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ソニー・リストン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ソニー・リストン
1954年
基本情報
本名 チャールズ・L・リストン
通称 ソニー
(Sonny)
階級 ヘビー級
身長 185cm
リーチ 213cm
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日 1932年
出身地 アーカンソー州サンド・スラウ
死没日 (1970-12-30) 1970年12月30日(38歳没)
死没地 ネバダ州ラスベガス
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 54
勝ち 50
KO勝ち 39
敗け 4
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チャールズ・"ソニー"・リストンCharles "Sonny" Liston1932年 - 1970年12月30日[1])は、アメリカ合衆国男性プロボクサーアーカンソー州サンド・スラウ出身。元WBAWBC世界ヘビー級統一王者

身長185cmにしてリーチ213cm、また周囲38cm(成人男性の平均の約2倍)の手のサイズを誇った。「史上最も威圧的なボクサー」と称され、マイク・タイソンは「リストンは俺をボーイスカウトのように見せるだろう」と語っている[2]。また、「ヘビー級史上最高のボクサーの1人」と目されており、2017年にリングマガジンはリストンをヘビー級史上最高のボクサーとして10位にランクしている[3]

1963年

来歴

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アーカンソー州では1965年まで出生証明書の提出が義務付けられていなかったため、リストンの正式な生年月日はわかっていない。リストンの家族は1930年代には記録で確認でき、リストンは1940年代の記録では10歳と記録されている。リストン自身も正確な生年月日を知らず、最終的には1932年5月8日に落ち着いているが、実際には1930年7月22日ともう少し年を取っていたのではないかと推測されている。

リストンは12人兄弟のうち11番目の子であり、極貧の家庭だった。父は躾と称して子供を鞭打つ行為を行っており、そのためリストンの体には虐待の傷跡が生々しく残っていた。このような家庭環境であったため、リストンは生涯を通じて自分のサインすら満足に書けない文盲で、そのことに触れられることを忌み嫌っていたという。

リストンは幼い頃から犯罪に手を染めており、強盗団を率いた武装強盗や警官襲撃などで19回逮捕された記録が残されている。なお、リストンが強盗の際に着ていたシャツが黄色であったことから、セントルイス警察はリストンを「Yellow Shirt Bandit」(黄色いシャツの強盗犯)と名づけていた。リストンは1950年1月(当時、リストンは裁判の際に自身の年齢を20歳と答えたが、セントルイス・グローブ民主党紙はリストンを22歳と記している)に逮捕され、懲役5年の刑を言い渡され、6月1日からミズーリ州刑務所に収監された。 服役中に刑務所のアスレチックディレクターからボクシングを勧められ、才能を開花させた[4]

1952年10月31日、2年間の刑務所生活から仮釈放で出所し、アマチュアボクシングでシカゴのゴールデングローブで優勝するなど活躍した。同時期にセントルイスのマフィアのドン、ジョン・ビターレと関係するようになる[4]

プロ時代

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1953年9月2日、プロデビュー。

1956年5月5日、路上でリストンを呼び止めた警官に暴行を働いた上に拳銃を奪い去ったとして感化院へ9ヶ月間送られる。その後、再び警官相手に暴力沙汰を起こして町を出て行くよう宣告を受け、セントルイスからフィラデルフィアへ拠点を移す[4]

この頃から数年に渡って、ボクシングプロモーターでフィラデルフィアマフィアの裏の顔を持つフランク・パレルモと、ニューヨークマフィアのルッケーゼ一家の一員でマーダー・インクの殺し屋でもあったフランキー・カルボの支配下で試合を行うようになる[4]

リストンは1960年に世界王座挑戦の最有力候補となったが、王者フロイド・パターソン陣営は、リストンがマフィア等の犯罪組織との関わりがあることを理由に、リストンとの対戦を拒否した。リストンは世界王座挑戦を目指してトレーニングを行っていたが、その間にも犯罪行為を続け、治安紊乱行為や警官になりすました罪で逮捕されるなど荒んだ生活を送った。リストンは1961年7月14日にペンシルベニア州体育委員会からボクシング・ライセンスの停止処分を受け、この処分は後に全ての州で履行された[4]

市民団体の指導者等も、リストンの粗暴な性格が若者に悪影響を及ぼすのではないかと懸念し、リストンのタイトル挑戦に否定的だった。全米黒人地位向上協会(NAACP)はリストンの勝利が公民権運動に悪影響を及ぼすことを恐れ、パターソンに対しリストンと対戦しないよう促していた。また、多くのアフリカ系アメリカ人はリストンを軽蔑した。ジョン・F・ケネディ大統領もパターソンがリストンと対戦することを望まなかったとされ、1962年1月にパターソンがケネディと面会した際には、ケネディはリストンと犯罪組織の繋がりに対する司法省の懸念を理由に、パターソンにリストンとの対戦を避けるよう提案したという[5]

元世界ヘビー級王者のジャック・デンプシーは、リストンにタイトルマッチをさせるべきではないと発言し、リストンはデンプシーが第一次世界大戦に従軍しなかったことを持ち出して反論した。業を煮やしたリストンは、1961年に自身のマネージメント陣を変更し、パターソンが王者になって以来白人としか戦わず、同胞に対してカラーラインを引いていると発言して圧力をかけた[4]

1962年9月25日、紆余曲折の末にシカゴコミスキー・パークWBA世界ヘビー級王者フロイド・パターソンに挑戦し、左フックで初回2分6秒KO勝ちを収め王座獲得に成功した。スポーツ・イラストレイテッドのライター、ギルバート・ロージンは「フィニッシュブローの左フックは、坂を下るディーゼル車ようにパターソンの顎に激突した」と書いている。

パターソンからダウンを奪うリストン(第1戦目)

1963年7月22日、ラスベガスラスベガス・コンベンション・センターで再戦条項を行使したフロイド・パターソンとダイレクトリマッチを行い、初回に3度のダウンを奪い初回2分10秒KO勝ちを収めWBA王座の初防衛に成功し、WBCの初代ヘビー級王座を獲得した。

1964年2月25日、マイアミビーチのコンベンション・センターでカシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)と対戦。リストンは当時史上最強のハードパンチャーと評され、当時22歳だったクレイは圧倒的不利と目され、オッズでは7対1でリストンが優位だった。しかし、クレイは試合前にリストンを「醜い熊」呼ばわりし「試合後に奴を動物園に寄付するつもりだ」と度重なる挑発を行い、怒ったリストンがクレイに向かって拳銃の空砲を撃つ場面もあった。試合が始まると、リストンは早期決着を狙いクレイに向かって突進するが、クレイの軽やかなフットワークとスピードに翻弄され、7回開始時にリストンが椅子から立ち上がれなくなったため大番狂わせとなるTKO負けで王座から陥落した。リストンは棄権の理由を肩の負傷によるものだと語った[6][7]

アリ対リストン第二戦のチケット

1965年5月25日、ルイストンのシビック・センターでWBA・WBC世界ヘビー級統一王者モハメド・アリとダイレクトリマッチを行い、左ジャブを放った際にカウンターの右ストレートで1回2分12秒KO負けを喫し、王座奪還に失敗した。しかし、リストンの倒れ方が不自然であったことから意図的に自ら試合を投げ出したのではないかと推測されている。動機としては、アリが所属するネーション・オブ・イスラムからの脅迫、リストンと関わりのあったマフィアの関与、また、借金を返済するためにリストン自身がアリに金を賭けてわざと負けた説などが挙げられているが真偽は定かではない。リストンは後に試合を投げ出したことを否定したが、アリについて「あの男はクレイジーだ。彼とは何の関わりも持ちたくなかった。彼の周りにはイスラム教徒がいる」と意味深な発言をしている[4]

アリは引退後のインタビューで「リストンは当時史上最高のボクサーだった。彼はパターソンを2度KOするほどのパンチを持ち、彼の片手は俺の両手よりも大きかった。当時誰もが彼を恐れていた」と語り、アリ自身もリストンとの対戦を前に「死の恐怖」があったと振り返っている。また、2戦目でダウンを奪った際に、アリはリストンに対して「立ち上がって戦え!」と叫んでいたが、内心は立ち上がって欲しくなかったと同インタビューで語っている[8]

1970年6月29日、ジャージーシティのジャージーシティ・アーモリーでチャック・ウェプナーと対戦し、ウェプナーが予想外のタフネスを発揮するものの終始リストンの一方的な試合となり、9回終了時に両目をカットしたウェプナーにドクターストップがかかりTKO勝ち。試合後、ウェプナーは72針の縫合を余儀なくされ、頬骨と鼻を骨折した。後にジョージ・フォアマンやアリとも戦ったウェプナーは、引退後、キャリアで対戦した中で最もパンチが重かった相手としてリストンを挙げている。また、ウェプナーは「私は自分が最も威圧的なボクサーだと思っていた。ソニー・リストンと戦うまではね」と語っている。この一戦がリストンの生涯最後の試合となった。

1971年1月5日、2週間の旅行から帰宅した妻がラスベガスの自宅ベットの下でリストンが死んでいるのを発見、検査官によって既に6日前に死亡していたと推定された。死因についてはキッチンでヘロインが見つかり、リストンの腕にも注射痕があったことからヘロインの過剰摂取とされているが、心臓麻痺や生前に関わりのあったマフィアに殺害されたなど諸説ある[4][9]。リストンの遺体はラスベガスのパラダイス記念庭園に埋葬され、墓石には「A Man」という献辞のみが刻まれている。

私生活

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リストンは1957年9月3日にジェラルディン・チェンバースと結婚した。ジェラルディンには前夫との間に娘がおり、リストンはその後スウェーデン人の男児を養子に迎え入れた。リストンの伝記作家ポール・ギャレンダーは、リストンには数人の子供がいたが、ジェラルディンとの間には子供はいなかったとしている。ジェラルディンはリストンのことを「彼は優しい人でした。私にとっては素晴らしい夫であり、子供たちにとっては素晴らしい父でした」と回想している。

戦績

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  • プロボクシング: 54戦 50勝 (39KO) 4敗
日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
11953年9月2日1R 0:33KOドン・スミスアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国プロデビュー戦
21953年9月17日4R判定ポンス・デ・レオンアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
31953年11月21日6R判定2-1ベニー・トーマスアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
41954年1月25日6RTKOマーティン・リーアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
51954年3月31日6R判定スタンリー・ハウレットアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
61954年6月29日8R判定3-0ジョニー・サマーリンアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
71954年8月10日8R判定2-1ジョニー・サマーリンアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
81954年9月7日8R判定1-2マーティー・マーシャルアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
91955年3月1日8R判定ニール・ウェルチアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
101955年4月21日6RTKOマーティー・マーシャルアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
111955年5月5日5R 2:55TKOエミル・ブルトコアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
121955年5月25日2R 2:18TKOカルヴィン・バトラーアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
131955年9月13日6RTKOジョニー・グレイアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
141955年12月13日4RTKOラリー・ワトソンアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
151956年3月6日10R判定3-0マーティー・マーシャルアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
161958年1月29日2RTKOビリー・ハンターアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
171958年3月11日4RTKOベン・ワイズアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
181958年4月3日10R判定バート・ホワイトハーストアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
191958年5月14日2RTKOフリオ・メデロス キューバ
201958年8月6日7R 1:41TKOウェイン・べセアアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
211958年10月7日1R 2:22KOフランキー・ダニエルズアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
221958年10月24日10R判定3-0バート・ホワイトハーストアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
231958年11月18日7R 終了TKOアーニー・キャブアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
241959年2月18日6R 2:43TKOマイク・デジョンアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
251959年4月15日3R 2:13TKOクリーブランド・ウィリアムズ英語版アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
261959年8月5日3R 0:47KOニーニョ・バルデス英語版 キューバ
271959年12月9日6R 終了TKOウィリー・ベスマノフ英語版ドイツの旗 ドイツ
281960年2月23日7R 終了TKOハワード・キング英語版アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
291960年3月21日2R 2:13TKOクリーブランド・ウィリアムズ英語版アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
301960年4月25日1R 2:35TKOロイ・ハリス英語版アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
311960年7月18日3R 0:28KOゾラ・フォーリー英語版アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
321960年9月7日12R判定3-0エディ・マッチェン英語版アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
331961年3月8日3R 0:53TKOハワード・キング英語版アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
341961年12月4日1R 1:58KOアルバート・ウェストファルドイツの旗 ドイツ
351962年9月25日1R 2:06KOフロイド・パターソンアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国WBA世界ヘビー級タイトルマッチ
WBA・NYSACリングマガジン獲得
361963年7月22日1R 2:10KOフロイド・パターソンアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国WBA世界ヘビー級タイトルマッチ
WBC世界ヘビー級王座決定戦
WBA防衛1・WBC獲得・NYSAC防衛1
371964年2月25日6R 終了TKOカシアス・クレイモハメド・アリアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国WBA・WBC・NYSAC陥落
381965年5月25日1R 2:12KOモハメド・アリアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国WBC世界ヘビー級タイトルマッチ
391966年7月1日7R 1:11KOゲルハルト・ゼクドイツの旗 ドイツ
401966年8月19日3R 1:48KOアモス・ジョンソンアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
411967年3月30日1R 2:22KOデイブ・バイリーアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
421967年4月29日6RTKOエルマー・ラッシュアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
431968年3月16日4R 0:47TKOビル・マクマーレイアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
441968年5月23日7R 終了TKOビリー・ジョイナー英語版アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
451968年7月6日7R 2:47TKOヘンリー・クラークアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
461968年10月14日3RTKOソニー・ムーアプエルトリコの旗 プエルトリコ
471968年11月3日2R 1:52KOウィリス・アールズアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
481968年11月12日3R 2:23KOロジャー・リスチャーアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
491968年12月10日2R 2:46KOアモス・リンカーンアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
501969年3月28日10R判定3-0ビリー・ジョイナー英語版アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
511969年5月19日7R 2:55TKOジョージ・ジョンソン英語版アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
521969年9月23日3RKOソニー・ムーアアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
531969年12月6日9R 1:08KOレオティス・マーティン英語版アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国NABFヘビー級王座決定戦
541970年6月29日9R 終了TKOチャック・ウェプナーアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
テンプレート

関連作品

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映画

脚注

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  1. Sonny Liston American boxer Encyclopædia Britannica
  2. Speaking With Behind-the-Scenes National Treasure Larry “Ratso” Sloman Men's Journal
  3. FROM THE RING: THE GREATEST HEAVYWEIGHT OF ALL TIME リングマガジン 2017年4月19日
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 Liston was trouble in and out of ring”. ESPN.com. 2015年2月5日閲覧。
  5. Sonny Liston terrified Muhammad Ali and JFK, inspired Mike Tyson with his knockouts – but his controversial death and links to the mob haunt boxing talkSPORT 2020年9月12日
  6. 『ボクシングヘビー級最強伝説 ◎世界を制覇した男たち』ベースボール・マガジン社、2009年、39ページ。
  7. 『スポーツ20世紀8 カリスマの系譜 スーパースター最強列伝』ベースボール・マガジン社、2001年、32ページ。
  8. Muhammad Ali was SCARED of Sonny Liston 😳 Fighting Centre YouTube
  9. Those who knew him best still say Sonny Liston was done in”. Las Vegas Review-Journal (2011年1月5日). 2015年2月6日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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前王者
N/A
WBA世界ヘビー級王者
1962年9月25日 - 1964年2月25日
次王者
カシアス・クレイ(モハメド・アリ)
前王者
フロイド・パターソン
WBC世界ヘビー級王者

1963年2月14日(認定) - 1964年2月25日

次王者
カシアス・クレイ(モハメド・アリ)