演歌

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演歌(えんか)は、

  1. 明治時代の自由民権運動において政府批判を歌に託した演説歌の略[1]
  2. 1960年代半ばに日本歌謡曲から派生したジャンルで、日本人独特の感覚や情念に基づく娯楽的な歌曲の分類の一つである。当初は同じ音韻である「艶歌[2]や「怨歌[3]の字が当てられていたが、1970年代初頭のビクターによるプロモーションなどをきっかけに「演歌」が定着した[1]。なお、音楽理論的には、演歌の定義はない。楽曲のほとんどのリズムは、ロックである。

ここでは1.2含めて概説する。

特徴[編集]

音階法(ヨナ抜き音階)[編集]

演歌が用いる音階の多くは日本古来の民謡等で歌われてきた音階を平均律に置き換えた五音音階(ペンタトニック・スケール)が用いられることが多い。すなわち、西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外し、第5音と第6音をそれぞれ第4音と第5音にする五音音階を使用することから、4と7を抜くヨナ抜き音階と呼ばれる音階法である。この音階法は古賀正男、後の古賀政男(1904年(明治37年)-1978年(昭和53年)) による古賀メロディとして定着し、以降演歌独特の音階となる。ただし、ヨナ抜き音階そのものは演歌以外の歌謡曲などでもよく使われる音階である。古賀メロディーについては、初期、クラシックの正統派・東京芸大出身の藤山一郎(声楽家増永丈夫)の声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法で一世を風靡したが、やがてそのメロディーは邦楽的技巧表現の傾向を強め、1960年代美空ひばりを得ることによって演歌の巨匠としてその地位を確立した。小節を利かしながら、それぞれの個性で崩しながら演歌歌手たちが古賀メロディーを個性的に歌った。

楽器はクラシック・ギタースティール弦アコースティックギターヴァイオリンが多用され、ドラムスやキーボードが入る(バンドになる)事はほとんどない。

歌唱法[編集]

歌唱法の特徴としては、「小節(こぶし)」と呼ばれる独特の歌唱法(メリスマとほぼ同義)が多用される。又、必ずと言ってよいほど「ビブラート」を深く、巧妙に入れる(例えば2小節以上伸ばす所では2小節目から入れる、等)。この2つは演歌には不可欠といって良いが、本来別のものにもかかわらず、混同される場合も多い。

衣装[編集]

演歌歌手(とくに女性)は、日本的なイメージを大切にするため、歌唱時に和服を着用することが多い。

歌詞・テーマ・曲想[編集]

歌詞の内容は、美空ひばり「悲しい酒」、都はるみ大阪しぐれ」、大川栄策さざんかの宿」、吉幾三雪國」「酒よ」などのように、“海・酒・涙・女・雨・北国・雪・別れ”がよく取り上げられ、これらのフレーズを中心に男女間の切ない情愛や悲恋などを歌ったものが多い(「酒よ」に至っては歌詞にズバリ出て来る)。また、細川たかし北酒場」、藤圭子新宿の女」など、水商売の女性が客に恋をするモチーフも頻繁にみられ、そうした接客産業の顧客層である男性リスナーを中心に、支持を得ている。

切ない感情・真剣な心情を表すため、短調の曲が多いとされているが、詳細な統計は無い。長調で書かれているものは、ヨナ抜き音階のものが多い。

男女間の悲しい情愛を歌ったもの以外のテーマとしては、

分類[編集]

上記のような特徴を兼ね備えた、いかにも演歌らしい演歌に対して、「ド演歌」(ど演歌)といった呼称が使われることがある。また、男女の情愛に特化されたジャンルで、演歌よりも都会的なムード歌謡というものがある。とはいえ上記の特徴をもってしても、演歌とそれ以外のジャンル(歌謡曲など)を明確に分類することは難しい。たとえばジャズピアニスト山下洋輔は、“音楽理論的に両者を区分できない”の意で「演歌もアイドル歌謡曲も同じにしか聞こえない」と述べていたといわれる。

演歌は日本の大衆に受け容れられ、流行音楽の一つの潮流を作り出してきたが、一方でその独自の音楽表現に嫌悪を示す者も少なくないのもまた事実である。日本の歌謡界に大きな影響力のあった歌手の淡谷のり子は演歌嫌いを公言し、「演歌撲滅運動」なるものまで提唱したほどだった。作曲家のすぎやまこういちも「日本の音楽文化に暗黒時代を築いた」と自著に記している。

歴史[編集]

「演説歌」としての演歌[編集]

「演歌」と呼ばれる歌は、その最初は19世紀末の自由民権運動の時代に遡る。藩閥政府に反発する公開演説会に対する当局の監視が強くなった時、圧力をかわすために政治を風刺する歌(プロテストソング)として「演説歌」が生まれた。有名なものに、ダイナマイト節川上音二郎オッペケペー節がある。やがて、20世紀に入るころには自由民権運動も一段落し、演説歌の内容にも変化が訪れる。題材が政治に対するプロテストから社会問題に関する風刺に代わってゆくとともに、ヴァイオリンでの伴奏が導入されるなど、芸人の要素を強めてゆく。また、担い手も政治運動を生業とする壮氏から書生によるアルバイトに移行するなど、より商業的な存在にもなってゆく。この時期の作品としては、しののめ節ラッパ節ハイカラ節などがある。やがて、昭和初期にレコード歌謡の市場が完備されると演歌師の活動にも打撃が与えられ、盛り場で「流し」をして生計を立てるのが一般的になる[4]

この時期の演歌については実証的な研究は少なく、同時代の演歌師であった添田唖蝉坊とその息子、添田知道の著作が主要な情報源として用いられている。一方でその政治的な態度についての証言に対しては、倉田喜弘西沢爽が実証的な批判徹研究を行っている[5]

日本調の歌の変遷[編集]

この時期のレコード歌謡において同時代的に「演歌」と呼ばれた作品、ジャンルはないが、それに類する曲調の楽曲がある。

大正末期、「船頭小唄」が大流行する。関東大震災後の世相に合致したもので、厭世的な歌詞やヨナ抜き短音階などの特徴が後の演歌の音楽的特徴を先取りする者であった。これは演歌師による作品ではないが、最初に楽譜として売り出されたのが演歌師によって歌い広められており、それが話題を呼んで映画化、無声映画であったため演歌師が実演するというレコード界と演歌師のコラボレーションで知名度を上げた。また、演歌師にあっては鳥取春陽が作曲を得意としており、「船頭小唄」の作風を踏襲した「籠の鳥」をレコード発売してヒットする。鳥取春陽はその後、オリエントレコードの専属作曲家へと転身した[6]

また、ヨナ抜き長音階としては「カチューシャの唄」(1914年)がある。同曲は伝統的な民謡音階と西洋の長音階の折衷によって生まれたもので、単純な「日本的な歌」ではなく、「ヨナ抜き=日本調」という見方は同時代的には存在しなかったことがわかる。この曲の流行も演歌師の活躍が大とされており、この時期の演歌師は、曲を流行させる媒介者としての要素が強かった[7]

レコード歌謡の世界において、前近代の日本の風土に由来する「日本調」のものとしては、お座敷の要素を取り入れた芸者風の歌手が挙げられる(芸者出身者としては藤本二三吉小唄勝太郎一丸赤坂小梅美ち奴神楽坂はん子神楽坂浮子、「芸者風」では久保幸江榎本美佐江五月みどりなど)。曲調は粋で享楽、官能的で、また歌唱法に民謡や浪曲の特徴が一切ないなど、現在の演歌とは全く異なる歌であった[8]

また、題材に「日本調」を取り入れたものとしては、股旅物が挙げられるが、これはあくまで題材が日本調であるにすぎず、東海林太郎ディック・ミネの歌唱法は西洋音楽芸術のそれであった。また、股旅物というジャンル自体が長谷川伸に代表される当時の大衆小説によるもので、その意味でも伝統的なものではない[9]

戦後しばらくのレコード歌謡の主流の歌唱技術は西洋音楽技術に準ずるべきであると考えられており、藤山一郎淡谷のり子霧島昇らはいずれも音楽学校出身の歌手であった。彼らはいずれも、後に流行する演歌の歌唱法に対して厳しい非難を繰り返すこととなる[10]

戦後のレコード歌謡の西洋化と演歌の原型の誕生[編集]

1945年の敗戦を境に、戦前からの連続的な文化的要素は押しなべて「反動的」「封建的」とみなされ、進歩的文化人から忌避された。基本的にはレコード歌謡全般が忌避され、うたごえ運動勤労者音楽協議会(労音)の手動でロシア民謡や労働歌が「明るく健康な歌」とされた[11]

レコード歌謡では、米国から流れてきたジャズ調の曲が主流を占める。吉田正がジャズ系の楽曲を生みだし、フランク永井水原弘石原裕次郎などが歌唱した。彼らは揃って声域が低音であったため、芸者、民謡などの旧来の歌手がいずれも高音系であったのと対比されてより「西洋らしさ」、モダンな都会性を醸し出したのである(「都会調」)。その他の作家としては、古賀政男服部良一西條八十藤浦洸らがいる。1960年頃からは、橋幸夫吉永小百合などの「青春歌謡」などのジャンルも生まれた。また、うたごえ運動出身のいずみたくは労音の曲などをつくったのちCMソングの世界に進出し、ホームソングの生みの親となった[12]

一方で、1955年頃からラジオが地方へ普及するにつれて、地方を舞台にした楽曲が生み出された(「田舎調」)。これらは股旅物や後の「ご当地ソング」のような様式化された地方ではなく、戦後の地方出身者の都会への進出を背景とした「望郷」がテーマになることが多かった。初期の歌手では春日八郎(「別れの一本杉」など)、島倉千代子(「逢いたいなァあの人に」など)、三橋美智也(「リンゴ村から」など)、作曲家としては船村徹などが挙げられる。島倉は上述の芸者風の歌唱法(泣き節)で歌い、三橋は初めて民謡調の発声をレコードに吹き込むなど、田舎調は論壇では劣勢な「日本調」的な特徴を持っていた。田舎調の楽曲は会話調の歌詞に起伏に富んだ旋律がつくもので、都会調で席捲されていたレコード歌謡に衝撃を与える。一部からは「畳替えをした新しい桟敷[注釈 1]の上を土足で歩く歩くような作家が出てきた」と非難された。後に村田英雄が浪曲系から加わり「王将」(1961年)がヒット。更に美空ひばりと古賀政男という都会調を代表するコンビも「」(1964年)や「悲しい酒」(1966年)など田舎調に近い楽曲を発表した。後年ひがりが「演歌」歌手と呼ばれる楽曲はこの頃から始まる[13]

流しと「艶歌」[編集]

1960年前後、同時代的に「艶歌」と称されるジャンルが生まれたが、それは明治期の演説歌とも、後世の演歌とは異なり、夜の街の「流し」の系統(流し出身の歌手と、流しをテーマにした歌の2種類がある)に限定されていた。代表的な艶歌歌手はこまどり姉妹(1959年デビュー)で、三味線流しで生計を立てていたという生い立ちから「貧しさ」や「不幸」のイメージがプロモーションで増幅された。また、作曲には同じくたたき上げの遠藤実を起用した。同じ時期に小林旭が映画「渡り鳥シリーズ」でのギター流し役が当たり役になるが、小林の「流し」は豪放磊落で曲調も多彩、というこまどり姉妹と対極にあるものであった。この両者をプロデュースしたのが、コロムビアのディレクター、馬淵玄三である[14]

当時の流しは任侠との親和性が高く、任侠映画と艶歌は同じ支持層を持っていた。アイ・ジョージは流しの任侠的イメージに否定的であり、流しのリクエストの殆どが日本の流行歌であったが、ジョージがやりたかったのはジャズなどの洋楽であった。やがて「インテリ向き流し」として成功すると、デビュー後は洋楽を主に行った。それと対称的なのは北島三郎で、初期には「ギター仁義」「兄弟仁義」など、任侠をテーマにした楽曲を出した[15]

流しの特徴は、作者不詳と共作にあった。「北上夜曲」「北帰行」(ともに1961年)がその端緒とする。1962年には田端義夫が奄美地方の新民謡「島育ち」を再発見して発売、あわせて奄美関係の曲が大量にヒットする。1964年には「お座敷小唄」(松尾和子和田弘とマヒナスターズ)が歌詞を変えて共作された。次いで「網走番外地」(1965年、高倉健)、「夢は夜ひらく」(1966年、園まり)が特に後年カバーされる。丁度この時期はグループサウンズの誕生によるレコード会社の専属作家制度の解体期と重なっており、作者不詳の歌の流用はその時代の要請に応じた潮流であったと考えられる。また、流しは盛り場を活動の舞台としていたため、巷の詠み人知らずの楽曲が手に入りやすい環境であったともいえる[16]

日本調への評価の変化[編集]

上述の通り、進歩的文化人の間で日本的な歌や艶歌は否定され続けていた。この頃の最も強く流行歌を批判してきたのは、園部三郎であった。園部は戦前の歌謡界の変化を例にとり、「いわゆる日本的旋律による哀感は、社会の頽廃期には必ず出現するほどまでになる」と、日本的な歌を激烈な表現でこき下ろした。もっとも、一般メディアではその政治性が消去されて、「不況になれば艶歌がはやる」という単純な図式が示されていた[17][注釈 2]

一方で、1960年の安保闘争を前後して学生運動から生まれた新左翼は、従来の進歩的文化人の啓蒙思想や特権的態度への反発から、進歩派に「低俗」「頽廃」とこき下ろされてきた民族的、民衆的な文化を肯定的に読み解く試みを行うようになる。新左翼的レコード歌謡論の嚆矢は、思想の科学1963年10月号(「差別」特集号)の座談会「流行歌にみる大衆思想―――アカシアの雨に打たれて」(多田道太郎寺山修司森秀人鼎談、多田は実質的に司会役)である。この中で寺山は、「連帯」を価値とするうたごえ運動との対比で、歌謡曲を「孤絶したアウトローが一人で歌うもの」と規定した。そしてその要素として「さびしさ」「暗さ」を審美化したことで、後の「演歌」のフォーマットを提示したといえる。一方森は、スターリニズムにかわる思想的潮流であった「疎外」や「性の解放」というテーマを絡めることによって、進歩派と比べて自身の思想的立場を固め、安保闘争のあとに流行った「アカシアの雨がやむとき」を引き合いに歌謡曲を「疎外された大衆の、女の魂をなまなましく歌いあげる」という側面を強調した[18]

次いで1965年、竹中労「美空ひばり―――民衆の心をうたって二十年」が出版される。この中で竹中は、エリート階級による伝統的・日本的な歌への攻撃を批判し、その攻撃に耐えてひばりを民族的、民衆的な音楽の伝統を守った存在として称揚している。もっともこの書は他書の引用の段階などでロジック上のあやふやな点があり、デビュー当初の都会的なメロディーを歌うひばりの存在にはあまり言及されなかった。しかし、当時ひばりは新左翼論壇においても評価は低く、この論考は新鮮さを持って受け止められた[19]

五木寛之と「演歌」の誕生[編集]

1966年、五木寛之馬淵玄三をモデルにした小説「艶歌」を発表した。同作ではレコード社内での艶歌と外来音楽のプロデューサーが互いの進退をかけて売り上げを競う筋書きであり、艶歌のプロデューサーのモデルが馬淵とされる。このモデルの人物は馬淵と比べて、五木の手によって脚色されており、

  • 「艶歌」はレコード歌謡の初期から存在している。
  • 「艶歌」は軍歌や明朗快活な歌(「リンゴの唄など」)とは別の独自のカテゴリーを構成している。
  • 「艶歌」制作は勘頼りの職人芸であり、合理的な西洋音楽とは相いれないものである。
  • 「艶歌」はマーケティングによる派手な売り出しなどは行わず、地道に売るものである。

などのような含意が新たに加えられていた。また、艶歌はジャズやブルースと同じく孤立無援の人間の歌、「日本人のブルース」であり、「艶歌を無視した地点に、日本人のナショナル・ソングは成立しないだろう」と登場人物に言わしめた。そして、当初は艶歌を否定していた主人公は終盤、艶歌の歌い方が「下品だ」と批判されたことに対して、演歌の歌い方は、「差別され、踏みつけられている人間が、その重さを葉を食いしばって全身ではねのけようとする唸り声」である、と喝破した[20]

五木は同作を通じて、社会批判の「演歌」が芸能化して「艶歌」となったことを肯定的にとらえた。従来の論壇では政治的批判精神の欠落として演歌の艶歌化は批判の対象になっていたのであるが、五木は逆に演歌を「大衆自身の声ではなく、インテリゲンチャの警世の歌」であることが演歌の弱さであって、艶歌に転ずることによって庶民の口に出せない怨念悲傷を、艶なる詩曲に転じて歌う「怨歌」になったのだ、と後に記している。五木が艶歌の定義として設けた「暗さ」や「感傷性」は、従来の楽曲のジャンル分けのどれとも異なる新しい枠組みであった[21]。五木の小説によって、演歌の推移を巡る歴史観が根本的に変えられるに至ったのである。

五木「艶歌」観の浸透[編集]

1966年発表の「柳ヶ瀬ブルース」(美川憲一)は、その後レコード吹き込みをしたところ、有線放送を通じてローカルなヒットになった。このヒットは、地元の有線放送のヒットが全国区の大手レコード会社から発売される、というボトムアップ方式のヒットであり、レコード会社主導の上からのヒット曲という従前のモデルとは異なるものであった。また、有線放送は盛り場でかかることが多いため、有線放送は艶歌の重要な市場となった。美川のヒット以降、「ブルース」と名付けられたご当地ソングが続けて出される。同年にデビューした青江三奈森進一はともに地方の洋風盛り場のイメージに合致しており、ともにブルースを相次いで発表した。これらのブルースの流行は、高度経済成長に伴う地方都市の小都会化に起因しているとされる[22]

1969年にデビューした藤圭子は、その壮絶な生い立ちがまさに、五木が小説で示した「怨歌」に当てはまる存在であった。プロデューサーの石坂まさをは藤の物語やアングラな雰囲気を全力で押しだすプロモーションを行い、「艶歌の星を背負った宿命の少女」のキャッチコピーで売り出した。五木本人は藤について、「正真正銘の〈怨歌〉である」と絶賛した。藤の音楽性についての評論は、新左翼系論壇においても行われた。その意味で藤は五木的な意味での典型的な「演歌」歌手であったが、その曲調はブルース歌謡がメインで、また、当時社会的なメッセージ性を持ったフォークの要素をも取り入れていた[23]

1970年版の現代用語の基礎知識では、「演歌(艶歌)」の項目が立てられ、藤のブレークと前後して「演歌」は世間一般での知名度を得た[24]

藤がブームになったのち、1972年頃まで若者にも演歌が興味を持って受け入れられ、若者向けの雑誌でも演歌歌手に関する記事が多く見受けられる。GSや青春歌謡の系列の歌手も演歌調に寄せた曲を発表していた[25]

健全化と様式美[編集]

藤圭子ブームの翌年、1971年に小柳ルミ子が「わたしの城下町」でデビュー。小柳の歌は音の運びは明らかに演歌であったが、その内容は絵葉書のような「日本情緒」であり、暗さやアウトローなどとは無縁であった。また、1973年には「艶歌」ジャンル確立以前から活動している春日八郎が自身のヒット曲と過去のカバー曲を交えたリサイタル「演歌とはなんだろう」で文化庁芸術芸能部門大賞を受賞する。演歌の歴史の「古さ」が公に認められるとともに、当初究極のアウトローから始まった演歌が早くも国民の文化財という主流派の立ち位置を得て、その先鋭性を奪われてしまう[26]

一方、演歌の特徴的な形式のみが切り離され、この要素を商業的に消費する流れが続いた。1972年にはコミックバンドのぴんからトリオが歌う「女のみち」が大ヒット。過剰にこぶしを利かせ、劇画的ともいえるほどに強調した。翌1973年には殿さまキングスなみだの操」がやはり様式化した歌調でヒットする。1974年のさくらと一郎昭和枯れすゝき」は大正期の船頭小唄にフォークの要素を加え、男女の悲恋を強調した[27]

1970年代後半の演歌は、五木ひろし八代亜紀が知名度と人気を誇る。両者ともに、長い下積みと再デビューという物語が付加されていた。なお、その曲調はともにモダンなものであった。

1977年にはカラオケが登場する。当時のカラオケは夜の盛り場で用いられることが多く、必然的に演歌が多くかけられた。丁度この頃のヒット曲は都はるみ「北の宿から」や石川さゆり津軽海峡・冬景色」で、演歌の舞台には徐々に北方の雪景色が多数を占めるようになる。しかし若い世代の間では、ぴんからトリオなどの過剰な模倣(いわゆる「ド演歌」)の後は艶歌人気は続かなかった。1978年は艶歌のヒット作が出ず、同年の「第29回NHK紅白歌合戦」のトリはポップス系の山口百恵沢田研二であった。1979年にはカラオケ酒場を主な舞台とした「演歌復興」が喧伝され、小林幸子おもいで酒」、渥美二郎夢追い酒」などの「酒」が演歌の重要な要素に加わる[28]

テレビ番組では、1981年から「NHK歌謡ホール」がスタート。「演歌歌手」をメインにした番組がスタートしたが、ヒット曲よりも過去のスタンダードナンバーを中心にした構成となった(後継番組は現在まで継続)。更に、演歌が「カラオケで歌う歌」となったため、歌詞や曲調、歌唱技法が均質化してゆき、1980年代からどれも似通った作品になってゆく。石川さゆり「天城越え」(1986年)は、この潮流に反して「素人は歌えない難しい歌」というコンセプトでつくられた。やがて、主婦をターゲットにしたカラオケ教室が流行することによって、当初は「明るい家庭」とは対極的な立ち位置にあった演歌の熱心な支持者が主婦を中心とする中高年女性になるという現象が起こる。これに対応して、川中美幸ふたり酒」(1980年)や三船和子だんな様」(1983年)など、「夫婦」が演歌のテーマに加わる。ところが1980年代後半になると、カラオケボックスの普及によって若者がカラオケを利用するようになり、演歌の占めるシェアはますます狭まっていった[29]

平成以降[編集]

平成に入ると、若者世代が歌う歌をJ-POPと呼称するようになり、主流のレコード歌謡のほとんどを占めた。それ以外の歌は一括して「演歌・歌謡曲」と呼ばれるようになり、オリコンの分類もその2本立てになる。「歌謡曲」とは本来は大衆的レコード歌謡全般を指していたものだが、やがて特定の時代の特定のジャンルの楽曲のことを指すようになった。1990年代の渋谷系を嚆矢として、サブカルチャー・懐古趣味としてこれらをまとめて扱う傾向が生まれた。

一方で、同年代の作品の市場規模は縮小の一途をたどる。1996年にはオリコンチャートが発足した1968年以後、初めてオリコン年間シングルチャートの総合100位以内に演歌の作品がランクインしない事態が発生する(この年演歌で年間1位だった伍代夏子「鳴門海峡」は総合で年間153位)[30][注釈 3]。1990年代末には演歌の新曲CDが数十万枚単位でヒットする例は極めて少なくなってしまった。一部レコード会社の演歌部門撤退による演歌歌手のリストラもこの時期に行われており、大御所さえもリストラされる事態に陥る。その後、リストラされた演歌歌手の多くは、演歌を主力とするレコード会社に移籍した。

1990年代後半には日本テレビとんねるずの生でダラダラいかせて!!』の企画から誕生した憲三郎&ジョージ山本の「浪漫-ROMAN-」、NHKふたりっ子』の劇中歌だったオーロラ輝子の「夫婦みち/まごころの橋」といったテレビ番組からのヒット曲が生まれ、話題になる[32]

現在[編集]

現在、60代後半〜70代以上の高年齢層限定のジャンルという認識が強いのは否めず、若い世代のファンが圧倒的に少ない。個性と実力を兼ね備え、演歌という新ジャンルの土台を築いた、春日八郎三橋美智也三波春夫村田英雄らの男性歌手や、「演歌(歌謡界)の女王」と称された美空ひばり島倉千代子らの女性歌手が、平成時代に入った後それぞれ亡くなった。

又、その後に続きかつて紅白歌合戦に常連出場していた、北島三郎・森進一・細川たかし・八代亜紀・小林幸子・川中美幸など「大御所」と言われる歌手達や、ほか五木ひろし・石川さゆり等ベテランの歌手も、かつての昭和時代と比べると実力を発揮し切れていない状況である。また若手を除けば、歌手本人はおろか作詞・作曲家などの共同製作者が鬼籍に入るケースも増加している。

有線などでの小ヒットはあるものの、大泉逸郎『孫』、氷川きよし『箱根八里の半次郎』以来世間を揺るがす程の大ヒットはなく、全体的な低迷が続いている。

また、1960年代以降に洋楽のロックや日本製のフォークやニューミュージック、アイドル歌謡などを聴いていた戦後生まれの世代が中年層になっても演歌に移行せず、ロック・フォークなどを聴き続けている者が多いことから、演歌ファンの高齢化が顕著になっている。

演歌界には旧態依然とした徒弟制度が残っており、師匠からのパワハラや契約面での障害も少なくない。そのため、例えば水樹奈々は演歌志望から声優・アニソン系に移行している[33]

カラオケブームによる第二次ブームの時期に幼少期から青年期を過ごした30代後半〜50代の中年壮年層の中では近親者などの影響も手伝い比較的認知度は高い。しかし、個人差はあるものの、聴く或いは積極的に唄う対象にはされにくく敬遠される傾向が強い。ただし、歌手のキャラクターは広く受け入れられている部分もある。村田英雄の「ムッチーブーム」や千昌夫の「額のホクロ」、小林幸子と美川憲一の紅白衣装対決、森進一の「おふくろさん」歌唱および近年の「おふくろさん騒動」など。

ものまねブームによる、これら個性的な歌手のものまねも知名度の向上に貢献した。しかしながら2010年代以降では、ものまね番組を含め、『紅白歌合戦』、『にっぽんの歌』(テレビ東京)、『あなたが聴きたい歌のスペシャル』(TBSテレビ)といった演歌を見聞きする機会が得られる番組は、いずれも年数回の特別番組ばかりである。千葉テレビ放送テレビ埼玉といった一部の独立局では、ほぼ毎日演歌のレギュラー番組を自社制作などで放送しているところもあるが、同じ独立局のTOKYO MXテレビ神奈川(tvk)などでは演歌番組のレギュラー放送がないため、千葉や埼玉は極稀な例と言える。

こうして演歌に触れる機会が少ないことなどもあり、10代・20代の若者の中には代表的なヒット曲や、氷川きよしなどの有名歌手を除き、歌手の存在自体をも認知していない者も少なくなく、曲や歌手以前に「演歌」という語句すら敬遠されるケースさえある。ただし、生活環境によっては若者の中にも一部には熱烈な演歌ファンが存在することも事実であるが、ファン層は50歳代後半以上が概ね8割以上で、「20歳代以下は1割以下」である。

演歌歌手の一覧[編集]

海外での演歌[編集]

台湾では、戦前に日本語教育を受けた世代が日本の歌を好んで聴いたことから、台湾人歌手によって日本の演歌が歌謡ショーなどで歌われてきたほか、台湾語によるカバーも数多く出現し、日本でヒットした演歌の大部分は台湾語(一部は、国語 (中国語)である北京語)でカバーされる状況が続いてきた。 また台湾で作曲されたオリジナル演歌も多く、その題材や歌唱法は日本の演歌と変わらない。 台湾歌謡界では戦後長らく、ポップス=北京語、演歌=台湾語という言語による棲み分けが続いたため、演歌は「台語歌」とも称される。 日本で演歌の衰退が言われる現在でも、台湾では演歌の人気は依然として高く、テレビでは演歌中心の歌謡番組が定期的に放送されており、日本語の原曲と台湾語のカバー曲を交互に歌唱するなどの演出も一般的である。

シンガポールやマレーシアを中心とした東南アジアには、中国系の住民が多く、それらのうち福建系の住民は台湾語とほぼ同じ言語(ビン南語)を話すため、台湾語でカバーされた日本の演歌や台湾語のオリジナル演歌が「福建歌」「Hokkien Song」として普及しており、現地の作詞家によってオリジナルの歌詞を付けられたカバーも存在する。インド系の歌手で、福建歌=演歌の歌唱をメインに活動している者もいる。また、これらの演歌はタイ語ベトナム語クメール語マレー語インドネシア語など、現地の言語で再びカバーされた曲もあるが、一般に「チャイニーズ・ソングのカバー」と認識されている。

中国では、テレサ・テンなど台湾の歌手が国語 (中国語)でカバーした日本の演歌が広く浸透しているが、これらの演歌は一般に台湾の歌として認識されており、「台湾歌」と呼ばれている。また1980年代には北国の春を中国の歌手がカバーし、流行したこともあった。

アフリカ系アメリカ人のジェロは幼少期に、日本人だった祖母から演歌に親しみ、2008年に日本で演歌歌手としてデビューした。

2007年、ブラジルサンパウロにて行われた日系移民100周年記念イベントでは、日本の音楽として演歌が流された。また大城バネサ南かなこのような南米出身の日系演歌歌手もいる。

オリコンシングルチャート1位獲得作品[編集]

※太字の曲はミリオンセラーとなったもの。演歌・歌謡曲として歌謡曲も一部含まれる。

週間[編集]

(1968年1月4日付〜2014年1月20日付まで、計30曲)

年間[編集]

  • 1968年度 星影のワルツ/千昌夫
  • 1971年度 わたしの城下町/小柳ルミ子
  • 1972年度・1973年度 女のみち/宮史郎とぴんからトリオ
  • 1974年度 なみだの操/殿さまキングス
  • 1975年度 昭和枯れすゝき/さくらと一郎
  • 1979年度 夢追い酒渥美二郎(最高2位)
  • 1983年度 さざんかの宿大川栄策(最高2位)
  • 1987年度 命くれない瀬川瑛子(最高2位)

(1968年度〜2006年度まで、計8曲)

テレビ番組[編集]

ラジオ番組[編集]

以下は全てアール・エフ・ラジオ日本で放送。

演歌を題材にした作品[編集]

映画
テレビドラマ
小説
  • 五木寛之『艶歌・海峡物語』、講談社、新装版、1987年(モデルは音楽ディレクターの馬渕玄三)
漫画

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 直接的には米国由来の戦後の音楽文化、広くは戦前以来のプチ・ブルジョア文化としてのレコード歌謡を指している。
  2. ^ 朝日新聞1964年12月13日付では、オリンピック不況の世相から、翌年は「演歌」ブームがやってくる、と予測している。日本調の曲について「演歌」という表現が用いられている初例である。
  3. ^ もっとも演歌の場合はキャンペーンなどでの手売りの割合が大きく、レコード店での売上を対象とするオリコン等のチャートに反映されない売上が相当あるという指摘もある。[31]

出典[編集]

  1. ^ a b 輪島裕介 『創られた「日本の心」神話 ― 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』 光文社〈光文社新書〉、2010年10月15日ISBN 978-4-334-03590-7 
  2. ^ 1968年の水前寺清子の歌に「艶歌」がある(作詞五木寛之、作曲安藤実親)。
  3. ^ 藤圭子など
  4. ^ 輪島, pp. 50-53.
  5. ^ 輪島, pp. 53-56.
  6. ^ 輪島, pp. 59-61.
  7. ^ 輪島, pp. 61-64.
  8. ^ 輪島, pp. 70-72.
  9. ^ 輪島, pp. 72-74.
  10. ^ 輪島, pp. 74-75.
  11. ^ 輪島, pp. 189-195.
  12. ^ 輪島, pp. 82-92,195-197.
  13. ^ 輪島, pp. 76-84.
  14. ^ 輪島, pp. 103-108.
  15. ^ 輪島, pp. 111-121.
  16. ^ 輪島, pp. 123-142.
  17. ^ 輪島, pp. 174-176.
  18. ^ 輪島, pp. 199-207.
  19. ^ 輪島, pp. 208-219.
  20. ^ 輪島, pp. 221-239.
  21. ^ 輪島, pp. 239-241.
  22. ^ 輪島, pp. 143-148.
  23. ^ 輪島, pp. 252-263.
  24. ^ 輪島, pp. 271-272.
  25. ^ 輪島, pp. 275,286.
  26. ^ 輪島, pp. 298-300.
  27. ^ 輪島, pp. 294-295.
  28. ^ 輪島, pp. 304-308.
  29. ^ 輪島, pp. 308-316.
  30. ^ 『オリコン年鑑 1997年版』オリコン、1997年、5頁。(但し該当ページにはノンブル表記なし)
  31. ^ 「演歌は死んだのか レコード会社は前向き」『日本経済新聞』1991年3月9日付朝刊、39頁。
  32. ^ オーロラ人気は「演歌も売り方次第」の時代、ZAKZAK、1997年4月15日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)
  33. ^ 水樹奈々が「深愛」で綴った半生 「先生からセクハラ受けた」”. ジェイ・キャスト(ウェブ魚拓によるキャッシュ) (2011年1月18日). 2013年10月26日閲覧。 ライブドア配信分全文

参考文献[編集]

  • 見田宗介『近代日本の心情の歴史 - 流行歌の社会心理史』 講談社、1967年(講談社学術文庫249、1978年。『定本 見田宗介著作集 第4巻』岩波書店、2012年)
  • 見田宗介『現代日本の心情と論理』 筑摩書房、1971年。(「新しい望郷のうた」などを収録)
  • 奥山弘『「艶歌の竜」と歌謡群像』三一書房、1995年10月。
  • 菊池清麿『さすらいのメロディー鳥取春陽伝』郁朋社、1998年。
  • 藍川由美『「演歌」のススメ』文春新書、文藝春秋、2002年。
  • 菊池清麿『日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ 』 論創社、2008年。
  • 輪島裕介 『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』 光文社新書、2010年10月20日ISBN 978-4-334-03590-7
  • 高護『歌謡曲――時代を彩った歌たち』岩波新書、岩波書店、2011年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]