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添田知道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

添田 知道(そえだ ともみち、1902年6月14日 - 1980年3月18日)は、日本の演歌師作家評論家である。

芸名は-さつき、号は吐蒙(ともう)、啓蒙の逆で「世迷いごとを口にする」の意。

人物・来歴

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1902年(明治35年)6月14日添田唖蝉坊の長男として東京に生まれる。幼くして母を亡くし他家へ養子にやられるが、下谷区の万年小学校(学校はなくなったが、現在はその地に台東区立駒形中学校がある)で坂本龍之輔(駒形中学校飛地のグラウンド脇に胸像あり)の世話になり、1914年卒業する。

1916年(大正5年)、日本大学附属中学校(現在の日本大学第一高等学校)中退の後、堺利彦らの売文社に勤め、父の演歌活動に参加、その跡を継いで「添田さつき」の芸名で演歌師となり、『パイノパイノパイ』などの流行歌を作り出す(父・唖蝉坊が知道の演歌を替え歌カバーすることもあった)。浅草の会、素面の会などの世話役を務める。

1927年(昭和2年)より文筆活動を開始し、1940年(昭和15年)、街頭演歌の衰退に伴い文筆に専念、本名で、万年小学校時代の恩師・坂本を主人公とした長編小説『小説 教育者』(全四部)を書き、1942年(昭和17年)、新潮社文芸賞を受賞した。作品は、長谷川伸吉川英治らから激賞される。受賞の時点では、『小説 教育者』は、第三部までしか書かれていなかった。

戦後は、演歌師の生活などを描いた著作を刊行し、1964年(昭和39年)、『演歌の明治大正史』で毎日出版文化賞受賞。1967年(昭和42年)、『歌と音でつづる明治』の監修で、第9回日本レコード大賞企画賞を受賞。

1980年(昭和55年)3月18日、信州・上田市の安藤病院で食道がんで死去、77歳。「添田知道を偲ぶ会」が、同年5月2日、浅草伝法院で行われ、竹中労田谷力三小沢昭一らが参集した。墓所は小平霊園

『日本春歌考』は、大島渚監督の同名の映画の着想の元となった。また、浅草・浅草寺の弁天堂鐘楼下には、父・唖蝉坊の碑と知道の筆塚がある。遺稿などは、神奈川近代文学館に寄贈された。

近年、チンドン楽団のソウル・フラワー・モノノケ・サミットが、父・唖蝉坊の楽曲とともに知道の楽曲もレパートリーにしており、CD作品としてもリリースしている(『アジール・チンドン』に「復興節」「東京節」が、『デラシネ・チンドン』に「ストトン節」が収録)。

著書

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  • 『利根川随歩』、三学書房、1941年
  • 『人生の奇術』、興亜文化協会、1942年
  • 『小説 教育者』(全4部)、錦城出版社、1942 - 47年 (玉川大学出版部で復刊、1987年)
  • 『どん底の顔』、興栄社、1948年
  • 『流行り唄五十年 唖蝉坊は歌う』、朝日新聞社(朝日文化手帖)、1955年(朝日新書で復刊、2008年)
  • 『演歌の明治大正史』、岩波新書、1963年
  • 『香具師(てきや)の生活』、雄山閣出版、1964年
  • 『日本春歌考 庶民のうたえる性の悦び』、光文社カッパブックス、1966年
  • 『演歌師の生活』、雄山閣出版、1967年、新版「生活史叢書」、1994年
  • 『東京の味』、保育社カラーブックス、1968年
  • 『ノンキ節ものがたり』、青友書房、1973年
  • 『秘籍江戸文学選 9 春歌拾遺考』、日輪閣、1975年
  • 『奥上州の旅 利根の川上随歩』、崙書房、1977年
  • 『添田唖蝉坊・知道著作集』全5巻・別巻1 刀水書房、1982-84年
  1. 唖蝉坊流生記 (著・唖蝉坊/解説・荒瀬豊) 
  2. 浅草底流記 (著・唖蝉坊/解説・小沢昭一)
  3. 空襲下日記 (著・知道/解説・荒瀬豊)
  4. 演歌の明治大正史 (著・知道/解説・安田武)
  5. 日本春歌考 (著・知道/解説・大島渚)
  6. 別巻 流行歌明治大正史 (著・知道/解説・小島美子)

『唖蝉坊流生記』、『浅草底流記』が、唖蝉坊のもので、『唖蝉坊流生記』には知道の書いた唖蝉坊のその後の様子を伝える著作が含まれている。その他は、知道の著作。『日本春歌考』は、大島渚の同名の映画の下敷きになったものだが、本の内容は春歌の収集と考察について書かれたものであり、これがそのまま映画になったのではない。

評伝

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関連事項

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