八重洲

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八重洲
東京駅八重洲口
東京駅八重洲口
八重洲の位置(東京23区内)
八重洲
八重洲
八重洲の位置
北緯35度40分47.45秒 東経139度46分10.78秒 / 北緯35.6798472度 東経139.7696611度 / 35.6798472; 139.7696611
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Tokyo Prefecture.svg 東京都
特別区 Flag of Chuo, Tokyo.svg 中央区
地域 日本橋地域(一丁目)
京橋地域(二丁目)
人口
2019年(令和元年)9月1日現在)[1]
 • 合計 73人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
103-0028(一丁目)[2]
104-0028(二丁目)[3]
市外局番 03[4]
ナンバープレート 品川

八重洲(やえす)は、東京都中央区地名で、東京駅東側一帯を指すエリア名である。郵便番号は一丁目が103-0028[2]、二丁目が104-0028[3]

概要[編集]

東京駅の東側に位置し、東京駅では西側の出口(皇居方面)を「丸の内口」、東側の出口(日本橋方面)を「八重洲口」と称することから、駅西側一帯を「丸の内」、東側一帯を「八重洲」と通称している。ただし、東京駅の駅舎、プラットフォーム等の施設はすべて千代田区丸の内一丁目に位置し、千代田区丸の内と中央区八重洲の境界は、東京駅八重洲口駅前よりもやや東にある。

八重洲口駅前に位置するグラントウキョウ(ノースタワー、サウスタワー)、シャングリラホテル東京などのビル群の住所はいずれも千代田区丸の内一丁目に属する[注釈 1]

地理[編集]

中央区の西側に位置する、南北方向に長い長方形状の区である。西はおおむね外堀通り(旧江戸城外濠)付近を境界として千代田区大手町丸の内)と隣接する。北は日本橋川を隔てて日本橋本石町、北東角で日本橋室町と接する。東の境界は(日銀通り~)八重洲仲通り~柳通りと名称の変わる一連の道路で、日本橋京橋と接する。また、南では東京高速道路(旧京橋川)付近を境界として銀座と隣接する。一丁目と二丁目があり、ほぼ中央を走る八重洲通りを挟んで北側が一丁目、南側が二丁目である。

中央区の町名では唯一、旧日本橋区と旧京橋区にまたがっており、一丁目が旧日本橋区、二丁目が旧京橋区である。丁目毎に郵便番号が異なっていることや(一丁目は日本橋郵便局、二丁目は晴海郵便局がそれぞれ集配を担当)、税務署(一丁目は日本橋税務署、二丁目は京橋税務署の管轄)や消防署(一丁目は日本橋消防署、二丁目は京橋消防署の管轄)の管轄が分かれているのは、その名残である。

歴史[編集]

「八重洲」の語源[編集]

「八重洲」という地名は、1600年(慶長5年)に日本に漂着し、後に徳川家康の国際情勢顧問や通訳として活躍したオランダ人ヤン・ヨーステン(和名:耶楊子(やようす))に由来する[5]。1600年(慶長5年)に彼が徳川家康から与えられた屋敷の周辺が「やよす河岸」と呼ばれるようになった[6]のが、地名としての「八重洲」の起こりとなる。ただし、ヤン・ヨーステンの居宅は江戸城の内濠沿い(現在の千代田区丸の内)にあった[6][7]

江戸時代後期の江戸切絵図では和田倉門から馬場先門周辺にかけての内濠沿いの道(現在の日比谷通り)に「八代洲河岸(川岸)」と記されている[注釈 2]

現代の印象に反して「八重洲」はもともと「東京駅の西側」、「丸の内」に含まれる地域にあった地名である。「八重洲」が東京駅東側を指す地名として定着し、「丸の内」の対と見なされるには、外濠に架かっていた八重洲橋という橋の存在と、東京駅の歴史が関わる。

江戸時代から東京駅開業まで[編集]

現在の八重洲地域[編集]

現在の外堀通りはかつて江戸城の外濠であり、江戸時代には呉服橋と鍛冶橋が架かっていた。呉服橋は呉服橋交差点(外堀通りと永代通りの交差点)、鍛冶橋は鍛冶橋交差点(外堀通りと鍛冶橋通りの交差点)に名を残す。橋の内側には、呉服橋門と鍛冶橋門(江戸城三十六見附参照)が設けられており、外濠の内側は江戸城外郭(いわゆる「丸の内」)であった。外濠の外側は「城辺(しろべ)河岸」と呼ばれ[10]商工業者の集住地であった[11]。材木関係の職人が集住した(上・北・南)槇町、檜物町、桶町、(元・南)大工町[11][12]、南鍛冶町や北紺屋町[12]などの旧町名は、こうした歴史に由来する。

現在の八重洲一丁目北端は日本橋川である。日本橋川周辺には河岸地(物流拠点・市場)[注釈 3]が発達し、一石橋には「迷子しらせ石標」が設けられるなど、賑やかな地であった[11]

外濠の呉服橋門は、門外に幕府呉服司後藤縫殿助の屋敷があったことに由来する。なお江戸時代後期には北町奉行所が呉服橋門内に置かれており、東京駅の八重洲北口付近に解説板がある[注釈 4]

現在の八重洲通りの場所には、江戸時代初期に外濠と楓川(現在の首都高速都心環状線)を結ぶ運河「紅葉川」があった[11][10]。紅葉川は江戸城建設資材を運搬するために開削された運河[注釈 5]であるが、正保年間(1644年-1647年)に西半分にあたる外濠と中橋(東海道に架かっていた橋。現在の日本橋三丁目交差点付近)の間が埋め立てられて火除地とされ、中橋広小路と呼ばれた[10]

現在の八重洲二丁目南部にあった鍛冶橋門の名は、門外に南鍛冶町があったことに由来するという。鍛冶橋門外には狩野探幽が屋敷を拝領し、「鍛冶橋狩野家」を興した。桶町には幕末期に千葉定吉の剣術道場(桶町千葉道場)があった。

現在の八重洲二丁目南端には京橋川で、江戸時代には一帯に大根河岸と呼ばれる青果市場が成立した[16]。大根河岸は昭和初期まで青果市場として繁栄し、現代も「京橋大根河岸通り」の名が残る[16]

1872年(明治5年)に郡区町村編成法が施行され、東京府のもとに東京15区が置かれた。この際、現在の八重洲通り以北が日本橋区、以南が京橋区となった(#地名の変遷参照)。

八代洲河岸と麹町区八重洲町、八重洲橋[編集]

慶長記』に道三河岸と八重洲河岸の記載があるのが、江戸における「河岸」の初出記事ともなっている[17]:960。1608年(慶長13年)には、道三河岸と八重洲河岸に奉行所が設置されて町人の見張り番所が置かれた[17]:960

郷土史家の菅原健二によれば、徳川家康による江戸建設期、和田倉門から日比谷にかけての日比谷入江(現在の皇居外苑付近まで入り込んでいた入江)の東側にあった江戸前島の岸が「八代洲海岸(河岸)」と呼ばれたという[13]。八代洲河岸は江戸初期の中心的な河岸であり、築城資材を積んだ船が入り、江戸城建設の起点となるとともに、経済活動の拠点ともなった[13]

日比谷入江の埋め立て、江戸城・城下の整備とともに町人は外側へと移転させられていくが、寛永江戸図では内濠外側に河岸や町人地が残されている[13]

江戸城が整備されて以降、現在の東京駅西側、内濠と外濠に挟まれた一帯には大名屋敷が立ち並び[8]、中央を走る街路から大名小路とも呼ばれた地域となった[9]。馬場先門近くの「八代洲河岸」には定火消屋敷の一つが置かれており[注釈 6]歌川広重がこの屋敷で誕生したことで知られる[18]。この一帯の大名屋敷は、安政の大地震幕末の政治的変動によって荒廃し、明治維新後に官有地となったが、1872年には大火(銀座大火)で焼失を被るという歴史をたどる[8]

昭和初期の麹町区の町名再編。「八重洲町」が見える。

1872年(明治5年)、外濠の内側(現在の東京駅西側)に「八重洲町1~2丁目」の町名が設定された[7][18]。現在の丸の内2丁目の南部にあたり、おおむね丸ビル南側の通り(丸の内2ndストリート)以南である。この時期、「丸の内」は八重洲町や、その北隣の永楽町などを含む一帯の通称地名として使用されていた[9]。1878年(明治11年)にこの地域は麹町区に含まれた[18]

1883年(明治16年)測図の「東京図測量原図 : 五千分一 東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍」によれば、内濠側の八重洲町一丁目に陸軍施設(東京鎮台騎兵営・輜重兵営)、外濠側の二丁目に官庁(司法省東京裁判所大審院警視庁)が置かれていた[19]

1884年(明治17年)、外濠に架かる呉服橋鍛冶橋との間に新たな橋として八重洲橋が架けられた[6][18]。橋の名は、日本橋区京橋区(現在の中央区)から麹町区八重洲町に通じることから付けられた[6][7]

1890年(明治23年)、八重洲町一丁目を含む丸の内一帯の広大な土地が、三菱の岩崎弥之助に払い下げられた。1892年(明治25年)、麹町区八重洲町一丁目1番地(現在は丸の内二丁目6番2号)に三菱一号館(建設当時は「第1号館」)が建設されたのを嚆矢として、「一丁倫敦」とも呼ばれる丸の内の開発がすすめられていく。

東京駅の開業以後[編集]

「丸の内口」と「八重洲口」[編集]

1914年大正3年)、東京駅が開業した。この時、駅舎は西側(皇居側)にのみ置かれ、東側には車両基地が設けられたため、八重洲橋は撤去された。

東京駅の改札が西側にしかなかったことから、日本橋などがある東側へ行くには迂回を強いられた[20]1923年(大正12年)の関東大震災後で駅東側の地域も大きな被害を受けたが、震災復興再開発事業の一環として1925年(大正14年)に八重洲橋が再架橋され、東京駅の車両基地の上を跨ぐ跨線橋が作られて丸の内側に直線的に行けるようになった。1929年昭和4年)には東京駅東側に乗車券売場のみの改札口が設けられた。東京駅の改札は当初、西側を「八重洲町口」、東側を「八重洲橋口」と呼んだ。

1929年(昭和4年)には、東京駅周辺の町名が再編成され、東京駅の西側にあった麹町区「八重洲町」が廃されて「丸ノ内二丁目」となった[7][18]。町名再編成の結果、東京駅の西側から「八重洲」の地名が消滅し[18]、東京駅の改札も「八重洲町口」を「丸ノ内口」に、「八重洲橋口」を「八重洲口」と改称した。また、震災復興事業に関連して、日本橋区と京橋区の境界となっていた道路が「幹線7号街路」として拡幅・延伸され、「八重洲通り」と命名された[18]。こうしたことから、東京駅を中心として西側を「丸ノ内」[注釈 7]、東側を「八重洲」とする地理的雰囲気が醸成されていった[18]

なお、麹町区八重洲町一丁目1番地であった土地(三菱一号館の北側)に三菱によって建設されたビル(1926年(大正15年)2月着工、1929年(昭和4年)3月竣工)は、「八重洲ビルヂング」と命名された。このビルは1962年(昭和37年)に「丸ノ内八重洲ビルヂング」と改名されるが、これには「八重洲側」にあるように誤解されるというテナントからの苦情があったためという(丸ノ内八重洲ビルヂングは2006年に解体され、現在は丸の内パークビルディングが建つ)。

戦災と復興[編集]

太平洋戦争末期、空襲により八重洲口周辺の市街は壊滅的な被害を受けた[20]

戦後、戦災残土(瓦礫)処理のために外濠や京橋川は埋め立てられた。占領当局から戦災残土処理が命令される一方で、必要な機材や燃料は不足しており、濠や川の埋め立ては「手っ取り早い」方法であった[21][22](ただし、戦前から濠や川の埋め立て計画が立案されてはいた[22])。1948年昭和23年)には八重洲橋も姿を消した。埋め立てられた外濠跡を用いて駅の拡張工事が行われた。1948年(昭和23年)11月、八重洲口に新駅舎が建設されたが、6か月後の1949年(昭和24年)4月、失火により焼失した。

戦前、東京駅の乗降客数の割合は 6:4 でオフィスビルが多い丸の内側が多かった。しかし戦後、丸の内側の多くのオフィスビルが連合国軍最高司令官総司令部に接収されたため、追い出された企業の多くが東京駅をはさんだ八重洲に拠点を求めた。このことにより、一時的に八重洲側の乗降客数が逆転、地価も暴騰した[23]

現行行政地名「八重洲」の成立と八重洲口の発展[編集]

八重洲通り(日本橋3丁目交差点)にあるヤン・ヨーステン記念碑(2007年撮影)。

1954年(昭和29年)、日本橋呉服橋、槇町が改称し、八重洲という町名が生まれた[6][7]。これによって名実共に東京駅の西が丸の内、東が八重洲になった。1954年(昭和29年)には新たな八重洲口駅舎(鉄道会館ビル)が竣工、大丸東京店が開業した。

鉄道会館ビルは1968年に6階建てから12階建てに増築され八重洲のランドマークになった。1960年代後半には大規模な八重洲地下街が段階的に建設され商業施設が大幅に増えた。

平成以降の八重洲口は、隣接する丸の内に比べ老朽化したビルが目立ち、再開発はあまり進んでいなかったが、「東京ステーションルネッサンス」の一環として再開発事業が進められた。2007年11月、鉄道会館ビルの南北に超高層ツインタワービルグラントウキョウが大丸の移転とともに竣工した。その後、鉄道会館ビルは解体され、2013年9月、跡地にペデストリアンデッキ「グランルーフ」が竣工した。駅前広場が整備され、狭かったバス乗り場は大幅に拡張された。鉄道会館ビルの解体により、東京湾側から丸の内側への海風の通り抜けが改善され、ヒートアイランド現象が緩和することが期待されている。

地名の変遷[編集]

昭和初期の日本橋区の町名再編
昭和初期の京橋地域の町名再編
中央区の住居表示対照図

現行行政地名としての「八重洲」は、1954年(昭和29年)の町名変更によって成立したものである[24]

現在の八重洲一丁目(旧日本橋区域)[編集]

八重洲一丁目は旧日本橋区である。1872年時点では以下の町名があった。

  • 西河岸町
  • 呉服町
  • 元大工町
  • 数寄屋町
  • 檜物町
  • 上槇町

1928年(昭和3年)に呉服橋一丁目から呉服橋三丁目となった。

1947年(昭和22年)の中央区成立時に「日本橋」を冠称して中央区日本橋呉服橋一丁目から日本橋呉服橋三丁目となった(旧日本橋区域ではすべての町名に「日本橋」が冠されることになったが、この後に行われる「八重洲」への改名により、現在の八重洲一丁目は旧日本橋区域で「日本橋」がつかない唯一の地域となる[18]。)。

現在の八重洲二丁目(旧京橋区域)[編集]

八重洲二丁目は旧京橋区である。1872年時点では以下の町名があった。

  • 北槇町
  • 南槇町
  • 桶町
  • 南大工町
  • 南鍛冶町
  • 五郎兵衛町
  • 北紺屋町

1931年(昭和6年)に槇町一丁目から槇町三丁目となった。

1947年(昭和22年)の中央区成立時に中央区槇町一丁目から槇町三丁目となった。

1954年の「八重洲」成立以後[編集]

日本橋呉服橋一丁目から日本橋呉服町三丁目と槇町一丁目から槇町三丁目は、1954年(昭和29年)に「八重洲一丁目から八重洲六丁目」に改名された。

この「八重洲一丁目から八重洲六丁目」は住居表示によって再々編され、八重洲一丁目から八重洲三丁目が八重洲一丁目に変更(1973年実施)、八重洲四丁目から八重洲六丁目が八重洲二丁目に変更(1978年実施)されている。

世帯数と人口[編集]

2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
八重洲一丁目 43世帯 75人
八重洲二丁目 26世帯 28人
69世帯 73人

小・中学校の学区[編集]

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[25]

丁目 番地 小学校 中学校
八重洲一丁目 全域 中央区立城東小学校 中央区立日本橋中学校
八重洲二丁目 全域 中央区立銀座中学校

地域[編集]

教育
企業
施設

観光[編集]

店舗

交通[編集]

道路[編集]

南北に延びる道路を西からの順
東西に延びる道路を北からの順

首都高速道路・出入口[編集]

画像一覧[編集]

出身・ゆかりのある人物[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 千代田区丸の内一丁目と中央区八重洲一丁目の境界は、厳密には外堀通りではなく、外堀通りよりわずかに西寄りにあり、鉄鋼ビルディングの中を区境が通っている。住居表示による街区表示では、外堀通り以西に八重洲一丁目10番・11番街区が設定されているが、これらは実際の住所としては使われていない。
  2. ^ 1849年(嘉永2年)の江戸切絵図「御曲輪内大名小路絵図」)には、和田倉門から馬場先門にかけての内濠(馬場先濠)沿いの道(現在の日比谷通り)に「八代洲川岸」の文字が見られ[8]、同年の別の切絵図(尾張屋清七版「御江戸大名小路絵図」)では馬場先門の南側の濠沿いの道に「八代洲河岸」の文字が記されている[9]
  3. ^ 郷土史家の菅原健二によれば、江戸において「河岸」は、町人地に付属した荷揚げ場を指し、市場的な役割も果たした[13]。なお武家地に付属した荷揚げ場は「物揚場」と呼ばれ、「河岸」とは区別された[13]
  4. ^ 江戸の北町奉行所は慶長6年(1601年)に呉服橋門内に設置され、以後何度か移転しているが、文化3年(1806年)から幕末まで呉服橋門内(現在の呉服橋交差点南西、東京駅日本橋口付近。千代田区丸の内一丁目)に置かれた。「都旧跡 北町奉行所跡」の解説板が、東京駅の八重洲北口付近(丸の内トラストタワーN館東側)にある。
  5. ^ 同様に、日本橋川と京橋川の間には、紅葉川も含め舟入堀と呼ばれる9本の運河群があったとされる。これらの運河は紅葉川に先立って埋め立て・短縮された[14][15]
  6. ^ 万治3年設置。『御府内備考』巻之三。
  7. ^ 1970年の住居表示実施以降は「丸内」表記となる。

出典[編集]

  1. ^ a b 町丁目別世帯数男女別人口”. 中央区 (2019年9月3日). 2019年9月23日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
  3. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月31日閲覧。
  5. ^ ヤン・ヨーステン記念碑
  6. ^ a b c d e キーワードで散歩する日本橋界隈“まち”探訪・八重洲 にぎわう江戸城下と丸の内にかかる橋”. WEB MAGAZINE早稲田@日本橋. 早稲田大学. 2019-0-03閲覧。
  7. ^ a b c d e 沢田清. “八重洲”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 小学館. 2019年8月3日閲覧。
  8. ^ a b c 【山手線29駅各駅の魅力を探る・東京駅②】明治の頃は焼け野原だった?丸の内の歴史”. LIFULL HOME'S. LIFULL. 2020年6月13日閲覧。
  9. ^ a b c 1. 近世までの丸の内・大手町”. 写真でひもとく街のなりたち 東京都丸の内・大手町. 三井住友トラスト不動産. 2020年6月13日閲覧。
  10. ^ a b c 鈴木理生 (2015年12月1日). “「続」中央区の"橋"(その11)”. 郷土室だより第111号. 中央区京橋図書館. 2020年5月15日閲覧。
  11. ^ a b c d 菅原健二 (2016年10月18日). “水都を偲ぶ -暮らしを支えた河川と掘割-”. 東京街人. 東京建物. 2020年6月15日閲覧。
  12. ^ a b 「旧町名」から読み解く、江戸城下町の特性”. 東京街人. 東京建物 (2016年8月31日). 2020年6月15日閲覧。
  13. ^ a b c d e 菅原健二 (2015年12月1日). “江戸・東京の川=中央区の川(二)”. 郷土室だより第153号. 中央区京橋図書館. 2020年5月15日閲覧。
  14. ^ 鈴木理生 (2002年3月1日). “中央区の"橋"(その4)”. 郷土室だより第94号. 中央区京橋図書館. 2020年5月15日閲覧。
  15. ^ 鈴木理生 (2006年3月1日). “「続」中央区の"橋"(その12)”. 郷土室だより第112号. 中央区京橋図書館. 2020年5月15日閲覧。
  16. ^ a b 松浦由佳 (2016年10月18日). “京橋川に、大根河岸が賑わったころ”. 東京街人. 東京建物. 2020年6月15日閲覧。
  17. ^ a b 鹿内京子, 石川幹子「東京下町における河岸の歴史的変遷に関する研究」『日本都市計画学会都市計画論文集』第41-3号、2006年、 doi:10.11361/journalcpij.41.3.9592020年6月15日閲覧。
  18. ^ a b c d e f g h i 中央区 ここに歴史あり<17> ~ヤン・ヨーステン拝領地の八代洲と八重洲~”. 中央区観光協会オフィシャルブログ. 中央区観光協会 (2010年1月15日). 2020年6月13日閲覧。
  19. ^ 2. 官庁街となった大手町”. 写真でひもとく街のなりたち 東京都丸の内・大手町. 三井住友トラスト不動産. 2020年6月13日閲覧。
  20. ^ a b キーワードで散歩する日本橋界隈“まち”探訪・八重洲 東京駅八重洲口”. WEB MAGAZINE早稲田@日本橋. 早稲田大学. 2019年8月3日閲覧。
  21. ^ 鈴木理生 (2001年7月1日). “「続」中央区の"橋"(その10)”. 郷土室だより第110号. 中央区京橋図書館. 2020年6月15日閲覧。
  22. ^ a b 鈴木理生 (2004年2月1日). “「続」中央区の"橋"(その18)”. 郷土室だより第118号. 中央区京橋図書館. 2020年6月15日閲覧。
  23. ^ 「新語も八重ブラ」『日本経済新聞』昭和30年1月21日
  24. ^ 本節での町名の成立年代は『角川日本地名大辞典 東京都』による。
  25. ^ 区立学校一覧”. 中央区 (2017年8月17日). 2019年9月23日閲覧。
  26. ^ 『日本現今人名辞典』ち1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年2月10日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1900年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]