ハワイにおける日本人移民

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ハワイの製糖工場で働く人びと(1910年頃)
手彩色絵葉書ヒロ湾明治時代

ハワイにおける日本人移民(ハワイにおけるにほんじんいみん、英語:Japanese settlement in Hawaii)とは、1868年以降、労働者として日本からハワイへ移住していった人びとを指す。1900年までの国や民間企業の斡旋によりやって来た移民を契約移民、以降1908年までの移民を自由移民と呼称する[1]

概要[編集]

ハワイにおける移民は、急増するサトウキビ畑や製糖工場で働く労働者を確保するため[2]、1830年頃より始められ、関税が撤廃された1876年以降にその数が増え始めた[3]。中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットランド、プエルトリコなど様々な国から移民が来島したが、日本からやってきた移民が最も多かった。日本からの移民は1868年から開始され、1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどとなり、1924年の排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡っている[1]

移民の多くは契約期間満了後もハワイに定着し、日系アメリカ人としてハワイ社会の基礎を作り上げていった[4]

背景[編集]

中国人排斥法
(1882年アメリカ)

19世紀初頭、ハワイ王国において摂政カアフマヌが政治的実権を握ると、キリスト教を中心とした欧米文化を取り入れようとする動きが活発化し、彼女に取り入った白人たちが発言力を増すようになる。貿易負債削減のため、それまではネイティブハワイアンの食料としてのみ栽培されていたサトウキビを輸出用資源として大規模生産を行おうとする動きが1835年より開始された[2]

1850年、外国人による土地私有が認められるようになると、白人の投資家たちの手によってハワイ各地にサトウキビ農場が設立され、一大産業へと急成長した。その後、アメリカ合衆国内において南北戦争が勃発するとこの動きはさらに加速、1876年の関税撤廃に至り、ハワイ王国は世界有数のサトウキビ輸出国となった[2][† 1]

増加する農場に対し、ハワイ王国内のハワイ人のみでは労働力を確保することが困難となり、1830年代より国外の労働力を輸入する方策が模索されはじめ、1852年、3年間という契約で、中国より最初の契約労働者がハワイへ来島した。以降も中国より多数の労働移民がやってきたが[† 2]、中国人らは定着率が悪く、契約終了後、独自に別の商売を始めたりするなどしたことにより彼らに対する風当たりが強くなったことから、ハワイ政府は中国人移民の数を制限し、他の国から労働力を輸入するようになる。

日本もその対象の一国として交渉が持たれた。1898年、ハワイがアメリカに併合されると、アメリカの中国人排斥法が適用され、中国人の移住が事実上不可能となった。

来島の流れ[編集]

元年者[編集]

1860年(万延元年)、日本の遣米使節団がハワイに寄港した際、カメハメハ4世は労働者供給を請願する親書を信託したが、日本は明治維新へと向かう混迷期にあり、積極的な対応がなされずにいた。カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示した。ヴァン・リードは徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分の渡航印章の下附を受ける。

しかし、その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化した[5]。しかし、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年(明治元年)、サイオト号で153名[† 3]の日本人を無許可でホノルルへ送り出してしまうこととなる。こうして送られた初の日本人労働者は元年者と呼ばれた。

日本側は自国民を奪われたとして、1869年に上野景範三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行った。折衝の結果、契約内容が異なるとして40名が即時帰国し、残留を希望した者に対しての待遇改善を取り付けた[5]。この事件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、1871年(明治4年)8月、日布修好通商条約が締結された。

契約移民[編集]

『明治拾八年に於ける布哇砂糖耕地の情景』
Joseph Dwight Strong、1885年

1885年(明治18年)1月、日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになった。政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡った[1]。1884年、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があり[6]、946名[† 4]が東京市号に乗り込み、ハワイへと渡った。

官約移民は「3年間で400万円稼げる」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われたが、その実態は人身売買に類似し、半ば奴隷に近かった。労働は過酷で、現場監督(ルナ)ので殴る等の酷使や虐待が行われ、1日10時間の労働で、休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を差し引かれた金額であった[7]。これは労働者が契約を満了することを義務付けられたハワイの法律(通称、主人と召使法)に起因するところが大きい[8]。仕事を中途で辞めることが法的に認められていなかったのである。

官約移民制度における具体的な交渉は、後に「移民帝王」とも揶揄される[8]在日ハワイ総領事ロバート・W・アーウィンに一任されていた。井上馨と親交を持ち、その関係から三井物産会社を用いて日本各地から労働者を集め、その仲介料を日本・ハワイの双方から徴収するなど、莫大な稼ぎを得ていた[8]。アーウィンとの仲介料の折り合いが合わず、1894年の26回目の移民をもって官約移民制度は廃止された。

民間移民会社[編集]

1894年の官約移民の廃止と同時期に、弁護士星亨が日本政府に働きかけ、民間移民会社が認可されることとなり、以後は日本の民間会社を通した斡旋(私約移民)が行われるようになった[9][10]

日本との移民事業を行う会社が30社以上設立され、特に広島海外渡航会社、森岡商会、熊本移民会社、東京移民会社、日本移民会社は五大移民会社と呼ばれ、勢力を誇った[11]。当時の国際取引銀行は英国HSBCの協力で設立された横浜正金銀行であったが、移民会社らは共同で私設の京浜銀行も設立し、移民労働者の郷里送金の代行業務などを行っていた。

1900年のハワイ併合、1908年の日米紳士協約などによりこれらの会社は全て消滅した。これ以降、移民の家族や一旦日本へ帰国したが、再度移住を希望する帰米者のみ移住が許可されるようになり、そうした者も1924年の移民法成立により、日本人のハワイへの移住は事実上不可能となった[1]

その後[編集]

その後定住した日本人移民の子孫が増加したことから、ハワイの全人口における日本人移民と日系人の割合は増加を続けた。その後勃発した第二次世界大戦下では、アメリカ本土の日本人移民と日系アメリカ人がアメリカ政府により強制収容されたが、ハワイにおいては日系人人口が多く、その全てを収容することが事実上不可能である上、もし日系人を強制収用するとハワイの経済が立ち行かなくなると推測されたことから、アメリカへの帰属心が弱く、しかも影響力が強いと目された一部の日系人しか強制収容の対象とならなかった。

ストライキ[編集]

農奴の如き過酷な労働条件下において、日本人移民は激しく抵抗し、度々ストライキを行った。1900年までのストライキ件数は数百件にのぼり、不当な扱いに対する改善が訴えられたが、こうした行いは当地法において違法とされ、牢獄送りとなっていたため、待遇改善には至らなかった。アメリカに併合後は1900年基本法において既存の労働契約が全て無効となったことから、過酷な労働条件の緩和に至り、ストライキの件数も減少していった。

このような状況の中で1908年、法学者の根来源之が『日布時事』にハワイとアメリカ本土の労働条件の乖離を指摘し、労働者の待遇改善を主張した論文を掲載し、経済界に大論争が始まった。増給論を支持する石井勇吉らにより「増給期成会」が結成され、待遇改善運動が展開された。1909年5月9日、これに呼応した日本人労働者ら7,000人により、アイエア、ワイパフ、カフク、ワイアナエ、エヴァなどのオアフ島各農園で一斉にストライキが実施された。これに対し農園経営者協会(HSPA)は参加者らとその家族に対し受け入れを拒否し、立ち退き命令を出した。この結果5,000人以上のストライキ難民がホノルルなどに溢れ返った。煽動した日本人活動家らは耕地営業妨害罪などで逮捕され、ストライキは失敗に終わったが、200万ドル以上の損失を計上した経営者側も労働環境の見直しを図らざるを得ず、若干の増給が実施された[12]

しかし、第一次世界大戦などの影響によりインフレ化が進行すると応急処置的な賃上げでは生活が立ち行かなくなり、1920年1月19日には他国出身者もあわせたハワイ史上最大のストライキがオアフ島にて実施され、全農園労働者の約77%がこれに参加した[13]。このストライキでは1万人を超える日本人労働者が農園を退去させられ、その結果、野営していた労働者ら2,500人がインフルエンザに感染し150名が死亡するなど、深刻な被害をもたらした。結果的に5割の賃上げ、労働環境の改善を勝ち取ることができたが、多くは農場を去り、製糖産業における日本人労働者の割合は1902年の70%から19%へ急落した[13]。また、こうした行動は後の排日運動を加速させ、日系人社会への圧力がより強められることとなった。

日本人移民と宗教[編集]

ハワイでは元来北アメリカ東海岸から来た者たちによって会衆派教会が大きな位置を占めていたが[14]、日本や中国からの移民からも儒教道教仏教神道などが持ち込まれ、特に仏教が栄えた[14]。ハワイにおける仏教は、1889年に浄土真宗の僧侶であった曜日蒼竜本願寺派の布教を開始したことを嚆矢とする[14]。これは、西日本(広島県山口県)出身の移民や、沖縄県出身の移民(オキナワン)が多かったことが要因とされている[14]

こうした宗教は年中行事冠婚葬祭だけでなく日本語学校寺子屋合唱隊ボーイスカウト講演会バザーなど様々な催しの場を提供し、日系社会のコミュニケーションの基礎固めという役割を果たすようになった[15]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ サトウキビ生産量は1837年時点約2トン、1870年1万トン、1900年30万トン、1930年100万トン。
  2. ^ 19世紀に中国からハワイへやってきた労働者数は約46,000人である。
  3. ^ 内訳は男146、女5、子供2で『ハワイ・さまよえる楽園』による。『ハワイの歴史と文化』では149名とされている。
  4. ^ 約45%が山口県、約23%が広島県からの移民であった。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]