ラップ

ラップ (rap) は、音楽手法、歌唱法の一つ。「韻律、リズミカルな演説、ストリートの言葉」[1]を組み込み、バックビートや伴奏など様々な方法で唱えられる[1]。ラップの要素には、「内容」(何が言われているか)、「フロウ」(リズム、韻)、「話し方」(終止、声調)[2]が含まれる。
概要[編集]
ラップはインストルメンタルトラックの時間通りに実行されるという点で、スポークン・ワードとは異なる[3]。ラップはしばしばヒップホップ・ミュージックと関連しており、ヒップホップ・ミュージックの主要な要素ではあるが、この現象の起源はヒップホップ文化より先立っている。近代的なラップの最も初期の先駆けは、西アフリカのグリオの伝統である。それは「口頭伝承者」[4] や「賛歌歌手」[4] が、伝承や系譜を広めるか、あるいは「称賛または個人批評」[4] のために恐るべき修辞的な技術を使用していた。
英語ではラップのことを rhyming(ライミング)、spitting (スピッティング)[5]、emceeing / MCing(エムシーイング)[6]とも言う。ラップをする人のことをラッパー (rapper) [7] やMCと言う。
ラップは、メロディをあまり必要とせず、似た言葉や語尾が同じ言葉を繰り返す、韻(ライム)を踏むのが特徴的で、口語に近い抑揚をつけて発声する。曲の拍感覚に合わせる方法(オン・ビート)と合わせない方法(オフ・ビート)がある。レゲエにおけるディージェイが行うトースティングはよく似ているが、抑揚の付け方が異なり、トースティングは独特のメロディを付けることが多いという違いもある[8]。
普通の歌のようにメロディを付けた物[注釈 1] や、トースティングのような抑揚の付け方やメロディの物[注釈 2] でラップと呼ばれる物もある。ラップのスタイルはラッパーがどのような手法を得意としているかにも因ることがある。
ラップ/ヒップホップとハウス・ミュージックを合体させたヒップ・ハウスも存在し、ヒップハウスのグループには、ツイン・ハイプ[9]などがいた。
語源[編集]
もとは擬音語で、トントン、コツコツ、といった物音を意味する。俗語としてはさまざまな意味に転じたが、黒人英語では「おしゃべり」や「軽口言葉」[10]「会話」という意味であり[10]、そこから「しゃべるような歌」という意味に広がった。
歴史[編集]
早口(リズミカル)な言葉を使って相手をやりこめる黒人独持の話術を音楽に取り入れ[10][11]、1970年代後半に[10][11][12]、アメリカニューヨークの黒人DJから生まれた[10][11]。誕生の場は1960 〜 70年代、ニューヨークでみられたブロック・パーティーだと言われるが、古くはアフリカン・グリオ(文盲者に口伝で歴史や詩を伝える者達)にそのルーツが見られ、マルコムXやキング牧師といった政治的指導者のスピーチも大きく影響を与えている。モハメド・アリのインタビューなどで見られた言葉遊びによって、より広まったといわれる。レゲエにおけるトースティングにも影響を受けていると考えられており、トースティングがレコードに収録されているインストゥルメンタルに乗せて行うように、DJがプレイするブレイクビーツに乗せて行ったのが初期のラップの形だと考えられている。あらかじめ用意した歌詞(リリック)ではなく、即興で歌詞を作り、歌詞とライムの技術を競うフリースタイルもある。
また、「ラップする者」を意味するラッパー(rapper)は、1979年、ファットバックの「キング・ティムIII」やシュガーヒル・ギャングのシングル「ラッパーズ・デライト(Rapper's Delight)」[13] が話題になってから広まった呼称である。人によってはこの呼称を嫌がる者もいる。彼らはRun-D.M.C.が名付けたMC(microphone controller)という呼称を使用する。1981年、ブロンディはシングル「ラプチュア(Rapture)[:en]」の中で間奏部分にラップを取り入れて、ビルボード1位、年間チャート19位のヒットを記録した[14]。グランドマスター・フラッシュの「ザ・メッセージ」は社会問題についてラップした作品として、話題になった[注釈 3]。1986年にはランDMCがビッグヒットを出して、1989年にはビッグ・ダディ・ケイン、デラ・ソウルらのソウル・ヒットにより、ラップは黄金時代を迎えた。
日本におけるラップ[編集]
歴史[編集]
スネークマンショーのメンバーだった小林克也が、1981年2月21日発売のアルバム『スネークマン・ショー』に「ラプチュア」をヒントにしたラップ「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」(作詞:スネークマン・ショー 作曲:細野晴臣)の制作に関わる[15][16][17][18][19][20]。反復フレーズに乗って登場する2人のキャラクターが何かと自慢しあう[20]、同曲が「日本初のラップ」である[20][21][22]。小林克也は「絶えず音楽を紹介しているから、新しいものが出てくると、僕なりに受け止める。最初のころのラップは『服をたくさん持っている』とひたすら自慢するとか、そういう感じの歌詞だったんです」述べており[20]、それが自身の音楽に反映した[20]。
その後、本格的にラップをやるため[15]、ザ・ナンバーワン・バンドを結成し[15]、1982年6月21日発売のアルバム『もも』に広島弁のラップ「うわさのカム・トゥ・ハワイ」を収録[15][16][20]。同曲が日本で最初のラップという評価もある[15][16][17][18][19][21][23][24][25][26][27][28][29]。「うわさのカム・トゥ・ハワイ」は、曲はポップながら、移民の苦労や真珠湾攻撃など、反戦歌的内容を方言を用いてラップで自虐的に歌うという[20]、その後の日本に於けるラップのプラットフォームを準備する楽曲になった[20]。
磯部涼は「日本で最初にラップ・ミュージックの要素をアレンジに取り入れたのは『咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー』。その後1980年代前半までは同曲と同傾向の歌謡ラップが数多く制作された」と論じている[30]。いとうせいこうも「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」はラップと話している[31]。テクノを得意とする音楽ライター・四方宏明は「『咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー』は、元祖日本語ラップでもあり、お笑いテクノの元祖でもある」等と論じている[22]。
山田邦子は1981年12月5日発売のシングル「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」(作詞:山田邦子、作曲:渡辺直樹)と、1982年12月5日発売のセカンドアルバム『贅沢者』に収録の「哲学しよう」(作詞:山田邦子、作曲:細野晴臣)でラップを披露している[21]。
1980年代以降、欧米ではラップをフィーチャーしたヒット曲が続々生まれた[32]。
1970年代以前の日本の曲の中にもラップのような事例もあるが[21][19][33]、日本には昔から「五七調」や「阿呆陀羅経」「オッペケペー節」、トニー谷や、早口言葉のようなラップに似たリズムを持つ言葉遊びのようなものがあり[15][21][33][34]、ラップの起源については諸説有るが、一般的に1970年代後半にニューヨークで生まれ[10][11][12]、商業的にも初めて成功を納めたラップと言われるシュガーヒル・ギャングの「Rapper's Delight」のリリースが1979年9月16日であり[19][32][33][35]、ラップはすぐにはアメリカでも市民権を得られなかったとされることから[12]、これ以前の日本に海外のラップの影響を受けたラップがあったとは考えにくい[19]。音楽ライター・二木信は「ラップは1980年代初頭にアメリカのNYから日本に輸入されたもの」と述べている[36]。
1984年3月25日発売のスーパー・エキセントリック・シアターのアルバム『THE ART OF NIPPONOMICS』に収録された「BEAT THE RAP」(作詞:高橋幸宏、ピーターバラカン、SET、作曲・編曲:高橋幸宏)は、明らかにラップミュージックを意識して制作されていると評価される[21]。佐野元春は1984年6月21日リリースのシングル「COMPLICATION SHAKEDOWN」、11月21日リリースのシングル「NEW AGE」でラップへの接近を試み[37][38]、吉幾三がアメリカのラップを参考にして制作した「俺ら東京さ行ぐだ」は、1984年11月25日にリリースされ、オリコンシングルチャート4位のヒットを記録した[39]。また同年12月21日のシングル「涙のtake a chance」で、ブレイクダンスを導入した風見しんごは、1985年4月24日リリースのシングル「BEAT ON PANIC」で一部ラップを取り入れた。1980年代前半にラップミュージックを意識して制作された楽曲には他に、1984年のイラマゴ「TYOロック」がある[21]。但し1980年代前半の日本語ラップは「五七調」のような、いかにも日本的なリズムという評価もある[21]。以後ラップはJ-POPなど日本のポピュラー音楽にも取り入れられる手法となった。
いとうせいこうは早稲田大学に入学してすぐ1980年か1981年くらいに極東放送(FEN)から流れてきた間のすごくあるビートの上に言葉が乗ってくるファンキーな曲を、まだラップとは知らなかったがカッコよくて認識はしていた[21][40][41]、それで大学の「FEN研究会」でラップの真似事のようなことをやった[21]、また1982年12月にオープンした六本木インクスティックで[42]、1984年10月にオープンした「クラブD」でDJをやっていた藤原ヒロシにステージに呼ばれ、マイクを持たされラップの真似事やった[21]、「それが初めてクラブから発生した日本語のヒップホップだったんじゃないかな」「スクラッチもヒロシとK.U.D.O.とか数人くらいしかできなかったと思う」等と話している[43]。いとうのラップを今日音源で確認できるのは1985年12月21日リリースされたアルバム『業界くん物語』となる[21]。いとうは「日本語ラップは80年代後半に生まれたもの」と述べている[42]。1980年代半ばから藤原ヒロシらがラップに取り組み[11]、近田春夫は1986年にビートに乗せてしゃべりまくるラップを始めて[44]、「日本語はロックに向かない」との定説に挑戦した[44]。
アメリカではパブリック・エネミー、エリックb&ラキームといったヒップホップ・グループが登場し、エアロスミスのシングル「ウォーク・ディス・ウェイ」をヒップホップ・グループ・Run-D.M.C.がカバーし、1986年7月4日にシングルリリースして世界的に大ヒットした[11][32]。またM.C.ハマーも1990年前後に「U Can't Touch This」が人気となり、ハマーのダンスは日本でも人気を博した[11]。アメリカでは1980年代後半から黒人の地位向上を訴える政治的な曲が増加した[45]。M.C.ハマーの1991年の来日公演で「日本にラップが完全に定着するか」と書かれた文献や[12]、「Run-D.M.C.とM.C.ハマーによって日本でラップが広がりを見せた」と書かれた文献もある[11]。
1989年デビューした電気グルーヴは、コンピューターを駆使したテクノサウンドが売りだが[11]、曲によってラップを導入した[11]。1990年デビューのスチャダラパーのMCボーズは「Run-D.M.C.に衝撃を受けて、ラップグループを結成した」と話している[11]。1980年代後半からラップ・コンテストが盛んに行われ、磯部涼は「1989年3月開催のラップ・コンテストに彗星のごとく現れたスチャダラパーが持つポピュラリティによって、ラップ・ミュージックは日本で決定的に認知されるに至る」と論じている[30]。1990年代になると1993年11月21日リリースのm.c.A・T「Bomb A Head!」[30]、1994年3月9日リリース、小沢健二とスチャダラパーのコラボ楽曲「今夜はブギー・バック」などのヒット曲も生まれ[30]、"J–RAP"と称された[30]バブルガム・ブラザーズもラップを取り入れブームを起こし[11][30]、1994年8月21日に発売されたEAST END×YURIの「DA.YO.NE」は、アメリカのラップが政治や社会への批判を歌っていたのに対して、友人同士の会話がテーマで[10]、純粋なラップファンは敬遠したが[10]、若者の最先端の俗語や流行語を積極的に取り入れられ、若者の共感を得て日本のラップ曲として初めてミリオンセラーになった[10][30]。
1991年1月に7回目の来日をしたビリー・ジョエルは、読売新聞のインタビューで「ラップは好き嫌い以前に、僕にとっては音楽ではない。そこにはメロディーもコードもない。詞を乗せたリズムだと思う。だから、ラップ・ミュージックというのは、ジャンボ・シュリンプ(巨大な小エビ)と同じで矛盾した言葉だよ」と評した[46]。ラップやサンプリングの出現は古典的な意味での音楽の解体が進み[47]、1990年代はポピュラー音楽は迷路に入り込んだとも評された[47]。ラップの歴史が長くなるにつれ、マンネリや行き詰り、閉塞状況が生まれ、日本語ラップの一部にも偏向した思想や差別などのネガティブな傾向も現れるようになった。
言語と技法[編集]
日本人アーティストによるラップは日本語によって行われることが多い[48]。しかし、日本語は英語とは文法や発声法、音韻が大きく異なる。そのため、日本語のラップはしばしば倒置法や喚体句などの修辞技法や、半韻や多重韻、英語風の発音が使用され[48]、しばしばしゃべり言葉とはかけ離れた語調・文体となる。
近田春夫などは、この日本語のラップにおける不自然な日本語に対し否定的見解を示している[49]。また、その独特な語り口調が日本人の音楽風土に合わないという指摘もあり、生理的に受け付けない者も多く、日本ではあまり好まれないジャンルでもある。人によっては「(ラップは)音楽ではない」とし、音楽のジャンルとして認めない者も少なくない。
一方でMummy-Dなどのように、日本語のラップが既存の日本語詩とは異なる表現技法や詩情を開拓した点を肯定的に捉える意見も存在する[50]。音楽評論家中村とうようは、幕末に流行した芸能「阿呆陀羅経」が日本語ラップの源流であるという見解を示している[51]。
関連用語[編集]
※ 主なものを取り上げる。
- リリック(lyric) - いわゆる歌詞。普通は抒情詩の意味で使われる言葉だが、叙事的な内容の場合もリリックという。
- 韻 - 語尾の母音を合わせることや、子音も含めて似た響きの言葉の繰り返し。単語単位に限らず、文全体として似た響きを繰り返したりもする。動詞の場合は「韻を踏む」と表現する。
- ライム(rhyme) - 韻を踏む行為。
- フロウ(flow) - ラップの節回し、節の上げ下げなどのラップを使った表現の個性、オリジナリティなどを言う。その為「彼のラップにはフロウがある」と言った評し方もある。日本においてはもう少し狭い意味の使い方が多い為、「フロウ」という単語を使いつつ重複した別の言葉が出てくることもある。
- フリースタイル(free style) - 無構成の音に自由な型のラップをハメること。また、最近では、ある程度即興でリリックを考え、ラップすることもフリースタイルと呼ばれるようになってきている。フリースタイルバトルでは、お互いがリリックの内容で攻撃し合う。実際の大会では、有能な対戦相手の弱点を研究し、対策リリックをある程度作ってから臨むこともある。一方で特に即興性の高いものはトップ・オヴ・ザ・ヘッドと呼ばれる。 フリースタイルのイベント・大会なども開催されている。海外アーティストではJINなどがフリースタイル大会の出身者である。
- ワック(wack) - スラングで不出来な、あるいは偽物の意。「ワックMC」など、他のアーティストをディスる(批判する)時に使用する。
- マイクリレー(mic relay) - 複数のMCが決められた小節を担当し、楽曲をつないでいくこと。
- ビーフ(beef) - アーティスト間の罵りあい、喧嘩のこと[注釈 4]。1984年に放送されたアメリカのハンバーガー・チェーンのCMは、ウェンディーズが競争相手のマクドナルドやバーガーキングより中身の牛肉のパティが多いことを印象づけるためのものであった。流行語となり、1984年の民主党大統領候補を決定する予備選挙で、政策の中身の優劣を議論する際にスローガンとして使われた。候補にはモンデール候補が選ばれた。
ラップを主題とするイベント・番組[編集]
- MCバトル
- 戦極 MCBATTLE
- 激闘!ラップ甲子園
- 番組
- フリースタイルティーチャー - テレビ朝日
- フリースタイルダンジョン - テレビ朝日[52]
- YO!ラップ部 - 中京テレビ
- Epic Rap Battles of History - 歴史上の人物・有名人などがラップで競い合うYoutube番組。日本語では、ERB公認日本語字幕があった。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
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参考文献[編集]
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関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 韓国語ラップが上達する方法:韓国オーディションをラップ部門で合格する! (日本語) - K-DREAM