ミルドレッド・バーク
ミルドレッド・バーク | |
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プロフィール | |
リングネーム | ミルドレッド・バーク |
本名 | ミルドレッド・ブリス |
身長 | 157 cm |
体重 | 63 kg |
誕生日 | 1915年8月5日 |
死亡日 | 1989年2月14日(73歳没) |
出身地 |
![]() カンザス州コフィービル |
トレーナー | ビリー・ウルフ |
デビュー | 1935年 |
引退 | 1956年 |
ミルドレッド・バーク(Mildred Burke、本名:ミルドレッド・ブリス(Mildred Bliss)、1915年8月5日 - 1989年2月14日)は、アメリカ合衆国の女子プロレスラー。
女子プロレス界の草分けであり、日本に本格的な女子プロレスを紹介した人物としても知られている。
来歴[編集]
19歳で後に夫となるビリー・ウルフとの出会いをきっかけにプロレスの世界に入る。その頃の北米では女子プロレスラーは非常に珍しかったため一般男性と対戦して連勝を続けていた。
1937年1月28日、テネシー州チャタヌーガでクララ・モーテンソンを降し世界王座を獲得。そのタイトルを管理する機関としてWWWAを設立し、自身を初代WWWA世界シングル王者としている。
1954年、アメリカ軍への慰問として蔵前国技館のリングに上がる。バークらが披露したプロレスは、それまでのガーター・マッチに代わり定着する女子プロレスの形式となった。
1956年、引退。
引退後はウルフと離婚し、ロサンゼルスで後進の指導に当たった。
1970年からは教え子を全日本女子プロレスに送り込み、2代目WWWA世界王座を獲得したマリー・バグノンが東京で京愛子と対戦。京がそれを奪取し、以降WWWAは全女の管理下に置かれることになった。
その後も北米における全女の窓口となり、ヒールレスラーとして大暴れするモンスター・リッパーを始め多くの外国人レスラーを育てて日本に送る一方、全女レスラーの遠征の世話も担った。
女子プロレス映画「カリフォルニア・ドールズ」では出演女優へのプロレス指導を行い、全女からミミ萩原とジャンボ堀をアメリカに招いて出演させた。
1989年2月21日、死去。2016年4月2日、WWE殿堂のレガシー部門に迎えられた[1]。
得意技[編集]
- アリゲータ・クラッチ
- クルック・ヘッドシザース
獲得タイトル[編集]
- 世界女子王座 : 3回
- NWA世界女子王座 : 1回
- WWWA世界シングル王座 : 1回
- プロレス殿堂
- WWE殿堂(レガシー部門)[1]
脚注[編集]
- ^ a b “Congratulations to the 2016 WWE Hall of Fame Legacy inductees”. WWE.com. 2016年4月3日閲覧。