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日本電建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本電建株式会社
種類 株式会社
本社所在地 東京都中央区八重洲2丁目10番12号
代表者 小佐野隆正
資本金 60億4,560万円
売上高 186億1,400万円
決算期 3月末日
主要株主 国際興業株式会社
関係する人物 小佐野賢治
田中角栄
特記事項:データは全て大東建託へ譲渡前の2001年3月期のもの。
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日本電建株式会社(にほんでんけん)とはかつて存在した住宅メーカー。主に木造住宅を手がけ、東京都中央区に本社を置き、全国に支店網を築いていた。国際興業グループの一つであったが、2002年大東建託へ建築部門を譲渡。翌年9月に解散した。

概要

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日本電建は、当時一般的でなかった住宅・建物を月賦で販売する方法を積極展開し、一時は住宅販売業界トップの座につけた。しかし、1959年にワンマン社長だった平尾善保が死去するとお家騒動が勃発[1]。紆余曲折を経て、1961年田中角栄が社長に就き、腹心で炭鉱国管疑獄で田中と共に連座した入内島金一ら、田中ファミリーも役員として連なった。田中は社長に就くと営業目的を変更して、土地の売買等を付け加え、客が月賦で家を買おうとして積み立てていた掛金をそのまま現金として寝かしておいてはもったいないとして、現金預金を担保に銀行から借金し、その借金で土地と株を買う事業に乗り出す[2][3]

日本電建は田中金脈の中核企業となるが、土地買い占めなどによって資産が食い潰され、加入者の間で怪文書が出回り、会社の未来に不安を持った労組が、「オーナーに会わせろ」と大蔵大臣だった田中のもとに押しかけ、座りこんだりした[4]。そうしたことから、1964年、田中に事態収拾を請われた国際興業社主の小佐野賢治が、日本電建株1株を160円に評価して(額面は50円)、日本電建を18億円で買い取った(事実上の政治献金とみられた)[5][6]。その後、小佐野の手腕によって日本電建は再建を果たし、1973年に業界トップの地位に返り咲いた[7]

2002年に事業の選択と集中を進める国際興業が、日本電建の建築部門を大東建託に譲渡し、2003年9月に、日本電建は解散した[5]

親会社・国際興業が三和グループの親睦会・みどり会に属したため、国際興業グループ時代の日本電建も三和グループに属した[8]。また1985年に開催された科学万博に三和グループがパビリオン「みどり館」を出展した際には、日本電建もつくばみどり会のメンバーとして名前を連ねた[8]

出版部門を1961年8月に分離してニューハウス出版が設立された(2017年に事業停止)[9]

プロゴルファーの青木功は日本電建の所属プロだったこともある。

沿革

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  • 1931年:平尾善保が日本電話建物株式会社を設立。積立金により電話を設置するか建物を建てられるか選べることが「電話建物」の名前の由来。
  • 1943年:戦況悪化により営業中止。
  • 1950年:営業再開。
  • 1959年:創業者の平尾善保が死去。
  • 1961年:田中角栄が社長および田中ファミリーが役員に就任。
  • 時期不明:日本電建株式会社に社名変更。
  • 1964年:小佐野賢治が田中角栄より譲り受け、国際興業グループ入り。
  • 1973年:プロゴルファー青木功が契約プロとなる。
  • 2002年:大東建託へ建築部門が事業譲渡。新日本電建が発足。
  • 2003年
    • 7月:新日本電建が大東住託(現:大東建設)へ社名変更。
    • 9月:日本電建が解散。

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脚注

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出典

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  1. ^ 『田中角栄研究全記録 上』p.73
  2. ^ 『田中角栄研究全記録 上』p.74
  3. ^ 『政商―昭和闇の支配者〈2巻〉 (だいわ文庫) 』p.203
  4. ^ 『田中角栄研究全記録 上』p.84 - 85
  5. ^ a b 「インサイド 国際興業 小佐野帝国の重大局面」『エコノミスト』2004年7月20日号
  6. ^ 『田中角栄研究全記録 上』p.85
  7. ^ 『政商―昭和闇の支配者〈2巻〉 (だいわ文庫) 』p.214
  8. ^ a b 『国際科学技術博覧会公式ガイドブック』、p.196
  9. ^ ニューハウス出版、私的整理へ”. 新文化 (2017年4月19日). 2020年10月30日閲覧。
  10. ^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.45,47-52

関連項目

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参考文献

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