フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング

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フロンティア・マーシャルアーツ・レスリングは、日本プロレス団体。略称はFMW(エフ・エム・ダブリュー)。

概要[編集]

1989年7月、元全日本プロレス所属選手の大仁田厚がわずか5万円の資金で設立。日本におけるインディー団体の草分け的存在で日本で初めてミックスファイトと女子選手による単独興行も手がける男女混合プロレス団体[1]でもあり世界のハードコア・レスリングの先駆的存在でもあった。

大仁田体制の成功は、それに倣ったインディー団体の乱立を招くことになり1990年代以降の日本のプロレス界が多団体時代を迎える影響を及ぼした。

2002年、会社が倒産して消滅後はWMFなどに引き継がれた。

歴史[編集]

大仁田厚体制[編集]

1989年10月6日露橋スポーツセンターで旗揚げ戦を開催。7月2日、「格闘技の祭典」で遺恨が勃発した大仁田厚と空手家の青柳政司との抗争を軸に元全日本プロレス所属選手のターザン後藤や元新日本プロレス栗栖正伸も参加。初期におけるFMWは、その団体名が示す通り柔道、キックボクシング、テコンドーなどプロレス以外の格闘家が参加しており異種格闘技戦的な要素が強かった。しかし、その意味付けは当時隆盛だったUWFへの対抗心(あるいは皮肉)によるところが大きく「総合格闘技オープン・トーナメント」と銘打たれた大会で栗栖がイス攻撃を駆使して優勝したりボクシングの元世界チャンピオン、柔道メダリスト、空手家、プロレスラーなどの「タッグチーム」が競う「世界最強総合格闘技タッグリーグ戦」を開催。

FMWの看板と位置付けて行ったのがデスマッチストリートファイトマッチなどである。資金難を始め様々な面で既存メジャー団体に劣っていたFMWが選んだのは「何でもあり」をキーワードにしてのアイデアで勝負する道だった。有刺鉄線デスマッチを皮切りに数々の「日本初」を敢行。1990年8月4日レール・シティ汐留大会で開催した大仁田と後藤の「究極のデスマッチ」、ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで団体の浮沈をも賭けた。その思惑は当たりFMWは一躍注目を浴びるようになった。

多様な格闘家、奇抜な試合形式、男女混合、怪奇派レスラーなどが行われて大仁田が「おもちゃ箱をひっくり返したような」と表現した団体色は一大センセーションを呼びUWFを除けば当時のメジャー団体だった新日本と全日本に匹敵する第3勢力になった。

大仁田はFMWの宣伝目的もありテレビ等に極力出演してタレント並みの知名度を得た。このことによりFMWの知名度も全国区になりニュース番組やTBSの番組「ギミア・ぶれいく」などでドキュメンタリーが放送された。後にライバルのミスター・ポーゴの退団などもあったもののザ・シークタイガー・ジェット・シンといった新たなヒール選手も獲得して1991年には川崎球場で興行を開催。因みに、その同じ日に10kmくらいの距離の先の横浜市では新日本横浜アリーナ大会が開催されて1万8千人もの観客を動員したこともあり「時期尚早では?」と言われていた、蓋を開けてみれば約3万3千人の動員に成功。1992年には横浜スタジアム1993年には2度目の川崎球場と阪急西宮球場で興行を開催して経営規模は順調に拡大していった。

デスマッチ中心のプロレス団体として1991年に分裂した社長の茨城清志(元渉外担当)、ポーゴらが率いるW★INGプロモーションとは激しい興行戦争となったが資金面に劣るW★INGから看板選手であったポーゴらを引き抜きW★INGを壊滅させてインディー団体の最高峰に立つまでに成長。

1994年5月5日川崎球場大会で自らの土俵である電流爆破マッチに持ち込みながらも天龍源一郎に敗れた大仁田は引退を決意。1年間の引退シリーズを経て1995年5月5日、川崎球場大会で引退試合を行う。最後の対戦相手は当初は後藤が予定されていたが突如、ミスター雁之助市原昭仁(現:フライングキッド市原)らと共に退団。対戦相手の再考を余儀なくされた大仁田は名乗りを上げていた東京プロレス石川敬士(現:石川孝志)を指名。さらに試合の調印直前で名乗りを上げた弟子であり次代のエースのハヤブサに石川の了解を得て変更して引退試合を行った。

新生FMW[編集]

「大仁田がいなければFMWは3ヶ月で潰れる」というような声をよそに大仁田の引退後もFMWは持ちこたえた。ハヤブサを中心に金村ゆきひろ(現:金村キンタロー)、田中正人(現:田中将斗)、工藤めぐみザ・グラジエーターらの若い力がリングに活力を蘇らせて大仁田体制の胡散臭さや怪しさを押し出したスタイルとは異なる後にハードコアスタイルと呼ばれる激しい戦いが高い支持を得た。ハヤブサが腕を負傷して半年間の欠場の間も金村と田中のライバルストーリーがファンの支持を得てリング上のパワーは落ちなかった。1996年5月5日、ハヤブサ&田中組対テリー・ファンク&ポーゴ組をメインイベントに川崎球場大会のビッグマッチを成功。

しかし、もう1度スポットライトを浴びたいと願う大仁田は復帰を画策。ポーゴを引退させてポーゴの最後の願いとして大仁田とのタッグ結成をファンに乞うというアングル1996年12月11日駒沢オリンピック公園体育館大会で復帰。この頃からハヤブサ、金村、田中ら若い世代へ期待する路線と創始者の大仁田への回帰路線という2つの方向性がリング上に生まれてFMWはギクシャクとし始めた。だが大仁田が突然、ZEN[2]という団体内団体を旗揚げしたのも2つの方向性を両立させようとする当時のFMWフロントの苦心の結果である。またWARを退団した冬木弘道邪道外道が参戦して金村、雁之助らとユニット「チーム・ノーリスペクト」を結成してFMWの歴史上でも最も存在感の大きなヒール軍団となった。

なお荒井体制の新生FMWは登記上「エンターテイメントプロレスリングFMW」とされており大仁田体制の「フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング」とは別会社扱いとなっている。

ディレクTVとの契約 - エンターテイメント路線[編集]

日本に進出を図ったディレクTVがキラーコンテンツのひとつとしてFMWを選んだ[3]1998年3月、「3年3億円」で契約してテレビ放映を手にしたFMWは最大のインディー団体と言われるようになる。契約を結んだFMWは制作費の提供を受けてグレードアップしたエンターテイメント路線を走り始めた。その第1弾になった横浜アリーナ大会ではハヤブサ対雁之助、大仁田対冬木、金村対新崎人生、田中対クラッシャー・バンバン・ビガロなどが行われて、いずれも好勝負になった。その後、社長の荒井昌一と所属選手が一丸になって大仁田に対して撤退を要求して1998年11月20日横浜文化体育館大会を最後に大仁田はFMWを離れた。

1999年5月、よりアクの強いエンターテイメント路線にシフトチェンジを行いドッグフードマッチやおばけ屋敷マッチなどこれまでの日本では考えられなかったショー要素の強いプロレスを展開。さらにAV男優チョコボール向井AV女優若菜瀬奈、演歌歌手の谷本知美などプロレス経験のない素人までが試合に参加してファンの話題と反発を呼んだ。10月29日後楽園ホール大会の最後、H偽ハヤブサが乱闘を起こして一般人はおろか週刊プロレス記者の杉作J太郎までも巻き込まれて警備員に制止される羽目になった(更にHがディレクTVの業務用ビデオカメラ(1,000万円相当)を叩き壊したりもしている)。

好調であるかに見えたが1999年11月23日、横浜アリーナで開催した旗揚げ10周年記念大会にはショーン・マイケルズレイヴェンなどの大物選手を招聘して内容面ではこの上ない最高の試合になったにもかかわらず興行的には失敗してFMWの経営状態は一気に悪化していった。

ディレクTVの撤退 - 迷走[編集]

2000年3月、ディレクTVが業績不振のため日本での事業停止してスカイパーフェクTV!(現:スカパーJSAT)へ事実上統合になった。FMWのPPV放送はスカイパーフェクTV!(現:スカパー!プレミアムサービス)に引き継がれたが放映権料は大幅に下げられることとなり経営悪化は一気に拍車がかかった状況となった。

2001年、話題作りのためか社長の荒が率いる正規軍6人が「経営権」をかけて冬木軍と対決。結局敗れて経営権を奪われる。ただし、これはあくまでもリング上のアングルであり実際には倒産まで荒井が社長を務めていた。

10月22日、ハヤブサが後楽園ホール大会での試合中の事故により頸椎を損傷して長期欠場を余儀なくされた。この時のシリーズの日程が異常ともいえるほどのハードスケジュールだったと社長の荒井の著書に記されている。2002年1月、雁之助も負傷して長期欠場になった。看板選手の欠場は経営基盤の弱いFMWには致命傷になった。この間にも社長の荒井はコストカットのため田中、邪道、外道、中山香里の契約を解除[4]を行うなどFMWの危機は一般のファンにも明らかとなった。

この頃に行なわれた出来立ての飲茶を食べながら凶器にも使える「ファイティングディナーマッチ」や敗者を全裸にする「ネイキッドマンマッチ」という試合形式はファンはおろかマスコミからも反発を受けて社長の荒井も自著で「失笑すらおきない大顰蹙(ひんしゅく)を買い、さらに「ネイキッドマン」に関しては事前に「敗者を全裸にする」と告知していたため試合会場に私服警官が現れて呼び出しを受けた」と述べている。このような事態がFMWの迷走ぶりを示していたと言えるかもしれない。

崩壊 - 社長の自殺[編集]

2002年2月14日と15日、FMWは2日連続で不渡りを出して事実上倒産して負債総額は3億円。経営不振の中で社長の荒井はたった1人で金融業者28社から3000万円を借り入れていた[5]と言われる。その他に運営の責任感から来るものか家の権利書まで持ち出そうとした。実際に赤字続きで首が回らなくなった際にもちゃんと所属選手にはギャランティーが支払われていたという。

FMW崩壊後に借金から逃れるため身を潜めていた社長の荒井は著書「倒産!FMW カリスマ・インディー・プロレスはこうして潰滅した」を執筆後の5月16日、社長の新井は自殺。その前日付けの消印で団体関係者宅に「ご迷惑をおかけしました」といった文書が届いていたことも、その後明らかになった。最大のインディー団体は社長の自殺という最悪の終焉を迎えた。この事件は「乱立するインディー団体へのメッセージ」として安易に旗揚げできるインディー団体に対しての警鐘ともなった。

残された所属選手とスタッフの内、冬木が事実上所属選手とスタッフを引き継ぐ形で2002年3月、WEWを設立する一方で8月1日、ハヤブサがWMFを設立するなど分裂状態になった。2003年3月19日、WEWは代表の冬木の病死により解散して後に冬木軍プロモーションアパッチプロレス軍(一時、XWF)と形を変えてアパッチから分かれたプロレスリングFREEDOMSが設立される。

スーパーFMW[編集]

2009年11月6日、後藤が12月24日に開催する自らのデビュー30周年興行をFMW再旗揚げ戦にすることを発表。12月24日新木場1stRINGで旗揚げ戦を開催。ちなみに上記のFMWが「フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング」なのに対して後藤が旗揚げしたFMWはFMWプロレスリング(エフ・エム・ダブリュー・プロレスリング)であり別会社である。元のFMWが残した負債や名前の権利のためだと思われる。

2010年6月26日、団体名をスーパーFMW(スーパー・エフ・エム・ダブリュー)に改称。ただしスーパーFMWは旧FMW倒産前に退団した後藤を中心とする真FMWR2W革真浪士団ターザン後藤一派と名称変更を繰り返したものであり旧FMWを実質的に引き継いでいるのはWMF、アパッチ、FREEDOMSである。

FMW25周年記念シリーズ[編集]

2014年5月8日、大仁田が記者会見を行いFMWゆかりの選手を集めた「FMW25周年記念シリーズ(エフ・エム・ダブリュー・にじゅうごしゅうねんきねんシリーズ)」を開催すると発表。7月25日新宿FACEでシリーズ開幕戦を開催。

超戦闘プロレスFMW[編集]

2015年3月4日、ハヤブサ、超電戦士バトレンジャーFMWプロモーション代表取締役社長の高橋英樹が記者会見を行いFMWの名を冠するプロモーション「超戦闘プロレスFMW(ちょうせんとうプロレス・エフ・エム・ダブリュー)」の設立を発表。運営はFMWプロモーション。4月21日弘前市河西体育センターでプレ旗揚げ戦を開催。4月27日、新宿FACEで旗揚げ戦を開催。6月25日、大仁田がレギュラー参戦している超花火プロレスと業務提携を結んだことを発表。

タイトル[編集]

FMW[編集]

トーナメント戦、リーグ戦
  • 総合格闘技オープン・トーナメント
1990年に開催したシングルトーナメント戦。
  • 世界最強総合格闘技タッグリーグ戦
1991年に開催したタッグリーグ戦。
  • 世界最強ストリートファイト・タッグリーグ戦
1992年に開催したタッグリーグ戦。

超戦闘プロレスFMW[編集]

所属選手、主要参戦選手[編集]

FMW[編集]

プロレスラー[編集]

女子プロレスラー[編集]

超戦闘プロレスFMW[編集]

プロレスラー[編集]

女子プロレスラー[編集]

来日外国人選手[編集]

プロレスラー[編集]

女子プロレスラー[編集]

格闘家[編集]

女子格闘家[編集]

スタッフ[編集]

レフェリー[編集]

リングアナウンサー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 男女混合プロレス団体としては、それより以前に全日本プロレス協会国際プロレスがあったがいずれも女子の試合を興行内に挿入する形で行っていた。
  2. ^ 大仁田厚金村ゆきひろ(現:金村キンタロー)と対戦して勝利して金村が率いていたW★ING同盟を解散させる形で吸収して、さらに正規軍から黒田哲広ZEN旗揚げにより冬木弘道がカムバックしたことに反発したミスター雁之助らが加入。なお大仁田は当初、新団体と位置付けて他団体参戦も辞さないという旨を示していた。しかし大仁田が「FMWが好きだからこそ(敵となってFMWと)闘った」と発言したのを機にFMW壊滅を目標としていた金村らが反発。金村を始めとする数名がZENを離反するに到った。因みに、金村とBADBOY非道が暫定的なユニット「チーム悪」を経て後に結成したユニット「チーム・ノーリスペクト」(後述)の名称にはカリスマ(大仁田)に忠誠を誓うといったFMWの長年の傾向に対して「もう誰も尊敬しない」といった反発と皮肉を込めたとされている。また後年に金村らが流行らせたブリブラダンスはZEN勢が試合終了後のパフォーマンスとして行ったZENダンスと呼ばれた踊りが基でありブリブラダンス及びチーム・ノーリスペクトのテーマ曲として定着したCOME OUT AND PLAYも元々はZEN勢の入場テーマ曲であった。
  3. ^ ディレクTVは同様に旗揚げしたばかりであったアルシオンとも契約。
  4. ^ この4名は契約解除後ユニット「コンプリート・プレイヤーズ」を結成して他団体へ参戦。
  5. ^ その中には商工ローンのほか、いわゆるヤミ金融も含まれていたと言われる。
  6. ^ a b c この3人は、いずれも大仁田厚に挑戦状を叩きつけたという空手家のゴールド・ウィリアムスなる空手家がFMWに先兵として送った自身の弟子という触れ込みだった。しかし揃って来日したレイ・バレラコディ・テンプレトンはタッグを組んで大仁田との対戦の機会に幾度も恵まれたものの、その度に弱さを露呈して「これではお客さんが満足しない」と判断した大仁田にもう1度別に試合をさせる事態を引き起こした。さらに後に来日したソウル・キングターザン後藤とのシングルマッチに臨んだが、やはり実力の無さを露呈して力量を見切った後藤に一方的に叩き潰される形で敗退。その後、彼らの師匠のはずであるウィリアムスは結局1度も来日はおろか姿も現わさなかった。

外部リンク[編集]