全日本女子プロレス

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全日本女子プロレス興業株式会社
All Japan Women Pro-Wrestling
種類 株式会社
略称 全日本女子
全女
本社所在地 日本の旗 日本
東京都品川区小山4-4-9(解散時の事務所)
設立 1968年
業種 サービス業
事業内容 プロレス興行
関連企画の運営
代表者 代表取締役会長 松永高司
代表取締役社長 松永国松
関係する人物 万年東一
特記事項:2005年3月31日、解散。
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全日本女子プロレス(ぜんにほんじょしプロレス)は、かつて存在した日本女子プロレス団体。正式名称は全日本女子プロレス興業株式会社(ぜんにほんじょしプロレスこうぎょうかぶしきがいしゃ)。

目次

概要[編集]

1968年6月4日東京都品川区の品川公会堂で旗揚げ戦を開催。テレビ中継はフジテレビFIGHTING TV サムライで定期もしくは不定期放送されていた。2005年4月17日後楽園ホールの興行を最後に解散。

経営陣との対立から日本女子プロレスを退社した松永高司と松永と共に退団した選手達が設立。初代会長には大日本一誠会会長の万年東一が就任。設立当初は暴力団と関係があるとする中傷がなされて興行のための施設借用に困難をきたした。このため興行は野外リングを設営し旅回りをすることが多かった。この時に全日本女子を支援して、その身元を保証したのがデイリースポーツ。以降、1990年代まで全日本女子の主だった興行には「後援・デイリースポーツ」のクレジットがなされてフジテレビによる試合中継にもデイリースポーツ記者が解説者として派遣された。また全日本女子旗揚げ時にデイリースポーツ編集局長を務めていた植田信治は後の全日本女子のタイトル運営機関である全日本女子プロレスリング協会のコミッショナーに就任。

興行は大都市の大会場、地方の県立体育館や市民会館、スーパーの駐車場など様々な場所で行われて最盛期には年間200を超えて300を超える年もあるなど全プロレス団体でも最多だった。ジャパン女子プロレス旗揚げ以前は長らく国内唯一の女子プロレス団体だったため[1]興行ポスターは単に「女子プロレス」と表記しておりスタッフも電話口で「はい女子プロレスです」と応対していた[2]

歴史[編集]

体制[編集]

事務所[編集]

東京都目黒区下目黒にプロレス団体としては珍しく自社ビルを所有して2階に事務所が置かれていた。練習拠点となる道場及び選手寮も自社ビル内にあった。2004年まで使用していたビルは1985年7月に完成。完成以前は東京都目黒区内の4階建てのビルの1階に事務所が置かれたが選手寮はそのビルの屋上にバラックで建てらてたものであった[3]

自社ビル1階は車庫として使われていたが天井が高いこともあり沿道が歩行者天国となる日曜日に車庫内の車をすべて外に出して「ガレージマッチ」と呼ばれる興行を開催したこともある。

自社ビル内には自社で経営していた飲食店「目黒SUN族」(全日本女子解散後に旗揚げされた団体「CHICK FIGHTS SUN」とは無関係)が入居しており練習生や若手選手が試合の無い日に働いていたほかイベントも行われていたが閉店後はグッズショップ「Ring Star」(全日本女子のプログラム名と同一)となった。

自社ビルは1997年の経営破綻で債権者へ所有権が移転した後も賃貸料を支払いながら使用してきたが全日本女子解散前年の2004年に引き払い[4]、全日本女子解散時は品川区小山のビルの一角に事務所を構えていた。移転後の自社ビルは解体されて現在はコインパーキングとなっている[5]

松永家[編集]

全日本女子は松永家による同族会社だった。三男の松永高司を中心とする次男の松永健司、四男の松永国松、五男の松永俊国の4人で全日本女子を設立して運営していた(長男は経営に加わらず)。また高司と国松の間の長女の吉葉礼子と次女の山口洋子も所属選手だった。さらに松永正嗣ら兄弟の子息もスタッフに名を連ねていた。

松永兄弟には格闘技出身者が多く今で言う総合格闘技の原型に当たる柔拳興行(ボクシング柔道異種格闘技戦が売り物の格闘技興行)の経験者もいる。試合に出場した次男の健司は講道館を破門されている。そのことからしばしば全日本女子では異種格闘技戦が行われた。

初代会長の万年東一の時代は高司が社長となり万年の退任後は高司がその跡を継いで社長職は他の兄弟3人が持ち回りに近い形で就任していた(会社解散時は国松が社長だった)。洋子は1989年10月に膀胱がんにより50歳で俊国は2002年9月22日に心不全により57歳で国松は2005年8月17日に自殺により63歳で礼子は2008年9月18日に肺がんにより70歳で高司は2009年7月11日に間質性肺炎により73歳で、それぞれ亡くなっている。

同族経営が故、全日本女子プロレスリング協会コミッショナーだった植田信治は松永家と対立して全日本女子を離れた他にプロデュース責任者だった小川宏も退社後に松永家の同族経営を糾弾している[6]

来るものは拒まず[編集]

全日本女子の社是は「来るものは拒まず」であった。社是に現れているように全日本女子のスタッフになった人には事務所に直接足を運んだり会場に足を運んで会長の松永に直談判しかつ即決で採用に至ったスタッフが多かった他に[7]全日本女子プロレス中継の実況を担当していた志生野温夫やプロレスライターの須山浩継も1人で事務所を数時間留守番していたこともあった[8]

デビューへの道[編集]

一般にはプロレス団体が募集を掛けてプロテストを行い、その合格者がトレーニングを経てそのままデビューへ進むが全日本女子でデビューするにはオーディションとプロテストの2段階を踏む必要があった。

まずオーディションで候補者が篩いに掛けられて合格者してもその時点ではデビューが保障されるわけでなく、その後は候補生として入門した上で道場でトレーニングを積み一定期間後に行われるプロテストを通過することで初めてデビューへの道が開かれる。そのためオーディションを通過してもプロテストで受からず退団したり複数回受けて合格に至った者もいた。

オーディションはビューティ・ペアのブーム真っ只中の1977年に候補者が多数集まったため、この年に第1回を行い以来年1回実施していた。第1回合格者にはジャガー横田らがいる。クラッシュ・ギャルズの全盛期にあった1985年は応募総数が4,000人、オーディション参加者が2,000人にも上り[9]オーディションを通過してもプロテストで合格しなければならないため非常に狭き門だった。オーディションは主に事務所やテレビ放映局だったフジテレビにて実施されていた。

一方で中高生を対象とした練習生制度も確立させた。これは地方巡業で空いた道場を練習生に開放して様々なトレーニングを積ませるもので所定の選考は通過する必要があるものの基礎を身に付けることで選考で有利になるため多くの練習生がデビューを掴むようになった。

今日では多くの女子プロレス団体や元全日本女子所属選手の北斗晶が代表取締役を務める健介オフィスなどで、このシステムを採用している。

外国人選手[編集]

松永高司が日本女子プロレス協会よりNWAの名義人だったため全日本女子は当初、NWAのラインを利用して外国人選手を招聘。男子選手での日本プロレスや黎明期の全日本プロレスのように日本人選手対外国人選手を主軸としたマッチメイクを行っていた。

その後、WWWAの管理権を得るとWWWA会長のミルドレッド・バークを窓口として彼女の弟子を招聘する。国際プロレスの女子部崩壊後に弟子の1人であるファビュラス・ムーラが参戦してからはバークからムーラへと移りつつあった。

ムーラがWWFに参戦した後に全日本女子とWWFの間での相互参戦としてWWF所属選手が全日本女子に来日している。またWWFと業務提携を結んでいたUWAからルチャドーラも参戦。

地方興行[編集]

全日本女子は全国津々浦々を巡業するスタイルで体育館以外の特設リングや野外興行も多く年間250試合前後と言われた。2リーグ制を取っていた時期には両リーグ併せて305試合にも達した。これは男子選手とくらべてもかなり多い数である。所属選手の知名度のみならず緻密なスケジューリング地元とのパイプがなければ難しく既存の女子プロレス団体でこれを行えるのは全日本女子くらいしかいなかった。ハードな巡業は選手に雑草魂を植え付けるといわれていた。

全日本女子解散後は全日本女子から分化したネオ・レディースが引き継いだがNEOも2010年12月31日に解散して実質後継たるワールド女子プロレス・ディアナが継承するも結局は地方興行は大幅縮小された。一方で全日本女子の地方興行に関わったプロモーターの中にも自主興行を行う所が存在する。

三禁[編集]

煙草の3つを嗜んではいけないという掟。女子選手が煙草、酒をたしなむ様子は風俗嬢そのものであると考えた松永兄弟が禁止させたという。また所属選手には未成年も多いことも関係している。「男が出来ると股を開くのを嫌がるして怪我をすることを嫌がってファイトに精彩がなくなる」と公式に回答していた頃もある。ただし酒に関してはトップ女子選手に限り、ある程度までは黙認されていたらしい(当時、全日本プロレス阿修羅・原長与千種の同郷の先輩という縁で試合会場が近いときなどは女子選手を労うべく頻繁に飲み会を開いていたことを語り井上京子は、新人女子選手時代に先輩女子選手達の飲み会の席へ呼ばれ同席した事を全日本女子を退団した後にインタビューで答えている)。北斗晶新日本プロレス佐々木健介と結婚するに際して、この三禁の掟が焦点となったが会社に認められて北斗の結婚後の現役続行がOKになったというエピソードがある。

この三禁はGAEA JAPANでも採用して、そのGAEAからデビューした里村明衣子が代表取締役を務めるセンダイガールズプロレスリングでも入門3年間は三禁としている[10]。また2012年に設立された東京女子プロレスでも採用されることになった。現存する大半の女子プロレス団体では「競技に支障がない範囲」で解かれているが長らく定着していた慣習と言うこともあり愛川ゆず季のように会社の意向とは無関係に自らに三禁を課した女子選手は存在する[11]

25歳定年[編集]

かつては「25歳(ないしは在籍10年)に達した選手は引退する」という暗黙の了解があった。理由としては世代交代を潤滑に行うためと、もし引退しても25歳くらいなら結婚や他の仕事を探す等、新しい生活が出来るだろうというフロントの考えからである。年を取り人気の落ちた所属選手には会社から「ポスターの扱いが小さくなる」などと有形無形のプレッシャーが掛けられ引退への道を進むこととなった[12]

1993年にはエース格として全日本女子を牽引するブル中野が25歳に達したことから、その去就が注目されたが団体対抗戦の渦中だった状況もあり会社は現役続行を容認。この結果「25歳定年」は事実上はなくなった。なお全日本女子を25歳までに退いた選手のうち数名は、フリーで現役続行したり新団体を旗揚げするなどしたケースも見られてデビル雅美も25歳定年制により全日本女子を退団した後にフリーとしてジャパン女子プロレスに参戦していた。後にフリーとして復帰した長与千種も「結婚する」と嘘をついて引退したほどであった[12]

上下関係[編集]

「後輩女子選手は先輩女子選手の得意技を、その先輩女子選手が引退するまで使ってはいけない」という暗黙の了解があり、そのため所属選手は知恵を絞ってオリジナル技を開発して、それが各所属選手の個性になっていった。例外として1995年に行われた豊田真奈美(昭和62年組)対北斗晶(昭和60年組)戦で豊田が北斗のノーザンライトボムを2発喰らわせ勝利したケースがある。また引退する先輩女子選手が自分の後継者を指名するという意味合いもあって後輩女子選手に自分の得意技を譲るということがあった。

毎年のように入団する選手がいた昭和60年代以降は入団年によって昭和(平成)xx年組と分けて呼称されていたが入門希望者の減少等の要因によりそういった呼称はあまり見られなくなった。

ミゼットプロレス[編集]

全日本女子では多くの興行で前座としてミゼットプロレス(全日本女子では小人プロレスとも呼ばれた)を組み込んでおりミゼットレスラーも所属選手として抱えていた。

格闘技戦[編集]

1990年代中頃まで行われていた試合形式。格闘技戦と銘打っているがバーリトゥードではなく女子選手同士がグローブを着用し殴ったり蹴ったりするキックボクシング形式の試合である。後にキックボクシングやシュートボクシングの選手を招いて所属選手と対戦させている。松永兄弟がボクシングの経験者で、この形式を思いついたらしい。1976年には「世界三大格闘技戦」と銘打った興行が田園コロシアムで開催されて池下ユミ対ピンポン・ロカムヘンの異種格闘技戦やユカリ・レンチ対キム・メイビーのボクシング戦等が行われた。

一方で日本初の女子総合格闘家である高橋洋子は全日本女子で女子プロレスラーとして活動した後に全日本女子のリングで総合格闘技ルールを戦って総合格闘技への転向に成功。また全日本女子で格闘技戦を経験した伊藤薫も総合格闘技の試合に参戦しており全日本女子解散後に設立した伊藤薫プロレス教室は総合格闘技の道場も兼ねている。さらに2003年にはデビュー前の水嶋なつみと高橋裕美を総合格闘技戦に参戦させた。

新たなプロレス団体設立のサポート[編集]

プロレス団体が相次いで設立された1990年代前半には全日本女子が、これらのプロレス団体の設立を支援していた。例えば旗揚げ前のパンクラスには東京都目黒区の道場を練習の場として提供していた。ユニバーサル・プロレスリングW★INGプロモーションにはリングの貸し出しだけでなく所属選手を派遣して対戦カード編成を補助している。このことが、それまで女子プロレスを見たことの無かった男性ファンを全日本女子に呼び寄せてブームを巻き起こすきっかけになっている。

女子レスリング界との協力関係[編集]

女子レスリングについても全日本女子は日本レスリング協会と協力体制を採っていた。1980年代の旗揚げの際に女子レスリング普及に努めていた日本レスリング協会の福田富昭は全日本女子の承認を得た上でオーディションの不合格者を女子レスリングにスカウトして吉村祥子ら多くのトップ女子レスリング選手を育て上げた。一方で全日本女子もジャガー横田がコーチに就任して練習生をレスリングの練習に参加させたり合同練習やエキシビションマッチを組んで女子レスリング国内外公式戦に練習生や新人選手を派遣させるなどしていた。

さらに第1回「全日本女子レスリング選手権」は全日本女子とレスリング協会の合同興行として開かれた。これにより女子レスリングの知名度向上に一役買う一方、全日本女子から参戦した多くの所属選手もレスリング技術を身に付けて後のトップ女子選手に成長することができた。中でも豊田真奈美井上京子らは国内大会優勝を経験している。また斉藤和枝中見川志保のようにアマチュアで活躍した選手がプロ入り後も参戦を続けるケースや三田寺由香のように全日本女子の練習生として参加後はプロにならずアマチュアの実力者となるケースもあった。

1990年代に入っても東京ドーム大会にトップ女子レスリング選手の山本美憂や新人女子レスリング選手の浜口京子も参戦しており以降もレスリングルールのエキシビションを行った。一方で府川唯未らレスリング出身者も全日本女子に入門。1999年にも日本レスリング協会主催の「レスリングフェスティバル99」が開催されて第1部でレスリング全日本選手権(全女からは中西百重が参加)、第2部で女子プロレスが行われた。なお全日本女子解散後はプロアマ協調路線をエスオベーションが引き継いでいる。

テレビ放映[編集]

全日本女子が全国的人気を獲得できたのはフジテレビによる試合中継番組の影響力も大きい。1975年からの放映開始以来、全日本女子プロレス中継格闘女神ATHENAと引き継がれて2002年まで長きにわたって放映されてきた。さらに試合中継を放映するにとどまらず所属選手のテレビ番組出演やオリジナル楽曲発表などフジテレビの全面的バックアップで所属選手は全国的人気を獲得。これらの施策により「女子プロレスブーム」が幾度となく起こり全日本女子への入門希望者が激増するということも起こった。フジテレビによる中継終了後も解散までお台場のフジテレビ社屋で興行が行われるなど全日本女子とフジテレビの関係は維持されていた(後にリング横幕からはフジテレビの名前は外されて最末期のリング横幕スポンサーはAVメーカーであるソフト・オン・デマンドであった)。

フジテレビでの定期中継番組開始前は東京12チャンネルの番組「女子プロレス中継 世界選手権シリーズ」、NETテレビの番組「23時ショー」、日本テレビの番組「11PM」の中で不定期に中継していた時期もあった。

フジテレビにおける中継終了後はFIGHTING TV サムライが中継を引き継いだ。FIGHTING TV サムライでは全女CLASSICSと題した過去の名勝負を放送している。

芸能活動[編集]

所属選手は歌手や女優など芸能活動も積極的に行ったことで、これも人気獲得に一役買っている。それまでプロレスの試合中継と取材以外でメディアに登場することは男女とも団体の看板レスラーを除けば皆無に等しかったがマッハ文朱が元々歌手志願だったことから全日本女子の事務所内に芸能部を設置して文朱を筆頭に多くの所属選手に歌手デビューさせてレコードを発売するとともにビューティー・ペアなどは歌番組にも出演させてそれまで女子プロレスに興味を示さなかった一般層の獲得に成功している。

また所属選手のドラマや映画などへの出演も多く特に女子プロレスを題材としたものや中継局であったフジテレビの番組「オレたちひょうきん族」のコーナー「ひょうきんプロレスアワー」と「めちゃ×2イケてるッ!」のコーナー「格闘女神MECHA」は全日本女子が団体として全面協力していた(格闘女神MECHAは格闘女神ATHENA終了と同時に他団体協力へ変更)。

経営難となった要因[編集]

プロレス興業だけでなく松永家における浪費、飲食業経営、土地転がし、株の投資に手を出したことが経営を著しく悪化させた最大の要因である。ただし不動産事業に関しては外部から不動産業務のプロを招き入れたため、この事業のみ黒字で1番の原因は博打的な株の投資で大損害を負ったからとも言われている。

しかし実際は興行面で利益確保が難しくクラッシュ・ギャルズの全盛期は数十億円程度の収入があったが[12]地方興行は立見券(1,000円)や自由席券(末期は前売りで3,000円)での入場者がかなり目立ち指定席券に空席が多く見られた他に当日券は指定席券が1,000円割引、自由席券が半額となる優待券やネット割引クーポン(ネット割引クーポンは事務所の車庫で開催するガレージマッチ、後楽園ホール、一部試合会場では使用不可)で集客に努めていた。アジャ・コング北斗晶が在籍していた頃でさえ地方興行のほとんどが赤字遠征であった。2003年9月11日に開催した山口県小野田市の小野田市民館体育ホール大会ではプロモーターによるチケット代金持ち逃げが原因で前払いから後払いに急遽変更した試合会場使用料を滞納したため施設を管理する小野田市から告訴されている(後に全日本女子と小野田市の間で和解)[13]

それゆえに1996年秋ごろからプロレス興業以外における巨額の借金の返済に追われていたことにより選手とスタッフに対しての給料の未払いや遅配が発生して所属選手はサーキットや練習に追われていたためアルバイトも出来ず最終的にはサーキット中に無償で食事などを提供するプロモーターを頼らざろう得なかった。下田美馬は貯金は底を尽き給料袋には千円札一枚の時もあった事を明かしている他にある中堅選手も年間300万円の給料の未払いがあり水嶋なつみも給料未払いを理由に全日本女子を退団している。1997年日本武道館大会直後には選手全員が事務所前で給料の支払いを求めてストライキを敢行している。経営改善策として1997年初めから選手を交代で間引く公休制を試験導入したもののファンやプロモーターから反発があったため公休制はすぐに頓挫している。さらにスタッフには全日本女子の運転資金にするため消費者金融から50万円を借りるよう促された他に(返済は当然、スタッフが行った)リングアナウンサーの今井良晴のようにアルバイトを掛け持ちしたスタッフもいたという。経営破綻と同時に所有権が移動した自社ビルに関しても経営破綻前から売却を検討していたという[6][14]。事務所移転前後には全盛期のような20戦前後かつ全国を回るサーキットは殆ど組めず関東地方中心でかつ10戦前後のサーキットとなっていた。

結局、飲食産業部門の売上げでプロレス興行の赤字分を補填して倒産するまでの5年以上前から自転車操業状態だった。

解散後[編集]

最終興行でも正式な「解散宣言」はなく、その後、渉外担当の松永正嗣(松永俊国の子息)が中心となって新たな興行主を探して全日本女子の継続を模索していたが多額の負債がネックとなり断念。譲渡先には最終興行をプロモートしたファースト・オン・ステージも挙がっていた。なお最終興行となった後楽園ホール大会後もかなくぼ総合体育館大会が4月27日に予定されていた。

2005年8月17日に全日本女子最後の社長だった松永国松が東京都品川区内のビルで飛び降り自殺をしていたことが判明。女子プロレス関係者に衝撃を与える最悪の事態となった。松永高司は全日本女子解散後に東京都千代田区神田で飲食店を経営して柴田恵陽との共著で2008年に著書「女子プロレス終わらない夢―全日本女子プロレス元会長松永高司」を出版。2009年7月11日に帰らぬ人となった。

全日本女子解散後も多額の負債を返済できず全日本女子の借金の保証人となっていた悪徳レフェリーの阿部四郎は松永家に対する売掛金の回収難も相まって2008年に自宅を差し押さえられている。

全日本女子解散時の所属選手7人はフリーとして選手活動を継続。そのうち高橋奈苗Hikaru前村早紀の3人でユニット「ドリームキャッチャー」を結成して自主興行を開催。2005年9月に業務停止となったメジャー女子プロレスAtoZの選手とともにKOプロダクションと契約するも2006年2月に解消。その後、2004年まで全日本女子に所属して我闘姑娘に移籍していた夏樹☆ヘッドも合流して10月1日よりファースト・オン・ステージの下でプロレスリングSUNを設立したが高橋は後に退団してHikaruと前村もSUN解散と同時に引退。フリーとして活動を継続していた前川久美子は2006年に藤井巳幸は2009年にそれぞれ引退。ミゼットレスラーJWP女子プロレスNEO女子プロレス、AtoZなどを転戦して現在は単発興行に参戦している。

全日本女子が管理していた王座は解散と同時に封印されたがWWWA世界シングル王座のみ前川久美子が高橋とのタイトルマッチを希望していたため管理権を引き継ぐ形で引き続き保持していた(前川は最終興行でWWWA世界シングル王座防衛戦を行って引退する予定だったが高橋が怪我で離脱していたため先延ばしに)。そして全日本女子解散から約1年が経過しようとした2006年3月26日に後楽園ホール大会での自身にとって最初で最後の自主興行(主催は当時、アパッチプロレス軍の親会社だったキャッシュボックス)で最後のタイトルマッチが行われて勝利した高橋が最後のWWWA世界シングル王者となり元会長の松永高司にWWWA世界シングル王座を返還して封印された。この引退興行は全日本女子最終興行同様に全日本女子OGを集めてスタッフも元全日本女子で構成されるなど事実上の全日本女子最終興行とも言える興行となった。

2006年7月には旧全日本女子のプロモーターの1つの田島企画によるニュー全日本女子プロレスが設立されて不定期で興行を開催している。当初、松永高司は「ニュー全女は全女と一切関係がない」の見解を示していたが後に田島企画は松永家から許可をもらい「全日本女子プロレス」の名称を復活させた。ただし所属選手を持たないプロモーションであり参戦選手もJWPを中心に旧全日本女子所属歴のない選手が多い。

また2006年にお台場で開催された「レッスルエキスポ2006」の女子プロレスでは「女子プロレスがお台場に帰ってきた」と題して行われた。

全日本女子解散まで後援に当たっていたデイリースポーツは、その後、全日本女子に代わり現存する最古の女子プロレス団体となったJWPの主要大会の後援として女子プロレスに関わり続けている。また2011年には全日本女子で行われていた「タッグリーグ・ザ・ベスト」と同名の大会がJWPで復活している。

DVD[編集]

全日本女子解散後の全日本女子の映像版権は力道山OB会に譲渡されてネット配信などに利用されているが2009年から2010年まで「全日本女子プロレス・メモリアルDVDシリーズ」と題してエースデュースより順次発売された。

2009年6月24日に第1弾として1993年4月2日横浜アリーナ大会が収録されたDVDが発売されて2009年内発売分は1990年代のいわゆる「対抗戦ブーム」に行われたビッグイベントがそれぞれBOXとして収録されている。2010年にはそれぞれ単品として発売。

一方、JWP女子プロレスとの対抗戦を収録したDVDはクエストのJWP激闘史シリーズより「JWP激闘史〜団体対抗戦 vs 全女編〜」として発売されている。

2011年にはベースボール・マガジン社より「週刊プロレスDVD増刊 超戦士伝説1」と題した1990年代初頭(メモリアルDVDシリーズより以前)を収録したDVDが発売される。

タイトル[編集]

WWWA[編集]

WWWAはWorld Women's Wrestling Association(世界女子レスリング協会)の略。

通称「赤いベルト」。全日本女子最強の象徴と称されて歴史の中での数々の名勝負が行われた。
通称「白いベルト」。
100代以上を数える伝統ある王座。選手権試合は度々3本勝負で行われる。
最軽量級を対象とした王座だが長らく保持したチャパリータASARIの代名詞的な扱いを受けた。同王座の発案者は小川宏で「煙草の「スーパーライト」(という銘柄)を見て思いつきました」と当時、小川は語っている。
格闘技王座と銘打たれているがルールはキックボクシングに近いため全日本女子内のみならずキックボクシングやシュートボクシングの選手も挑戦している。
  • WWWA世界ミゼット王座(男子王座)
  • WWWA世界ミゼットタッグ王座(男子王座)

全日本女子プロレスリング協会[編集]

全日本女子が認定する王座。創設当初の挑戦資格は全日本女子所属選手に限られていたが多団体化により全日本女子所属選手以外の日本の団体に所属する選手にも開放。

全日本女子の黎明期には重量級、中量級、軽量級の3階級に分けて実施していたがWWWA王座定着とともに自然消滅。1980年に無差別級王座として復活。
創設当初は20歳以下を対象にした王座だったが新人選手の高齢化によりキャリア2年目以下の選手を対象に改められる。
その年にデビューした新人選手によって行われる。新人選手が少ない年はキャリア2年目の選手が参加する場合もある。新人王となった選手にはメダルとトロフィーが授与される。

AGWA[編集]

全日本女子の黎明期の王座でAmerican Girls Wrestling Association(全米女子レスリング協会)の頭文字からAGWAと呼ばれる。後にWWWAに吸収される。

UWA[編集]

メキシコUWAが認定していた王座。

ユニバーサル・プロレスリングが管理、運営を任された王座だが所属女子選手が前田薫のみだったため全日本女子でタイトルマッチが行われていた。

IWA[編集]

カナダスタンピード・レスリングが認定していた王座。

通称「紫のベルト」。

リーグ戦[編集]

シングルリーグ戦だが年毎に対戦形式が異なっていた。
タッグリーグ戦。最終年(2004年)のみトーナメント戦だった。2011年からはJWP女子プロレスで同名の大会が復活。
  • GRAND NORTH
1995年から3度行われた6人タッグリーグ戦。

その他[編集]

全日本女子はNWA加盟団体だったためNWA公認のNWA世界女子王座とNWA世界女子タッグ王座に挑戦していた。しかし全日本女子所属選手からNWA世界女子王座を獲得した選手は現れなかった。なお巴ゆき子日本女子プロレス協会所属選手時代にNWA世界女子王座を獲得している。世界女子王座以外ではジャガー横田&奥村ひとみ組がNWAインターナショナルガールズタッグ王座を獲得している。

所属選手[編集]

全日本女子でのデビュー年別。

昭和29年(1954年)[編集]

  • 奄美百合子
1968年に全日本女子旗揚げ時に日本女子プロレス協会から移籍。引退後は松永兄弟の長男と結婚。2003年に死去。
  • 本堂活子
1968年に全日本女子旗揚げ時に日本女子から移籍。

昭和30年(1955年)[編集]

1968年に全日本女子旗揚げ時に日本女子プロレス協会から移籍。1970年に引退。引退後は全日本女子でレフェリー兼コーチを務めていた。1979年に東京都品川区小山にある武蔵小山駅近くでスナック「ラセーヌ」を経営している。
1968年に全日本女子旗揚げ時に日本女子から移籍。1977年に引退。引退後は全日本女子で柳下勝江の名義でレフェリーを務めていた。2002年に死去。
  • 山口洋子
松永兄弟の次女。1968年に全日本女子旗揚げ時に日本女子から移籍。1992年に死去。
松永兄弟の長女。1960年に日本女子で引退したが1968年に旗揚げした全日本女子に入団して短期間ながら復帰した後に引退。引退後は全日本女子でマネージャーを務めていた。2008年に死去。

昭和31年(1956年)[編集]

  • 遠藤恵子
1968年に全日本女子旗揚げ時に日本女子プロレス協会から移籍。引退後は会長の松永高司と結婚。

昭和40年(1965年)[編集]

  • 岡田京子
1968年に全日本女子旗揚げ時に日本女子プロレス協会から移籍。
1968年に全日本女子旗揚げ時に日本女子から移籍。1972年に引退。

昭和41年(1966年)[編集]

1968年に全日本女子旗揚げ時に日本女子プロレス協会から移籍。1976年に引退。
  • 赤木まり子(初代)(望月しのぶ)
1986年に全日本女子旗揚げ時に日本女子から移籍。晩年は加瀬谷東子の2代目襲名によりリングネームを望月しのぶに改名。引退後は社長の松永国松と結婚。

昭和43年(1968年)[編集]

  • 浜名マリ

昭和44年(1969年)[編集]

1973年に引退。娘は元FMW中山香里
1974年にリングネームをミスZに改名。1976年に引退。
  • 嵐和子
  • ミス・ジャイアント

昭和45年(1970年)[編集]

1979年に引退。引退後は東京都品川区スナック「Pub Snack マリ子の店」を経営していたが2009年に閉店。
  • マキシ村田
  • ペギー黒田

昭和46年(1971年)[編集]

  • 佐々木順子

昭和48年(1973年)[編集]

池下ユミとタッグチーム「ブラック・ペア(初代)」を結成して活動していた。1978年に引退。1979年に旗揚げが予定されていたワールド女子プロレスに入団して復帰する予定だったが旗揚げ前に消滅して同年に仕切り直しとして旗揚げしたニューワールド女子プロレスに入団して復帰。1979年に引退。1987年にジャパン女子プロレス覆面レスラー「ザ・スナイパー」として入団して復帰。1987年に引退。
  • 宮下淑子

昭和49年(1974年)[編集]

アイドルレスラーの草分け的存在。端整な顔立ちや強い印象があった為に女性ファンのほうが多かった。1976年に引退。
  • オスカル一条
将来を嘱望されていたが道場での練習中に死去。

昭和50年(1975年)[編集]

ジャッキー佐藤とタッグチームビューティ・ペア」を結成して活動していた。1979年に引退。1988年に「スナック マキ」経営していたが後に閉店。
マキ上田とタッグチーム「ビューティ・ペア」を結成して活動していた。1979年に引退。1986年にジャパン女子プロレスに入団して復帰。1988年に引退。引退後は体操教室「ジャムナ」を経営していた。1999年に死去。
阿蘇しのぶとタッグチーム「ブラック・ペア(初代)」、漆原幸恵(ルーシー加山)とタッグチーム「ブラック・ペア(2代目)」、マミ熊野とタッグチーム「ブラック・ペア(3代目)」を結成して活動していた。1981年に結婚したことにより引退。
  • ユカリ・レンチ
アメリカ人のハーフ。14歳でデビュー。
  • 日野ミエ子

昭和51年(1976年)[編集]

ビクトリア富士美とタッグチーム「ゴールデン・ベア」を結成して活動していた。1983年に引退。1986年にジャパン女子プロレスに入団して復帰。1987年に引退。1993年に清心館に入門して清心館空手道総本部付指導員として活動している。
ナンシー久美とタッグチーム「ゴールデン・ペア」を結成して活動していた。1980年に引退。
  • シルバーサタン(鋤崎真澄)
デビューした後に覆面レスラー「シルバーサタン」として活動していた。正体はビクトリア富士美の姉。
2002年に死去。

昭和52年(1977年)[編集]

塙せい子とタッグチーム「ヤング・ペア」を結成して活動していた。1986年に引退。引退後は全日本女子でコーチを務めていた。1995年に吉本女子プロレスJd'に選手兼コーチとして入団して復帰。1998年に引退。2011年にワールド女子プロレス・ディアナに入団して復帰。
池下ユミとタッグチーム「ブラック・ペア(3代目)」、天神マサミ(デビル雅美)とタッグチーム「ブラック・ペア(4代目)」を結成して活動していた。1981年に引退。
アスリートレスラーの草分け的存在。ルーシー加山とタッグチーム「クイーン・エンジェルス」を結成して活動していた。1980年に引退。2011年に死去。
池下ユミとタッグチーム「ブラック・ペア(2代目)」、トミー青山とタッグチーム「クイーン・エンジェルス」を結成して活動していた。1981年に引退。
  • 塙せい子
横田利美(ジャガー横田)とタッグチーム「ヤング・ペア」を結成して活動していた。
  • 小宮山忠子
  • 玉岡光恵
  • 高橋真由美

昭和53年(1978年)[編集]

デビュー前はアイドル歌手として活動していた。1987年に入団してデビュー。可愛らしいルックスだったので元祖アイドルレスラーとも言える。チノ・サトー(佐藤ちの)とタッグチーム「ラブリー・ペア」を結成して活動していた。1981年に引退。引退後は芸能界に復帰したが後に新興宗教の教祖となった。現在は広島県で歌手として活動している。
マミ熊野とタッグチーム「ブラック・ペア(4代目)」を結成して活動していた。1987年に退団。2008年に引退。現在は故郷の福岡県北九州市に戻りミュージシャンとして活動している。
大森ゆかりとタッグチーム「ダイナマイト・ギャルズ」を結成して活動していた。1985年に引退。2005年にLLPWでフリーとして復帰。
ミミ萩原とタッグチーム「ラブリー・ペア」を結成して活動していた。1981年に引退。引退後は全日本女子プロレス中継の解説を務めていた。1984年に女優として日活ロマンポルノに出演していた。
  • 小峯広子
  • 平田二三代

昭和54年(1979年)[編集]

  • 岩井和子
  • 高橋三奈
  • 川上法子

昭和55年(1980年)[編集]

ライオネス飛鳥とタッグチームクラッシュ・ギャルズ」を結成して活動していた。1989年に引退。1993年にJWP女子プロレスでフリーとして復帰。1995年にGAEA JAPANを設立して旗揚げ戦で復帰。2005年に引退。2014年にMarvelousを設立。
長与千種とタッグチーム「クラッシュ・ギャルズ」を結成して活動していた。1989年に引退。1994年に全日本女子で開催した「憧夢超女大戦」で復帰。2005年に引退。
1988年に引退。2003年に全日本女子で復帰。
ジャンボ堀とタッグチーム「ダイナマイト・ギャルズ」を結成して活動していた。1988年に引退。
1989年に引退。引退後は本庄ゆかりの名義でレフェリーを務めていた。2015年にCOMBOでフリーとして復帰。
1984年に引退。
  • 高階由利子
  • 坂本和恵
  • 奥村ひとみ
  • 師玉美代子
  • 新国純子
  • 長谷部エミ
  • 萩原真理子

昭和56年(1981年)[編集]

山崎五紀とタッグチームジャンピング・ボム・エンジェルス」を結成して活動していた。1991年に引退。1992年にLLPWに入団して復帰。2010年に引退。
ロープ際の魔術師とも言われて長い黒髪をなびかせた空中殺法を披露していた。立野記代とタッグチーム「ジャンピング・ボム・エンジェルス」を結成して活動していた。1991年に結婚したことにより引退。現在はアメリカニューヨーク日本食レストランを夫とともに経営している。
  • 浅見美樹

昭和57年(1982年)[編集]

  • 小松原浩美
  • 小菅奈津子

昭和58年(1983年)[編集]

タッグチームクラッシュ・ギャルズ」引退後の全日本女子を支えて「女帝」と称された。公式の引退声明は出ていなかったがアメリカフロリダ州オーランドに渡米して女子プロゴルファーを目指していた。50キロも体重を落とすことに成功して1998年にダイエット本を出版。帰国後に結婚してバー「中野のぶるちゃん」を経営している。2012年に引退。
永堀一恵とタッグチーム「レッド・タイフーンズ」、小松美加とタッグチーム「カルガリー・タイフーンズ」を結成して活動していた。を結成して活動していた。1990年に引退。1991年に覆面レスラー「ハイパー・キャット」として復帰。1992年に引退。
小倉由美とタッグチーム「カルガリー・タイフーンズ」を結成して活動していた。1989年に引退。
1987年に引退。引退後は吉本女子プロレスJd'のマネージャーを務めていた。
1983年に引退。引退後はレフェリーに転向。現在はフリーのレフェリー「Tommy」として活動している。
現在も不定期ながらミゼットプロレスの試合を行っている。
  • 角掛留造(角掛仁)(ミゼットレスラー)

昭和59年(1984年)[編集]

1988年に引退。2010年にイラスト・デザイン会社「プリンテックランド」を設立して代表取締役に就任。現在はイラストレーターとして活動している。
小倉由美とタッグチーム「レッド・タイフーンズ」を結成して活動していた。1988年に引退。
  • 加藤悦子
  • 田村久美子
  • 川田ルリ子

昭和60年(1985年)[編集]

みなみ鈴香とタッグチーム「マリン・ウルフ」を結成。試合中に首の骨を折り長期欠場するも復活して「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになる団体対抗戦ではLLPWの神取忍と血みどろの抗争を繰り広げた。新日本プロレス北朝鮮で開催した「平和のための平壌国際体育・文化祝典」に女子プロレス代表として参戦したことが出会いとなってプロレスラー佐々木健介と結婚して後に子供を出産してママレスラーとして活動していた。2002年に引退。引退後はマイクアピールの巧さを活かして夫の活動のサポートを行う傍ら、その恐妻ぶりから「鬼嫁」と呼ばれて夫婦タレントとしても活動している。2005年に個人事務所「健介オフィス」を設立して代表取締役に就任。2012年にプロレス団体「ダイヤモンド・リング」を設立。
北斗晶とタッグチーム「マリン・ウルフ」を結成して活動していた。1995年に引退。
西脇充子とタッグチーム「ファイヤー・ジェッツ」を結成して活動していた。2003年に退団して同年に設立されたメジャー女子プロレスAtoZに移籍。2011年にREINA女子プロレスに入団。2012年にワールド女子プロレス・ディアナに入団。
堀田祐美子とタッグチーム「ファイヤー・ジェッツ」を結成して活動していた。1990年に引退。引退後は大相撲力士魁皇(現:浅香山親方)と結婚。
バイソン木村とタッグチーム「アウト・サイダース」を結成して活動していた。1990年に引退。2004年キャットファイトで復帰。
1987年に引退。
1987年に引退。
1989年に引退。引退後は地元岡山県倉敷市ゴルフ場でキャディをしている。
吉葉礼子の長女。ダンプ松本の影武者として登場。1988年に引退。引退後は全日本女子でリングアナウンサーを務めていた。現在は井上貴子のマネージャーを務める傍らフードバー「めしくぃ亭」を経営している。
1987年に引退。
1986年に廃業。
1986年に廃業。

昭和61年(1986年)[編集]

アメージング・コングとタッグチーム「ダブル・コング」を結成して活動していた。1997年に退団。1998年にフリーとしてアルシオンのファイティングプロデューサーに就任。2006年にOZアカデミー女子プロレスに入団。
ソバージュヘアーを振り乱してのケサ斬りチョップでファンの人気も高かった。グリズリー岩本とタッグチーム「アウト・サイダース」を結成して活動していた。1992年に引退。1994年に全日本女子で開催した「憧夢超女大戦」で復帰。1996年に吉本女子プロレスJd'に入団。1997年に引退。
1992年に退団。1996年に覆面レスラー「Cooga」としてJd'に入団。1999年に引退。引退後は元十両力士若隼人と結婚。
高橋美華(高橋美香)とタッグチーム「ハニー・ウイングス」を結成して活動していた。1991年にユニバーサル・プロレスリングに移籍してリングネームを覆面レスラー「インフェルナルKAORU」に改名。1994年にGAEA JAPANに入団してリングネームをKAORUに改名。2015年にMarvelousに入団。
1988年に引退。1990年にFMWの試合に豊田記代、天野麗文と共に乱入という形で復帰。大仁田厚と並んでFMWを支える存在となり「邪道姫」の尊称と共にデスマッチも行っている。1997年に引退。1998年にプロレスラーBADBOY非道と結婚。
1988年に引退。1990年にFMWの試合に工藤めぐみ、天野麗文と共に乱入という形で復帰してリングネームをコンバット豊田に改名。1996年に引退。
前田薫とタッグチーム「ハニー・ウイングス」を結成して活動していた。1991年に引退。
1988年に引退。1990年にFMWの試合に工藤めぐみ、豊田記代と共に乱入という形で復帰。1990年に引退。
  • 平田八千代
  • ダーレン大橋
欧米系のハーフ。引退後は松永俊国が経営する店でマネージャーを務めている。

昭和62年(1987年)[編集]

柔軟な体と跳躍力を誇り「ゾンビ」とまで呼ばれるしぶとさを持つ。その華麗さとしなやかさから最も女子プロレスラーらしい試合をするともいわれる。増刊少年サンデーにて豊田真奈美を主人公とする漫画「燃える!!女子プロレス」(著:島本和彦)が連載されていた。山田敏代とタッグチーム「ドリーム・オルカ」、三田英津子とタッグチーム「ミント・シャワーズ」、下田美馬とタッグチーム「スイート・ハーツ」を結成して活動していた。2002年に退団。現在はフリーとして活動している。
頸椎ヘルニアで長期欠場となり医者からは引退を宣告されるが諦めずにリハビリに励み復帰したことから「不死鳥」と呼ばれていた。豊田真奈美とタッグチーム「ドリーム・オルカ」を結成して活動していた。1997年にGAEA JAPANに移籍。2004年に引退。
豊田真奈美とタッグチーム「ミント・シャワーズ」を結成して活動していた。1997年に退団。2005年にネオ・レディースに入団。2009年に引退。
豊田真奈美とタッグチーム「スイート・ハーツ」を結成して活動していた。2003年に引退。引退後はメジャー女子プロレスAtoZのエージェントマネージャーに就任。2005年に堀田祐美子に挑発されてフリーとして復帰。2006年にCMLLに入団。
  • 長谷川弘美
  • 中村幸子
  • 市川千秋

昭和63年(1988年)[編集]

井上貴子とタッグチームW井上」を結成して活動していた。1997年に退団してネオ・レディースを設立。2011年にワールド女子プロレス・ディアナを設立。
デビュー前はレスリングを学びつつモデルもしていたというアイドルレスラー。良くとおる声でマイクアピールも得意。井上京子とタッグチーム「W井上」を結成して活動していた。1999年に退団。2005年にLLPWに入団。
1997年に退団してアルシオンに入団。2005年にエスオベーションと契約。2008年に選手活動を無期限休業して体幹チューニングのインストラクターとして活動していた。2011年にワールド女子プロレス・ディアナでフリーとして復帰。
1988に引退。1990年にジャパン女子プロレスに練習生として入団するがデビュー前に同団体が解散。後にJWP女子プロレスに練習生として入団して1992年にデビュー。1995年にリングネームを、さぶろうに改名。1996年に引退。

平成元年(1989年)[編集]

1994年に東京ドーム漫画ブリザードYuki」とのタイアップ企画で覆面レスラー「ブリザードYuki」としてデビュー。1996年に引退。1998年にアルシオンの広報として入社。1999年にプロレスリングZERO1-MAXリングアナウンサーのオッキー沖田と結婚するが2008年に離婚。
軽快に技を決める姿とボーイッシュなルックスから「ピーターパン」と呼ばれていた。1998年以降は時々覆面レスラー「ZAP・I」として活動していた。2003年に退団した直後にダリアンガールズのコーチ就任。2005年に女子プロレスラー養成所「伊藤薫プロレス教室」を開校して道場長を務めていた。2011年にワールド女子プロレス・ディアナに入団。
素顔ではコミカルなファイトも見せる正統派女子選手とヒール覆面レスラー「ZAP・T」でキャラクターを使い分けて活動していた。2006年に引退。引退後は伊藤薫プロレス教室の特別講師に就任。2011年にディアナで復帰。2015年にMarvelousに入団。
空手出身でリングネームはローキックで木製バットを蹴り折った所から名付けられた。1991年に引退。1993年に格闘家として復帰。1994年に引退。
1998年に引退。
1992年に引退。
1990年に引退。
1992年に引退。
  • 鈴木敦子

平成2年(1990年)[編集]

1993年にリングネームを土木作業員をモチーフにしたキャラクターレスラー「ぬまっち」に改名。1994年に引退。
空手をバックボーンにバット吉永の格闘技戦の対戦者として参戦して敗戦後に全日本女子に入団。1992年に引退。
  • 李由紀
退団した後に吉本女子プロレスJd'に入団するが団体内での自分の扱いに不満を持ち退団。1999年に引退。
1999年に結婚したことにより引退。2005年にRINGを設立。2008年にリングネームを椿志保に改名してKAIENTAI DOJOでフリーとして復帰。2012年にプロレスリングfiveを設立。2016年に引退。
  • パンティップ・ソンティタム
妹のピラスィニーと共にタイからの留学生。
  • ピラスィニー・ソンティタム
姉のパンティップと共にタイからの留学生。

平成3年(1991年)[編集]

2006年に引退。
お嬢様キャラで注目を浴びる。2001年に引退。2005年にプロレスラータイガースマスクと結婚。
1993年に引退するものの同年に復帰。1997年に退団してリングネームを玉田凛映に改名。2004年に引退。
1992年に引退。1993年にLLPWに入団して復帰。1998年にアルシオンに移籍。2004年にM's Styleを設立。2007年に結婚したことにより引退。
  • 小泉恵美
  • 寺川真由美
  • 熊沢菜緒子
引退した後に小泉恵美と共にFMWで復帰するがすぐに退団。
アメリカからの留学生。1993年にフェードアウト。

平成4年(1992年)[編集]

小柄ながら体操経験がありデビュー前からオリジナルの空中技「スカイツイスタープレス」を準備していた変わり種。ちなみにリングネームの「ASARI」の由来は全日本女子に入団して自己紹介した際に本名の「真美」が先輩レスラー達に「アサリ」と聞こえて、それがあだ名となったため。1997年に退団してネオ・レディースに入団。2003年に引退。2006年に俳優中尾一貴と結婚。
1997年に退団してネオに入団。2006年に引退。
1993年にJWP女子プロレスに移籍。1996年に引退。
  • 碇美穂
  • 阿部晃子

平成5年(1993年)[編集]

小柄ながらも可愛らしいルックスからアイドルレスラーとして注目された。1997年に退団してアルシオンに入団してリングネームを府川唯未に改名。2001年に引退。2002年にプロレスラー田中稔と結婚。
  • 横江実姫

平成6年(1994年)[編集]

1997年に退団してネオ・レディースに入団。2010年に引退。
日本テレビの番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の女子プロレス予備校出身。この企画の出身者の中で唯一全女の新人オーディションに合格。1997年に退団してネオに入団。2008年に引退。現在は居酒屋「ねばーぎぶあっぷ。」を経営している。
谷山美奈としてデビューした後にリングネームをネズミをモチーフにしたコミカルなキャラクターレスラー「タニー・マウス」に改名して活動していた。1997年に退団してネオに入団。2010年に引退。
ヘルニアのため退団。1995年に吉本女子プロレスJd'にレフェリーとして入団。1996年に日本初の女子総合格闘家として総合格闘技に転向。
1997年に退団してネオに入団。一時リングネームをサヤ・エンドーに改名していた。2001年に引退。
1996年に退団してJd'に覆面レスラー「ザ・ブラディー・フェニックス」として入団。1997年にマスクを脱ぎリングネームをザ・ブラディーに改名。2005年に引退。
  • 藤本由美
引退後は植木職人を経て現在は元気美佐恵の経営する居酒屋「ねばーぎぶあっぷ。」に勤務している。
  • 金山薫
  • 宮本恵美

平成7年(1995年)[編集]

ルックスの良さから将来のアイドルレスラーとして期待されてテレビ朝日の番組「リングの魂」の企画でリングネームを水無月えりさに改名する予定だったが1996年に最上眞里と共に脱走して1997年に再入団して復帰。脇澤美穂とのタッグチーム「ミホカヨ」を結成して活動していた。2004年に引退。2007年にダンスユニットPaniCrew」のメンバーの堀内和整と結婚。
1996年に納見佳容と共に脱走した後に引退。
  • 高松和代
  • 藤村奈々(練習生)
デビュー前に退団して吉本女子プロレスJd'に練習生として入団してデビュー。後に大日本プロレスに入団。
  • 池田陽子(練習生)
デビュー前に退団してFMWに練習生として入団してデビュー。

平成8年(1996年)[編集]

高橋奈苗とタッグチーム「ナナモモ」を結成して活動していた。2003年に退団。2004年に元キックボクサー大江慎と結婚。2005年に引退。現在はU.W.F.スネークピットジャパン体操クラスコーチを務めている。
中西百重とタッグチーム「ナナモモ」を結成して活動していた。2006年にプロレスリングSUNを設立。2010年にスターダムの選手兼プレイングマネージャーとして入団。2015年にリングネームを高橋奈七永に改名してSEAdLINNNGを設立して代表取締役に就任。
納見佳容とタッグチーム「ミホカヨ」を結成して活動していた。2001年に引退。2008年に芸人の吉川崇と、お笑いコンビ「吉川☆ミホカヨ」を結成してM-1グランプリに出場。2008年に復帰。2011年にスターダムに入団。2014年に引退。
2003年にリングネームをサソリに改名。2009年に引退。
  • 関口瑠美
退団後はネオ・レディースの練習生として入団するが後に退団。退団後はスマックガールに参戦するがすぐにフェードアウト。
  • 高橋麻由美
デビュー前に退団するが後に女子プロレスに対する情熱が忘れなかったため再入団してデビュー。体調不良のため、それ程試合数も多くないまま多くのファンに惜しまれつつひっそりと引退。
  • 川本八千代

平成9年(1997年)[編集]

  • ZAP中原(中原奈々)
デビュー当初より覆面レスラーとして活動していた。
  • 豊田紀子

平成10年(1998年)[編集]

デビュー当初より覆面レスラーとして活動していた。現在はフリーの覆面レスラー「救世忍者乱丸」として活動している。
1998年に退団。現在は女子総合格闘家「HARI」として活動している。

平成11年(1999年)[編集]

2005年に退団。2006年にプロレスリングSUNを設立。2008年に引退。2009年にプロレスラー金本浩二と結婚したが2012年に離婚。
  • 関綾子

平成12年(2000年)[編集]

2003年に退団してメジャー女子プロレスAtoZに入団。2006年にOZアカデミー女子プロレスに入団。試合中に胸椎と腰椎を負傷しリハビリ中。2012年にプロレスラーマイバッハ谷口と結婚。2016年に引退。
  • 寺下ちゑ
引退後は竹書房に勤務してレディースコミックの出版に携わる。

平成13年(2001年)[編集]

2002年に退団してKAIENTAI DOJOに練習生として入団するがデビュー前に退団。2003年にメジャー女子プロレスAtoZに入団してリングネームを未来に改名。2005年に死去。
2006年にプロレスリングSUNを設立。2009年に引退。
2002年に退団。退団後は通信制の山形県立霞城学園高等学校に編入してレスリング部に入部。2005年に伊藤薫プロレス教室に練習生として入団して再デビュー。2011年にワールド女子プロレス・ディアナに入団。
2002年に退団。2006年に伊藤薫プロレス教室に練習生として入団して再デビュー。2011年にJWP女子プロレスに入団した後にリングネームをモーリーに改名。
2002年に怪我でデビュー前に退団してKAIENTAI DOJOに練習生として入団してスマックガールでデビュー。現在はフリーの女子総合格闘家「berry15」として活動している。

平成14年(2002年)[編集]

渉外担当の松永正嗣がアメリカロサンゼルススカウトして2002年にデビュー。アジャ・コングとタッグチーム「ダブル・コング」を結成して活動していた。現在はフリーとして活動している。

平成15年(2003年)[編集]

2004年に退団。2005年に我闘姑娘に入団してリングネームを夏樹☆ヘッドに改名。2006年にプロレスリングSUNを設立してリングネームを夏樹☆たいように改名。2011年にスターダムに入団。2014年に引退。2015年にSEAdLINNNGを設立して専務取締役に就任。
  • 廣瀬桂子
  • 高橋裕美

平成16年(2004年)[編集]

現在も不定期ながらミゼットプロレスの試合を行っている。

レギュラー参戦選手[編集]

「脱ピュアハート宣言」の下で1993年に修行の一環として参戦。
1997年に所属選手大量離脱直後にかつて全日本女子プロモーターだった浅野起州の尽力で助っ人として参戦。
1997年に所属選手大量離脱直後にかつて全日本女子プロモーターだった浅野起州の尽力で助っ人として参戦。当時はI.W.A.JAPANに所属女子選手が少数な上に他団体交流もなく対戦相手も試合数も限られていたが全日本女子参戦により試合数増加と対戦相手とパートナーに恵まれレベルアップに繋がった。

来日外国人選手[編集]

1969年に初来日。
  • マリー・バグノン
1970年に初来日。
  • ジェーン・シャーレル
  • バーバラ・オーエンス
  • サンデー・スター
  • サラ・リー
  • シャロン・リー
  • ジーン・アントン
1972年に初来日。
  • ジーン・オブライエン
1972年に初来日。
1973年に初来日。
1973年に初来日。
1974年に初来日。1976年にプロレスラー佐藤昭雄と結婚。
1975年に初来日。
1975年に初来日。
1975年に初来日。
1976年に初来日。
1976年に初来日。
1977年に初来日。
1978年に初来日。
1979年にデビュー。
  • レナ・ブレアー
1979年に初来日。
1979年に初参戦。
1979年に初参戦。
1979年に初参戦。
1979年に初参戦。
1979年に初参戦。
1979年に初来日。
1979年に初来日。イルマ・ゴンザレスの娘。
1980年に初来日。
1981年に初来日。
1981年に初来日。
1982年に初来日。
1982年に初来日。
1982年に初来日。
1982年に初来日。
1984年に初来日。
1984年に初来日。1986年にプロレスラーターザン後藤と結婚。
1985年に初来日。
1985年に初来日。
  • キャンディス・パーデュー
1985年に初来日。
  • ジーン・カークランド
1986年に初来日。
  • ペニー・ミッチェル
1986年に初来日。
1986年に初来日。
1986年に初来日。モレノ4姉妹の長女。
1986年にパワーリフティング女子世界チャンピオンの触れ込みでデビュー。
  • タニア(ラス・ゲリジェーラス)
1988年に初来日。
1989年に初来日。
1989年に初来日。
1990年に初参戦。モレノ4姉妹の次女。
1990年に初来日。
1991年に初来日。モレノ4姉妹の三女。
1992年に初参戦。
1994年に初参戦。
  • ムヘル・サルバヘ
  • ネグロ・サルバヘ
  • アルダ・モレノ(ペケーニャ・アステカ)
1996年に初参戦。モレノ4姉妹の四女。
1996年に初参戦。
2005年に初参戦。

スタッフ[編集]

レフェリー[編集]

  • ミスター郭(松永健司)
松永兄弟の次男。後の代表取締役社長、代表取締役副会長。
  • ジミー加山(松永国松)
松永兄弟の四男。後の代表取締役社長。
ミゼットプロレスの試合ではハリセン太郎の名義でレフェリーを務めていた。
悪役レフェリーとして活動していた。2008年に引退。息子の阿部信輔もレフェリーを務めている。
  • チャーリー東
  • ボブ矢沢(松永太)
松永健司の子息。
1990年代の全日本女子を代表するレフェリー。
  • ホセ・トレス
メキシコ人のレフェリー。
  • ラッキー井村
  • 照井学
  • ダーツ源
ヒールユニット極悪同盟」ひいきのレフェリー。

リングアナウンサー[編集]

  • 氏家清春
全日本女子の現役リングアナウンサーでは最年長。主にメインイベントやタイトルマッチを担当。90年代から全日本女子のリングアナウンスのイメージは氏家清春と今井良晴のリングアナウンスをイメージする人も多い。コールする時のリングアナウンスはきちんと「パウンド」とコールする。
1990年代から全日本女子のリングアナウンスのイメージは氏家清春と今井良晴のリングアナウンスをイメージする人も多い。コールする時のリングアナウンスはパウンドではなく「パーンス!」とコールする。2013年に死去。
リングアナウンサーの手解きは先輩の今井良晴から受けておりコールする時のリングアナウンスは今井と同じ「パーンス」とコールする。
  • 今村貴則

女子プロレス殿堂[編集]

1998年11月29日横浜アリーナで開催した全日本女子創立30周年記念大会で女子プロレス殿堂を創設。以来、全日本女子の歴史に貢献した選手及び関係者のみならず日本女子プロレス史に多大な功績を残した人物が顕彰された。

なお池下ユミとモンスター・リッパーは1999年以降に殿堂入りとなった。また顕彰当時現役の選手も存在したが、いずれも既に全日本女子は退団していた。

関連書籍[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ただし1979年10月から11月の僅か1月ほどだがニューワールド女子プロレスという女子プロレス団体が存在している
  2. ^ 須山浩継 (2011年5月2日). “空前絶後のプロレス団体、全日本女子プロレス①「はい女子プロレスです」”. 東京スポーツ. 2015年2月27日閲覧。
  3. ^ 【長与千種連載5】地獄トレの2日目 「まさかの全員裸になれ」東京スポーツ新聞社 2015年5月29日閲覧
  4. ^ 空前絶後のプロレス団体、全日本女子プロレス④目黒女子プロレス砦(前編)東京スポーツ新聞社 2015年1月13日閲覧
  5. ^ 電流爆破戦出陣 長与「大仁田さんの"求愛"受けた理由」 東京スポーツ新聞社 2015年4月16日閲覧
  6. ^ a b 日本プロレス事件史 Vol.2「"超絶雑居大家族"全女最後の10年」(ベースボール・マガジン社、2014年)
  7. ^ 空前絶後のプロレス団体、全日本女子プロレス④目黒女子プロレス砦(中編)東京スポーツ新聞社 2015年1月13日閲覧
  8. ^ 空前絶後のプロレス団体、全日本女子プロレス④目黒女子プロレス砦(後編)東京スポーツ新聞社 2015年1月13日閲覧
  9. ^ 女子プロレスにも美熟女旋風 井上貴子は43歳で体重10キロ減 NEWSポストセブン 2013年10月26日
  10. ^ 女子プロレスに三禁は必要です!”. 東京スポーツ新聞社. 2012年9月4日閲覧。
  11. ^ 引退ゆずポン 今だから話せる“3禁秘話””. 東京スポーツ新聞社. 2013年7月18日閲覧。
  12. ^ a b c 【長与千種連載11】「結婚する」とウソとついて引退東京スポーツ新聞社 2015年5月29日閲覧
  13. ^ 山口県小野田市民館体育ホール施設使用料滞納に関するお詫びと経緯全日本女子プロレス(2004年12月13日のキャッシュ)
  14. ^ 日本プロレス事件史 Vol.3「"超絶雑居大家族"全女最後の10年」(ベースボール・マガジン社、2014年)

外部リンク[編集]