アーメッド・ジョンソン

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アーメッド・ジョンソン
プロフィール
リングネーム アーメッド・ジョンソン
ビッグ・T
モアディブ
トニー・ノリス
本名 アンソニー・ノリス
ニックネーム ロール・モデル
身長 193cm
体重 138kg(全盛時)
誕生日 1963年6月6日(52歳)[1]
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
フロリダ州の旗 フロリダ州
レイク・アルフレッド[1]
スポーツ歴 アメリカンフットボール
トレーナー イワン・プトスキー
スコット・ケーシー
デビュー 1992年[2]
引退 2003年
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アーメッド・ジョンソンAhmed Johnson)のリングネームで知られるアンソニー・ノリスAnthony Norris1963年6月6日[1] - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーフロリダ州レイク・アルフレッド出身のアフリカ系アメリカ人ギミック上の出身地はミシシッピ州パール・リバー)[1]

1990年代半ばのWWFにおいて、後のボビー・ラシュリーにも通じるヘビー級の硬派な黒人ベビーフェイスとして活躍。黒人初のWWFインターコンチネンタル王者であり、一時はWWF世界ヘビー級王座戴冠も有力視された[3]

巨体ながら空中技も軽々とこなすなど優れた身体能力の持ち主だったが、怪我が相次ぎ、レスラーとして大成することはできなかった[1]

来歴[編集]

NFLダラス・カウボーイズを経て軍隊に入り、除隊後はサーカスのライオン使いなどの職に就いていた[2]テキサス州ヒューストンイワン・プトスキースクールでトレーニングを積み、1992年ダラスのインディー団体GWFにてデビュー[2]。当時はモアディブMoadib)なるリングネームを名乗り、スカンドル・アクバマネージャーイスラム系アフリカ人ギミックヒールとして活動した[4][5]1995年3月には大日本プロレスの旗揚げ興行にトニー・ノリスTony Norris)の名義で来日[6]。7月の再来日を経て、同年9月にWWFと契約。

WWFではベビーフェイスアーメッド・ジョンソンAhmed Johnson)に改名し、11月6日には提携団体であるメンフィスUSWAジェリー・ローラーから統一世界ヘビー級王座を奪取[7]。11月19日のサバイバー・シリーズではショーン・マイケルズのパートナーとなって活躍し、翌1996年上期はジェフ・ジャレットと抗争を展開した[8]

1996年6月23日のキング・オブ・ザ・リングゴールダストを破り、WWFインターコンチネンタル王座を獲得[9]。WWFの歴史上、黒人レスラーとしては初のシングル王座戴冠を果たした(周囲の風当たりは強く、車に差別的な言葉を落書きされたり、嫌がらせの手紙を送られたりしたこともあったという[2])。腎損傷のためにタイトルは返上することになったものの、その後もロール・モデルRole Model)をニックネームに、不良少年から更生したアスリートというキャラクターのもとトップ戦線で活躍。久々に登場したブラック・ヒーローの新星として日本でも注目を集め、黒人初のWWF世界ヘビー級王座奪取も期待された[3]

1997年ネーション・オブ・イスラムブラックパンサー党をモチーフとした、ファルーク率いる黒人至上主義軍団ネーション・オブ・ドミネーション(NOD)との抗争が勃発。融和を訴えるジョンソンvs暴力主義を唱えるファルークという「WWF版黒人思想闘争」が展開される。3月23日のレッスルマニア13ではリージョン・オブ・ドゥームをパートナーに、ファルーク、クラッシュサビオ・ベガとのシカゴ・ストリート・ファイトが行われた。一時は短期間ながらNODと行動を共にするも、すぐに離脱して抗争を継続、新メンバーのマーク・ヘンリーカマ・ムスタファ、ヒール修行時代の "ザ・ロック" ロッキー・メイビアらと激闘を繰り広げた[10]

1998年2月のRAWにおけるケイン戦を最後にWWFを脱退(離脱の原因は諸説あり[2])。その後しばらく近況が聞かれなかったが、1999年の末にWCWと契約。翌2000年1月にヒールのビッグ・TBig T)として登場し、当時ブッカー・Tと仲間割れしていたスティービー・レイハーレム・ヒート2000を結成する[11]。しかしながら、WWF時代の筋肉隆々とした肉体は長期間の欠場中に劣化しており、腹周りに贅肉がつきパワーもスピードも激減、かつてのブラック・ヒーローの面影はなかった[1]

同年3月にWCWを解雇されてからはセミリタイアとなり、2001年俳優としてテレビドラマ『M.C.ハマー ストーリー』にマリオン "シュグ" ナイト役で出演[12]2003年3月7日にはインディー団体のMXPWに登場、モンティ・ブラウンと組んでサブゥー&ギャングレルと対戦した[12]。その後は、旧友ブッカー・Tの主宰するPWAアカデミーにて、トレーナーとして後進の指導・育成にあたった[13]

得意技[編集]

獲得タイトル[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f Ahmed Johnson Clears the Air and Kills a Few Rumors”. Bleacher Report (August 5, 2013). 2015年2月8日閲覧。
  2. ^ a b c d e Ahmed Johnson: Found!”. SLAM! Sports (August 29, 2005). 2009年9月8日閲覧。
  3. ^ a b 『THE WRESTLER BEST 1000』P227(1996年、日本スポーツ出版社
  4. ^ The GWF matches fought by Ahmed Johnson in 1993”. Wrestlingdata.com. 2015年2月8日閲覧。
  5. ^ The GWF matches fought by Ahmed Johnson in 1994”. Wrestlingdata.com. 2015年2月8日閲覧。
  6. ^ The BJW matches fought by Ahmed Johnson in 1995”. Wrestlingdata.com. 2015年2月8日閲覧。
  7. ^ a b USWA Unified World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月7日閲覧。
  8. ^ WWE Yearly Results 1996”. The History of WWE. 2015年2月8日閲覧。
  9. ^ a b History of the WWE Intercontinental Championship”. WWE.com. 2010年4月7日閲覧。
  10. ^ WWE Yearly Results 1997”. The History of WWE. 2015年2月8日閲覧。
  11. ^ ハーレム・ヒートのハフマン兄弟(スティービー・レイ&ブッカー・T)はイワン・プトスキーのスクールの兄弟子にあたり、ダラスのGWFで共にキャリアを積んだ旧知の間柄でもある。なお、ハーレム・ヒート2000のマネージャーを担当したJ・ビッグスは、WWF時代の抗争相手NODのマネージャーだったクラレンス・メイソンと同一人物。
  12. ^ a b OWW Profile: Ahmed Johnson”. Obsessed with Wrestling. 2009年9月8日閲覧。
  13. ^ Cagematch Profile: Ahmed Johnson”. Cagematch Profile. 2010年5月1日閲覧。

外部リンク[編集]