フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング

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フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング株式会社
Frontier Martialarts Wrestling Co., Ltd.
種類 株式会社
略称 FMW
本店所在地 日本の旗 日本
東京都目黒区下目黒2-23-15
設立 1995年8月7日
業種 サービス業
事業内容 プロレスの興行
関連企画の運営
代表者 代表取締役社長 荒井昌一
資本金 1,000万円(2015年1月20日現在)
関係する人物 大仁田厚(創設者)
特記事項:
1989年7月28日、FMW株式会社を設立。
1995年8月7日、フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング株式会社を設立。いわゆる「新生FMW」。
2002年2月15日、2度目の不渡りを出して事実上倒産。
2015年1月20日、休眠会社のみなし解散。
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フロンティア・マーシャルアーツ・レスリングは、かつて存在した日本プロレス団体。略称はFMW(エフ・エム・ダブリュー)。FMWの崩壊後に設立された大仁田FMW(おおにたエフ・エム・ダブリュー)、スーパーFMW(スーパー・エフ・エム・ダブリュー)、超戦闘プロレスFMW(ちょうせんとうプロレス・エフ・エム・ダブリュー)、FMWE(エフ・エム・ダブリュー・イー、エフ・エム・ダブリュー・エクスプロージョン)についても記述している。

概要[編集]

日本におけるインディー団体の草分け的存在で日本で初めて男女混合試合、女子選手による単独興行も手がける男女混合プロレス団体でもあり、ハードコアの先駆的存在でもあった[1]。FMWの成功はインディー団体の乱立を招くことになり、1990年代以降の日本のプロレス界が多団体時代を迎える影響を及ぼした。

歴史[編集]

大仁田厚体制[編集]

1989年7月28日、大仁田厚赤坂全日空ホテルで記者会見を行って手元にあった全財産5万円の資金で設立。10月6日、露橋スポーツセンターで旗揚げ戦を開催。旗揚げ戦には「格闘技の祭典(1989年7月2日に開催)」で大仁田と遺恨が勃発した青柳政司との抗争を軸にターザン後藤栗栖正伸も参戦。初期はテコンドー、ボクシング、キックボクシング、空手、柔道などプロレス以外の選手が参戦して異種格闘技戦的な要素が強かった。しかし、その意味付けは隆盛だったUWFへの対抗心(あるいは皮肉)によるところが大きかった。

資金難を始め様々な面で既存メジャー団体に劣っていたFMWが選んだのは「何でもあり」をキーワードにしてアイデアで勝負する道だった。FMWの看板と位置付けて行ったのがデスマッチ日本初の様々なデスマッチ形式の試合を敢行。1990年1月7日、後楽園ホール大会でプロレス、テコンドー、キックボクシングの選手が競う「総合格闘技オープントーナメント」を開催。栗栖がイス攻撃を駆使して優勝。8月4日、レールシティ汐留大会で開催した大仁田対後藤によるノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチでFMWの浮沈をも賭けた。その思惑は当たってFMWは一躍注目を浴びるようになった。多様な格闘家、奇抜な試合形式、男女混合、怪奇派レスラーなどが行われて大仁田が「おもちゃ箱をひっくり返したような」と表現した団体色は一大センセーションを呼んで、UWFを除けばメジャー団体だった新日本プロレス全日本プロレスに匹敵する第3勢力になった。

大仁田はFMWの宣伝目的もあってテレビなどに極力出演してタレント並みの知名度を得た。このことでFMWの知名度も全国区になってニュース番組やTBSの番組「ギミア・ぶれいく」などでドキュメンタリーが放送された。後にライバルのミスター・ポーゴの退団などもあったものの、シークやタイガー・ジェット・シンといった新たなヒールを獲得。1991年9月23日、初の川崎球場大会を開催。同日に約10km離れた場所では新日本プロレス横浜アリーナ大会が開催されて1万8千人もの観客を動員したこともあって「時期尚早では」と言われた。しかし、蓋を開けてみれば約3万3千人の動員に成功。11月20日から12月8日、プロレス、テコンドー、ボクシング、キックボクシング、柔道の選手が競う「世界最強総合格闘技タッグリーグ戦」を開催。東京ベイNKホール大会で決勝が行われて大仁田&後藤組が優勝。1992年5月6日、ニチイ三田店駐車場特設会場大会で大仁田&後藤対ザ・シーク&サブゥー戦によるファイヤーデスマッチを日本で初めて行って大きな話題になった。しかし、予想以上に火の勢いが強すぎて選手が酸欠状態になり、シークが大火傷を負うなどで試合は不成立になった。9月19日、初の横浜スタジアム大会を開催。11月20日から12月7日、「世界最強ストリートファイトタッグリーグ戦」を開催。大阪府立体育会館大会でノーロープ有刺鉄線バリケードマットトルネードタッグデスマッチによる決勝が行われて大仁田&グリゴリー・ベリチェフ組が優勝。試合終了後、大仁田は道頓堀川に飛び込んだ。

1993年5月5日に2度目の川崎球場大会、8月22日に初の阪急西宮スタジアム大会を開催して経営規模は順調に拡大していった。その一方で全国日本各地の駐車場や空き地で小さな興行も欠かさず開催して津々浦々にファンを増やしていった。デスマッチ中心のプロレス団体として1991年5月に分裂した代表の大迫和義、渉外担当の茨城清志、レフェリーの川並政嗣、リングアナウンサーの大宝拓治、ポーゴらが率いるW★INGプロモーションとは激しい興行戦争になったが、資金面に劣るW★INGから看板選手のポーゴを引き抜き返してW★INGを壊滅させてインディー団体の最高峰に立った。

1994年1月7日から1月18日、「有刺鉄線タッグトーナメント」を開催。三郷市総合体育館大会で決勝が行われてビッグ・タイトン&ザ・グラジェーター組が優勝。5月5日、FMW川崎球場大会で自らの土俵である電流爆破マッチに持ち込みながらも天龍源一郎に敗れた大仁田は引退を決意。日本全国で1年間の「日本全国縦断 大仁田厚メモリアル引退ツアー」が行われた。1995年5月5日、川崎球場大会で大仁田が引退試合を行った。対戦相手は当初、後藤の予定だったが4月23日に馬込東京イン・アネックスで後藤、ミスター雁之助市原昭仁が記者会見を行って退団することを発表[2]。対戦相手の再考を余儀なくされた大仁田は名乗りを上げていた東京プロレス石川敬士を指名。しかし、試合の調印直前で名乗りを上げた大仁田の弟子で次代エースであるハヤブサが石川の了解を得て大仁田の引退試合を行った。大仁田は引退後、代表を退任してFMWと無関係になった。

荒井昌一体制による「新生FMW」[編集]

1995年8月7日、新たに運営会社を設立してリングアナウンサー兼企画部長でFMWの関連子会社「FMWクリエイティブ」の取締役広報部長だった荒井昌一が代表に就任。新会社の株の割合は大仁田が53%、荒井が47%だった[3]。「大仁田がいなければFMWは3ヶ月で潰れる」というような声をよそに大仁田の引退後もFMWは持ちこたえた。5月28日、後楽園ホール大会を皮切りにハヤブサを中心にW★ING金村黒田哲広田中正人工藤めぐみザ・グラジエーターらの若い力が活力を蘇らせて大仁田体制の胡散臭さや怪しさを押し出したスタイルとは異なる試合を行った。後にハードコアスタイルと呼ばれる激しい戦いが高い支持を得た。ハヤブサが腕を負傷して半年間の欠場の間も金村と田中のライバルストーリーがファンの支持を得てパワーは落ちなかった。1996年5月5日、川崎球場大会のメインイベントでハヤブサ&田中対ポーゴ&テリー・ファンク戦を行ってビッグマッチを成功。

しかし、もう1度スポットライトを浴びたいと願う大仁田は復帰を画策。1996年12月11日、ポーゴを引退させてポーゴの最後の願いとして大仁田とのタッグ結成をファンに乞うというアングル駒沢オリンピック公園体育館大会で強引に復帰。この頃からハヤブサ、金村、田中ら若い世代へ期待する路線と創始者の大仁田への回帰路線という2つの方向性が生まれてFMWは混乱し始めた。大仁田が突然、ZENという団体内団体を設立したのも2つの方向性を両立させようとするFMWのフロントによる苦心の結果である[4]。また、経営陣と大仁田の間には大仁田の給料を巡って金銭トラブルが多発していたとされる。1997年WARを退団した冬木弘道邪道外道が参戦して金村、雁之助らとユニット「TNR」を結成してFMWの歴史上でも最も存在感の大きなユニットになった。

ディレクTVとの契約 - エンターテイメント路線[編集]

日本に進出を図ったディレクTVがキラーコンテンツの1つとしてFMWを選んだ[5]1998年3月、3年3億円で契約してテレビ放映を手にしてFMWは最大のインディー団体と言われるようになる。契約を結んだFMWは制作費の提供を受けてグレードアップしたエンターテイメント路線を走り始めた。4月30日、横浜文化体育館大会でエンターテイメント路線第1弾としてハヤブサ対雁之助、大仁田対冬木、田中対バンバン・ビガロ、黒田&グラジエーター対スーパー・レザー&ホーレス・ボウダー、金村対新崎人生などが行われて、いずれも好勝負になった。5月、荒井と所属選手が一丸になって大仁田に対して撤退を要求。11月20日、横浜文化体育館大会を最後に大仁田はFMWを離れた。

1999年5月、エンターテイメント路線にシフトチェンジを行って、6月15日に後楽園ホール大会で敗者ドッグフードマッチ(敗者はドッグフードを食べる)、8月20日に後楽園ホール大会で「おばけ屋敷」と銘打った企画興行(試合会場に、お化け屋敷をイメージした飾り付けがされていた)、10月29日に後楽園ホール大会で敗者肛門爆破マッチ(敗者は肛門にダイナマイトを着けて爆破させる。ちなみに試合結果はノーコンテスト)など、これまでの日本では考えられなかったショー要素の強いプロレスを展開。さらにAV男優のチョコボール向井、AV女優の若菜瀬奈、演歌歌手の谷本知美などのプロレス経験がない素人までを試合に参加させてファンの話題と反発を呼んだ。10月29日、後楽園ホール大会でH偽ハヤブサが乱闘を起こして一般人はおろか杉作J太郎までも巻き込まれて警備員に制止される羽目になった(さらにHがディレクTVの1000万円相当業務用ビデオカメラを叩き壊したりもしている)。11月23日、横浜アリーナ大会でドリー・ファンク・ジュニアテリー・ファンクショーン・マイケルズボールズ・マホーニーレイヴェントミー・ドリーマーウィリー・ウィリアムスマリア・ホサカジャズを招聘して旗揚げ10周年記念大会を開催したが興行的には失敗。経営状態は一気に悪化していった。

ディレクTVの撤退 - 迷走[編集]

2000年3月、ディレクTVが業績不振のため、日本での事業停止してスカイパーフェクTV!へ事実上統合になった。FMWのPPV放送はスカイパーフェクTV!に引き継がれたが放映権料は大幅に下げられることとなって経営悪化は一気に拍車がかかった状況になった。

2001年3月5日、後楽園ホール大会でネイキッドマンマッチ(敗者は全裸になる)が行われてファンはおろかマスコミからも反発を受けた。荒井は自著で「失笑すらおきない大顰蹙を買い、さらにネイキッドマンに関しては事前に「敗者を全裸にする」と告知していたため、試合会場に私服警官が現れて呼び出しを受けた」と述べている。さらに観客の前で荒井に対して偽の尿を浴びせるといった下品なストーリー展開も行われた。このような事態がFMWの迷走ぶりを示していたと言える。8月11日、駒沢オリンピック公園体育館大会で話題作りのためか荒井が率いる正規軍3人(ハヤブサ、黒田、バイオモンスターDNA)、冬木軍(冬木、金村、雁之助)によるFMW会社経営権強奪株式譲渡3大シングルマッチが行われて冬木軍が勝利して経営権を奪われる。ただし、これはあくまでもアングルであって実際にはFMWが倒産まで荒井が代表を務めていた。10月22日、後楽園ホール大会の試合中にハヤブサが頸椎を損傷して長期欠場を余儀なくされた。この時、シリーズの日程が異常ともいえるほどのハードスケジュールで当日、ハヤブサは発熱していたと荒井の著書に記されている。

2002年1月6日、後楽園ホール大会で雁之助が負傷して長期欠場を余儀なくされた。看板選手の長期欠場は経営基盤の弱いFMWには致命傷になった。この間にも荒井はコストカットのために田中、邪道、外道、中山香里の契約解除を行うなどFMWの危機は一般のファンにも明らかになった[6]

崩壊 - 荒井昌一の自殺[編集]

2月15日、2日連続(同月14日と15日)で不渡りを出して事実上倒産(負債総額は3億円)。経営不振の中で荒井はたった1人で金融業者28社から3000万円を借り入れていたと言われている[7]。その他に運営の責任感から来るものか家の権利書まで持ち出そうとした。実際に赤字続きで首が回らなくなった際にもちゃんと所属選手にはギャランティーが支払われていたという。

借金取りから逃れるため、失踪していた荒井は著書「倒産!FMW カリスマ・インディー・プロレスはこうして潰滅した」を執筆後、5月16日に生家近くの公園で首吊り自殺。その前日付けの消印で団体関係者宅に「ご迷惑をおかけしました」といった文書が届いていたことも明らかになった。日本最大のインディー団体は代表の自殺という最悪の終焉を迎えた。この事件は「乱立するインディー団体へのメッセージ」として安易に旗揚げできるインディー団体に対しての警鐘ともなった。

崩壊後[編集]

同年、残された元所属選手のうち、冬木を中心としたメンバーはWEW、ハヤブサを中心としたメンバーはWMFを設立している。

2004年、冬木の死去後、金村を中心としたメンバーが後を引き継いでアパッチプロレス軍として再編された。

一方で「FMW」名義のプロレス団体、プロレスプロモーションは後述のように幾度か復活している。

大仁田FMW[編集]

2002年5月4日、大仁田がプロレスプロモーションとして後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。8月11日、長野運動公園総合体育館大会を最後に活動停止。

スーパーFMW[編集]

2009年11月6日、後藤が記者会見を行ってターザン後藤一派を母体にプロレス団体の設立を発表。12月24日、新木場1stRINGで旗揚げ戦を開催。

2010年1月、ダイナマイトバンプを吸収合併。

2022年5月、後藤の逝去により活動停止。

FMW25周年記念シリーズ[編集]

2014年5月8日、大仁田が記者会見を行って「FMW25周年記念シリーズ」を開催することを発表。シリーズを開催する5大会のうち、開幕戦の新宿FACE大会(7月25日に開催)を除く4大会は、いずれも大花火シリーズの中に試合が組み込まれる。

超戦闘プロレスFMW[編集]

2015年3月4日、元FMW専務取締役営業部長の高橋英樹、ハヤブサ、超電戦士バトレンジャーが記者会見を行ってプロレスプロモーションの設立を発表。運営は高橋が代表を務めるFMWプロモーション。4月21日、河西体育センターでプレ旗揚げ戦を開催。4月27日、新宿FACEで旗揚げ戦を開催。6月25日、超花火プロレスとの業務提携を発表。8月12日、運営面強化のためにダイヤモンド・ジャパン・ホールディングが母体となり、ザメディアジョン・グループの代表である山近義幸がオーナー兼代表、高橋が営業本部長に就任。

2016年11月24日、本業が多忙を極めるようになったため、山近が円満退任してダイヤモンド・ジャパン・ホールディングは一時凍結となり、運営母体はFMWプロモーションに戻った。

2018年5月25日、水戸市民体育館サブアリーナ大会を最後に興行が開催されてないため事実上活動停止状態となる。

FMWE[編集]

2021年5月6日、コウフ・フィールドの代表である加治木英隆、大仁田が記者会見を行ってプロレスプロモーションの設立を発表。運営は加治木と大仁田が共同代表を務める株式会社FMW。7月4日、鶴見青果市場で旗揚げ戦を開催。

2022年9月30日、FMWEは大仁田が代表を務める大仁田屋に譲渡されて加治木は代表権を大仁田に譲った。

タイトル[編集]

FMW[編集]

スーパーFMW[編集]

超戦闘プロレスFMW[編集]

所属選手[編集]

男子選手[編集]

女子選手[編集]

レギュラー参戦選手[編集]

スタッフ[編集]

レフェリー[編集]

リングアナウンサー[編集]

来日外国人選手[編集]

男子選手[編集]

女子選手[編集]

ミゼット選手[編集]

男子格闘家[編集]

女子格闘家[編集]

来日外国人関係者[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 男女混合プロレス団体としては、それより以前に全日本プロレス協会国際プロレスがあったが、いずれも女子選手の試合を興行内に挿入する形で行っていた。
  2. ^ 退団後、ターザン後藤ミスター雁之助市原昭仁I.W.A.JAPANに参戦していた。その後、雁之助と市原は1997年1月に再入団していた。
  3. ^ 大仁田厚ヒストリー<22> スポーツ報知(2017年10月22日)
  4. ^ 大仁田厚W★ING金村から勝利して金村が率いていたW★ING同盟を解散させる形で吸収。さらに正規軍から黒田哲広ZENの設立により、冬木弘道がカムバックしたことに反発した雁之助らが加入。なお、大仁田は当初、新団体と位置付けて他団体参戦も辞さないという旨を示していた。しかし、大仁田が「FMWが好きだからこそ(敵となってFMWと)闘った」と発言したのを機にFMWの壊滅を目標としていた金村らが反発。金村を始めとする数名がZENを離反するに到った。ちなみに金村とBADBOY非道が暫定的なヒールユニット「チーム悪」を経て後に結成したユニット「TNR」(後述)の名称には「カリスマ(大仁田)に忠誠を誓う」といったFMWの長年の傾向に対して「もう誰も尊敬しない」といった反発と皮肉を込めたとされている。また、後年に金村らが流行らせたブリブラダンスはZENが試合終了後のパフォーマンスとして行ったZENダンスと呼ばれた踊りが基であり、ブリブラダンス及びチーム・ノーリスペクトのテーマ曲として定着したCOME OUT AND PLAYも元々はZENの入場曲であった。
  5. ^ ディレクTVは同様に旗揚げしたばかりであったアルシオンとも契約していた。
  6. ^ 契約解除後、田中将斗邪道外道中山香里はユニット「コンプリート・プレイヤーズ」を結成して他団体に参戦していた。
  7. ^ その中には商工ローンのほか、いわゆる闇金融も含まれていたと言われる。
  8. ^ a b c コディ・テンプレトンレイ・バレラソウル・キングは、いずれも大仁田に挑戦状を叩きつけたという空手家のゴールド・ウィリアムスが先兵として送った自身の弟子という触れ込みだった。しかし、バレラとテンプレトンはタッグを組んで大仁田との対戦の機会に幾度も恵まれたものの、その度に弱さを露呈して「これではお客さんが満足しない」と判断した大仁田に、もう1度別に試合をさせる事態を引き起こした。さらにキングは後藤とのシングルマッチに臨んだが、やはり実力の無さを露呈して力量を見切った後藤に一方的に叩き潰される形で敗退。その後、彼らの師匠のはずであるウィリアムスは1度も姿を現わさなかった。

外部リンク[編集]