モハメド・アリ
![]() 1967年 | |
基本情報 | |
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本名 | カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(Cassius Marcellus Clay Jr.)[1] |
通称 |
ザ・グレーティスト(The Greatest、史上最高) ザ・ピープルズ・チャンピオン ザ・ルイビル・リップ |
階級 | ヘビー級 |
身長 | 190cm |
リーチ | 203cm |
国籍 |
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誕生日 | 1942年1月17日 |
出身地 | ケンタッキー州ルイビル |
死没日 | 2016年6月3日(74歳没) |
死没地 | アリゾナ州フェニックス |
家族 | レイラ・アリ(娘) |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 61 |
勝ち | 56 |
KO勝ち | 37 |
敗け | 5 |
獲得メダル | ||
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男子 ボクシング | ||
オリンピック | ||
金 | 1960 ローマ | ライトヘビー級 |
モハメド・アリ(Muhammad Ali [muˈhɑməd ɑːˈliː]、1942年1月17日 - 2016年6月3日)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー、アクティビスト。ケンタッキー州ルイビル出身。本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(Cassius Marcellus Clay Jr.)[1]。アフリカ系アメリカ人だが、イングランドとアイルランドの血も引く[2]。元WBA・WBC統一世界ヘビー級チャンピオン。
概要[編集]
イスラム教改宗前の本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア (Cassius Marcellus Clay, Jr. 英語発音: [ˈkæsɪəs mɑrˈsɛləs kleɪ])。1964年にネーション・オブ・イスラムへの加入を機に、リングネームをカシアス・クレイからカシアスX、次いでモハメド・アリに改めた(モハメッド・アリ、ムハマド・アリという日本語表記もある[3][4])。
1960年ローマオリンピックボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得[3]。その後プロに転向し、1964年にはソニー・リストンを倒して世界ヘビー級王座を獲得した。ジョージ・フォアマンとザイールで対戦し、8Rでの一発大逆転を演じたタイトルマッチや、ジョー・フレージャーとの死闘など、ボクシング史上に残る数々の名勝負を行っている。最終的には、通算3度のチャンピオン奪取成功と19度の防衛に輝いた。「歴史上最も偉大なアスリート」のランキングにおいてトップにランクされることが多く、20世紀で最も偉大なスポーツ選手と称される[5][6][7]。
マルコム・Xと出会いその思想に共鳴。イスラム教にも改宗。ベトナム戦争への徴兵を拒否したことにより米国政府と長期にわたって争ったが、最終的には無罪を勝ち取ったことでも知られる(#リング外での闘い)。その発言と行動は当時の米国政府や保守派との深刻な対立をもたらし、世界タイトル剥奪や長期の試合禁止など様々な圧力が加えられた。
引退から3年が経った42歳のとき、現役時代に受けた頭部へのダメージが原因とされるパーキンソン病と診断され闘病生活を送っており[8]、2016年6月3日に74歳で死去した。死因は敗血症ショック[9][10]。
弟のラーマン・アリ、娘のレイラ・アリも元プロボクサーであり、レイラはWBC世界女子スーパーミドル級の初代チャンピオンとなり、ジョー・フレージャーの娘であるジャッキー・フレージャー・ライドと2001年に対戦している。総合格闘家のケビン・ケーシーは義理の息子[11]。また、孫にプロボクサーのニコ・アリ・ウォルシュ、総合格闘家のビアッジョ・アリ・ウォルシュ、父方の祖先にアーチャー・アレクサンダー(1815-1880)がいる[12][13]。
人物[編集]
- ファイトスタイル
- 鈍重な大男の力任せな殴り合いだったヘビー級ボクシングに、アリはリングを縦横無尽に動き回る華麗なフットワークと、鋭い左ジャブを活用するアウトボクシングを持ち込んだ。また、相手のジャブにカウンターの右ストレート合わせる離れ業や、ブライアン・ロンドンとの試合で見せた2.8秒の間に12発のパンチを放つ驚異的なスピードも持っていた[14]。マイク・タイソンが出現した現代においてもなお、ヘビー級史上最速と評価される(アリを尊敬しているタイソン自身がアリとの比較で「アリは私には速すぎる」と語っている)。蝶のように舞い、蜂のように刺す(Float like a butterfly, sting like a bee)[15]という著名なフレーズは、アリのトレーナーのドリュー・バンディーニ・ブラウンがアリのフットワークとパンチを形容したもので、試合前によく肩を組んで「蝶のように舞い、蜂のように刺す!」と一緒に叫ぶパフォーマンスを見せていた。ノートン戦の敗北後に、ノートンのファンから「蝶は羽を失い、蜂は針を失った」という投書が届き、これを気に入ったアリはジムの壁にこれをテープで貼りつけて毎日眺め、「羽」と「針」を取り戻す決意を新たにしていた。
- トラッシュトーク
- トラッシュトーカーとして有名であり、注目を集めるための自己宣伝が非常に派手で巧みだった。「俺が最強だ」「俺が最も偉大だ」と公言し、わざと物議をかもす言動をし、試合の相手をからかった詩を発表し、KOラウンド数を予告してリングにあがった。また、60年代の時点で既に韻を踏むなどヒップホップの要素を取り入れたトラッシュトークを披露しており、後世のヒップホップ・ミュージックに影響を与えた人物の1人と称される。この言動は一部の反感を買い、ベトナム徴兵忌避もあり、多数のアンチを生み出した。 本人はこの言動の理由を「ホラを吹けばみんな俺の試合を見にくるし、プロモーター達には、俺の試合が金になることが判るんだ。野次や怒号の中をリングにあがるのはいい気分だ。最後は俺の予告どおりになるんだからね」としている。
- マルコム・Xとの関係
- マルコム・Xは1962年にデトロイトで、初めてカシアス・クレイと出会ったと回想している[16]。その後、マルコムがネイション・オブ・イスラムを脱退したため、カシアス・クレイとは疎遠になっている。
- シュガー・レイ・ロビンソンの影響
- シュガー・レイ・ロビンソンを尊敬しており実際に影響をうけたと指摘する声も存在した。レオン・スピンクスとの再戦を前に「俺は三度ヘビー級チャンピオンを獲得する最初の男になる。ヘビー級のシュガー・レイ・ロビンソンになるんだ」と語っている。また、現役時代にアリはロビンソンについて「タイミング、スピード、反射神経、リズム、筋肉、全てが美しかった」「俺はヘビー級において史上最高だが、パウンド・フォー・パウンドにおいては、未だにシュガー・レイ・ロビンソンが史上最高だろう」と語っている[17]。後にはシュガー・レイ・レナードを育てた名トレーナー、アンジェロ・ダンディーと常にコンビを組んでいた。
- 後世に与えた影響
- アリはボクシングのみならず様々なジャンルのアスリートや著名人から尊敬され、目標とされている人物である。
- アスリート・著名人からの評価
- バラク・オバマ『モハメド・アリは史上最高だった。ほんの少しの間でも、彼と知り合えたことを神に感謝している』[18]
オバマは大統領時代に、アリから贈られたボクシンググローブとアリの写真をホワイトハウス内に展示していた[19]。 - ドナルド・トランプ『彼はリング上では獰猛で、リング外では最も親切な人物だった』[20]
- マイケル・ジョーダン『モハメド・アリはスポーツよりも大きく、偉大な存在だった。彼自身が言うように"史上最高"だった』[21]
- アーノルド・シュワルツェネッガー『モハメド・アリは私のアイドルであり、私たち全員のモチベーションだった』[22]
- マイク・タイソン『全ての頭は彼にお辞儀をし、全ての口は彼を"史上最高"だと告白しなければならない』[23]
- ペレ『モハメド・アリは私の友人であり、同時に私のアイドルであり、ヒーローだった』[24]
- コナー・マクレガー『モハメド・アリは特別な存在だ。私は彼の偉大さには到底及ばない』[25]
- バラク・オバマ『モハメド・アリは史上最高だった。ほんの少しの間でも、彼と知り合えたことを神に感謝している』[18]
生涯[編集]
- 生い立ち

1942年1月17日にアメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルのルイビル総合病院で、父カシアスと母オデッサの間に、カシアス・マーセラス・クレイとして生まれた[26]。父親と同じ名前であるため、ジュニアが名前の最後についていた。彼は小学生の頃、父親から誕生日にプレゼントにもらった自転車を宝物にしており、それに乗ってよく近所にポップコーンとアイスクリームをもらいに行っていた。ところが、ある日、誰かに自転車を盗まれ、警察に行った際に対応した警官のジョー・E・マーティンがボクシングジムのトレーナーもしており、犯人に鉄拳制裁を加えるという意味でボクシングを勧め、マーティンのボクシングジムに入った。これが、モハメド・アリがボクシングを始めたきっかけになった。
- アマチュア時代
ジムに入門後、アリは8週間でアマチュアボクサーとしてデビューした。対戦相手は、アリ同様にデビューしたてのロニー・オキーフだった。試合は3分3Rで行われ、スプリットデシジョンで判定勝ちした。アリが通っていたジムには、後にWBA 世界ヘビー級王者になるジミー・エリスも通っており、アリはアマチュア時代にエリスと2度対戦し、1勝1敗の戦績を残した。この間に、アリはヴァージニア大通り小学校とデゥヴァル中学校を卒業。セントラル高校に進学している。
その後、ケンタッキー州ゴールデングローブで6度優勝し、1959年には全米ゴールデングローブのミドル級で2年連続優勝した。さらに、AAU ボクシング競技のライトヘビー級でも1959年から2年連続優勝を果たした。
1960年9月に開催されたローマオリンピックボクシング競技(ライトヘビー級)に出場。決勝で前年度ヨーロッパチャンピオンのポーランドのズビグニェフ・ピトロシュコスキを判定で破り金メダルを獲得する。しかし帰国後、白人が経営するレストランに金メダルを持って入りチーズバーガーを注文したところ、店側から「たとえ"カシアス・クレイ"であろうと、黒人に食事は提供しない」と言われたため、「この金メダルに価値はない」と考えたアリは金メダルを自らオハイオ川に投げ捨てる事件を起こした[27]。このエピソードは1975年に出版した自伝の中で書かれたものであるが、アリの友人数人がこのエピソードを否定しており、後に出版された伝記でも、エピソードは創作されたもので、実際にはメダルは単にアリが紛失したのだとの説も存在する[28][29]。
- プロ転向と改名
1960年10月29日にプロデビュー。タニー・ハンセイカーと対戦し、6R判定勝ちを収めて、プロデビュー戦を勝利で飾る。また、プロ転向直後にネーション・オブ・イスラムの信徒であると公表し、リングネームを現在の本名である、ムスリム(イスラム教徒)名モハメド・アリ(ムハンマド・アリー)に改めた。この名前は、預言者ムハンマドと指導者(イマーム)アリーに由来する。なお、1975年にはイスラム教スンナ派に改宗した。

1962年11月15日に元世界ライトヘビー級王者のアーチー・ムーアと対戦。試合前に、控え室の黒板に「ムーアを4ラウンドにKOする」という予言を書いてリングに向かい、その予言の通り4ラウンド目に3度ダウンを奪ってKO勝ちした。
1963年3月13日に、元世界ライトヘビー級王座挑戦者のダグ・ジョーンズと対戦。アリが10R判定で勝利。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤー(年間最高試合賞)に選出されたが、アリは試合前にジョーンズを6RでKOすると公言していたため、試合後に新聞からバッシングを浴びた。

1964年2月25日、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンに挑戦。当時史上最強のハードパンチャーと評価されたリストンに対しアリは絶対不利と言われ、賭け率は7対1でリストンが優位だった。しかしアリは臆せず「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と公言。試合は一方的なものとなり、6R終了時にTKO勝ちとなった。アリは試合終了後のインタビューで「I must be 'The Greatest'!」と興奮冷めやらぬ様子で叫んだ。試合後アリは正式に本名をカシアス・クレイからモハメド・アリへと改名した[30][31]。
王座剥奪後の1971年3月8日、ジョー・フレージャーに挑戦したが、初めての敗北を喫した。
- キンシャサの奇跡

3年後の1974年10月30日、フレージャーに代わり新王者となっていたジョージ・フォアマンを八回KO勝ちで破り、王座に返り咲いた[32]。
この挑戦試合はアフリカのザイール(現・コンゴ民主共和国)で行われ、"Rumble in the jungle"(ジャングルの決闘)というタイトルがつけられていた。当時、一般には全盛を過ぎたと見られていたアリが史上最高のハードパンチャーと目されたフォアマンを破ったため、「キンシャサの奇跡」とも呼ばれる。
この試合でアリは、ロープにもたれながら相手のパンチを腕でブロックし、自分では打ち返さずに、防戦一方になっていたが、一見劣勢に見えながらも、フォアマンの体力を消耗させて、最後の一発で逆転するというクレバーな作戦をとり、見事な勝利を収めた。アリはこの戦法を"rope a dope"と名づけた。ただし、以降の防衛戦でこの戦法を多用する一方、対戦相手のパンチを被弾することも増加していったため、後年のパーキンソン病の遠因ではないかとする説もある。
- 引退後、病との闘い
引退後にパーキンソン病にかかり、長い闘病生活に入った。公の場に出る機会は大きく減ったが、難病の中でも社会に対してメッセージを発し続けた。
1990年に湾岸危機に際し、イラク大統領との直接対話のため、病をおしてバグダードに赴き、アメリカ人の人質解放に成功する。解放された人のうち6人が、早く帰れる飛行機には乗らず、アリと同じ飛行機に乗って帰国した[33]。
1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火した。女子水泳選手のジャネット・エバンスが点火台まで聖火のトーチを運び上げ、アリは彼女からトーチを受け取り、病気のため震える手で点火用のトーチに火を点けた(点火用トーチに着火するとそのトーチは上昇し、上にある聖火台に飛び込んで点火される仕掛けになっていた)。聖火台の点火者は当日まで秘密にされていた。なお、この際、自ら川に投げ捨てたローマオリンピックの金メダルが再授与された。
2003年のMLBオールスターゲームで始球式を務めた。2005年11月9日、アメリカ合衆国のホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。
2009年、アイルランド クレア県エニスの名誉市民に選出され、9月1日に記念式典が行われた[34]。2012年ロンドンオリンピックの開会式に参加、オリンピック旗掲揚の場面で姿を現した。
2016年6月3日死去[35]。74歳没。死因は敗血症ショック。
- アントニオ猪木との対戦
1972年に初来日。この年の4月1日に東京・日本武道館でマック・フォスターと対戦し、15回判定勝ちを収めた。
1976年の来日では6月26日に日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を行う。特別ルールで戦い、3分15回を戦って時間切れ引き分け(詳細はアントニオ猪木対モハメド・アリ)に終わる[36]。アリのテーマソングである「炎のファイター」(通称「アリ・ボマイエ(ボンバイエ)」、作曲: マイケル・マッサー)は、76年に格闘技世界一決定戦を戦った猪木に記念品として寄贈されたということになっており、「イノキ・ボンバイエ」として歌われている。この歌は、翌年公開の映画『アリ/ザ・グレーテスト』のエンディング・テーマ「I Always Knew I Had It In Me」(作詞: ジェリー・ゴフィン)としてジョージ・ベンソンが全く別アレンジのバラードとなって流れる。ちなみにオープニング・タイトルの「The Greatest Love of All」は後にホイットニー・ヒューストンがカバーして大ヒットとなった。1998年の来日の際には4月4日に東京ドームで挙行されたアントニオ猪木のプロレスラー現役引退試合のスペシャルゲストとしてリングに上がり、猪木を労った。
- ベトナム反戦活動
1966年3月、アメリカ軍はベトナムとの戦いを本格化させていた。(調査会社ギャラップによると1966年の最初の3カ月で、戦争に対する支持率は50%を超えていた。)軍は徴兵の基準を大幅に下げ始め、より多くの兵隊を召集した。アリがこの情報を聞いたのは報道陣に囲まれているときだった。そして「俺はあいつらベトコンたちに何の恨みもないんだよ」という、とっさに返した答えによって、彼は何年も続く闘争に巻き込まれた。モハメド・アリが徴兵を拒否したのは、1967年の4月28日だった [37]。有名なアスリートが公然とベトナム戦争を非難することは、当時は冒涜に値した。アリは、アメリカの黒人イスラム組織「ネイション・オブ・イスラム」への忠誠、そしてその一員であるという理由から兵役を拒否し、自身が良心的兵役拒否者だと述べた。
イスラム教に改宗し、カシアス・クレイという名前を捨てたアリは、すでに議論を巻き起こしていた。加えて徴兵拒否という行為によってアリは、瞬く間にアメリカで最も嫌われている有名人へと仕立てられた。アリほどの著名な人物で、他に徴兵を拒否したものは誰一人いなかった。アリの一見ふざけたような戦争反対の姿勢は、国民、政府、そしてボクシング界から嘲笑された。デイブ・ザイリンが著した『アメリカ民衆のスポーツ史』によると、彼にモハメド・アリの名前を与えたネイション・オブ・イスラムは、攻撃的な抵抗を繰り返す彼との関与を否定した。黒人初のメジャーリーガーであり、現役中、引退後も活動家であったジャッキー・ロビンソンは、黒人の兵役軍人を失望させたとして、アリを批判した。そして大多数の黒人兵士たちもロビンソンの意見に賛成した。
以降4年にわたって、アリはリングではなく法廷で自分の信念のために戦い続けた。そして1967年、徴兵を回避した罪で有罪判決を受けた後、州のボクシング・ライセンスを剥奪された。プロアスリートの全盛期である25〜27歳の間、アリはつまはじきにされた。
白人上流階級のために貧しい黒人アメリカ人が戦争に行かされている状況にすぎなかった。「金持ちの息子は大学に行き、貧乏人の息子は戦争に行く。そんなシステムを政府が作っている」と、彼は言った。アリを擁護した人はみな、身の危険を感じることになった。スポーツジャーナリストのジェリー・アイゼンバーグは、兵役拒否をしたばかりのアリの話を聞こうとしたところ、爆破予告や苦情の手紙を大量に受け取ったという。その一方で、メディアの大多数は悪意のある報道を繰り返した。
しかし、反戦派のアリの孤独はそう長くは続かなかった。裁判が続いていた中でも、アリは反戦的な発言を止めなかった。アリの発言は、1960年代の公民権運動と同じく、構造的な階級差別と人種差別を非難するという主張に基づいていた。アリの「俺は何の恨みもない」発言の直後、ベトナム戦争を支持する声は下火になった。そのセリフが報道陣に伝わってから1カ月後には、戦争支持率が50%を初めて下回った。アリが兵役拒否したことで投獄された1967年6月の2カ月後、戦争を支持するアメリカ人はたった27%になっていた。これはリンドン・ジョンソン政権下で最も低い数字だった。1967年の夏頃には、多くの、特に黒人のアメリカ人がアリの味方となった。公民権運動の前進、そして戦争の支持率の低下へと導いた。
アリは上訴していた1968年ごろ、大きな経済的負債を抱えていた。そのため、ボクシングをしていたら稼げていたであろう何百万ドルの代わりに、お金を稼ぐため大学のキャンパスで何百もの講演をはじめた。何年も続いた上訴の後、連邦最高裁は1971年6月、アリの有罪判決を破棄した。その頃には、州が彼のボクシングライセンスを回復させる手続きを始めていた。彼の戦争に対する見解が、アメリカ全体の戦争に対する見解となり、人々は、自分たちの英雄がボクシングに復帰する準備を整えた。そして3年半後、アリはリングに戻った。1970年10月、アリはアトランタでジェリー・クゥオーリーを倒した。
やがてアメリカ中に、アリがキャリアを犠牲にしてまで貫いた信念と、彼への支持の輪が広がった。以来、これほどの社会的インパクトを残したアスリートはいない。アリが「ベトコンには恨みがない」と言ってから50年後、プロアスリートたちは社会問題について立派に意見を述べるようになった。自らの選手生命を賭けたアリはアメリカに国の歴史上最も多くの犠牲者が出た戦争に関わる、階級問題と人種問題に抗議する「声」をもたらした。[38]
1960年に勃発し、のちにアメリカが本格参戦したベトナム戦争への徴兵を拒否したことから、彼は無敗のままWBAWBC統一世界ヘビー級王座を剥奪され、3年7か月間ブランクを作ったが、復帰後、実力で王座奪還を果たした。また露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返した。その後公民権運動などの貢献が称えられ、ドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞。
私生活[編集]
- ベリンダ・ボイド(Belinda Boyd)との子
- マリアム(Maryum、1968年生)
- ジャミラ(Jamillah、1970年生)
- ラシェダ(Rasheda、1970年生)
- モハメド・ジュニア(Muhammad Jr.、1972年生)
- パトリシア・ハーヴェル(Patricia Harvell)との子
- マイア(Miya、1972年生)
- ワンダ・ボルトン(Wanda Bolton)との子
- カリア(Khaliah、1974年生)
- ヴェロニカ・ポルシェ(Veronica Porché)との子
- ハナ(Hana、1976年生)
- レイラ(Laila、1977年生)
- ヨランダ・ウィリアムズ(Yolanda Williams)との子
- アサド(Asaad、1986年に養子縁組)
アリは生涯に4回結婚し、娘7人、息子2人をもうけた。
アリはハーバート・ムハンマドからカクテル・ウェイトレスのソンジ・ロイ(Sonji Roi)を紹介され、最初のデートの後に結婚を申し込んだ。2人は約1か月後の1964年8月14日に結婚式を挙げた[39]。ソンジはムスリムになることを拒み、2人は口論になった[40]。アリは、「彼女はやるべきことをやろうとしなかった。彼女は口紅をつけていた。バーにも行った。露出度の高い服を着ていた」と語った[41]。ソンジとアリは1966年1月10日に離婚した。2人の間に子供はいなかった。アリの弟のラーマンによれば、アリはソンジのことを真に愛していたが、ネーション・オブ・イスラムがアリに離婚を迫り、アリはそれを乗り越えられなかったという[40]。
1967年8月17日、アリはベリンダ・ボイド(Belinda Boyd)と結婚した。ベリンダは、ネーション・オブ・イスラムに改宗した夫婦の子供である。結婚後にカリラ・アリ(Khalilah Ali)に改名したが、それ以降も古い友人や家族からはベリンダと呼ばれていた。カリラとの間には4人の子供がいた。作家でラッパーの「メイメイ」(May May)ことマリアム(Maryum、1968年生)[42]、双子のジャミラ(Jamillah)とラシェダ(Rasheda、1970年生)、モハメド・アリ・ジュニア(1972年生)である。
アリは1970年代初頭、ニュージャージー州チェリーヒルに住んでいた[43]。1974年、32歳のアリは16歳のワンダ・ボルトン(Wanda Bolton、後にアイシャ・アリ(Aaisha Ali)に改名)との不倫を始めた。ワンダとの間には1974年にカリア(Khaliah)が生まれた。アリはイスラム教の儀式によりアイシャと結婚したが、ベリンダとの婚姻が解消されていない時期であり、この婚姻は法的には有効なものではなかった。カリアによると、カリアとアイシャは、ペンシルバニア州ディアレイクにあるアリのトレーニングキャンプで、ベリンダ(既にカリラに改名していた)やその子供達の住むキャビンの隣で暮らしており、カリラとアイシャは仲が良かったという[44]。1985年1月、アイシャは未払いの慰謝料を求めてアリを訴えたが、アリがカリアのために20万ドルの信託金を用意することで和解した[45]。この他、パトリシア・ハーベル(Patricia Harvell)とも不倫をしており、パトリシアとの間には1972年にマイア(Miya)が生まれた[46]。
1977年の夏、アリの度重なる不倫によりカリラと離婚し、女優・モデルのヴェロニカ・ポルシェと結婚した[47]。結婚の時点で、既に2人の間には娘のハナ(Hana、1976年生)がおり、ヴェロニカは第二子を妊娠していた。1977年12月、レイラ(Laila)が誕生した。1986年、アリの不倫が原因で、ヴェロニカと離婚した[47][48]。
1986年11月19日、アリはヨランダ・"ロニー"・ウィリアムズ(Yolanda "Lonnie" Williams)と結婚した。ロニーとは1964年にルイビルにいた時からの友人だった。2人は生後5か月のアサド・アミン(Asaad Amin)を養子として迎えた。[49]
1988年、キウルスティ・メンサ=アリ(Kiiursti Mensah-Ali)は、自分が母バーバラ・メンサ(Barbara Mensah)とアリが20年前に関係を持ったときにできた娘であると主張し、その根拠として写真と親子鑑定を持ち出した[50][51][52][53]。キウルスティによれば、アリはそれを認めたものの、アリが4番目の妻のロニーと結婚した後、アリ側からの接触が全て断たれたという。アリの死後、キウルスティは葬儀に参列させてほしいと熱烈に訴えた[54][55][56]。
2010年には、オスモン・ウィリアムズ(Osmon Williams)がアリの実子であるという主張が現れた[57]。テミカ・ウィリアムズ(Temica Williams、レベッカ・ホロウェイ(Rebecca Holloway)とも名乗る)は、彼女が12歳の時にアリと性的関係を持ち始めたと主張し、1977年に生まれたオスモンはアリの子供であると主張して、1981年にアリに対して300万ドルの慰謝料を求める訴訟を起こした[58]。テミカはさらに、アリはもともと彼女と息子を経済的に支援していたが、4年後にそれをやめたと主張した。この訴訟は、既に時効であるとして却下された.[59]。ヴェロニカによれば、アリはテミカとの関係は認めたが、オスモンが自身の息子であるとは信じていなかった。しかしヴェロニカは、「トレーニングキャンプにいた皆は、彼女の主張に同意している」と述べている[60][61]。アリの伝記作家であり、友人でもあるトーマス・ハウザーは、この主張は「信憑性が疑わしい」と述べている[62]。
アリはその後、ロニーとともにアリゾナ州スコッツデールに住んでいた[63]。2007年1月には、1975年に購入したミシガン州ベリン・スプリングスの自宅を売りに出し[64]、ケンタッキー州ジェファーソン郡東部の自宅を187万5千ドルで購入したことが報じられた[65]。どちらの家もアリの死後に売却され、ロニーはアリゾナ州パラダイスバレーにあったもう1つの自宅に住んでいた。ロニーは20代後半にカトリックからイスラム教に改宗した[66]。
アリの娘レイラは1999年から2007年までプロボクサーとして活躍していた[67]が、父親のアリは女子ボクシング自体に反対していた。1978年、アリは「女性は胸や顔を殴られるように作られていない」と述べていた[68]。後にアリは娘の試合に参加するようになり、レイラに対して自分が誤っていたと認めた[69]。
アリの娘ハナは、総合格闘家のケビン・ケイシーと結婚した。ハナは父親について次のように語った。「彼の人々に対する愛情は並々ならぬものでした。学校から帰宅すると、ホームレスの家族がうちのゲストルームで寝ているのを見つけました。彼は、路上で彼らを見つけては、ロールスロイスに乗せて家に連れて帰ってきました。彼は彼らの服を買い、ホテルに連れて行き、数か月分の宿代を前払いしていました。」ハナはまた、マイケル・ジャクソンやクリント・イーストウッドなどの有名人がしばしばアリを訪問していたと述べた[70][71]。1997年にアリが自身のファンというレズビアンのカップルと出会った後、友人のハウザーに笑顔で「二人は幸せそうだね」と話していたという。ハウザーはこの話について「(彼が出会ったレズビアンカップルの)リズとロズが幸せだと思ったことが、モハメドを喜ばせた。アリは人々が幸せになることを望んでいた」と語った[72]。
戦績[編集]
アリ、フレージャー、フォアマンはいずれもオリンピックの金メダリスト(アリはライトヘビー級、フレージャーとフォアマンはヘビー級の金メダリスト)であり、オリンピックチャンピオンがプロでも活躍するという流れがこの当時続いていた。アリと同様、ライトヘビー級で金メダルを獲得したスピンクスがアリに挑戦し、番狂わせで王座を獲得したが、アリは再戦で王座に返り咲き、史上初めて、3度王座を獲得したヘビー級ボクサーとなった。
1960年ローマオリンピックで金メダルを獲得。同年10月29日にプロデビュー。
1962年12月15日、老雄アーチー・ムーアに4回TKO勝ち。
1964年2月25日、ソニー・リストンに7回TKO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(2度目)。
1965年5月25日、初防衛戦でリストンとのリターンマッチに臨み、初回の2分12秒で返り討ちにした。
1965年11月22日、2度目の防衛戦でかつての名王者フロイド・パターソンの挑戦を受け、12回TKO勝ち。当時アリはネーション・オブ・イスラム入信を公表しアメリカ社会を激しく批判していた「白人の意のままにならない黒人」だった。パターソンはそれを止めるベビーフェイスとして担ぎ出された。彼もこの報道攻勢に乗せられる形で「タイトルをアメリカに戻す」と発言。それを聞いたアリは失望し、憧れでもあった彼に対して「アンクルトム」と罵った。
1966年3月29日、3度目の防衛戦でカナダの強豪ジョージ・シュバロと対戦。先の試合で見せた圧倒的な強さから前評判ではアリの圧倒的有利の予想であった。しかしシュバロの徹底したインファイトと執拗なボディ攻撃に苦しんだが、要所で有効打をヒットさせて15回判定勝ち。アリにとってみれば初の大苦戦ともいえる試合であった。
1966年5月21日、4度目の防衛戦でヘンリー・クーパーと対戦。クーパーは王者になる前のアリからノックダウンを奪うほどの実力者であった。試合はお互いの実力が拮抗したハイレベルな打撃戦となったが、クーパーが6回終了後に左瞼からの大出血のためドクターストップで辛くも勝利した。
1966年8月6日、5度目の防衛戦でブライアン・ロンドンに3回KO勝ち。勝負を決めたラッシュはカメラが捕らえきれないほどの高速でありながら、全てがクリーンヒットするという驚異的なものだった。
1966年9月10日、6度目の防衛戦でドイツのカール・ミルデンバーガーの挑戦を受ける。アリは終始パワフルな攻撃を見せるが、ミルデンバーガーは打たれても打たれても強靭な精神力で耐え続けアリが休むと怒涛の反撃を見せる。しかしワンサイドで打たれまくったミルデンバーガーの危険を察したレフェリーが12回に遂にストップを宣告するという壮絶な試合となった。
1967年2月6日、WBA世界ヘビー級王者アーニー・テレルと対戦。試合前アーニーはわざとアリの旧名であるカシアス・クレイと呼んで挑発し、これに怒ったアリは試合を完全にコントロールしたどころかわざと決定打を打たず「俺の名前を言ってみろ!」と叫び続けて完全に打ちのめし判定勝利した。試合後アリは「やつは早く楽になりたかったろうな。奴隷の名前で俺を呼んだ罰だ(当時アリが入信していたネーション・オブ・イスラムではほとんどのアフリカ系アメリカ人が持つ名前を、奴隷主に付けられた名として否定的に見る面がある)」
1967年3月22日、9度目の防衛戦でゾラ・フォーリーを7回TKOで沈めた。この年良心的兵役拒否のため、禁固5年と罰金1万ドルを科せられ(1971年7月に合衆国最高裁で無罪となった)[73]、WBA世界ヘビー級王座も剥奪された。ボクサーライセンスも剥奪され、3年7か月間のブランクを作った。
1969年3月11日、WBC世界ヘビー級王座を剥奪された。
1970年10月26日、世界ヘビー級1位、ジェリー・クォーリーと3年ぶりの試合を行い、3回TKO勝ちして再起を果たした。
1970年12月7日、ジョー・フレージャーの持つ世界ヘビー級タイトルへ挑戦する前の前哨戦で、フレージャーを相手に健闘したオスカー・ボナベナと対戦する。試合前は楽観視されていたが、大苦戦の末に最終回にボナベナから3度のダウンを奪って勝利した。
1971年3月8日、ジョー・フレージャーの持つWBA・WBC統一世界ヘビー級王座に挑戦するが、15回に左フックでダウンを奪われるなどして判定負け。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(3度目)。
1971年7月26日、NABF北米ヘビー級王座決定戦でジミー・エリスを12回TKO勝ちで北米ヘビー級チャンピオンとなる。
1972年4月1日、東京・日本武道館でマック・フォスターとのノンタイトル15回戦を行う。15回判定勝ち。
1973年3月31日、ケン・ノートンに判定負け、生涯2度目の敗北。さらに試合後、顎を骨折していたことが分かる。
1973年9月10日、ケン・ノートンに判定勝ちし、雪辱。
1974年1月28日、前王者ジョー・フレージャーと3年越しの再戦を行い、12回判定勝ち。雪辱を果たすとともに王者ジョージ・フォアマンへの挑戦権を得る。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(4度目)。
1974年10月30日、ジョージ・フォアマンに8回KO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得(キンシャサの奇跡)。その後、10度防衛。
1975年3月24日、無名のチャック・ウェプナーと初防衛戦を行い、15回KO勝ちするが、ダウン(実はウェプナーがアリの足を踏んだため)を喫するなど、ウェプナーが善戦した。
1975年10月1日、フィリピンのアラネタ・コロシアムで行われた4度目の防衛戦でジョー・フレージャーと対戦し、14回TKO勝利を収めた。終生のライバルとなったフレージャーとは3度対戦して、2勝1敗であった。興行名を "The Thrilla in Manila" としたこの対戦は両者死力を尽くして形勢が何度も逆転した名試合であり、この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(5度目)。
1976年6月26日、武道館で猪木戦を行う。結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け。
1978年2月15日、レオン・スピンクスにニューヨークのヒルトンスポーツパビリオンでの試合で判定負けして王座を失った。この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(6度目)。この後、スピンクスはWBCから王座を剥奪され、WBA王座のみとなった。WBC世界ヘビー級王座には、ケン・ノートンが認定された。
1978年9月15日、レオン・スピンクスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級王座を奪回(3度目の返り咲き・この後王座返上)。
1980年10月2日、カムバックし、かつてスパーリング・パートナーだったラリー・ホームズのWBC世界ヘビー級王座に挑戦するが、11ラウンドTKOで敗れ、奪取ならず。
1981年12月11日、トレバー・バービックに判定負けし、遂に引退。
通算成績は56勝5敗で、このうち37勝がノックアウト勝ちだった[74]。
語録[編集]
獲得タイトル[編集]
アマチュアボクシング[編集]
- ケンタッキー州ゴールデングローブ 優勝
- 全米ゴールデングローブ ミドル級 優勝
- AAUボクシング競技 ライトヘビー級 優勝
- ローマオリンピックボクシング ライトヘビー級 金メダル
プロボクシング[編集]
対戦記録[編集]
56勝 (37KO, 19判定), 5敗 (4判定, 1KO)[75] | |||||||||
No. | 結果 | 勝敗 | 相手 | タイプ | Rd., Time | 日付 | 歳 | 開催地 | メモ |
61 | 負 | 56–5 | ![]() |
UD | 10 | 1981-12-11 | 39歳 + 328日 | ![]() |
"Drama in the Bahamas"[76] |
60 | 負 | 56–4 | ![]() |
TKO | 10 (15) | 1980-10-02 | 38歳 + 259日 | ![]() |
The Ring & Lineal ヘビー級 For WBC World ヘビー級 |
59 | 勝 | 56–3 | ![]() |
UD | 15 | 1978-09-15 | 36歳 + 241日 | ![]() |
WBA, The Ring & Lineal ヘビー級タイトル; Vacated WBA title on 1979-09-06. |
58 | 負 | 55–3 | ![]() |
SD | 15 | 1978-02-15 | 36歳 + 29日 | ![]() |
WBC, WBA, The Ring & Lineal ヘビー級 |
57 | 勝 | 55–2 | ![]() |
UD | 15 | 1977-09-29 | 35歳 + 255日 | ![]() |
防衛 WBC, WBA, The Ring & Lineal ヘビー級 |
56 | 勝 | 54–2 | ![]() |
UD | 15 | 1977-05-16 | 35歳 + 119日 | ![]() |
防衛 WBC, WBA, The Ring & Lineal ヘビー級 |
55 | 勝 | 53–2 | ![]() |
UD | 15 | 1976-09-28 | 34歳 + 255日 | ![]() |
防衛 WBC, WBA, The Ring & Lineal ヘビー級 |
54 | 勝 | 52–2 | ![]() |
TKO | 5 (15) | 1976-05-24 | 34歳 + 128日 | ![]() |
防衛 WBC, WBA, The Ring & Lineal ヘビー級 |
53 | 勝 | 51–2 | ![]() |
UD | 15 | 1976-04-30 | 34歳 + 104日 | ![]() |
防衛 WBC, WBA, The Ring & Lineal ヘビー級 |
52 | 勝 | 50–2 | ![]() |
KO | 5 (15) | 1976-02-20 | 34歳 + 34日 | ![]() |
防衛 WBC, WBA, The Ring & Lineal ヘビー級 |
51 | 勝 | 49–2 | ![]() |
TKO | 14 (15), 0:59 | 1975-10-01 | 33歳 + 257日 | ![]() |
防衛 "WBC, WBA The Ring & Lineal ヘビー級 |
50 | 勝 | 48–2 | ![]() |
UD | 15 | 1975-06-30 | 33歳 + 164日 | ![]() |
防衛 WBC, WBA, The Ring & Lineal ヘビー級 |
49 | 勝 | 47–2 | ![]() |
TKO | 11 (15) | 1975-05-16 | 33歳 + 119日 | ![]() |
防衛 WBC, WBA, The Ring & Lineal ヘビー級 |
48 | 勝 | 46–2 | ![]() |
TKO | 15 (15), 2:41 | 1975-03-24 | 33歳 + 66日 | ![]() |
防衛 WBC, WBA, The Ring & Lineal ヘビー級 |
47 | 勝 | 45–2 | ![]() |
KO | 8 (15), 2:58 | 1974-10-30 | 32歳 + 286日 | ![]() |
"WBC, WBA, The Ring & Lineal ヘビー級 |
46 | 勝 | 44–2 | ![]() |
UD | 12 | 1974-01-28 | 32歳 + 11日 | ![]() |
"Ali-Frazier II". 防衛 NABF Heavyweight title, vacated later in 1974. |
45 | 勝 | 43–2 | ![]() |
UD | 12 | 1973-10-20 | 31歳 + 276日 | ![]() |
|
44 | 勝 | 42–2 | ![]() |
SD | 12 | 1973-09-10 | 31歳 + 236日 | ![]() |
NABF ヘビー級 |
43 | 負 | 41–2 | ![]() |
SD | 12 | 1973-03-31 | 31歳 + 73日 | ![]() |
NABF ヘビー級 |
42 | 勝 | 41–1 | ![]() |
UD | 12 | 1973-02-14 | 31歳 + 28日 | ![]() |
|
41 | 勝 | 40–1 | ![]() |
KO | 8 (12), 0:40 | 1972-11-21 | 30歳 + 309日 | ![]() |
防衛 NABF ヘビー級 |
40 | 勝 | 39–1 | ![]() |
TKO | 7 (12) | 1972-09-20 | 30歳 + 247日 | ![]() |
防衛 NABF ヘビー級 |
39 | 勝 | 38–1 | ![]() |
TKO | 11 (12), 1:15 | 1972-07-19 | 30歳 + 184日 | ![]() |
|
38 | 勝 | 37–1 | ![]() |
TKO | 7 (12), 0:19 | 1972-06-27 | 30歳 + 162日 | ![]() |
防衛 NABF ヘビー級 |
37 | 勝 | 36–1 | ![]() |
UD | 12 | 1972-05-01 | 30歳 + 105日 | ![]() |
防衛 NABF ヘビー級 |
36 | 勝 | 35–1 | ![]() |
UD | 15 | 1972-04-01 | 30歳 + 75日 | ![]() |
|
35 | 勝 | 34–1 | ![]() |
KO | 7 (12), 2:12 | 1971-12-26 | 29歳 + 343日 | ![]() |
|
34 | 勝 | 33–1 | ![]() |
UD | 12 | 1971-11-17 | 29歳 + 304日 | ![]() |
防衛 NABF ヘビー級 |
33 | 勝 | 32–1 | ![]() |
TKO | 12 (12), 2:10 | 1971-07-26 | 29歳 + 190日 | ![]() |
vacant NABF ヘビー級 |
32 | 負 | 31–1 | ![]() |
UD | 15 | 1971-03-08 | 29歳 + 50日 | ![]() |
"The Fight of the Century"; The Ring & Lineal ヘビー級 For WBA & WBC World ヘビー級 |
31 | 勝 | 31–0 | ![]() |
TKO | 15 (15), 2:03 | 1970-12-07 | 28歳 + 324日 | ![]() |
防衛 The Ring & Lineal ヘビー級 |
30 | 勝 | 30–0 | ![]() |
TKO | 3 (15) | 1970-10-26 | 28歳 + 282日 | ![]() |
防衛 The Ring & Lineal ヘビー級 |
ライセンス停止 | |||||||||
29 | 勝 | 29–0 | ![]() |
KO | 7 (15), 1:48 | 1967-03-22 | 25歳 + 64日 | ![]() |
防衛 WBC, WBA, The Ring & Lineal ヘビー級タイトル; Stripped of titles on April 28, 1967. |
28 | 勝 | 28–0 | ![]() |
UD | 15 (15) | 1967-02-06 | 25歳 + 20日 | ![]() |
防衛 WBC, The Ring & Lineal ヘビー級 WBA title. |
27 | 勝 | 27–0 | ![]() |
TKO | 3 (15) | 1966-11-14 | 24歳 + 301日 | ![]() |
防衛 WBC, The Ring & Lineal ヘビー級 |
26 | 勝 | 26–0 | ![]() |
TKO | 12 (15) | 1966-09-10 | 24歳 + 236日 | ![]() |
防衛 WBC, The Ring & Lineal ヘビー級 |
25 | 勝 | 25–0 | ![]() |
KO | 3 (15) | 1966-08-06 | 24歳 + 201日 | ![]() |
防衛 WBC, The Ring & Lineal ヘビー級 |
24 | 勝 | 24–0 | ![]() |
TKO | 6 (15), 1:38 | 1966-05-21 | 24歳 + 124日 | ![]() |
防衛 WBC, The Ring & Lineal ヘビー級 |
23 | 勝 | 23–0 | ![]() |
UD | 15 | 1966-03-29 | 24歳 + 71日 | ![]() |
防衛 WBC, The Ring & Lineal ヘビー級 |
22 | 勝 | 22–0 | ![]() |
TKO | 12 (15), 2:18 | 1965-11-22 | 23歳 + 309日 | ![]() |
防衛 WBC, The Ring & Lineal ヘビー級 |
21 | 勝 | 21–0 | ![]() |
KO | 1 (15), 2:12 | 1965-05-25 | 23歳 + 128日 | ![]() |
"Ali vs. Liston (II)" 防衛 WBC, The Ring & Lineal ヘビー級 |
20 | 勝 | 20–0 | ![]() |
TKO | 7 (15) | 1964-02-25 | 22歳 + 39日 | ![]() |
[77] |
19 | 勝 | 19–0 | ![]() |
TKO | 5 (10), 2:15 | 1963-06-18 | 21歳 + 152日 | ![]() |
|
18 | 勝 | 18–0 | ![]() |
UD | 10 | 1963-03-13 | 21歳 + 55日 | ![]() |
|
17 | 勝 | 17–0 | ![]() |
KO | 3 (10), 2:04 | 1963-01-24 | 21歳 + 7日 | ![]() |
|
16 | 勝 | 16–0 | ![]() |
TKO | 4 (10), 1:35 | 1962-11-15 | 20歳 + 302日 | ![]() |
|
15 | 勝 | 15–0 | ![]() |
KO | 5 (10), 1:48 | 1962-07-20 | 20歳 + 184日 | ![]() |
|
14 | 勝 | 14–0 | ![]() |
TKO | 7 (10), 2:21 | 1962-05-19 | 20歳 + 122日 | ![]() |
|
13 | 勝 | 13–0 | ![]() |
TKO | 4 (10), 1:34 | 1962-04-23 | 20歳 + 96日 | ![]() |
|
12 | 勝 | 12–0 | ![]() |
TKO | 4 (10), 0:34 | 1962-03-28 | 20歳 + 70日 | ![]() |
|
11 | 勝 | 11–0 | ![]() |
TKO | 4 (10), 0:26 | 1962-02-10 | 20歳 + 24日 | ![]() |
|
10 | 勝 | 10–0 | ![]() |
TKO | 7 (10), 1:55 | 1961-11-29 | 19歳 + 316日 | ![]() |
|
9 | 勝 | 9–0 | ![]() |
TKO | 6 (10), 1:45 | 1961-10-07 | 19歳 + 263日 | ![]() |
|
8 | 勝 | 8–0 | ![]() |
UD | (10) | 1961-07-22 | 19歳 + 186日 | ![]() |
|
7 | 勝 | 7–0 | ![]() |
UD | 10 | 1961-06-26 | 19歳 + 160日 | ![]() |
|
6 | 勝 | 6–0 | ![]() |
KO | 2 (10), 1:27 | 1961-04-19 | 19歳 + 92日 | ![]() |
|
5 | 勝 | 5–0 | ![]() |
TKO | 7 (8) | 1961-02-21 | 19歳 + 35日 | ![]() |
|
4 | 勝 | 4–0 | ![]() |
KO | 1 (8), 1:34 | 1961-02-07 | 19歳 + 21日 | ![]() |
|
3 | 勝 | 3–0 | ![]() |
TKO | 3 (8), 1:30 | 1961-01-17 | 19歳 + 0日 | ![]() |
|
2 | 勝 | 2–0 | ![]() |
KO | 4 (8) | 1960-12-27 | 18歳 + 345日 | ![]() |
|
1 | 勝 | 1–0 | ![]() |
UD | 6 (6) | 1960-10-29 | 18歳 + 286日 | ![]() |
受賞歴[編集]
- 金メダル再授与(1996年)
- オットー・ハーン平和メダル(2005年)
- 大統領自由勲章(2005年)
- プリンストン大学名誉博士号(2007)[78]
関連映画[編集]
- 劇映画
- ドキュメンタリー映画
- モハメド・アリ かけがえのない日々(レオン・ギャスト監督)
- チャンピオンへの道(ジム・ジェーコブス監督)
- モハメド・アリ 世界が見た王者(フィル・グラブスキー監督)
- フェイシング・アリ(ピート・マコーマック監督)
書籍[編集]
- 『モハメド・アリ自伝 わが魂の戦歴』鈴木主税訳 早川書房
- ホセ・トレス 『カシアス・クレイ』 和田俊訳 朝日新聞出版 1972年
- 田原八郎 『モハメド・アリ―合衆国と闘った輝ける魂』 燃焼社、2003年8月
- ハワード・L. ビンガム 『モハメド・アリ 聖者』 岩本正恵訳、リトルモア、1997年11月
- マイク・マークシー 『モハメド・アリとその時代―グローバル・ヒーローの肖像』 藤永康政訳、未來社、2001年10月
- デイビッド・レムニック 『モハメド・アリ―その闘いのすべて』 佐々木純子訳、阪急コミュニケーションズ、2001年9月
- デイヴィス・ミラー 『モハメド・アリの道』 田栗美奈子訳、青山出版社、1997年9月
- 田中茂朗 『モハメド・アリ 〜リングを降りた黒い戦士』 メディアファクトリー、1992年6月
- トマス・ハウザー 『シリーズ・ザ・スポーツノンフィクション14 モハメド・アリ -その生と時代』小林勇次訳、東京書籍、1993年7月
- 新版『モハメド・アリ その生と時代』 岩波現代文庫(上下)、2005年5月
- ジョナサン・アイグ『評伝モハメド・アリ アメリカで最も憎まれたチャンピオン』 押野素子訳、岩波書店、2022年9月
- ハナ・アリ 『私の父モハメド・アリ』 北沢あかね訳、愛育社、2001年9月
- 『月刊スーパーマン増刊 スーパーマン対モハメド・アリ』月刊スーパーマン1978年9月号増刊号、マーベリック出版
- 雑誌は既に廃刊・絶版済み。スーパーマンのストーリーにアリを絡ませたコミック作品である。アリを取材にクラーク・ケントたちがやってきた際、地球に強大な宇宙艦隊が飛来する。その宇宙艦隊の要求により、アリが地球チャンピオンとして、宇宙の格闘技王者ハンニャと地球の運命をかけて対戦することになる。地球人を奴隷にするという宇宙人の言葉に怒ったアリはハンニャにKO勝ち、宇宙艦隊もスーパーマンの前に全滅し、アリとスーパーマンの共同戦線により地球の平和は守られるという奇想天外なストーリー。 タイトルのとおり、アリとスーパーマンもリングで対決。クリプトナイトの影響下で戦ったスーパーマンは意識を失いながらも立ち続け、アリは止めの一撃を打たない。
脚注[編集]
- ^ a b モハメド・アリ死去から2年 宿敵フォアマンが語る「史上最強の男」 - Yahoo!ニュース 2018年6月1日
- ^ “Ali has Irish ancestry”. BBC News. (2002年2月9日) 2009年8月5日閲覧。
- ^ a b ムハマド・アリ氏死去 メイウェザー氏、レブロン、タイソン氏ら悼む
- ^ 伝説の猪木VSアリ戦に決着はない 40年の節目に「世界格闘技の日」
- ^ The 50 Greatest Sports Athletes Of All Time Have Been Named And Ranked By Fans Sport Bible 2020年12月30日
- ^ Ronaldo, Tyson, Bolt, Pele, Messi, Mayweather: The top 50 greatest athletes of all time givemesport 2022年2月1日
- ^ Muhammad Ali: Truly the Greatest Athlete of the 20th Century sportskeeda 2018年7月17日
- ^ “引退後も闘い続けたアリ氏、最強の男を苦しめたパーキンソン病”. AFPBB News (2016年6月5日). 2016年6月7日閲覧。
- ^ アリさん死因、敗血症ショック - asahi.com
- ^ モハメド・アリ氏死去 死因は敗血症と遺族明かす 2016年06月6日 - bbc.com
- ^ アリ氏の娘婿ケビンがUFC大会で悲しみのドロー 日刊スポーツ 2016年6月6日
- ^ “アリの孫ウォルシュが1回KO勝ちでデビュー5連勝「しっかりと終わらせる、これが私の使命」”. 日刊スポーツ (2022年5月1日). 2022年5月1日閲覧。
- ^ DNA evidence links Muhammad Ali to heroic slave, family says Archived 2019-04-04 at the Wayback Machine. Ben Strauss, Washington Post, October 2, 2018
- ^ Muhammad Ali throwing 12 punches in just 2.8 seconds givemesport 2021年3月29日
- ^ “ムハマド・アリとは、いったい何者であったのか”. 日刊スポーツ (2016年12月23日). 2022年8月19日閲覧。
- ^ 完訳マルコムX自伝。p.128。中公文庫
- ^ ICON Mike Tyson explains legend of Sugar Ray Robinson – the man Muhammad Ali described as the ‘pound-for-pound greatest of all time’ talkSPORT 2021年12月28日
- ^ President Obama: Muhammad Ali Was 'A Man Who Fought for Us' タイム 2016年6月4日
- ^ President Obama just shared some touching mementos Muhammad Ali gave him Insider 2016年6月9日
- ^ Donald Trump Reflects on His Relationship With Muhammad Ali ニューヨーク・タイムズ 2016年6月4日
- ^ Michael Jordan, Tiger Woods lead tributes to Muhammad Ali ワシントン・ポスト 2016年6月4日
- ^ Arnold Schwarzenegger remembers his idol Muhammad Ali The Indian Express 2016年6月12日
- ^ “Every head must bow, every tongue must confess” – Mike Tyson called Muhammad Ali the greatest of all time First Sportz 2022年9月8日
- ^ Pele pays tribute to 'friend, idol, hero' Muhammad Ali: He told me football was 'more beautiful' than boxing Evening Standard 2016年6月5日
- ^ THE GREATEST Muhammad Ali was so adored that Conor McGregor and Mike Tyson idolise him, Saddam Hussein negotiated a hostage release with him and the CIA believe Osama bin Laden listened to his inspirational speeches talkSPORT 2022年2月10日
- ^ モハメドアリ バイオ 2023年2月2日閲覧
- ^ Muhammad Ali: 'They put me out of that restaurant', on throwing Olympic gold medal away - 1976 Speakola 2021年7月22日
- ^ “5 Stories You Didn’t Know About Muhammad Ali”. The.Huffington.Post.com (2016年6月4日). 2016年6月7日閲覧。
- ^ “カシアス・クレイ、そしてモハメド・アリの伝説”. 産経新聞 (2016年6月6日). 2016年6月7日閲覧。
- ^ 『ボクシングヘビー級最強伝説 ◎世界を制覇した男たち』ベースボール・マガジン社、2009年、39ページ。
- ^ 『スポーツ20世紀8 カリスマの系譜 スーパースター最強列伝』ベースボール・マガジン社、2001年、32ページ。
- ^ ムハマド・アリ ジョージ・フォアマン 2023年2月6日閲覧
- ^ トマス・ハウザー「モハメド・アリ(下)」岩波現代文庫377頁
- ^ モハメド・アリ、曾祖父の故郷アイルランドで名誉市民に AFPBB News 2009年9月2日閲覧
- ^ 元世界ヘビー級チャンピオン モハメド・アリ氏 死去 NHKニュース 2016年6月4日閲覧
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WBA, WBC, The Ring & Lineal ヘビー級タイトル;
Stripped of WBA title on June 19, 1964. - ^ https://www.princeton.edu/news/2007/06/05/princeton-awards-seven-honorary-degrees
関連項目[編集]
- シュガー・レイ・レナード
- 男子ボクサー一覧
- ボクシング世界ヘビー級王者一覧
- 世界ボクシング協会(WBA)世界王者一覧
- 世界ボクシング評議会(WBC)世界王者一覧
- マルコムX
- カシアス内藤 - リングネームは彼の改名前の本名「カシアス・クレイ」からとったもの。
- アレクシス・アルゲリョ
- ヘクター・カマチョ
- ルイビル国際空港 - 2019年にアリに因んで「ルイビル・モハメド・アリ国際空港」に改称された。
- 国際ボクシング名誉の殿堂博物館
- 世界ボクシング殿堂
- リングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤー - 5度選出(1963年、1972年、1974年、1975年、1978年)
- ジャビール・ハーバート・ムハンマド - 1966年から1981年までモハメド・アリのチームマネージャーを務めた人物
- キンシャサノキセキ - 「キンシャサの奇跡」から命名された競走馬
外部リンク[編集]
前王者 ソニー・リストン |
WBA世界ヘビー級王者 1964年2月25日 - 1964年6月19日(剥奪) |
空位 次タイトル獲得者 アーニー・テレル |
前王者 ソニー・リストン |
WBC世界ヘビー級王者 1964年2月25日 - 1969年3月11日(剥奪) |
空位 次タイトル獲得者 ジョー・フレージャー |
前王者 アーニー・テレル |
WBA世界ヘビー級王者 1967年2月6日 - 1967年5月9日(剥奪) |
空位 次タイトル獲得者 ジミー・エリス |
前王者 ジョージ・フォアマン |
WBA世界ヘビー級王者 1974年10月30日 - 1978年2月15日 |
次王者 レオン・スピンクス |
前王者 ジョージ・フォアマン |
WBC世界ヘビー級王者 1974年10月30日 - 1978年2月15日 |
次王者 レオン・スピンクス |
前王者 レオン・スピンクス |
WBA世界ヘビー級王者 1978年9月15日 - 1979年4月27日(返上) |
空位 次タイトル獲得者 ジョン・テート |
- モハメド・アリ
- アメリカ合衆国の男子ボクサー
- アフリカ系アメリカ人のボクサー
- アメリカ合衆国のムスリム
- アイルランド系アメリカ人のボクサー
- イングランド系アメリカ人
- ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム
- オリンピックボクシングアメリカ合衆国代表選手
- アメリカ合衆国のオリンピック金メダリスト
- オリンピックボクシング競技の金メダリスト
- オリンピック聖火点火者
- ヘビー級世界王者
- 世界ボクシング協会世界王者
- 世界ボクシング評議会世界王者
- 国際ボクシング名誉の殿堂博物館
- 20世紀のスポーツ選手
- イスラム教への改宗者
- 大統領自由勲章受章者
- 公民権運動
- アメリカ合衆国の反戦活動家
- アメリカ合衆国の良心的兵役拒否者
- ケンタッキー州の活動家
- マルコム・X
- ベトナム戦争の人物
- パーキンソン病の人物
- ルイビル出身の人物
- 20世紀アメリカ合衆国の人物
- 21世紀アメリカ合衆国の人物
- 1942年生
- 2016年没