広島原爆で被爆したアメリカ人

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広島原爆で被爆したアメリカ人(ひろしまげんばくでひばくしたアメリカじん)は、1945年8月6日広島市への原子爆弾投下被爆したアメリカ人

アメリカ政府は直接被爆したアメリカ人捕虜が10人いたと認定、日本の民間団体・歴史研究家の調査では12人いたとしている。朝日新聞社系のみ2014年現在直接被爆者を13人としている[1]が内訳は不明。その他にもアメリカ政府は認定していないが、入市被爆したアメリカ人捕虜が10人、日系アメリカ人および日本国籍を取得したアメリカ系日本人にも被爆者はいる。本項では特に被爆したアメリカ人捕虜を中心に記載する。

沿革[編集]

1945年米軍作成の広島市地図。地図上に"POW Camp""War Camp"がないことがわかる。地図中央付近のT字の橋が相生橋、そこからやや右下、電車が通るT字の交差点の右上"MIlitary Police"が中国憲兵隊司令部。その上側、広島城本丸の"5fh Division Hq"(第5師団)が被爆当時中国軍管区司令部。そこから右下の"11th Infanty Regiment"(歩兵第11連隊)に被爆時中国軍管区歩兵第一補充隊が駐屯していた。地図中央下が宇品で海岸沿いの"Army Transport Base"が船舶司令部でこの近辺に宇品憲兵分隊や船舶練習部附属病院が置かれていた。
原爆投下前。
投下後。
同心円の中心が爆心地。上地図と位置関係を参照。

背景[編集]

広島は、元々陸軍第5師団の拠点であり”軍都”として発展し、太平洋戦争末期には本土決戦に備え第2総軍司令部が置かれ、軍事的な拠点としての役割が強まっていた[2][3]

太平洋戦争時、連合国側の民間人は敵国人として集められ抑留されており、広島を含めた中国地方では三次の愛光保健園(現在の広島県三次市愛光保育所の敷地)に収容された[4]。例えば、広島市内にある援助修道会英語版カトリック三篠教会では被爆時、フランス人院長は結核により入院、イギリス人とベルギー人の修道女は敵国人として愛光保健園へ送られ、フランス2・イタリア2・アイルランド1・日本2の計7人の修道女とドイツ人神父1人の編成だった[4][5]

広島が原爆投下の第一候補に選ばれた理由の一つに、当時市街地に捕虜収容所がないとアメリカ側に思われていたことが挙げられる[6]。現在の広島市域では、第一次世界大戦後に似島に捕虜収容所(似島俘虜収容所)が設けられたことはあるが[7]、太平洋戦争中には収容所はなかった。

しかし実際には、アメリカ人捕虜がいたのである。呉軍港空襲の最終局面である1945年7月28日、アメリカ側は榛名利根などを撃沈したが、日本側もアメリカ軍機を撃墜し生き残った乗員を捕虜として捕らえた[3][8]。以下、日本の民間団体や歴史研究家が取りまとめた当時の日本側の対応を示す[3][8]

  • アメリカ爆撃機2機・艦載機20機以上を撃墜。
  • 生き残った捕虜は別々に捕らえられ最終的に以下に収監。
    • 呉海軍刑務所に7人収監、8月1日横須賀大船収容所に移送。
    • 中国憲兵隊司令部に15人拘束、うち3人の将校は7月30日東京防衛総司令部に移送。

こうして7月28日のみの戦闘で捕虜となった中国憲兵隊司令部に残る12人が被爆することになる[8][3][9]。12人の乗員別内訳は以下のとおり(詳細は下記被爆者の項を参照)。

  • B-24(愛称ロンサム・レディー) : 6人
  • B-24(愛称タロア) : 3人
  • SB2C : 2人
  • F6F : 1人

そして東京に移送され生き残った1人がB-24ロンサム・レディー号機長トーマス・カートライト少尉である[10]。当時憲兵による取り調べに対してB-24タロア号の捕虜は広島に強力な新型爆弾が落とされると答えていて、他の捕虜はそのことを知らなかった[9]。更に収監の間、捕虜どうしでの会話は禁止されていたため、被爆するまでそのことを知らなかった者がいたことになる。当時アメリカ人以外の連合国の捕虜は広島にはいなかった。

被爆[編集]

左側を縦断する道が相生通りで下のT字橋が相生橋、そこから上のロータリー交差点の左上の敷地が中国憲兵隊司令部があったところ。
1947年6月。相生橋の欄干は被爆により殆どが川に落下し見えている部分(原爆ドーム側)のみ残っていた[11]ため米軍捕虜が一時的に括り付けられたのはここになる。そして手前側あるいは橋中央の電柱に張り付けされた。

1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下。彼ら12人は広島城内にあった中国軍管区司令部・中国軍管区歩兵第一補充隊そして中国憲兵隊司令部の3箇所におり、複数の目撃証言によりほとんどが被爆当日に死亡したと考えられている[8][12][9]

画像外部リンク
原爆の絵 - 広島平和記念資料館。「捕虜」で検索すると被爆者が書いた絵が出てくる。相生橋の捕虜の死体を殴るもの、冥福を祈るもの、など市民の様々な対応がわかる。複数の絵でもわかるように2人いた話もあり、もう一人はB-24タロア号射撃手ジュリアス・モルナー二等軍曹という仮説[9]がある。

有名な話として、相生橋そばに括りつけられたアメリカ人捕虜の死体の話がある[13]。この人物は多くの日本人に死体として目撃されており、そして後の調査でB-24ロンサム・レディー号通信士ヒュー・アトキンソン軍曹と確定している[12][9]

  • ある憲兵が聞いた話によると、別の被爆した憲兵が翌7日瀕死の捕虜を発見し広島憲兵分隊(猫屋町の光道国民学校に駐屯)に連行しようとしたが憲兵自身も倒れそうになったためやむなく相生橋手前で捕虜を放置した、という。これは1971年広島市刊『広島原爆戦災誌』に記載された[12]
  • その後の追跡調査で実際に任にあたった憲兵が探しだされ、翌7日宇品憲兵分隊(船舶司令部内)への連行中一時的に相生橋の欄干に括りつけていたがそのまま絶命したためそこに残して他の捕虜を連行した、とわかった。そして他の複数の目撃証言により、この憲兵の話が追認されることになる[9][14]

この捕虜の目撃情報は「被爆当日(あるいは翌7日)、逃げていたアメリカ人捕虜を相生橋そばの電柱に括りつけ口々に罵り投石し私刑した」という風説となり、広島原爆文献の古典である今堀誠二著『原水爆時代(上)』などに記載されたことを通して間違った事実が広まることになる[12][13][9]。なおアトキンソンは電柱に括り付けられていたのを日本人により降ろされ荼毘に付され、後に原爆供養塔に遺骨が納められた[12]。これとは別に、広島城でも同様に縛られたアメリカ人捕虜の話がある[15][16]

上の憲兵の話のように被爆当日に死亡しなかった人物もいる。B-24ロンサム・レディー号射撃手ラルフ・ニール二等軍曹とSB2C射撃手ノーマン・ブリセット三等軍曹は宇品に送られたが、同年8月19日放射線の影響で陸軍船舶練習部附属病院で双方死亡した[9]。2人の遺体は宇品憲兵隊隊長であった高橋太郎の命令で火葬され、陸軍病院近くに墓が建てられた。この時点で直接被爆者12人全員が死亡したことになる。

入市被爆したアメリカ人捕虜も存在する。同年8月8日八幡空襲で日本側に撃墜されたB-29ニップ・クリッパー号の生き残った10人は、8月14日島根県美濃郡沖で救助され、8月15日(終戦日)益田駅から山口憲兵分隊、8月16日宇品に設けられていた中国憲兵隊臨時司令部に送られ、8月20日広島県向島にあった広島捕虜収容所向島分所へ送られた[8][17][18]。この宇品に収監されていた時期が入市被爆したことになり、彼らの中には直接被爆した2人であるニールとブリセットを8月19日に看取ったものもいる[18][19]

実は捕虜以外にもアメリカ国籍の被爆者はいる。戦前期の広島県が「移民県」であったことを背景に、被爆当時の広島市には開戦以前に親戚への訪問や日本国内への進学を理由として来広し、開戦によりそのまま帰米不能となった多数の日系アメリカ人が在住し、被爆した[20]。またアメリカ系日本人としては、日本人との結婚で日本国籍を取得したのち、開戦直前に帰国した夫に同行して広島に在住していたところ、警察当局による軟禁状態のもと被爆した女性(1974年死去)の例が知られている[21]

検証[編集]

メディア外部リンク
画像
マッカーサーからのお悔やみ状(コピー) - 広島平和記念資料館。画像が見えにくいが、8月6日に死亡したことは書かれているが、アメリカの原爆によるものとは一切書かれていない。
映像
被爆米兵のメッセージ A hidden story of the Hiroshima a-bomb - 広島西ロータリークラブ。元映像は中国放送が作成、広島西RCが許可を得てYOUTUBEにアップロードしている[22]

アメリカ政府の見解は戦後しばらくの間「被爆したアメリカ人はいない」というものであった。日本側からすると相生橋のアメリカ人捕虜を多くの人が見ていたことから彼らの存在は早くから知られており、そしていろいろな情報・噂が錯綜し、捕虜の全体人数の把握に影響を及ぼした。その中で、マスコミによるスクープ、元広島女学院大学教授宇吹暁や地元歴史研究家森重昭らの尽力、そしてB-24ロンサム・レディー号機長トーマス・カートライト少尉の証言によって解明されていき、直接被爆した捕虜12人を断定した[3][9]

一方でアメリカ政府はその遺族に対し、終戦直後は「戦闘中日本上空で行方不明」と通達、翌1946年その中の何人かに「8月6日捕虜として日本に拘留中、戦死した」とGHQダグラス・マッカーサーがお悔やみ状を送っている[3][9][23]ものの、以降は対応していなかった。1983年初めて公的に被爆死した10人を認めることになるが、これ以外はアメリカ政府は認めていなかった[13][9]。2016年、バラク・オバマ大統領の広島訪問時の演説で"a dozen Americans held prisoner(捕虜となっていた十数人の米国人[24])"に言及し[25]、結果的にアメリカ政府は公的に10人以上いたことを認めたことになった。

以下に現在分かっている情報で大まかな沿革を記載する。

  • 1945年
  • 1946年 : GHQダグラス・マッカーサーが被爆した捕虜の遺族の何人かにお悔やみ状を送付[23]
  • 1952年4月 : サンフランシスコ講和条約発効によりプレスコード失効。
  • 1970年
    • 7月 : 毎日新聞銭本三千年記者によるスクープ、2人の被爆捕虜を探しだし1970年7月10日付け同紙に”広島原爆――― 2 米兵も死んでいた”を公表。この記事はUPI通信により世界に向け外電されている。
    • 8月 : B-24ロンサム・レディー号射撃手ジョン・ロング伍長と所属不明トニー・某(航空)少尉の2人を初めて原爆死没者名簿に記載[12]
    • 9月 : UPI通信がNARAで被爆捕虜に関する記録文書を発見[15]
  • 1971年
    • 広島市刊『広島原爆戦災誌』を公表、この中で元憲兵が「被爆したアメリカ兵の認識票23個を進駐軍が持ち帰った」「中には女性通信員が1、2人いた」と証言[12]
    • 6月 : 丸木俊丸木位里夫妻による被爆捕虜を描いた『原爆の図 : 第13部「米兵捕虜の死」』を発表。元憲兵証言により被爆捕虜として23人、うち3人を女性で描いた[30]
    • 9月 : NARA、前年にUPI通信が発見した史料が機密解除となり正式公表、当時20人が捕虜として広島におり大半が陸軍航空隊員、17人が被爆当日に死去、2人が8月19日に負傷のため死亡[31]
  • 1975年 : アマチュア歴史研究家の森重昭がロンサムレディー墜落の事実を知り、独自に調査を開始する[32]
  • 1977年
    • 広島大学原爆放射線医科学研究所助手(当時)の宇吹が外務省外交史料館で機密解除となった被爆捕虜のリストを発見。20人からなるいわゆるウブキズ・リストを公表[9]
    • 12月 : 宇吹の追跡により17人の名前が判明[33]
  • 1978年
    • 1月 : 宇吹の追跡により更に3人の名前が判明。計20人[34]。これ以降、広島市は原爆死没者名簿に記載するため家族に必要書類を送付する[35]
    • 7月 : ウブキズ・リストの内、9人は九州大学生体解剖事件などの旧日本軍による虐殺で死亡したことが判明。被爆捕虜11人[28]
  • 1980年 : ゴードン・トマス、マックス・モーガン・ウイッツ著『エノラ・ゲイ―ドキュメント・原爆投下』(日本語版TBSブリタニカ)が出版。この中で、墜落時パラシュートで脱出した後カートライトが消息を知らなかった1人も被爆捕虜として加えていた。なおその人物であるB-24ロンサム・レディー号航法士ロイ・ベーデンセン少尉は墜落時に死亡し1947年に山中で白骨死体で発見[14]されている。
  • 1983年 : アメリカ政府、陸軍8人・海軍2人が被爆死したことを認める。名前は公表せず[9][36]
  • 1984年12月 : ロバート・マノフ記者、ニューヨーク・タイムズ・マガジンに10人の名前と所属を報道[9][37]
  • 1985年6月 : アメリカ政府による追悼式。ロナルド・レーガン大統領演説の中で9人の名前が呼ばれている。

In honor and memory of the U.S. Army Air Force and U.S. Navy airmen who lost their lives while prisoners of war at Hiroshima, Japan, the day of the bomb -- August 6, 1945.

S/Sgt. Charles O. Baumgartner -- USAAF
2nd/Lt. Durden Looper --- USAAF
2nd/Lt. James M. Ryan -- USAAF
Sgt. Hugh H. Atkinson -- USAAF
Cpl. John A. Long, Jr. -- USAAF
S/Sgt. Buford J. Ellison -- USAAF
S/Sgt. Ralph J. Neal -- USAAF
Lt. JG, Raymond G. Porter -- USN
A/3C. Normand Roland Brissette -- USN

The bravery, suffering, and devotion to duty . . . earned them a preeminent place in the hearts of all Americans. Their heroism is a beacon to follow forever.

— President Ronald Reagan -- June 27, 1985、[38]
  • 森はアメリカ公式発表の10人とウブキズ・リストの11人を更に検証し追跡調査として関係者に聞き取りを続けた結果、アメリカ公式発表のリストから漏れていた2人を探しだし、12人とされる[9]
  • 1999年 : 森が自費で中国憲兵隊司令部跡地に原爆犠牲米軍人慰霊銘板を設置[32]
  • 2004年 : 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に初めての被爆捕虜としてジョン・ロングが登録される[39]
  • 2009年 : 森らの尽力により国立広島原爆死没者追悼平和祈念館への12人全員遺影付きの登録が完了[3][36]

被爆者[編集]

直接被爆[編集]

以下、日本の民間団体・歴史研究家の調査で直接被爆にあったと断定されている人物と、同乗していた人物を挙げる。太字が被爆、斜字が捕虜になる前に死亡した人物[3][8]

同型機

B-24リベレーター

  • 第7爆撃団第494爆撃群所属
  • 機体番号 44-04680
  • 愛称 LONESOME LADY(ロンサム・レディー)
  • 乗務員9人
  • 読谷飛行場より出撃、榛名の攻撃により被弾、山口県玖珂郡(現柳井市伊陸)に墜落[40]
氏名 階級 年齢 出身 墜落状況 被爆状況
トーマス・カートライト
(Thomas C. CARTWRIGHT)
少尉
機長
操縦士
ルーパーと共に伊陸村で捕まり、光憲兵分隊柳井分隊→中国憲兵隊司令部。更に7月30日東京防衛総司令部に移送。 広島にいなかったため生存、帰国。
ダーデン・ルーパー
(Darden W. LOOPER)
少尉
副操縦士
22 アーカンソー カートライトと共に伊陸村で捕まり、光憲兵分隊柳井分隊→中国憲兵隊司令部。 被爆当日に死去。
ロイ・ベーデンセン
(Roy M. PEDERSON Jr.)
少尉
航法士
墜落死。 -
ジェームズ・ライアン
(James M. RYAN)
少尉
爆撃手
20 ニューヨーク 南河内村で捕まり、岩国憲兵分隊→中国憲兵隊司令部。 被爆当日に死去。
ヒュー・アトキンソン
(Hugh H. ATKINSON)
軍曹
通信士
26 ワシントン 南河内村で捕まり、岩国警察署→岩国憲兵分隊→中国憲兵隊司令部。 被爆により重症、翌7日相生橋で拘束されたが死去。
ジョン・ロング
(John A. LONG Jr.)
伍長
射撃手
27 ペンシルバニア ニール・エリソンと共に高森町で捕まり、山口憲兵分隊→岩国憲兵分隊→中国憲兵隊司令部。 被爆当日に広島城二之丸で死去。
パッフォード・エリソン
(Buford J. ELLISON)
軍曹
エンジニア
テキサス ニール・ロングと共に高森町で捕まり、山口憲兵分隊→岩国憲兵分隊→中国憲兵隊司令部。 被爆当日に死去。
ラルフ・ニール
(Ralph J. NEAL)
二等軍曹
射撃手
23 ケンタッキー エリソン・ロングと共に高森町で捕まり、山口憲兵分隊→岩国憲兵分隊→中国憲兵隊司令部。 重症を負いヘルダイバーのブリセットとともに宇品憲兵分隊に移されたが19日に死亡。
ウィリアム・アベル
(William E. ABEL)
二等軍曹 しばらく山中に潜伏していたが空腹のため山陽本線に乗ったところで徳山駅付近で捕まり、呉海軍刑務所→大船収容所 広島にいなかったため生存、帰国。
B-24リベレーター
  • 第7爆撃団第494爆撃群所属
  • 機体番号 44-40716
  • 愛称 TALOA(タロア)
  • 乗務員11人
  • 読谷飛行場より出撃、榛名の攻撃により被弾、広島県佐伯郡(現佐伯区五日市町八幡)に墜落[41]
氏名 階級 年齢 出身 墜落状況 被爆状況
ジョセフ・ダビンスキー
(Joseph DUBINSKY)
少尉(中尉説あり)
機長
操縦士
27 ペンシルベニア 八幡村で捕まり、中国憲兵隊司令部 被爆当日に死去。
ルドルフ・フラナガン
(Rudolph C. FLANAGIN)
中尉
副操縦士
墜落死。 -
ドナルド・マーヴィン
(Donald F. MARVIN)
中尉
オブザーバー
墜落死。 -
ローレンス・フォールズ
(Lawrence A. FALLS Jr.)
中尉
航法士
墜落死。 -
ロバート・ジョンストン
(Robert C. JOHNSTON)
中尉
爆撃手
墜落死。 -
デビット・パシフィックフィールド
(David A. PACIFICFIELD)
一等軍曹
通信士
墜落死。 -
ウォルター・ピスコー
(Walter PISKOR)
一等軍曹
エンジニア
墜落死。 -
チャールズ・アリソン
(Charles R. ALLISON)
二等軍曹
射撃手
墜落死。 -
カミラス・カークパトリック
(Camillus KIRKPATRICK)
二等軍曹
射撃手
墜落死。 -
ジュリアス・モルナー
(Julius MALNER)
二等軍曹
射撃手
20 ミシガン 八幡村で捕まり、中国憲兵隊司令部 被爆当日あるいは翌日に死去。
チャールズ・バウムガルトナー
(Charles O. BAUMGARTNER)
二等軍曹
射撃手
30 オハイオ 八幡村で捕まり、中国憲兵隊司令部 被爆当日に死去。
同型機

SB2Cヘルダイバー

氏名 階級 年齢 出身 墜落状況 被爆状況
レイモンド・ポーター
(Raymond PORTER)
中尉
操縦士
24 ペンシルベニア 対空砲火により墜落、山口県大島郡で漂流中に捕まり、宇品憲兵分隊→中国憲兵隊司令部 被爆当日に死去。
ノーマン・ブリセット
(Norman R. BRISSETTE)
三等軍曹
射撃手
19 マサチューセッツ 重症をおいロンサム・レディーのニールと共に宇品憲兵分隊に移されたが19日に死亡。
同型機

F6Fヘルキャット

氏名 階級 年齢 出身 墜落状況 被爆状況
ジョン・ハンシェル
(John J. HANTSCHEL)
少尉 ウィスコンシン 不時着により山口県吉敷郡東岐波村(現宇部市)で漂流中に捕まり、山口憲兵隊→中国憲兵隊司令部 被爆当日に死去。

入市被爆[編集]

斜字が捕虜になる前に墜落死した人物[8]

同型機(エノラ・ゲイ

B-29スーパーフォートレス

  • 第313爆撃団第9爆撃群所属
  • 機体番号 42-635122
  • 愛称 NIP CLIPPER(ニップ・クリッパー)
  • 乗務員11人
  • 八幡空襲で対空砲火により墜落。
氏名 階級 年齢 出身
ジョージ・ケラー
(George F. KELLER)
少尉
機長
ウォルター・ロス
(Walter R. ROSS)
少尉
スタンリー・レヴィン
(Stanly H. LEVINE)
少尉
チャールトン・ホールデン
(Carleton M. HOLDEN)
少尉
ユージーン・キャロル
(Eugene V. CARRELL)
少尉
マーティン・ザップ
(Marthin L. ZAFPE)
軍曹
ジェラルド・ブレーク
(Gerald J. BLAKE)
軍曹
ロバート・コンリー
(Robert M. CONLEY)
軍曹
クリスタス・ニキタス
(Christas NIKITAS)
軍曹
トラバー・ヘルマン
(Traver HERMAN)
軍曹
セルビー・ファウラー
(Selby L. FOWLER)
軍曹

慰霊碑[編集]

  • Hiroshima POWs - アンダーソンビル・ナショナル・ヒストリック・サイト英語版(旧アンダーソンビル捕虜収容所)内にあるプレート。大統領演説が刻まれている[38]
  • 原爆犠牲米軍人慰霊銘板 - 旧中国憲兵隊司令部、現在は民間のビルに設置された銘板。森が作り、刻まれた碑文はカートライトが思案したもの[14]
  • 平和の碑 - 山口県柳井市伊陸のロンサム・レディーが墜落した現場近くに建立された慰霊碑[40]

備考[編集]

  • ロンサムレディー生存者の一人、トーマス・カートライトは牛の品種改良を研究しテキサスA&M大学名誉教授。大学を退いた1992年から当時のことに向き合うことを始め、1999年初来日、2002年『A Date with the Lonesome Lady: A Hiroshima POW Returns』(日本語版『爆撃機ロンサム・レディー号:被爆死したアメリカ兵』NHK出版)を出版。2015年1月死去[10][42]
  • ロンサムレディー生存者の1人ウィリアム・アベルの終戦後の消息はわかっていない[43]
  • 1970年原爆死没者名簿に初めての被爆捕虜としてジョン・ロングが登録されたのは、上記のとおりマスコミ報道や日本人による目撃情報があったことに加え、彼の兄の息子つまり甥が宣教師で1967年来日し布教活動をしていて、その甥が名簿登録申請したことから。甥は20年以上日本で布教活動をしていて、その子どもつまりジョンの大甥にあたる人物は日本で生まれ育ち、そして2004年国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にジョンの遺影が登録された際には大甥が尽力している[44][45][46]
  • 墜落機の残骸の幾つかは遺族に渡されている[47][48]。逆に遺族から遺品を広島平和記念資料館に寄贈されているものもある[49]。また呉軍港空襲の舞台である呉市の大和ミュージアムにも破片が展示されている。
  • 入市被爆者の1人であるマーティン・ザップは2005年に来日、救助された場所である現在の益田市や広島を訪れた。彼が書いた体験記は国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に収められている。なお2005年時点で残り9人は死去している[50]
  • スタンフォード大学の歴史学部のバートン・バーンスタイン教授は原爆投下の直前、アメリカはイギリス情報部から「広島にアメリカ人捕虜がいる」と通告を受けていたがこれを無視され、アメリカ戦略空軍司令部の極秘電報(45年7月30日付)によると同司令部は長崎にはアメリカ人捕虜収容所があることを確認、ワシントンに打電されたが、投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれたため、約1400人のアメリカ人捕虜は助かった。アメリカ政府が被爆死したアメリカ兵捕虜のことを秘密にしていた理由について、同教授は「アメリカ国民の大半が支持した原爆投下でアメリカ兵が殺されていたとなれば、世論は批判に変わり、第2次大戦直後の冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発したい」と述べている[51]
  • 広告代理店に勤めていたバリー・フレシェットは自身の叔父が被爆したSB2Cヘルダイバー乗務員ノーマン・ブリセットと親友であることを知った[32]。そこで被爆米兵のドキュメンタリー映画の制作を開始した[32]。その制作の中で長年研究を続けている森重昭の存在を知り、森の全面的な協力により映画『Paper Lanterns(灯篭流し)』を完成させた[32][52]。この映画がアメリカ政府関係者の目に止まり、2016年バラク・オバマの広島訪問において森が参列することになり、オバマと森が抱き合うシーンへと繋がった[53]

脚注[編集]

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  1. ^ 外国人捕虜の被爆 朝日新聞2014年8月4日夕刊1社会”. コトバンク. 2016年1月23日閲覧。
  2. ^ 第二総軍司令部の設置”. 広島平和記念資料館. 2016年1月23日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 伊吹由歌子. “書籍紹介:「原爆で死んだ米兵秘史」森 重昭著 ”. US-JAPAN DIALOGUE ON POWS. 2016年1月23日閲覧。
  4. ^ a b 小宮まゆみ「太平洋戦争下の「敵国人」抑留 : 日本国内に在住した英米系外国人の抑留について」、『お茶の水史学 Vol.43』、お茶の水女子、1999年9月2016年1月23日閲覧。
  5. ^ “修道女、広島の献身 欧州出身の5人が被爆後に看護”. 朝日新聞. (2009年8月4日) 
  6. ^ 第1目標に選ばれた広島”. 広島平和記念資料館. 2016年1月23日閲覧。
  7. ^ ドイツ人俘虜(ふりょ)収容所”. 広島市似島臨海少年自然の家. 2016年1月23日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g 本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士”. POW研究会. 2016年1月23日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 講演会「被爆死したアメリカ兵捕虜」”. POW研究会. 2016年1月23日閲覧。
  10. ^ a b 原爆犠牲の同僚 今も心に 呉で撃墜され捕虜 元米軍機長カートライトさん ”. 中国新聞 (2014年12月18日). 2016年1月23日閲覧。
  11. ^ 角田孝志「広島市相生橋の原爆被害について (PDF) 」 、『土木学会誌』第35巻、土木学会、1950年9月、 412-413頁、2017年4月3日閲覧。
  12. ^ a b c d e f g 原爆戦災誌 1971, p. 71.
  13. ^ a b c 爆死した米兵捕虜目撃/相生橋「秘話」”. 中国新聞 (1997年7月28日). 2016年1月23日閲覧。
  14. ^ a b c 被爆米兵慰霊の銘板を立てた己斐の森重昭さん61”. 西広島タイムズ (1998年8月7日). 2016年1月23日閲覧。
  15. ^ a b 原爆戦災誌 1971, p. 72.
  16. ^ 大佐古一郎広島 昭和二十年中公新書1975年、pp.183-184。
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参考資料[編集]

関連項目[編集]