浅野内匠頭と吉良上野介の確執の原因は、赤穂と吉良地方におけるの製法や販路の問題で対立があった事が原因とする説がある。

吉良地方に古くから伝わる伝説[110]によれば、吉良上野介が自身の知行所で塩田を開発しようとして、塩の生産で有名な赤穂藩に隠密を放った。隠密は赤穂藩で捕らえられたが何とか逃げ帰り、吉良領に赤穂の入浜塩田の技術を伝えたという[110]

また昭和22年に田村栄太郎の書いた『裏返し忠臣蔵』でも塩に関する対立説を扱っており[110]、昭和29年には吉良出身の作家の尾崎士郎も随筆『きらのしお』でこの説を唱え[111]、他にも海音寺潮五郎南條範夫もこの説に沿った本を出している[110]

史実においても当時赤穂が塩田の技術で全国をリードしていたのは事実ではあるが[110]、この技術は決して秘密にされていたわけではない[110]。当時、赤穂の製塩技術は瀬戸内海各地に急速に広まっており[110]、仙台藩が塩業技術者を依頼してきたときも赤穂藩はこれに応じており[110]、吉良との間に塩業で確執が生まれるとは考え難い[110]

また赤穂の塩が主に大阪で売られていたのに対し、吉良産の「饗庭塩」は三河など東海方面で売られており[112]、販路・商圏の点でも直接の競合関係になかったとされる[112]

そもそも義央が刃傷事件に遭遇した元禄14年以前に開発された三河国幡豆郡の塩田は本浜及び白浜のみで、このうち本浜塩田が所在する吉田村は甘縄藩松平領、白浜塩田が所在する富好外新田村は幕府領でいずれも吉良領ではない。当然ながら吉良家の歴史の中で塩作りを行ったという記録は無い。

浅野内匠頭任官のときからの遺恨という説

『赤城盟伝』には「上野介に宿意があるのは一朝一夕の事ではない。ずっと前からの事である」と書いてあり、この「ずっと前の宿意」が寛文11年浅野内匠頭が将軍家綱にはじめてお目通りした際、その場にいた上野介が内匠頭を侮辱したものだとするもの[113]。『赤穂記』にこの説が書いてあるが、寛文11年の段階では内匠頭は5歳であり、この説には信憑性がない[113]

衆道に関する怨恨

浅野内匠頭のお気に入りの美しい小姓の日比谷右近を吉良上野介が懇望したが、断られたため確執ができたという説。

『誠忠武艦』という「幕末に成立した赤穂事件の経緯を真偽取交ぜてのべた」[114]文献にこの説がでている[113]。また『正史実伝いろは文庫』の十三回にも同じ話が載っている[115]

しかし福本日南は「吉良上野介は61歳の白髪翁、最早若い衆の争いでもあるまい」としている[113]

茶器に関する怨恨

浅野家伝来の「狂言袴」という茶入れを吉良が欲しがったが、断られたため確執ができたとする説。

これは「余程後世になっていい出された説」[113]で、高山喜内の『元禄快挙義士の真相』に載っている[113]

一休の書画の鑑定に関する怨恨

浅野内匠頭と吉良が茶会で出会い、山田宗徧が持ってきた一軸を吉良が「一休の真筆だ」といったところ、内匠頭がそうでない証拠を出して吉良をやり込めたので、確執ができたとする説[113]

実録本の『赤穂精義参考内侍所』に載っている説である。

しかしこの話は史料には見当たらず、しかも浅野内匠頭と吉良が茶会で平素から交流があったとしており、事実とは考えにくい[113]

内匠頭の謡曲

明治末期に著された小野利教の『赤穂義士真実談』にでている話[113]

元禄13年に内匠頭が謡曲熊野を舞ったところ、上野介から「クセがよくない」と非難を受けた事を内匠頭が根に持ったとするもの[113]。 これも一休の書画と同じ理由で信憑性がない[113]

「乱心」について[編集]

梶川与惣兵衛によれば、刃傷の少し前に梶川が浅野と話した時には特に異変を感じていなかったといい[116]、刃傷は突発的犯行だったことが推測される[116]。また、仮に吉良を傷つける動機(「遺恨」など)があったとして、江戸城中で、しかも勅使接遇という重要行事の最中に事に及ぶ理由がなく、更に殺意があったにもかかわらず、相手をつくのではなく袈裟がけに切りつけたのも不審点であることから[116]、浅野が乱心していたのではないか、ともされる[116]

また田村邸に預けられた浅野内匠頭は家臣に次のように伝えてほしいと依頼したという(『御預一件』)

此段、兼ねて知らせ申すべく候ども、今日やむを得ざる事故、知らせ申さず候、不審に存ずべく候[117]
(このことは予め知らせておくべきだったが、今日やむを得ざる事情で知らせる事ができなかった。不審に思うだろう)

「今日やむを得ざる事情」があったという事は、この日に何かあって突発的に斬りつけたのだともとれる。少なくとも以前からこの日に斬りつけようと計画したわけではないと思われる[117]

一方、『元禄世間話風聞集』には刃傷事件に居合わせた茶坊主のものとされる文書が残っており、これによれば内匠頭は「小用に立つ」といって席を立ち、大廊下を通り、「覚えたか」といって上野介に切りかかったという[118]。これを信じれば、上総介から悪口を言われた直後にカッとなって刃傷に及んだわけではなく、悪口のあと多少なりとも時間をかけた後に切りかかったことになる[118]

類似事件の先例について[編集]

先例として、赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。

  • 寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造三郎左衛門、鈴木久右衛門に切りつけた事件。理由は口論によるもの。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡、改易。木造は回復したが、逃げたことを咎められ、改易。加害者は死罪、被害者は死亡と改易。口論が原因であったことから、喧嘩両成敗にされたものと思われる。
  • 寛永5年(1628年):目付豊島信満が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木義精を殺害し、その場で自害した(豊島事件)。加害者は死亡改易、被害者は死亡。
  • 寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の水野伊兵衛と大橋長左右衛門が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。加害者は死罪、被害者は無罪の例。
  • 貞享元年(1684年):若年寄稲葉正休が、本丸で大老堀田正俊を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。加害者は死亡改易・被害者は死亡。

後年の例としては以下のものがある。

  • 享保10年7月28日 (旧暦)1726年8月25日):江戸城本丸で発生。水野忠恒松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7,000石)が拾ったが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かった。このとき将軍徳川吉宗は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。
  • 延享4年8月15日 (旧暦)1747年9月19日):江戸城内の厠で発生。熊本藩主・細川宗孝旗本板倉勝該に斬られて死亡した。宗孝には御目見を済ませた世子がおらず、このままでは細川家は無嗣断絶になりかねないところ、その場にたまたま居合わせた仙台藩主・伊達宗村が機転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。そこで、家臣たちは宗孝の遺体をまだ生きているものとして藩邸に運び込み、弟の重賢末期養子に指名して幕府に届け出た後で、宗孝が介抱の甲斐無く死去したことにして事無きを得たと言われている。加害者は死罪・被害者は死亡の例。
  • 天明4年(1784年)3月24日:江戸城中の間で発生。若年寄田沼意知(相良藩田沼家世子)に新番士佐野政言が切りつけ、田沼は重傷を負い佐野は拘束。田沼は事件から8日後に事件での傷が悪化し死亡し、田沼家世子は意知の子田沼意明に変更。佐野は田沼の死後すぐに切腹となるも、佐野家自体は政言に子が無かったため断絶するも親族には咎めは無かった。加害者は死罪・被害者は死亡の例。


類似の討ち入り事件[編集]
浄瑠璃坂の仇討

赤穂浪士の吉良邸討入りに類似した事件には、討入りの30年前に起こった寛文12年(1672年)の浄瑠璃坂の仇討がある。 浄瑠璃坂の仇討とは宇都宮藩を追放された奥平源八が寛文12年(1672年)2月3日に父の仇である同藩の元家老奥平隼人を討った事件である。 源八の一族と同情した脱藩有志の総勢40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。

源八ら一党は、目的を達成後には幕府へ出頭して裁きを委ねた。そこで本来ならば死罪であるところを、幕府により死一等を減じられて伊豆大島への流罪という寛大な処分に減刑された。しかも数年後の恩赦により、一党は他家へ召抱えられた。

この事件を知っていた赤穂浪士(内蔵助で当時14歳)は同様の寛大な処置を期待していた可能性もある[119]

深堀事件

深堀事件(ふかほりじけん)は、元禄13年12月19日(1701年1月16日)から12月20日(同1月17日)にかけて起こった、肥前国天領長崎(現・長崎県長崎市)において長崎会所の役人と佐賀藩深堀領の武士(家老格深堀鍋島家の家中のこと)の間に起こった騒動。

討ち入りに対する見解[編集]

「仇討ち」か否か[編集]

主君の遺恨を晴らすべく命をかけて吉良邸に討ち入った「義士」達が切腹に処せられた事は人々に大きな衝撃をもって迎えられた[120]

論争の焦点は多岐にわたるが、その主なものは赤穂浪士の行動が「義」にあたるのかという事である。これは浪士達の吉良邸討ち入りが「仇討ち」とみなせるかどうかにかかっている[121]。浪士達の行動が「仇討ち」だとすれば、それを果たした浪士達は忠臣であり義士であるという事になるし、そうでなければ彼らは忠臣でも義士でもない事になるのである[121]

この事件当時「仇討ち」というのは子が親の仇を討つなど目上の親族の為に復讐する事を指し[122]、主君の仇を討ったのは本事件が初めてである為[122]、事件当時は自明なことではなかった。 この問題は武士の生き方や幕藩制度の構造に深くかかわるものであった事もあり[123]、論争は幕末まで続いた[124]

「義士」としての肯定論[編集]

赤穂浪士達が切腹した元禄16年には早くも林鳳岡が『復讐論』を著し、「義士」達が主君の讐を討つのは儒教的道義にかなうとして彼らの行動を賛美した[125]。しかし鳳岡は同時に、彼らは法を犯した者達であるから「法律」の観点からは処罰は正当であるとして幕府の裁定を肯定した[125]。ただし鳳岡は、儒教的道義にかなう行為がどうして罰せられなければならないのかという肝心な点には答えていない[125]

また同じく元禄16年には朱子学者室鳩巣が赤穂事件に関する最初の「史書」[126]である『赤穂義人録』を著し、義士を賛美した[126]。本書では泉岳寺引き上げの最中にどこかに消えた寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命で浅野大学のもとへ向かったのだとし[126]、寺坂を義士の一人に数え赤穂浪士は寺坂を含めた「四十七士」だとした[126]。これにより「四十七士説」は生まれた[127]。室は周の武王を伐った行為とこれに抗議して餓死した伯夷兄弟の行為が後世ともに称えられた例を引き合いに出して義士への賛美と幕府の処分の正当性は矛盾するものではないとしている他、大石の忠義は称えつつも家老の職務は藩主が過ちを犯さないように補佐するものであると指摘して刃傷事件の原因は大石の家老としての能力不足にもあるという批判もしている[128]。なお本書は「史書」として出されたものであるが、今日の目から見れば赤穂事件に関する虚伝俗説を信用して書かれたものである[129]

赤穂浪士への批判・否定論[編集]

一方、佐藤直方は『四十六人之筆記』(宝永2年以前)において、内匠頭の刃傷において吉良上野介は無抵抗に逃げただけだという事実に着目し、刃傷事件は喧嘩ではなく内匠頭の暴力に過ぎず、よってそもそも上野介は赤穂浪士にとって「君の讐」でないとした[125]。また佐藤は、赤穂浪士達は吉良邸討ち入りの後に自主的に切腹すべきで、そうせずに幕府に報告にあがったのは、生きながらえて禄をはむ為ではないかと批判している[125]

荻生徂徠も『四十七士の事を論ず』(宝永2年頃)において、内匠頭は幕府に処罰されたのであって吉良に殺されたわけではないから吉良上野介は赤穂浪士にとって「君の仇」ではなく、内匠頭の行為も先祖の事を忘れた不義の行為とした[125]。したがって赤穂浪士の行動は、同情の憐みを禁じえないものの、「君の邪志」を引き継いだものだから「義」とは認められないとしている[125]。その後も浅見絅斎や三宅尚斎らにより義士論叢は続けられた[125]

享保17年に太宰春台が『赤穂四十六士論』で「義士」を徹底批判[125]した事で、義士論争は新たな局面を迎える[121]。春台の論が斬新なのは、幕府の処罰の可否を正面から論じた事にある[125]。春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が不過当である[125]。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり[125]、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという[125]

中間派・その他[編集]

三田村鳶魚は、「江戸学」に関する複数の評論・随筆において「あくまで実証・考証に立場を置きながら、伝説や脚色を廃して観察した一件の顛末を記した」として「是は是、非は非」の立場で意見を述べている[130]

寺坂吉右衛門問題[編集]

四十七士のひとりである寺坂吉右衛門は討ち入りに加わったにも関わらず、泉岳寺に引き上げた時には姿を消していた。 これは古来謎とされており、逃亡したという説から密命を帯びて消えたという説まで様々である。

そもそも討ち入りに参加しているか[編集]

今日、寺坂が姿を消したのは討ち入り後の引き上げの際だと考えられているが、事件当時の資料にはそもそも討ち入りに参加していないとするものもある。例えば、内蔵助、原惣右衛門、小野寺十内が連名で寺井玄溪に出した書状には

  • (1)「寺坂吉右衛門の儀、十四日暁迄これ在るところ、彼屋敷へは相来たらず候、かろきものの儀、是非に及ばず候」[131]

と、「十四日暁」まではいたが吉良邸にはいかなかったと書いてある。(「かろきもの」という発言は寺坂が四十七士の中で最も身分が低く唯一の足軽である事を指していると思われる)。なお当時の感覚では夜明けが来るまでを「十四日」とみなしていたので、「十四日暁」というのは今日の言葉でいえば十五日の夜明けの事である[131]

また原惣右衛門が堀内伝右衛門に対して「寺坂は討ち入り前までいたが討ち入り時に逐電した」という趣旨の事をいっており[131]、やはり寺坂は討ち入りに参加していない事になる。

しかし八木哲浩は以上の発言は「誤解か作為のあるもの」[131](すなわち間違いか嘘を含んだもの)で実際には寺坂は討ち入りに参加しているのではないかと述べている[131]。その証拠として八木哲浩は、『堀内伝右衛門筆記』において吉田忠左衛門が討ち入りについて述べている箇所の記述と寺坂が『寺坂信行筆記』で討ち入りについて述べている箇所の記述がほぼ同一である事を挙げている[131]。『堀内伝右衛門筆記』と『寺坂信行筆記』は互いに相手を参照できない状況で書かれており、両者の内容が偶然一致する事はありえない[131]。したがって、寺坂が討ち入りに参加して吉田忠左衛門とともに行動していたと解釈するのが正しいと思われる[131]

そして(1)の書状に関しては、寺坂が公儀の追及から逃れられるように討ち入りに参加しなかったと嘘をついたのではないかとしている[132]

また八木哲浩は寺坂が引き上げの早い段階で離脱したのだと推測しており[131]、その理由として『寺坂信行筆記』には引き上げの記述が短い事と、寺坂の主人である吉田忠左衛門が仙石邸に行った事実が記載されていない事を挙げている。さらに『寺坂信行筆記』の「新大橋へ係り」という記述も理由として挙げている。というのも実際には引き上げの際に新大橋を通ってないし[131]、仮にこの記述を「新大橋の近くを通った」と解するにしても今度は永代橋を渡った事を記述してないのがおかしい事になるからである[131]

逃亡か否か[編集]

泉岳寺における寺坂吉右衛門の供養塔(明治元年建立)。戒名が「逐道退身信士」と逃亡説に基づいたものになっている

『堀内覚書』にも吉田忠左衛門が

  • (2)「此者(=寺坂)は不届者にて候。重ねては名をも仰せ下さるまじく」[133]

と発言したとある。これを字義通りにとれば、寺坂は逃亡したのだという事になろう。

実際、『堀内覚書』を書いた堀内伝右衛門は、一方では寺坂は吉良邸まできて「欠落」したらしいと聞き、他方では寺坂は仇討の成就を伝える使いを申し付けられたのだと聞き判断に迷っていたが、(2)の忠左衛門の言葉で「実の欠落」なのだと推測した[134]

しかし逃亡説を支持しない立場からは、寺坂の密命を隠すためにあえてこのような嘘をついているとも考えられる[133]

実際下記のように、寺坂は単純に逃亡したのではなかろうと推測される文献が残っている。

  • (3)元禄16年2月3日に忠左衛門が娘婿伊藤藤十郎に当てた書状には「寺坂の事は是非を申しがたい。一旦公儀へ提出した書状に名が出ているので仲間として是非を申せない」、「仙石様屋敷でも(中略)一人が欠落ちしたと申し上げてある」、「寺坂についてはうかつな事は言わないようにしてもらいたい」と書かれている[135]
  • (4)同年2月26日には忠左衛門の親戚拓植六郎右衛門の書状に「吉右衛門はさりとては〳〵頼もしき心中、忠左衛門の頼もあるから自身に引とって世話したい」とある[133]
  • (5)忠左衛門の親戚である平地市右衛門の宝永7年の書状に「寺坂吉右衛門の身の上気の毒である」とある[133]

佐々木杜太郎は以上の書状を根拠にして逃亡説を退けている[133]

寺坂当人も『寺坂信行筆記』において

  • 私儀も上野介殿御屋敷へ一同押し込み相働き、引き払いのとき子細候て引き別れ申し候[62]

と、事情があって離れた旨を書いている

佐々木杜太郎はさらに逃亡説を退けている理由として以下をあげている

  • 内蔵助の(1)の書状に関しては用意周到な内蔵助が公儀への報告と矛盾する事を書くとは思えない[133]
  • 忠左衛門の(2)の発言における「重ねては名をも仰せ下さるまじく」という言い方は「この件についてはこれ以上触れるな」と言外に言っているようにも取れる[133]
  • 寺坂は12年も吉田忠左衛門の娘婿・伊藤家と忠左衛門の妻子の面倒を見ており、逃亡した人間ができる事とはおもえない[133]

野口武彦も逃亡説は退けており、理由として以下をあげている

  • 内蔵助の(1)の書状に書かれた討ち入り参加者のリストには寺坂の名が載っているにも関わらず、寺坂に関しては前述のように「是非に及ばず候」と書いてある。これは「今後寺坂については触れるな」というメッセージだとも取れる[136]
  • (2)の忠左衛門の件に関しては佐々木と同じく言外の意図を推測している[136]

一方八木哲浩は寺坂が自分の考えで姿を消したのだろうとして[132]逃亡説を支持している。八木哲浩は後述する理由により密命説を退けた上で、(3)の書状には忠左衛門が伊藤に寺坂の事を頼むとも書いてあるので、忠左衛門が寺坂をかばおうとする姿勢が見て取れるとしている[132]

密命を帯びていたか否か[編集]

密命説に肯定的な意見[編集]

野口武彦は前述したように内蔵助も忠左衛門も寺坂に関して隠したがっている以上、寺坂は何らかの密命を帯びていたのだろうとしている[136]

松島栄一は討ち入りの件を広島浅野本家などに報告させるため、内蔵助達が寺坂を逃がしたのではないかとしている[137]。寺坂は身分が低い足軽である為追及されることもなく、報告役として適任だった[137]

実際、事件当時から寺坂は広島浅野本家に報告に行ったのだろうという推測があり、例えば吉田忠左衛門が仙石邸で「組足軽一人が吉良討ち取り後に見えなくなった」といったところ仙石家中のものは広島の浅野大学のもとに事件の報告に行ったのだろうと推測したし[138]、堀内伝右衛門も同様の事を言っている[138]

また『寺坂信行私記』には寺坂の孫が

  • (6) 祖父吉右衛門儀は、その場より芸州江注進のため罷(まか)り越す。右芸州へ罷り越し候訳(わけ)は、内匠頭殿舎弟大学との居られ候に付き、内蔵助より差図(さしず)に付き罷り越し候[62]

と内蔵助の指図により、浅野大学に報告しに行くためにその場を離れたと記している。ただし、これは後になって書かれたものなのでそのまま信じることはできない[62]

初期の実録本である『赤穂鍾秀記』も密命説の立場をとり、これを室鳩巣の『赤穂義人録』も取り入れた事で、寺坂を抜いた「四十六士説」ではなく寺坂を入れた「四十七士説」は生まれた[134]

密命説に否定的な意見[編集]

一方、宮澤誠一は、(2)と(3)により、寺坂と忠左衛門には「何か二人の間で個人的に複雑な事情についての了解があったのかもしれない」[134]としつつも、密命説に対しては批判的で、その理由として以下の二つを挙げている。

第一に、仮に内蔵助や忠左衛門が寺坂をかばうためにあえて嘘をついているにしても、私信にまで「欠落」したと書く必要はないはずである[134]。寺坂とは直接関係がないと思われる四十七士の一人・三村次郎左衛門すらも泉岳寺で母にあてて書いた手紙に、寺坂が立ち退いた旨を述べている[134]

第二に、そもそも討ち入りが終わった時点で浅野大学らに密かにどうしても伝えなければならない事柄が果たしてあるのか疑問である[134]。仮にあったとしても、浅野大学が差し置きになったときすら主家に累が及ぶのを恐れて会うのを避けたほど慎重な内蔵助が、討ち入りの顛末を知らせる使者を立てるとは思えない[134]。また内蔵助は大石無人・三平に書簡を出し、死後の供養を頼むとともに「芸州・上方へも仰せ遣わされ下さるべく候」と述べている[134]。つまり危険を冒して寺坂を派遣するまでもなく、無人や三平に言伝を頼むなど、もっと安全な方法で討ち入りの報告ができたはずである[134]

佐々木杜太郎も宮澤誠一と同様、浅野大学が差し置きの際にすら会うのを避けた内蔵助が寺坂を浅野大学や瑤泉院への報告に使うはずがないとして密命説を退けている[133]

八木哲治も寺坂が密命をおびて広島の浅野大学のもとに行ったという説を退けている。 前述のように寺坂の孫は『寺坂信行私記』に寺坂が芸州広島に行ったと書いているものの、伊藤十郎太夫浩行が寺坂から聞き書きした史料には広島に行ったとは書いていない[138]。寺坂の孫と違い伊藤が寺坂をかばう立場にはない事を考えると、伊藤の聞き書きの方が信用でき、寺坂は広島に行っていないと見る方が自然ではないかと八木哲治は述べている[138]。史料から確実に言えるのは寺坂が討ち入り後、吉田忠左衛門の娘と孫がいる播磨国亀山へ向かった事だけである[138]

山本博文も寺坂の孫が書いた(6)の文章に関し、足軽の身分が「内匠頭殿」と書くはずがないとして(6)を孫による弁明なのだと解釈している[139]

また『寺坂信行私記』は『寺坂信行自記』に加筆して作られたものだが、加筆部分は例えば寺坂の名前の入った口上書など、寺坂が討ち入りに参加した事を証拠づける意図が見え隠れするものが多い[138]。したがって前述の芸州広島に行ったとする加筆も、寺坂の作為と解釈するべきであろう[138]

なお前述した伊藤による聞き書きには、「大石から播磨に向かうように言われたので、皆が泉岳寺から仙石邸にいくのを見届けて播磨に行った」という趣旨の事が記載されているが、前述のように寺坂は泉岳寺に行っていない可能性が高いので、これも寺坂の作為がある弁明であると考えられる[138]

さらに言えば、前述のように寺坂は泉岳寺引き上げの早い段階で姿を消していると考えられ、大石が播磨にいくよう説得する暇がなかったと思われる[140]

また密命説では寺坂の身分が低かったから寺坂を報告役に選んだとするが、大石は身分が低いものの討ち入り参加を歓迎しており、身分が低い事で差別される事はなかったのではないかと八木哲治は述べている[140]

その他の説[編集]

佐々木杜太郎によると、逃亡説・密命説以外でこれまで論じられた説は以下の3つになる[133]

  • 公儀に対する遠慮:高家に武士が乱入して首を取っただけでも公儀から秩序の破壊とみなされかねないのに、身分の低い足軽である寺坂吉右衛門が討ち入りに加わっていたら問題視されるので、寺坂を除外したというもの[133]
  • 亡君の名誉の為:身分の低い足軽である寺坂が討ち入りに加わっては亡君の名誉にならないので、寺坂を除外した[133]
  • 寺坂の本意から:寺坂は吉田忠左衛門に仕える足軽なので、直接の主人は浅野内匠頭ではなく忠左衛門である。よって他の者と違い、討ち入り後は忠左衛門の意思を重んじて退去し、忠左衛門の家族に活躍を物語ったとするもの[133]

佐々木杜太郎は「公儀に対する遠慮」や「亡君の名誉の為」という理由であるなら、なぜ最初から寺坂吉右衛門を同志に入れたのかという疑問がわくという理由により、最後の「寺坂の本意から」の説をとっている[133]

また山本博文は武士ではない寺坂を哀れんで吉田忠左衛門が寺坂を逃がしたのではないかとしている[141]

その他の論点[編集]

「此間の遺恨、覚えたるか」[編集]

『梶川与惣兵衛筆記』の東大史料編纂所写本には、浅野内匠頭は刃傷の際、「此間の遺恨、覚えたるか」と言ったとされるが、同じ『梶川与惣兵衛筆記』でも南葵文庫本(東大図書館所蔵)には「声をかけた」としか書かれておらず、本当に内匠頭がこの発言をしたのかはよくわからない[142]

刃傷の場所[編集]

浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ場所は通説では江戸城の松之大廊下であるが、本当の刃傷の場所は中庭を隔てて反対側の柳之間の前の廊下ではないかという説がある[143]

その根拠は、松之大廊下は将軍や御三家、勅使などの特別に地位の高い人が通る場所で高家の吉良が通れる場所ではない事と、赤穂浪士切腹直後に書かれた『易水連袂録』に「浅野と吉良が柳之間で言い争いをした後に吉良が廊下を逃げていき御医師之間の前で浅野が刃傷に及んだ」という趣旨の事が書かれている事である[143]

しかし宮澤誠一は、刃傷の場所は通説通り松之大廊下であろうとし、その根拠として事件の場に居合わせた梶川与惣兵衛による『梶川氏日記』に刃傷の場所が松之大廊下だと書いてある事と、田村家の記録に松之大廊下で事件があったと推定される場所に勅使と高家の控える定位置が記載されている(ので高家の吉良はこの日松之大廊下にいた可能性が高い)事を挙げている[143]

にもかかわらず『易水連袂録』に柳之間から御医師之間へ続く廊下で刃傷が起こったと書いてあるのは、柳之間と御医師之間がそれぞれ浅野を目付に引き渡した場所と吉良が他の高家に引き取られた場所なので、それが混同されたものであろう[143]。そもそも吉良と浅野は『易水連袂録』の記述とは異なり口論をせずに急に斬りかかっている[143]。おそらく、「口論の上刃傷に及んだ」という分かりやすいシナリオが俗説として流布した結果、大名や勅使が控える故に口論しにくそうな松之大廊下よりもより自然な場所として柳之間の前の廊下で刃傷に及んだというシナリオが流布されたのであろう[143]

太平記との関係[編集]

元禄時代に『太平記』は、太平記読みや人形浄瑠璃を通じて武士はもちろん町人にも広く浸透していた[144]。 このため赤穂浪士達は書簡や日記の中で、赤穂事件を太平記になぞらえて表現している[144]

たとえば進藤源四郎は内匠頭刃傷の後の赤穂藩の混乱を太平記における南北朝の動乱にたとえている[145]し、堀部安兵衛も太平記になぞらえて大石に決起を促している[145]し、小野寺十内の書簡にも太平記への言及がある[144]

また討ち入り後には大石を太平記の忠臣・楠木正成の再来とみなす落首が出たと『易水連袂録』に載っているし[146]室鳩巣も大石を楠木正成に例えている[146]

浪士の娘だと騙る女たち[編集]

赤穂浪士が切腹した後、浪士の娘だと騙る女が何人か登場した。

妙海尼堀部安兵衛の妻だと騙り、清円尼は大石内蔵助の娘だと騙り[147]長国寺の尼は武林唯七の娘だと騙った[147]

本願寺関係者の動き[編集]

吉良家と関係が深かった西本願寺は刃傷事件や討ち入り後、築地本願寺と書状を交わして吉良の傷の様子や浅野の心情など状況を把握しようとしていた[148][149][150]

史跡等[編集]

浅野内匠頭終焉の地
東京都港区新橋
追悼碑は田村家上屋敷跡にあったが環二通りの建設工事によ撤去され、田村邸から50mほど離れた場所に移された。理由不明ながら碑が後ろ向きに建てられていたが[151]、現在は再設置され、修正されている(画像参照)。
大石良雄外十六人忠烈の跡
東京都港区高輪一丁目
赤穂浪士の切腹後、大石内蔵助らを預かった細川綱利は切腹跡についた血を清掃することを禁じた[152][153]。さらに綱利は「彼らは細川家の守り神である」として17士の遺髪を分けて頂き供養塔や墓を建て[154]、切腹場所を屋敷の名所として残すように命じている。しかし、綱利の血筋が絶えたこと、延享4年(1747年)に江戸城中で細川宗孝が遺恨[注釈 8]により斬殺され加害者の遺臣が健在だったこと、この事件の際に浅野氏と不仲の伊達家が御家断絶の危機を救う恩人になったこと、など様々な事情が重なり綱利の遺言は守られなかった[注釈 9] 。明治に入ってからも細川邸跡はそのまま放置された状態だったが、第二次大戦後は徐々に整備され、現在は「大石良雄等自刃ノ跡」が道路脇にあり、公営住宅のに「大石良雄外十六人忠烈の跡」顕彰碑が設置されている[155]
水野監物邸跡
東京都港区芝五丁目
大石主税良金ら十士切腹の地
東京都港区三田二丁目
長門長府城主毛利甲斐守網元麻布上屋敷跡
東京都港区六本木六丁目
その他、関連の地

創作・俗説と史実の違い[編集]

天野屋利兵衛[編集]

天野屋利兵衛は、大坂の惣年寄を勤めた実在の人物「天野屋兵衛」の事だとする説もある[156]。しかしこの人物は赤穂藩とは無関係である。

南部坂雪の別れ[編集]

南部坂の別れは創作である。大石は瑤泉院に『金銀受払帳』その他帳面類を添えた書状を、瑤泉院の用人落合与左衛門に届けているが、これは手紙を送っただけで大石が直接南部坂の瑤泉院のもとへ向かったわけではない[53](なお書状の日付は元禄15年11月29日付であるが、『江赤見聞記』(巻六)によれば、この書状を実際に出したのは討ち入り当日の晩であるという。大石は討ち入りの計画が露見するのを恐れ、直前まで書状を手元に置いておいたのである[8])。 また12月9日付の書状には討ち入りする決意と吉良邸討ち入りの時に持参する口上書の写しが入っている[53]

赤埴源蔵、徳利の別れ[編集]

史実では赤埴には兄はおらず弟と妹がいるだけである[157]。 史実において赤埴は元禄15年12月12日に妹の夫である田村縫右衛門のもとを訪ねている[157]。その日赤埴が普段より着飾ってた事に関して縫右衛門の父から苦言を呈されたが、赤埴は苦言に感謝の意を述べ、一両日中に遠方に参るためあいさつに来た旨を述べた。そして縫右衛門と杯を交わして別れている[157]

事件当日の天気[編集]

史実では数日前に降った雪が積もっていたものの[158]、討ち入り当日は晴れていた[158]。また空には月が輝いていた[158]。 月は満月に近いが、事件時刻には月は大分西の空の低い場所にあったため、月齢から考えるほど明るくはなかった[159]

山鹿流陣太鼓[編集]

大石側の史料である『人々心覚』、『寺坂信行筆記』、『富森筆記』には、笛や鉦を持参した話は載っているが、太鼓を用意したとは書かれていない。

浪士の装束[編集]

史実では11月初めの覚書ですでに「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」に決まっており[160]、あとは思い思いの服装でよかった[160]。全員が一様であったのは定紋つきの黒小袖と両袖をおおった合印の白晒くらいである[160]。衣類の要所要所には鎖を入れて防備を固めた[160]

浪士47名の武装は、槍(全長2.7m)22名、薙刀3名、大身槍と十文字槍がそれぞれ1名、このほかに弓と掛け矢(ハンマー)、そして共通装備として47名全員が大小(日本刀)を帯びていた[161]

隣家の助勢[編集]

大石は事前に吉良の隣邸の土屋逵直に討ち入りの黙認を依頼して聞き入れられた。もしくは、の屋敷の屋根から様子をうかがっている者がいたので、片岡源五右衛門と小野寺十内が仇討ちを行っている旨を伝えたところ、了承したしるしに高提灯の数が増えた[61]。その下には射手を侍らせ、堀を越えてくる者があれば誰であろうとも射て落とせと命じたとの話が『鳩巣小説』に書かれているとされるが信憑性に疑問がある[162]

赤穂藩の改易で領民が大喜びして餅をついた[編集]

浅野が起こした事件によって赤穂藩が改易となり、それを聞いた領民が大喜びして餅をついたという話がある。この話の初出は文化3年(1806年)に刊行された伴蒿蹊の『閑田次筆』とみられている。そして『閑田次筆』に書かれている領民が喜んだという記述については以下の通りである。

  • 「或人曰く、赤穂の政務、大野氏上席にして、よろづはからひしほどに、民その聚斂にたへず、しかる間、事おこりて城を除せらるるに及びしかば、民大いに喜び、餅などつきて賑はひし大石氏出て来て事をはかり、近時、不時に借りとられし金銀など、皆それぞれに返弁せられしかば、大いに驚きて、この城中にかやうのはからひする人もありしやと、面(おもて)をあらためしとかや云々…」
  • 「ある人が言っています。赤穂の政治を大野九郎兵衛が上席で全てを仕切ったので、赤穂の庶民は税のとりたてに耐えなかったといいます。そうこうしている間に刃傷事件がおきて、城を没収されるにことになったので、赤穂の庶民は大いに喜んで餅などをついて大賑いをしました。そこへ大石内蔵助が出てきて政務を行うようになり、困った時に赤穂藩が借りていた金銀を皆に返済したので赤穂の人は、大変驚いて赤穂藩にこのような立派なことをする人もいたのか、と考えを改めたということです」

ただ、この『閑田次筆』は、浅野が殿中刃傷を起こした元禄14年(1701年)からおよそ100年後の文化3年(1806)に刊行されたものであること。そして、本文中に「ある人曰く」とあるように、領民が大喜びしたという話の出どころが誰が言ったのか、まったく不明であるなど、史料的に信憑性に欠ける要素が複数見られるため、『閑田次筆』に見られるこれらの話は、俗説の域を出ないものとされている。

また、浅野が切腹した後の当時の赤穂城とその城下町の様子を伝えるものとしては、赤穂城の受け取りの正使を務めた脇坂安照の家臣で、赤穂城で受け取りと在番の実質的指揮をとった龍野藩家老の脇坂民部の日記『赤穂城在番日記』が現存している。 この『赤穂城在番日記』には、当時の赤穂城の受け取りから脇坂民部らの在番が終わるまでの仔細が書かれている。日記には城の受け取りが終わり、脇坂民部らが在番となってから、赤穂の子供が赤穂城の堀で釣りを行っていることなどは書かれているが、赤穂の領民が改易となって喜んでいる様子などは書かれておらず、そうした様子が当時の赤穂で見られなかったことがわかっている[163]

上杉綱勝の毒殺[編集]

吉良上野介が上杉家を乗っ取るために上杉綱勝を毒殺し、吉良の息子の三之助に上杉家を継がせたという俗説がある。

三之助が上杉家を継いだというのは事実であるが、その為に綱勝を毒殺したという説には「何ら確かな史料的根拠がない」[164]。 この毒殺説は三田村鳶魚が『元禄快挙別録』の中で述べた説であるが[164]、鳶魚は後にこの説を撤回している[165]

『藩翰譜首書』には「綱勝、吉良の宴に赴き、帰路興中にて血を吐き、後七日卒す」と書いてあり、毒殺説はこれを吉良が宴の際に毒を盛っため綱勝が死去したと曲解したものである[166][信頼性要検証]

また、綱勝が死去したからといって吉良が上杉家を乗っ取れるとは限らない。結果として吉良の息子が養子に入り上杉家を継ぐ事にはなったが、綱勝の死去の時点では吉良家は複数ある養子候補のひとりに過ぎなかったからである[167][168][信頼性要検証]

上杉挙兵の制止[編集]

兵を挙げんとする上杉綱憲を止めたのは、千坂でも色部でもない。 高家で上杉屋敷にしばしば訪問していた畠山下総守(上杉謙信の養子上杉義春の曽孫)が訪れて、「江府の騒動」になるのは畏れ多いので討手を出さないようにという老中の言葉を伝えたため、幕命に背く事ができず藩士を送らなかったのだという。

吉良の服装[編集]

映画やテレビドラマでは、松之大廊下での刃傷事件時の吉良義央(従四位上左近衛権少将)の装束が狩衣あるいは大紋となっているのが見受けられるが、映画『元禄忠臣蔵』などに見られる狩衣は四品侍従成していない従四位下の者)の装束、映画『赤穂浪士 天の巻 地の巻』などに見られる大紋は侍従成していない五位の者の装束であり、朝廷との交渉を職務とする高家(初任従五位下侍従)の公式行事での装束は昇殿もできる直垂である。このうち前者は、「侍従・四品・諸大夫」と列挙した場合の「四品」は、あくまで「侍従成していない従四位の者」に限られるのを「四位の者全員」と解した時代考証の誤りによるところが大きい[注釈 10]。後者は、大紋(大紋直垂)と直垂の外見上の差は家紋の有無だけであり、見栄えからあえて大紋を使ったフィクションとも考えられる。

浪士お預けに関する俗説[編集]

赤穂浪士の討ち入りの報告を受けた際、幕府の筆頭老中阿部正武は「このような忠義の士が出た事はまさに国家の慶事」と称賛し[169]、将軍綱吉も報告を聞いて感激し、処分を熟慮して決めたいとして一旦浪士達を4大名家に御預けにしたのだといわれる[169][170]。しかし宮澤誠一によれば、この話は初期の実録本『赤穂鍾秀記』に見られる話をもとにしており、史料的に疑わしく、いささか信のおきかねる話だという[170]。しかも『赤穂鍾秀記』では順序が逆で、綱吉が報告を受けてから阿部の称賛の話が出ている[170]

また12月23日に寺社奉行、大目付、町奉行、勘定奉行計十四名が連名でこの事件の処分を老中に答申した文書とされるものが残っており、『赤穂義人纂書』(補遺)に「評定所一座存寄書」という名称で載っているが、山本博文と宮澤誠一によればこの文章は偽書であるという[171][172]。偽書だとされる根拠はまずこの文章には上杉家の領地を召し上げるべきと書いてあるが、幕府の指示を守って動かなかった上杉家を処分するはずがないし[171]、幕府は吉良邸討ち入りを仇討ちと認めなかったのにこの文書では赤穂浪士を真実の忠義者と讃える[172]など不自然な点が多いからである。

一方、八木哲浩は上述した不自然な点をみとめつつも、「評定所一座存寄書」は偽書ではないだろうとし、その根拠として『徳川実紀』に文書の記述と符合する部分がある事をあげている[173]。『徳川実紀』は江戸後期に成立したものなので、『徳川実紀』の記述も偽書を写している可能性もあるが、八木は幕府内に残された何らかの確かな史料を元にしたとする方が自然ではないかとしている[173]

処分決定に至るまでの議論[編集]

「切腹」とする処断が決定するに至るまでに、幕府内でどのような議論が成されたのかに関し、2つの異なる話が伝えられる。

1つは『徳川実紀』に載っている話で、この史料によれば幕閣での議論が収束せず、日光門主公弁法親王に意見を求めたという。 このとき公弁法親王は以下の趣旨の返答をし、これにより切腹が決まったと記されている。法親王曰く「彼らが主の讐を遂げた事は立派だが、その志を果たし今は心残りはないだろう。彼らは公の刑に身を寄せると申し出ているのだから今さら彼らを許しても他家につかえる事もできない。彼らの武の道を立て死を賜った方がよかろう」[174]

しかし『徳川実紀』は事件から百年以上経ってから成立した史料であり、しかも『徳川実紀』は以上の事実を伝聞として伝えるのみでその立証・真偽を保留している[175][174]。 ゆえに、おそらく将軍綱吉と懇意であった公弁法親王に仮託して述べた虚説であろう、とする説がある[175]

もう一つの話は『柳沢家秘蔵実記』に載っている話で、この史料によれば、老中等が赤穂浪士の討ち入りは「夜盗の輩」同然だから「打ち首」にすべきだと一旦は決定したのだという[175]。しかしこの決定に不満を持った側用人柳沢吉保が家臣の儒者・荻生徂徠に相談したところ、徂徠は「赤穂浪士の行為は、将軍綱吉が政務の第一に挙げている忠孝の道にかなったものだから、打ち首という盗賊同様の処分に処すべきではない。彼らに切腹を賜れば赤穂浪士の宿意も立ち、世上の示しにもなる」という趣旨の事を述べた[175]。この意見を将軍綱吉に「上聞」したところ綱吉は大いに喜び、一転して切腹に決まったと記されている[175]

徂徠が幕府に提出した答申書と言われる『徂徠儀律書』でもやはり切腹を献言しており、この史料の趣旨に拠れば「赤穂浪士の報讐は義にかなっているが、それは自己の一党に限る話だから所詮は私の論である。したがって天下の規矩である法を維持する立場に立って武士の礼にかなう切腹を申しつければ、上杉家の願いにもこたえ、赤穂浪士の忠義も認めた事になる」という論法を主張したとされる[175]

しかしこうした話にも疑問が残り、『徂徠儀律書』の内容は同じく徂徠が著した『四十七士の事を論ず』の主張と決定的に矛盾しており、前者では赤穂浪士の討ち入りを「義にかなった」仇討ちであるとみなしているのに、後者では討ち入りを不義とみなしており仇討ちであるとも認めていない[175]

以上の事から宮澤誠一は『徂徠儀律書』と称される史料は徂徠が書いたものではなく、『柳沢家秘蔵実記』も柳沢吉保が自己弁護の為に事実を転倒させているのではないかと述べている[175]。 八木哲浩も宮澤誠一と同様の理由で『徂徠儀律書』は後人の作だろうと述べている[173]

備考[編集]

預かり大名と赤穂浪士との関係[編集]

熊本藩細川家4代目の細川綱利は、若くして赤穂藩の藩主となった浅野内匠頭の後見をしていたとされる。

関係を示す史料としては、細川綱利の事績を記録した『御家譜続編』があり、そこには「十三箇条の諌言書」が納められている[176]

そうした関係もあり、細川綱利は大石内蔵助以下17名の赤穂浪士を請取り、主君に忠を尽くした赤穂浪士を厚遇した。

  • 細川家での赤穂浪士の待遇は行き届いたもので、細川家に着いた晩に、一同には小袖二枚ずつ与えられ、歳暮には更に一枚と帯などが与えられた[177]
  • 食事は手のかかった御馳走で、二汁五菜のほか、菓子や夜食なども出され、後には酒まで出された。酒は「薬酒」という名目で出された[177]
  • あまりの御馳走に、大石を始めとした赤穂浪士の面々から、「我ら浪人して軽い物ばかり食べており申したが、当家に参ってからは結構な御料理ゆえ、腹にもたれてなりませぬ。唯今は麦飯に塩いわしが恋しくなり申した。何卒御料理を、軽い物にお願い申したい」と申し入れがあった。しかしながら、世話をしていた堀内伝右衛門が料理方に掛け合ったが、料理方は怒り出す始末で、ついに一同の希望は実現されなかったという[177]
  • 風呂や手水場の取り扱いも丁寧で、風呂の湯は一人ごとに変え、手水の際には、一人ずつ坊主が水をかけた[177]
  • これらのあまりにも丁寧すぎる処遇に、赤穂浪士達から簡略にしてほしいと申入れを行ったほどだった[177]
  • 義士らの切腹は白金屋敷の大書院の舞台脇、手水石の向かいで行なわれた。その後、赤穂浪士達がいた大書院の間を清めようと畳替えをすることになったが、細川綱利は「十七人の勇者共は御屋敷のよき守神」として、畳を替えることを許さなかった。家来衆はそれに深く感じ入った。なぜなら、お預かりの他の三家は場所を清め、仙石家に至っては畳から障子まで全て替えたからであった。この後、細川綱利は気心の知れた客人には切腹の場所を名所として見せたという[178]

こうした細川家に預けられた赤穂浪士の待遇の話などは、細川家で赤穂浪士を親身になって世話した接待役の一人、堀内伝右衛門が書いた『赤穂義臣対話』・『堀内伝右衛門覚書』などに書かれている。

関連人物[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 諱の読みは諸説あるが、愛知県西尾市の華蔵寺に収められる古文書の花押などから「よしひさ」と考察される。
  2. ^ 現在の東京都港区新橋4丁目
  3. ^ 明治政府による藩札交換率は、薩摩藩の藩札でも33銭3厘、土佐藩も32銭2厘であり[23]、改易藩のものとしては破格の交換条件である。
  4. ^ 江戸商人浅田孫之進の元禄15年極月(12月)16日付書状に「江戸中の手柄に御座候」とある[65]。同じく、近江商人の元禄15年12月15日書状(町立近江日野商人館所蔵文書)には「いさぎ能キとの評判ニて候」とある。京都の儒学者伊藤東涯の日記「伊藤氏家乗」(影印複写版・天理図書館蔵)の元禄15年12月14日条に「可謂忠肝義胆矣」とある。そして、伊勢藤堂藩の無足人山本平左衛門日並記の元禄16年正月12日条に「揚一天名誉之事、諸人催感涙也」とあり[66]、地域や身分を問わず、赤穂浪士の討ち入りを称賛・評価した事件直後の記録などが残っている[67]
  5. ^ 浪士らは泉岳寺から仙石邸に一旦移送されていたが、肥後藩細川家は泉岳寺から直接移送と勘違いし、江戸家老三宅藤兵衛の指図によりその旨の準備(17人の預かり担当に対し、警護含む人員847人)が用意されたが、仙石邸からの受取と知って急遽行先を変更した上で、当時としてはかなり夜間となる午後10時に仙石邸から17名の受け取りを行っている。これにより、現場では多少の混乱・情報の錯綜があったことが窺い知れる。
  6. ^ 高家の「今川」における「品川」と同じ扱い。
  7. ^ 「東条」から「吉良」へ復姓したのは、義叔の孫に当たる義孚の代である。
  8. ^ 細川家では人違いの犯行としているが、板倉家では「細川屋敷から排水が隣の板倉邸に流れたことでの遺恨」としている。(「安中古文書」群馬県立文書館)
  9. ^ 熊本藩御家資料(細川家文書・藩主裁可文書)ほか、熊本大学寄託永青文庫)。供養施設のほか、遺構として畳三枚、屏風、風雨除け、脇差台があったとされる。
  10. ^ 高家の装束が直垂であることは、神坂次郎著『おかしな大名たち』所収の大沢基寿の史談会での談話に明らかである。

出典[編集]

  1. ^ 三田村(1930)松島(1964)今尾(1987)宮澤(1999)野口(1994)田口(1999)田原(2006)山本(2012a)渡辺(2013)、『元禄時代と赤穂事件』(大石学、角川選書)、『忠臣蔵の世界: 日本人の心情の源流』(諏訪春雄 大和書房)
  2. ^ 宮澤(2001) p28、p147-151
  3. ^ 例えば1888年の『江戸本所讐討 : 赤穂浪士吉良義英』 森仙吉編、東京屋 近代デジタルイブラリー
  4. ^ 宮澤(2001)山本(2013)
  5. ^ 野口(2015) p70
  6. ^ a b c d e f g h i j 山本 2012a, §2.2.
  7. ^ a b 山本 2012a, §2.3.
  8. ^ a b c d 山本 2012a, §4.2.
  9. ^ a b 山本 2012a, §4.3.
  10. ^ 宮澤(1999) p146
  11. ^ a b c d e 山本 2012a, §1.1.
  12. ^ 野口(1994) p56
  13. ^ 山本(2012b) 序章「基礎資料と事件の経過」
  14. ^ a b c d e f 山本 2012a, §1.2.
  15. ^ 『一関藩家中長岡七郎兵衛記録』宮澤(1999) p44より重引。
  16. ^ a b 宮澤(1999) p43-45
  17. ^ a b c 山本 2012a, §1.3.
  18. ^ 谷口, pp. 40-42.
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参考文献[編集]

歴史に関する文献[編集]

  • 松島栄一『忠臣蔵―その成立と展開』岩波新書、1964年(昭和39年)。ASIN B000J8T3SI
  • 赤穂市総務部市史編さん室『忠臣蔵第一巻~第七巻』兵庫県赤穂市、1989年(昭和64年)~2014年(平成26年)。
  • 野口武彦『忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声』ちくま新書、1994年(平成6年)。ISBN 978-4480056146
  • 野口武彦『花の忠臣蔵』講談社、2015年(平成27年)。ISBN 978-4062198691
  • 田口章子『おんな忠臣蔵』ちくま新書、1998年(平成10年)。ISBN 978-4480057808
  • 宮澤誠一『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』三省堂、1999年(平成11年)。ISBN 978-4385359137
  • 谷口眞子『赤穂浪士の実像 歴史文化ライブラリー 214』吉川弘文館、2006年(平成18年)。ISBN 978-4642056144
  • 田原嗣郎『赤穂四十六士論―幕藩制の精神構造 (歴史文化セレクション)』吉川弘文館、2006年(平成18年)。ISBN 978-4642063036
  • 山本博文『これが本当の「忠臣蔵」赤穂浪士討ち入り事件の真相』小学館101新書、2012年(平成24年)。ISBN 978-4098251346
  • 山本博文『「忠臣蔵」の決算書』新潮新書、2012年(平成24年)。ISBN 978-4106104954
  • 山本博文『赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)』吉川弘文館、2013年(平成25年)。ISBN 978-4642064613
  • 山本博文『知識ゼロからの忠臣蔵入門』幻冬舎、2014年(平成26年)。ISBN 978-4344902886

史料[編集]

その他[編集]

関連書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]