UWF

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UWF(ユー・ダブリュー・エフ)は、日本プロレス団体。設立時期により第1次と第2次に分かれる。正式名称はユニバーサル・レスリング・フェデレーション、ユニバーサル・レスリング連盟

設立当初は古代ギリシャパンクラチオン復興を目指していたが離合集散を繰り返して第2次UWFが崩壊以後は分派した団体間、個人間で誹謗、中傷が頻発。

なお、これらUWFの思想から派生したプロレス団体と格闘技団体を総称してUWF系と呼ぶ。略称はU系

入場式等で使われたメインBGM(通称「UWFのテーマ」)は「Uの遺伝子」と称されてUWF出身選手が大一番で使用して神聖なものと捉える人もいる。現在では高校野球の応援歌としても使われている。

ちなみにアメリカにもビル・ワットが主宰した同名の団体「Universal Wrestling Federation」が同時期に存在したが交流も関係も全くない。スティーブ・ウィリアムスらが保持していたUWFヘビー級王座は、このビル・ワット版UWFの認定タイトルである。

また日本にも同名の団体「ユニバーサル・プロレスリング」が設立されているが関連はなくプロレススタイルも異なる。混同を避けるため当ページの団体を「UWF」、ユニバーサル・プロレスリングは「ユニバーサル」と呼び分けることもある。

概要[編集]

ファン及び専門誌では旧UWFとも呼ばれる。所属選手はユニバーサルと呼ばれる場合がある。第1次UWFは1984年新日本プロレスの専務取締役兼営業本部長だった新間寿を中心に所属選手の前田日明剛竜馬グラン浜田、フリーのラッシャー木村らによって立ち上げられた。

第1次UWF[編集]

設立までの経緯[編集]

設立の裏には当時、新日本プロレスアントニオ猪木が起こした事業「アントン・ハイセル」の失敗により猪木が莫大な負債を抱えて、その補填をする為に新間寿と反猪木派社員が反目。新間が猪木の新たな受け皿として用意したのがユニバーサル・レスリング連盟UWF)である。前田日明によるとクーデター事件により新たな資金源が必要になった猪木がフジテレビと契約するために作ったという[1]

一時クーデター派によって新間は専務取締役兼営業本部長を解任されて同時に猪木も代表取締役社長を一時的に解任。しかし「猪木なしでの新日本プロレス中継はありえない」というテレビ朝日の介入によりクーデターは未遂に終わる。

そういった経緯から設立前には猪木を含めた新日本所属選手の参加が噂されて旗揚げ戦のポスターにも当時の新日本主力選手や主力外国人選手の写真が載せられたが(「私はすでに数十人のレスラーを確保した」というフレーズまで刷り込まれた)結果としては前田を始めセミファイナル以下のレベルの選手が旗揚げに参加にするにとどまった。

なお前田は「猪木さんが「俺も後から行くから先に行ってくれ」と言われたので移籍した」と後に発言している。また佐山聡は後に男性誌の連載記事にて前述にあるような事件の内幕を暴露している。

外国人選手に関しては表立ってはいなかったがジャイアント馬場のルートでテリー・ファンクが窓口となり選手を斡旋している(旗揚げシリーズには、テリーが主戦場としていたテキサス州サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングからボブ・スウィータンスコット・ケーシーテネシー州メンフィスCWAからダッチ・マンテルが来日)。これは旗揚げ前に新間から馬場に「猪木とUWFを作るがそれがきっかけで外人引き抜き戦争が再燃しないように外人ルートで協力してくれ」と依頼があったためといわれておりマーク・ルーインカリプス・ハリケーンといった全日本プロレスへの来日経験者がUWFに登場したのはこのためである。新間の退陣後は剛やマッハ隼人をブッカーにカナダ沿海州アトランティック・グランプリ・レスリングメキシコEMLL(現:CMLL)からの招聘ルートを独自に開拓。カナダからはフレンチ・マーテルレオ・バークザ・UFOスウィート・ダディ・シキキューバン・アサシンなどのベテランのほかダニー・クロファットもフィル・ラファイアーの名義で第1次UWFに初来日している。

路線[編集]

1984年4月11日埼玉県大宮市大宮スケートセンターで旗揚げ戦を開催。ポスターに掲載されていた猪木を始めとする当時における新日本主力選手やハルク・ホーガンアンドレ・ザ・ジャイアントら当時における新日本のトップ外国人選手は誰も出場しなかった。そのため、これらの選手の来場を期待したファンからの罵声や当日の興行には関係のない猪木、長州力藤波辰爾らのコールがメインイベントの前田の試合中に発生するなど波瀾含みのスタートだった。

旗揚げシリーズは路線も定まらない状態だったが前田の師匠格である藤原喜明高田延彦を引き連れ参加したあたりから方向性が定まり始め道場で行われるスパーリングのような関節を取り合う攻防を中心としたレスリングに転換していく。殴打技蹴り技も取り入れており極真会館空手家キックボクサー山崎照朝を特別コーチに招いて指導を受けた[2][3]。その様子はのちに極真会館の空手道選手松井章圭と『ゴング格闘技』(1987年8月号)で対談した際に前田自ら語っている[2][3]

新日本は長州が率いる維新軍との軍団抗争が激化。純プロレス路線をさらに推し進めるなかUWFは1984年7月23日と24日に後楽園ホール大会「UWF無限大記念日」に引退していた佐山聡がザ・タイガーとして新日本を退団後に佐山のジム(当時の名称はタイガージム)でインストラクターをしていた山崎一夫を引き連れて出場することになる。大会が成功した後も一部のマスコミやファンの強力なバックアップもあり山崎共々、継続参戦することになり8月4日に正式に入団を果たす。後に新日本を退団した木戸修も加わることになり基本となる陣容はこれで固まった。なお佐山は復帰の条件として一部フロントの追放を挙げ、これにより新間は正式にUWFから手を引いた(この時、新間に追従する形で浜田も離脱)。

彼らはカール・ゴッチの門下生であったことから、ゴッチの娘婿である空中正三も選手兼レフェリーとして参加。ゴッチ自身も居住地のフロリダからスコット・マギージョー・マレンコヨーロッパからジョニー・ロンドスピート・ロバーツなど外国人選手のブッキング及び若手選手の指導を協力。ここにUWFの目指す「レスリング=ゴッチ流ストロングスタイル」という一応のラインができあがる。

佐山はリングネームをスーパー・タイガーと改めて9月7日に後楽園ホール大会「UWF実力No.1決定戦」第1ラウンドで藤原を9月11日に同所での第2ラウンドで前田を倒して「実力No.1」の称号を獲得。試合はシングルがほとんどロープワークを廃する相手の技を簡単に受けないなど従来のプロレスのショー的要素を廃して「キックが急所にまともに入ったら誰であってもまともに立っていられない」、「関節技はポイントがガッチリ決まれば絶対に逃げられない」とする格闘技色の強いレスリングを展開して従来のプロレスに飽き足らなくなっていたファンはUWFの標榜する路線を支持して一部に「UWF信者」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出した。途中で佐山のUWF移籍問題で社長の浦田昇が暴力団を介して佐山のマネージャーだったショウジ・コンチャを強要した容疑で逮捕されるなどスキャンダルも報じられた。また木村と剛が「ビクトリー・ウィークス」シリーズ後に離脱。これはゴッチ流ストロングスタイル路線を嫌ったのが理由と言われることが多いがシリーズ前後での佐山やゴッチを迎えた道場での合同練習にも彼らが友好的に参加していた事実は雑誌企画で取材に来た見栄晴のレポートでも紹介されており、また当人たちが後に離脱の理由について「外国人選手のブッキング窓口を巡るトラブルが理由であり格闘技路線そのものに反対したわけではない」と語っていること加えてプロレス批判を強めていく前田、藤原、佐山から木村と剛に対する批判がほとんどなされていないことから、この理由はマスコミ及び一部UWF信者が後になって作り上げたものと見做される。UWFは、この後もおおむね順調にいくかと思われた。

しかし佐山の参戦は諸刃の剣だった。佐山は山崎とのタイガージム時代から「新格闘技」と称して、しっかりしたルールにのっとった新しいスタイルの正しいスポーツを模索してプロレスではなく「シューティング」、その選手には「シューター」という単語を使うようになり、そのプロデュースを手がけることにたいへん熱心だったことから徐々に試合ルールなどに口を出すようになり実際それは実行されていった。佐山は最初の試みとして藤原とノーフォールマッチを行い勝利すると1985年に所属選手の戦績から実力査定を行うリーグ戦を開催してランキング制度を導入してAリーグとBリーグの2軍制を取り入れた。「反則をより明確にする」、「フォールは体固めとブリッジフォールしか認めない」、「減点ポイント制を導入してロープエスケープを繰り返しポイントがなくなった時点で負けとなる」、「UWF認定のキック専用シューズ以外を付けてファイトする時はキック攻撃を行なってはならない」など内実あまりに実験的な試みを数多く取り込んでいったため佐山以外の所属選手は徐々にフラストレーションを募らせていくことになる。

興行活動停止[編集]

「テレビ局が付いていなければ団体運営は出来ない」と言われていた時代にUWFはテレビ番組が無かった。旗揚げ当初はフジテレビが放送するという話もあったが立ち消えになっている[4]。その後TBSで放送するという話も持ち上がったが、これも諸問題から立ち消えとなり最終的にはテレビ東京の番組「世界のプロレス」で一部の試合が放送されたが放送局の関係でネット局も少なく、しかも定期放送ではなかったためアピールするには不充分だった。

アピール度や放送する事で入ってくる放映権料も無い事で資金繰りに苦しんでいた中でスポンサーを務めていた豊田商事(一時団体名を「海外UWF」と名乗った事もある)会長の永野一男が殺害されるなど、さらに資金繰りが悪化したばかりでなく豊田商事事件の影響でテレビ東京からも試合中継を打ち切られた[5]

またリングでは目指すスタイルの問題及び佐山が実権を握り自分に都合のいいように団体改革を推し進めたことで佐山とその他選手の間に徐々に溝が生じて経営悪化も目に見えていた。1985年9月2日大阪府立臨海スポーツセンターでは社長の浦田と新日本の山本小鉄との会談が行われて新日本との業務提携交渉がスタートしたが[6]当日の興行では第2回公式リーグ戦で前田が佐山に喧嘩マッチを仕掛けたことで、ついに不協和音が表に噴出してしまう。佐山は前田の蹴りが自分の下腹部に当たったとしてレフェリーに反則を主張。前田の反則負けとなるが実際は下腹部には当たっておらず佐山が一方的に試合を終わらせたものと見られている。その後前田は欠場。この事件は暗い影を落として1985年9月11日、後楽園ホール大会を最後に興行活動停止したがリングでの解散宣言は行われなかった。

その後UWFは債権者からの催促を避けるべくスポンサー獲得に奔走したが5台あったリース契約の営業車の内4台がリース代金滞納であったためにリース会社に引き上げられるなど興行が不可能な状態となった[6]。佐山も同時に再びプロレス界から身を引き佐山の標榜する新しい格闘技「シューティング(後の修斗)」の設立に力を注ぐことになる。

新日本プロレスへの一時帰還[編集]

活動停止後に社長の浦田昇新日本プロレス全日本プロレスとの本格的な提携交渉を開始。全日本との交渉は長州力らのジャパンプロレスラッシャー木村らの旧国際プロレスの選手たちも上がっており所属選手全員を受け入れる余力はなかった事から決裂して新日本との交渉に望みをかけた[6]。新日本との交渉は当初は難航したが1985年12月6日に新日本との業務提携を結んだことを発表。前田日明高田延彦山崎一夫藤原喜明木戸修が古巣である新日本に電撃復帰。前田は挨拶に立った新日本のリングから「この1年半UWFの戦いがなんであったかを確認するために新日本に来ました」と宣言して新日本との安易な融合を否定して対決する道を選んだ。なお崩壊以前から前田はジャイアント馬場から「全日本に来ないか」と誘われていたが馬場が必要としたのは前田と高田だけだったので他の選手の事を考え断っている[6]

年が明けて新日本からの要求により猪木への挑戦権をかけたUWF選手内でのリーグ戦が行なわれる。最終的に前田と藤原が争い最後は前田のスリーパーホールドで藤原が口から泡を吐いて失神したかに見えたが藤原も同時に前田の足をレッグロックに捕えており勝ち残ったのは前田からギブアップを奪った藤原だった。これを受けて2月6日両国国技館で開催した猪木対藤原戦で藤原が敗れた後にリングに乱入した前田が猪木の顎に不意打ちのハイキックを入れて猪木をダウンさせた。その際猪木が反則のナックル(後に肘打ちだったことがわかる)を顎に入れた末に藤原をスリーパーホールドで失神させたことに激昂した前田は「アントニオ猪木だったら何をやってもいいのか!?」と異議を唱えた。これを経てついに新日本プロレスとUWFの戦いが始まる。

彼らはUWFスタイルを捨てることはなく新日本に真っ向からイデオロギー対決を挑み2つの異なるスタイルが対決するスリリングな展開(実際は新日本はロープの反動を利用しないUWFスタイルでの戦いを強いられることになった)はタイガーマスク(初代)の引退と長州力が率いる維新軍の大量離脱、マシーン軍団の登場による迷走等によりかつての勢いを失いかけていた新日本の戦い模様に再び火をつけてファンも出戻り組のUWFを大いに歓迎。当時はワールドプロレスリングで実況担当していた古舘伊知郎はこれを「闘いのカムバックサーモン現象」と呼んだ[7]

その中で今も語り継がれる名勝負、名シーンも数多く生み出されており3月26日東京体育館で新日本対UWFの5対5イリミネーションマッチが行われた(改築前の東京体育館における最後のプロレス興行でもあった)。4月29日津市体育館での前田対アンドレ・ザ・ジャイアントのシュートマッチは先鋭化する一方の前田を潰すために新日本が画策。この試合はテレビ収録されたにもかかわらず、あまりに異質な試合になったためお蔵入りとなった。前田は「やっちゃっていいんですか」と何度もセコンドに確認を入れ[8]、結果的にアンドレを戦意喪失に追い込んでいる。10月9日に両国国技館での2大異種格闘技戦で行なわれた前田対ドン・中矢・ニールセン戦での劇的勝利で前田は猪木に代わり「新・格闘王」という称号を得る。高田と元全日本の越中詩郎IWGPジュニアヘビー級王座を巡る対決を中心としたジュニア戦線の充実(第2期ジュニア黄金時代)なども大きな話題となった。

この中でも特筆される戦いとしては1986年6月12日大阪城ホールで行なわれたIWGPリーグ戦で前田対藤波辰巳(現:藤波辰爾)によるシングルマッチが挙げられる。前田は序盤から容赦ないキックを顔面や胸板に浴びせ藤波を圧倒するも藤波はすかす事無く真っ向から受けて、さらにコーナーの藤波に対して放った縦回転の大車輪キック(今でいう浴びせ蹴り)により額を切り大流血して最後は自らロープに飛ぶというUWFとしては異例の行動を取る[9]。前田の放ったフライング・ニールキックと藤波のジャンピングハイキックが空中で交差して両者後頭部から落ちてのダブルKOという壮絶な結末になった。この対決後に前田は「無人島と思っていたら、そこに仲間がいた」と語り上辺ではUWFと新日本の雪解けを予感させた。

1987年になって全日本に転出していた長州らジャパンプロレスが新日本に電撃復帰。この頃から徐々にUWFは閑職化していき6月12日に両国国技館でIWGPリーグ戦の決勝戦の猪木対マサ斎藤戦にて猪木が4連覇を達成した後にいつまで経ってもリング上が猪木世代に支配されていることに苛立った長州が「前田、おまえは噛み付かないのか?今しかないぞ俺たちがやるのは」とリングから藤波と前田を巻き込むように世代闘争をアピール。これに前田が「どうせやるんだったら世代闘争に終わらんとな誰が一番強いか決まるまでやればいいんだよ決まるまで」と呼応したことで猪木、斎藤ら旧世代軍と長州、藤波、前田を中心とする新世代軍の戦いが始まるにつけてUWFの存在意義は形骸化してしまう。

この戦いの発起人である長州が「俺はフライングするぞ」の一言で旧世軍との戦いの終結を早々に一方的に宣言したことと斎藤が猪木との共闘を嫌い再び戦うことを選んだためジャパンプロレス(長州)とUWF(前田)の間で確執ができて、ついに11月19日後楽園ホールで維新軍対UWFの6人タッグマッチにおいて前田が長州を防御の出来ない背後から顔面をモロに蹴るという俗に言う「前田顔面蹴撃事件」を起こした。長州は右前頭洞底骨折の全治1か月の重傷を負いプロレスにおける暗黙のルールである「故意に相手に怪我をさせるような攻撃はしてはならない」という禁を破った前田はその行為を内外から問題視されて無期限出場停止処分となった。その解除条件としてメキシコ遠征を言い渡されるものの、これを拒否。1988年2月1日付けで新日本から解雇通達を受ける。

第2次UWF[編集]

興行活動再開[編集]

ファン及び専門誌では新生UWFとも呼ばれる。1988年に前田が設立。

第1次UWFはスポンサーを見つけられず興行的に苦戦して興行活動停止に追い込まれたが新日本プロレスとの業務提携時にUWFスタイルをテレビを通じてアピール出来た事から全国的にファンの支持を得る事に成功して5月12日後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。チケットがわずか15分で完売する等、旗揚げ前から異常なまでの盛り上がりを見せた。所属選手6名のみでの再出発となったが前田日明は挨拶で「選ばれし者の恍惚と不安2つ我あり」と心境を述べた。

6月11日札幌中島体育センターで復活興行を開催。復活興行2戦目では会社を休んで遠方からやってくるファンもいたほどで(ターザン山本が「密航」なる言葉まで生み出した)放送作家の高田文夫や作家の夢枕獏札幌市まで足を運んだと言う。チケットぴあなどのチケット販売代理業を有効活用してレーザーライトやスモークによる会場演出といった旧来のプロレスとは異なる新しさを持っていた。

旗揚げ当初から興行も従来からのシリーズ巡業形式ではなく月1回の単発形式に絞って各地の主要な会場を回るビッグマッチ形式を採用して連戦による選手の著しいコンディション低下を予防。試合では蹴りによるハードヒットを繰り返すためコンディション維持を考えるとそうせざるを得なかった、ということもある。大会ごとの記念グッズを作ったり前の大会を完全収録したビデオを次の大会でいち早く販売することで収益を上げて興行数の少なさを補う、など新たな試みがなされた。これらの試みは所属選手のクオリティーの高い試合を生み出す要因となり、またファンにも「いち早くUWFを観たければ会場に行くしかない」という飢餓感を刺激して大成功を収める。

8月13日有明コロシアムシュートボクシングとの合同興行「真夏の格闘技戦」でメインイベントに前田対ジェラルド・ゴルドー戦をおいて成功させると以降も大会を開く度にチケット完売記録が続いていき当時、冬の時代を迎えていたプロレス界において唯一天井知らずの人気を獲得してトップを独走していった。またこの後からルール面での整備にも着手し、第1次UWFでも試された。

  • 試合は全てシングルマッチ1本勝負。
  • 勝敗はKOもしくはギブアップのみでピンフォールなし。
  • 5度のダウン(3度のロープエスケープで1度のダウンと算定)でTKO負け。

以上の基本的な枠組みを決定して高田延彦山崎一夫が早い段階で前田に匹敵する力をつけていったことによって団体内のパワーバランスも安定する。その後、高田対ボブ・バックランド戦や前田対クリス・ドールマン戦などで話題を振りまく。

1989年になると新日本を退団した藤原喜明船木誠勝鈴木実(現:鈴木みのる)、が入団して駒がそろったところで11月29日東京ドームで「U-COSMOS」を開催。チケット発売日だけで4万枚のセールスを記録して最終的に6万人を動員。

ノーマン・スマイリーマック・ローシュバート・ベイルジョニー・バレットウェリントン・ウィルキンス・ジュニアディック・レオン・フライ等の常連外国人選手もいるにはいたがスタイルの違いや招聘にかかる諸経費の問題からなかなか定着する新顔は現れず、また日本人選手が充実していたことで、ほとんどの試合は日本人対決で賄われていった。

崩壊[編集]

順風満帆かと思われていたがスポンサーでもあったメガネスーパーのプロレス界参入によりSWSとの業務提携話が発生したためフロントと選手間に不協和音が流れ始める。さらに社長の神真慈と一部フロントの会社経理における不正疑惑が発覚して、それを糾弾した前田が会社への背任行為として5ヶ月間の出場停止処分を受けた[10]1990年12月1日松本運動公園体育館で船木の呼びかけにより欠場中の前田を含む全選手がリングに勢揃いして万歳三唱、選手の一致団結をアピールし新団体設立を印象付けたが最終的には社長の神が所属選手全員を解雇して、これをもって興行活動停止[11]

その後、前田が先頭に立って選手主体による新団体(当時、俗に「第3次UWF」とも称された)を設立する方向に動き1991年1月に前田宅で藤原を除いた主力選手によるミーティングを行った。新団体の準備を進めていた前田は結束を呼びかけたものの宮戸優光安生洋二らから不満が噴出。結局、前田がその場で解散を宣言して同年春にプロフェッショナルレスリング藤原組UWFインターナショナルリングスの3団体に分裂。

前田は選手達が解散後すぐにそれぞれの新団体を設立した事について「事前に準備していなければ、こんなに早く会社を起こせる訳がない。自分の知らない所で、みんな動いていた事にショックを受けた」と後に明かしている。

タイトル[編集]

第1次UWF
当初はWWF(現:WWE)会長だった新間寿の伝手でWWFインターナショナル・ヘビー級王座だったが新日本プロレスに全く同じ名前のWWFインターナショナル・ヘビー級王座が存在して同じ名前の王座が2つ存在すると言う異常な事態となった(数年前に復活して藤波辰爾長州力が争っていた王座)。王者であった前田はWWFのエリアで防衛戦を1度だけ行ったが、それが最初で最後の防衛戦となり新間がUWFから離れた事によってWWFとの関係も無くなり王座はUWFヘビー級王座と改称されたが防衛戦は行われないままUWFヘビー級王座は自然消滅となった。
第2次UWF
王座は設けていない。

所属選手[編集]

第1次UWFと第2次UWFの両方に所属
第1次UWFのみ所属
第2次UWFのみ所属

スタッフ、役員[編集]

第1次UWFと第2次UWFの両方に所属
  • 北沢幹之(レフェリー)
  • ミスター空中(第1次UWFは選手兼レフェリー、第2次UWFはレフェリーに専念)
  • 神真慈(第1次UWFはリングアナウンサー、第2次UWFは代表取締役社長)
第1次UWFのみ所属
第2次UWFのみ所属

来日外国人選手[編集]

関連書籍[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 山本小鉄前田日明 『日本魂』 講談社
  2. ^ a b ゴング格闘技』8月号、日本スポーツ出版社1987年
  3. ^ a b 北之口太 「大山の告白」『一撃の拳 松井章圭』 講談社(原著2005年4月20日)、第一刷、214頁。ISBN 4062127423
  4. ^ 『日本プロレス事件史vol.8』P33
  5. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P77
  6. ^ a b c d 『日本プロレス事件史 Vol.3』、P32 - P34
  7. ^ 金沢克彦 (2012年2月2日). “前田日明vs上田馬之助|金沢克彦オフィシャルブログ「プロレス留年生 ときめいたら不整脈!?」”. 2015年9月11日閲覧。
  8. ^ 前田日明の弁によれば「やれば必ずどちらかが大怪我をする。それでもいいのか」と尋ねたが黙殺されたうえ「おい、どうした。セメントだぞ」とけしかけられたという。なおアンドレ・ザ・ジャイアントのセコンドに付いていたのは若松市政
  9. ^ この藤波辰巳(現:藤波辰爾)の流血事件については前田日明が引退後に詳しく解説しておりレガースの下に履いていたシューズの金具が額を切ってしまったと語っている。またミスター高橋も著書の中で偶発的な事故だったと明言している。
  10. ^ 『俺たちのプロレス UWFあの頃と今』P84(2014年、双葉社ISBN 4575454419
  11. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.3』、P52