タイコンデロガ (空母)
| 艦歴 | |
|---|---|
| 起工 | 1943年2月1日 |
| 進水 | 1944年2月7日 |
| 就役 | 1944年5月8日 |
| 退役 | 1973年9月1日 |
| その後 | 1975年9月1日にスクラップとして売却 |
| 除籍 | 1973年11月16日 |
| 性能諸元 | |
| 排水量 | 27,100トン |
| 全長 | 888 ft (270.6 m) |
| 艦幅 | 93 ft (28.4 m) |
| 全幅 | 147.5 ft (45 m) |
| 吃水 | 28.7 ft (8.8 m) |
| 最大速 | 33 ノット (61 km/h) |
| 乗員 | 士官、兵員3,448名 |
| 兵装 | 5インチ(127 mm)砲12基 |
| 搭載機 | 80+ |
タイコンデロガ (USS Ticonderoga, CV/CVA/CVS-14) は、アメリカ海軍のエセックス級航空母艦で、同級空母としては10番目に就役した。タイコンデロガ級航空母艦の一番艦とする資料もある。
タイコンデロガはニューヨーク州北部にあるアメリカ独立戦争時の古戦場であり18世紀に作られた「タイコンデロガ要塞」が由来。イロコイの言葉で「二つの水に挟まれた場所」の意味がある。その名を持つ艦としては4隻目。現在その艦名はイージス艦タイコンデロガに引き継がれている。
艦歴[編集]
当初はハンコックの艦名で1943年2月1日にバージニア州ニューポートニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工された。1943年5月1日にタイコンデロガに改名され、1944年2月7日にステファニー・サラ・ペルによって進水する。1944年5月8日にノーフォーク海軍工廠で初代艦長ディキシー・キーファー大佐の指揮下就役する。1943年の対空火器改善計画に伴い飛行甲板前端に機銃座を増設するために船体を延長した長船体型の第一艦である。長船体型は「ロングハル-エセックス」あるいは「タイコンデロガ級」と呼ばれることもあるが、アメリカ海軍においては同じエセックス級であり、これらを区別していない。
タイコンデロガは第89航空団を乗艦させると整調訓練のためおよそ二ヶ月をノーフォークで過ごす。6月26日に英領西インド諸島へ向けて出航する。航海の途中も航空作戦及び訓練を指揮しながら、スペインのトリニダードに6月30日到着する。続く15日にわたってタイコンデロガは乗組員及び搭載航空団への集中的な訓練を行う。7月16日に西インド諸島を出発し、22日にノーフォークに帰還する。8日後にタイコンデロガはパナマに向かった。9月4日にパナマ運河を通過し、サンディエゴに向かう。13日にサンディエゴに停泊し、給油、航空燃料補給、77機の艦載機と海兵隊航空団を搭載する。19日にハワイに向けて出航し、5日後に到着した。
タイコンデロガはほぼ一ヶ月を真珠湾で留まり、輸送艦カリーナ (USS Carina, AK-74) と共に艦載機用爆弾の洋上補給訓練を行った。それらの訓練後に昼夜の着艦及び対空防御訓練を10月18日まで行い、真珠湾を出港し西太平洋に向かう。短期間のエニウェトク停泊後、29日にウルシー環礁に到着する。ウルシーでは第6空母部隊の指揮官アーサー・W・ラドフォード少将が乗艦し、タイコンデロガはフレデリック・C・シャーマン少将指揮する第38.3任務部隊に加わる。
第二次世界大戦[編集]
タイコンデロガは第38機動部隊と共に1944年11月2日に出撃した。僚艦と合流すると部隊はレイテ攻略部隊の地上支援攻撃を再開した。タイコンデロガは5日の朝に最初の攻撃を開始する。部隊はルソン近くでの敵艦攻撃と対地上攻撃に二日を費やした。重巡洋艦那智の撃沈などに貢献した一方で神風特別攻撃隊の攻撃を受けた。その後補給のために後退した。 11月11日に第38機動部隊は日本の増援船団を攻撃した。12日から13日にかけては軽巡洋艦木曾、4隻の駆逐艦、7隻の商船を破壊した。その後ウルシーに帰還し、22日に出撃、三日後にルソン島中部を空襲し重巡洋艦熊野、軽巡洋艦八十島を撃沈した。第38機動部隊は再び特攻隊の攻撃を受け、空母エセックスが損傷した。エセックスが応急修理を行う間タイコンデロガは他の艦艇とともに対空砲火の援護や、被害を受けたエセックスやイントレピッドの艦載機の収容を行った。12月にはコブラ台風に遭遇した。タイコンデロガは損傷を受けなかったが他の艦の修理のため12月末に第38機動部隊はほとんど行動できなかった。 1月6日に第38機動部隊はルソン島への攻撃を行った。この攻撃で第38機動部隊の航空隊は32機の撃墜を記録した。1月8日には沖縄攻撃のため北上したが悪天候により中止した。その後の1月中頃に第38機動部隊は南シナ海で活動した。1月21日には台湾への攻撃を行った。正午過ぎに艦隊は特攻隊の攻撃を受け、うち一機がタイコンデロガに命中し飛行甲板を貫通、格納庫で爆発した。さらにもう一機が右舷に突入した。タイコンデロガは応急修理により火災を消し止め持ちこたえたが本格的な修理のためにアメリカ本国へ帰還することになった。2月15日にワシントン州ピュージェット・サウンド海軍造船所へ到着、修理は4月20日に完了した。 5月1日に真珠湾に到着すると航空部隊を載せて訓練を行った。タイコンデロガは途中でマーシャル諸島の日本軍拠点に空襲を行いながらウルシーに向かい、5月22日に到着し第58.4機動部隊に加わったが直後に第58機動部隊は第38機動部隊に改称した。 6月2日から3日にかけてと6月8日にタイコンデロガは九州への攻撃に参加した。その後南大東島および北大東島の空爆に加わってからレイテへ補給と休息を行うために向かった。 レイテでの補給及び休息中、タイコンデロガは第38.4機動部隊から第38.3機動部隊へ異動となった。7月1日、タイコンデロガは第38.3機動部隊の他の艦とともにレイテを出発し、日本本土空襲に向かった。 2日後、減速ギアが故障したため空襲には加わらず、グアムのアプラ港へ向かい19日まで同港に留まった。7月28日にタイコンデロガは第38.3機動部隊の他の艦とともに呉空襲に加わった。 7月30日には本州中部の工業地帯へ、8月9日から10日には本州北部と北海道への空襲に加わった。 8月15日の終戦後は日本国内の捕虜収容所の捜索を行い、食料医薬品などを投下した。、ミズーリ艦上での正式な日本の降伏後の4日後の9月6日にタイコンデロガは東京に入港した。
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戦後[編集]
終戦後は一旦本国に帰還した後、マジックカーペット作戦に加わり、推定2〜4千人の復員に携わった。1947年1月9日にタイコンデロガは予備艦艇として保管された。 1952年4月4日にタイコンデロガはニューヨーク海軍造船所においてSCB-27C改装の工事を開始した。蒸気カタパルトなどを装備したタイコンデロガは1954年9月11日に再就役した。 再就役後の1955年秋にタイコンデロガは4種類の新型航空機(A4D-1スカイホーク、F4D-1スカイレイ、F7Uカットラス、F3H-2Nデーモン)のテストに参加した。 11月から8ヶ月間地中海を巡航した後、1956年8月2日にノーフォークに帰還し、SCB-125改装を受けた。 この改装は1957年初頭までに完了し、5月にカリフォルニア州アラメダに移った。 9月16日、タイコンデロガは極東に向かうためにサンフランシスコ湾を出港した。 途中ハワイ真珠湾に寄港しながら10月15日に日本の横須賀に到着した。その後6か月間、日本北部からフィリピン沖までを巡航した。 1958年4月25日にアラメダに帰還した。
1964年8月2日、 トンキン湾周辺海域で活動中に、米駆逐艦マドックスから北ベトナム海軍の艦艇に攻撃されたと連絡してきた。数分以内にタイコンデロガは4機のF8Eクルセイダーを駆逐艦の援助に派遣し、北ベトナムの魚雷艇をズーニーロケット砲と機関砲で攻撃した。これにより北ベトナムの魚雷艇1隻が撃沈され2隻が損傷した。
2日後の8月4日夜には駆逐艦ターナー・ジョイから北ベトナム艦艇の襲撃の連絡を受け航空隊を派遣、2隻の魚雷艇の撃沈を記録した。
リンドン・ジョンソン大統領はこれらの攻撃への報復を命じ、8月5日にタイコンデロガと空母コンステレーションは四ヶ所の魚雷艇基地とそれらを支える石油貯蔵施設に空爆を加えた。 この攻撃により、25隻の魚雷艇が破壊され、基地や石油貯蔵施設は完全に破壊された。
9月に一旦アメリカ本国へ帰還しオーバーホールを行った後に1965年11月5日に再びベトナム水域に展開しいわゆる北爆に参加した。 ベトナム沖での半年の間に、タイコンデロガは航空運用に合計116日を費やし、ベトナム沖での空母運用海域である ディキシーステーションとヤンキーステーションでの活動にそれぞれでほぼ均等に時間を割いた。 タイコンデロガの航空隊は北ベトナムにおいて35の橋と多数の倉庫、兵舎、トラック、ボート、そして鉄道車両やハイフォンの北のに位置する主要な火力発電所を破壊した。
1965年12月5日、同年11月からのベトナム沖での任務を終えて横須賀へ帰還する途中、北緯27度35分2秒・東経131度19分3秒(喜界島の南東約150キロ)で水素爆弾(B43・核出力1メガトン)1発を装着したA-4Eがエレベーターから海中に転落する事故が発生した。機体は乗員(ウェブスター大尉)ともに水没した。核攻撃アラートに就くために飛行甲板にあげる途中であった。現場の水深は約5,000メートルあり回収は不可能であるとされている。事故は1981年の国防総省の報告書で明らかにされたが、詳しい場所については1989年に明らかにされた。周辺海域の調査によれば放射能汚染は認められていない。 1966年5月13日にタイコンデロガはサンディエゴに帰還した。 11月13日、 タイコンデロガは再びトンキン湾に展開し、ローリングサンダー作戦に参加。11,650回の戦闘出撃を記録した。 1967年4月に横須賀経由で帰国。1968年1月にも再びベトナム沖に展開。1968年7月まで北爆任務を行った。 1969年3月4日以降も四ヶ月間ホーチミンルートへの攻撃に参加。1969年4月15日にアメリカ海軍EC-121機撃墜事件が発生した際には再び日本海に展開した。 1971年、タイコンデロガはスンダ海峡に赴き、1942年のバタビア沖海戦で沈んだ米重巡洋艦ヒューストンと豪軽巡洋艦パースの慰霊式を行った。
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また、1972年12月には、アポロ計画による最後の有人月面着陸を飾ったアポロ17号の回収母艦となり、サモア諸島沖の南太平洋上で三人の宇宙飛行士と司令船(カプセル)を回収した。
タイコンデロガは第二次世界大戦での戦功で5つの従軍星章、3つの海軍部隊栄誉章、1つの部隊勲功章を、ベトナム戦争の戦功で12の従軍星章を受章した。
関連項目[編集]
登場作品[編集]
外部リンク[編集]
- united-states-navy.com: USS Ticonderoga
- Big T.net - USS Ticonderoga Veterans Association
- Navsource Ticonderoga Photo Archive
- Ticonderoga War Damage Report for dual kamikaze hit, January 1945
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