リッキー・スティムボート
リッキー・スティムボート | |
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![]() 2015年 | |
プロフィール | |
リングネーム |
リッキー "ザ・ドラゴン" スティムボート リッキー・スティムボート ディック・ブラッド |
本名 | リチャード・ヘンリー・ブラッド |
ニックネーム |
ザ・ドラゴン 南海の黒豹 |
身長 | 180cm |
体重 | 107kg(全盛時) |
誕生日 | 1953年2月28日(70歳) |
出身地 |
![]() ![]() オレンジ郡ウェストポイント |
所属 | WWE |
スポーツ歴 | レスリング |
トレーナー |
バーン・ガニア コシロ・バジリ |
デビュー | 1976年 |
リッキー・スティムボート(Ricky "The Dragon" Steamboat、本名:Richard Henry Blood、1953年2月28日 - )は、アメリカの元プロレスラー。ニューヨーク州ウェストポイント生まれ、フロリダ州タンパ出身。
父親がポーランド系英国人、母親が日本人(京都出身タカコ・イトウ)という血統[1][2]。ニックネームはブルース・リーのイメージから「ザ・ドラゴン」[3]。日本では「南海の黒豹」のキャッチコピーが付けられ全日本プロレスで活躍し、人気を獲得した[1]。
ギミックの設定上、公式プロフィールでの出身地はハワイ州ホノルル(全日本プロレス中継では「母国日本」と紹介されたこともある)。息子はリッキー・スティムボート・ジュニア。
来歴[編集]
少年時代を過ごしたフロリダではレスリングで活躍。バーン・ガニアのレスリング・キャンプに参加後、1976年にAWAでプロデビュー。ハワイ出身の名レスラー、サム・スティムボートの「甥」という設定のもとリッキー・スティムボートと改名し[4]、デビュー後ほどなくしてフロリダやジョージアを経て、ジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に移籍。端正な顔立ちと鍛え上げられた肉体を持つアイドル系のベビーフェイスとして、生涯のライバルとなるリック・フレアーやジミー・スヌーカらと抗争を繰り広げた。同じアイドル系のジェイ・ヤングブラッドとのコンビでも活躍し、レイ・スティーブンス&グレッグ・バレンタインなどのチームを破り同地区認定のNWA世界タッグ王座を再三に渡って獲得した[5]。
1980年11月に初来日し、ディック・スレーターと組んで世界最強タッグ決定リーグ戦に出場。開幕戦でアブドーラ・ザ・ブッチャー&キラー・トーア・カマタと熱戦を演じた。以降も全日本の常連外国人として活躍し、ミル・マスカラスやジャンボ鶴田らとの好試合を通して日本でも人気を得る。入場テーマ曲にはYMOの『ライディーン』が使われていた。1982年にはヤングブラッドとのコンビで世界最強タッグ決定リーグ戦に出場、ブルーザー・ブロディ&スタン・ハンセンのミラクルパワーコンビとの初戦では、その体格差から圧倒的不利が囁かれながらも互角以上の戦いで名勝負を演じ、後年まで語り草となった[6]。また、1984年にはデビッド・フォン・エリック急逝により空位となったUNヘビー級王者決定戦にエントリーされ、天龍源一郎と王座を争った。
1985年にWWFに移籍。ザ・ドラゴンのニックネームを与えられ、ジェイク・ロバーツ、ドン・ムラコ、ランディ・サベージらと抗争を展開する。1987年3月29日、レッスルマニアIIIでサベージを下し、WWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座を獲得[7]。この試合はプロレス史に残る名勝負として名高い[3]。スティムボートの大ファンだったクリス・ジェリコはこの時の試合を見てプロレスラーを志すようになったと語っている。
1988年春にWWFを脱退後、「家族と過ごす時間が欲しい」との理由から一旦引退が発表されたが、翌1989年1月21日にフレアーと対戦するためにWCWで現役復帰。同年2月20日、シカゴでフレアーを破り第73代NWA世界ヘビー級王者となる[8]。世界王者として全日本プロレスへも来日を果たし、2代目タイガーマスク(三沢光晴)相手に防衛戦を行い勝利している(全日本での最後のNWA戦となった)。同年5月7日、前王者に敗れて王座転落。このフレアーとのタイトルマッチ3連戦(第2戦は4月2日に行われスティムボートの王座防衛)も、いずれも名勝負としてプロレス史に刻まれている。王座陥落後は、1990年9月に新日本プロレスへ初参戦。横浜アリーナでグレート・ムタと対戦している。このときの入場テーマ曲にはYMOの『東風(Tong Poo)』が使われていた。
1991年3月、WWFに再登場。ニックネームのドラゴンそのままのコスチュームで火吹きパフォーマンスを行ったが、観客の反応は今一つだった(かつてのライバルの1人リック・ルードは「元NWA世界王者にあんな真似をさせるなんて」と当時のWWFを非難していた)。同年11月からは再びWCWに参戦、主にニキタ・コロフやシェーン・ダグラスとのタッグで活動する。しかし1994年、"スタニング"スティーブ・オースチンとの抗争中に腰を負傷。この怪我が原因となり、同年に現役を引退した。
引退後は自宅のあるノースカロライナ州シャーロットでジムを経営していたが、2002年から裏方としてプロレス界に復帰。TNA、ROHを経て2005年からWWE(RAWチーム)のロード・エージェントとして活動している。日本興行に同行した際には、リング上で往年のチョップ攻撃を披露することもある。
2008年4月、フレアーの引退セレモニーに登場。2009年にはWWE殿堂に迎えられ、インダクターはフレアーが務めた。殿堂入りが発表された後のRAWでクリス・ジェリコの襲撃を受け、フレアー、スヌーカ、ロディ・パイパーらレジェンドと共にジェリコとの抗争を開始。レッスルマニア25ではスヌーカ、パイパー(セコンドにフレアー)と組み、ジェリコと1対3のエリミネーション・マッチで久々に試合に登場。試合には敗れたものの、コーナーポストからのチョップやクロス・ボディを放つなど、56歳とは思えぬ現役時代さながらのファイトを見せた。翌日のRAWでもスペシャル10人タッグマッチでRAWのメンバーとして登場した。なお、レッスルマニア25でタッグを組んだスヌーカ、パイパー、そしてスティムボートの3人は共にレッスルマニア第1回大会の出場者でもあり、25回記念大会に花を添えた。
日本にも、2009年7月7日と7月8日の "SMACKDOWN&ECW LIVE" 日本武道館大会に登場し、8日には「レッスルマニア・リマッチ」としてジェリコと対戦。前日特別レフェリーを務めたジェリコvsレイ・ミステリオ戦後にジェリコに暴行された因縁もあり、序盤は猛ラッシュを見せたが、スタミナに勝るジェリコにギブアップ負けを喫した。しかし、ジェリコのウォールズ・オブ・ジェリコを一度は耐え、レッスルマニアでも見せた年齢を感じさせない空中技やロープワークを見せた。
引退後も、後進の指導の一環でハウス・ショーではテストマッチとして若手相手に試合を行なっている(ドリュー・マッキンタイアは長くテストマッチを受けていた)。2017年3月31日には、フロリダ州オーランドのアムウェイ・センターで開催されたWWE殿堂の式典において、リック・ルードの殿堂入りのインダクターを担当した[9]。
得意技[編集]
- ダイビング・クロス・ボディ
- コーナートップからのダイビング式、相手をロープに飛ばしてのリバウンド式など、若手時代から必殺技として愛用。かつてはライバルのフレアーも隠し技としていた。
- サイクロン・ホイップ
- 彼の代名詞の一つで、この技にかけては最高の名手との評価を受ける。現在でも選手が美しいフォームでこの技を出すと「スティムボートのようなディープ・アームドラッグだ!」と実況される。
- バックハンド・チョップ
- もう一つの代名詞。いわゆる空手チョップや、ダイビング式空手チョップも使う。
- ロープに飛ばした相手に放つなどして倒した時に、そのままオーバーアクションで見栄を切ってみせ、客を沸かせるのが定番のムーブだった。日本では入場曲に絡めて、「ライディーン・チョップ」と呼ばれる。
- ジャンピング・ショルダー・プレス
- 若手時代のスティムボートの切り札だった。いわゆるフライング・ボディシザース・ドロップ(テーズ・プレス)なのだが、元祖ルー・テーズやジャンボ鶴田のものとは違い、かなり高い打点から相手の胸板、もしくは肩口に正座するようなフォームで決めるのが特徴。向かい合った瞬間その場で突然ジャンプし繰り出す事もあり、鶴田とのシングル初対決では開始ゴング直後にこの技をいきなり放ち、あわや秒殺か、というシーンもあった。
- ドロップキック
- 高い打点と、美しいフォームには定評があった。
- フライング・クロスチョップ(フライング・クロス・アタック)
- この技も若手時代の得意技。ミル・マスカラスらのものに比べ華麗さは劣るものの、スピードがあり躍動感に溢れたフォームだった。
- ジャンピング・ハイキック
- 相手をロープに飛ばし、リバウンドで戻ってくるところを川田利明のジャンピング・ハイキック、木村健吾の稲妻レッグ・ラリアットの中間のようなフォームで相手の喉元、もしくは胸板を蹴る。この技とバックハンド・チョップを見た倉持隆夫アナが「カンフー殺法」と称したが、無論スティムボートにはカンフーの心得がある訳ではない。
獲得タイトル[編集]
- NWA世界ヘビー級王座 : 1回[8]
- NWA殿堂:2012年[10]
- NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版) : 6回(w / ジェイ・ヤングブラッド×5、ポール・ジョーンズ×1)[5]
- NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版) : 3回
- NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座 : 2回
- NWAミッドアトランティックTV王座 : 2回
- NWAミッドアトランティック・タッグ王座 : 4回(w / ポール・ジョーンズ×3、ジェイ・ヤングブラッド×1)
- WCW USヘビー級王座 : 1回
- WCW世界TV王座 : 2回
- WCW世界タッグ王座 : 2回(ダスティン・ローデス×1、シェーン・ダグラス×1)
- WWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座 : 1回[7]
- WWE殿堂 : 2009年(インダクターはリック・フレアー)
入場曲[編集]
- ライディーン - 全日本での入場曲。
- 東風(Tong Poo) - 新日本での入場曲。
- Hercules - WWE(WWF)で80年代に使用。
- Dragon - WWEでの入場曲。一時期WWEに参戦していたウルティモ・ドラゴンも使用していた。
エピソード[編集]
- そのスピードを活かしたレスリングスタイルは多くのレスラーから評価されており、ジョン・シナは雑誌への寄稿で、過去のベストレスラー20人のうちの第4位に挙げ、バティスタも全盛期に戦ってみたいレスラーであるとインタビューで語っている。
- 自他ともに認めるリック・フレアー最大の好敵手。フレアーも彼については「最も手の合った相手。眼を瞑っていてもお互いの動きがわかった」「最高のベビーフェイスだ。最高のレスラーはヒールの自分だけどね」などと発言しており、若手時代からベテランになるまで数多くの名勝負を残している(フレアーによれば「3000回は戦った」らしい)。
- 息子のリッキー・スティムボート・ジュニアもFCWで修行していた。2008年9月、WLWとNOAHの合同キャンプの際、若手選手を指導したスティムボートは息子を日本に留学させたい意向をNOAH側に伝え、2009年1月から留学生としてNOAHに参戦した。
- 日本でのジャイアント馬場との対戦では、ほぼ毎回十六文キックを正面に受けてリング上で仰向けに倒れ、ピクピクと痙攣していた。
- 母は1950年に渡米して以来、一度も帰国しておらず、母の肉親とは音信が途絶えていた。スティムボートは1984年2月の来日時に、東京スポーツと日本テレビに対して母の肉親捜しを依頼した。その際、「全日本プロレス中継」を見ていたスティムボートの叔父が、実況アナウンサーが叔父の名前を出した事でスティムボートの叔父であると気づき、スティムボートは叔父と全日本プロレス事務所で対面した。同年10月に母を帯同して来日。スティムボートの母と叔父は成田空港で34年ぶりの対面を果たした後、スティムボート自身も千葉県鎌ケ谷市にある叔父の家へ向かい、スティムボートの祖母と対面した[2]。
脚注[編集]
- ^ a b 『THE WRESTLER BEST 1000』P60(1996年、日本スポーツ出版社)
- ^ a b プロレス蔵出し写真館 坂本龍一さんで思い出されるリッキー・スティンボートの笑顔 東スポに母の肉親捜しを依頼東京スポーツ 2023年4月9日
- ^ a b “Ricky Steamboat: Bio”. WWE.com. 2020年6月29日閲覧。
- ^ “Sam Steamboat was a Hawaiian legend”. SLAM! Sports (May 4, 2006). 2013年7月12日閲覧。
- ^ a b “NWA World Tag Team Title [Mid-Atlantic]”. Wrestling-Titles.com. 2013年7月12日閲覧。
- ^ 『16文が行く (新装版) 』P153(1999年、ダイナミックセラーズ出版、ISBN 488493279X)
- ^ a b “Intercontinental Championship”. WWE.com. 2013年7月12日閲覧。
- ^ a b “NWA World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2013年7月12日閲覧。
- ^ ““Ravishing” Rick Rude once again demands the spotlight”. WWE.com (March 31, 2017). 2017年4月1日閲覧。
- ^ “NWA Hall of Fame”. Wrestling-Titles.com. 2022年5月4日閲覧。