スーパータイガージム
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スーパータイガージムは、佐山聡が設立した日本で初の総合格闘技ジム。

概要
[編集]1984年に元新日本プロレスのタイガーマスク(初代)こと佐山聡が新たに創始した初の総合格闘技「修斗」のジムとして立ち上げ、佐山の元で土台を築き上げ、1996年には佐山の手を離れ、修斗は一人立ちして規模を大きくし、「スーパータイガージム」は現在の「PUREBRED」や「シューティングジム横浜」、「パラエストラ」、「HAGANE GYM」となり数々の格闘家を輩出する。
タイガージム
[編集]- 1984年1月、佐山聡がリングネームを「タイガーマスク」から「ザ・タイガー」に改名して東京都世田谷区瀬田にタイガージムを設立。一般会員を募って指導を行うと共にスポーツとしての「新格闘技(後のシューティングつまり修斗)」の実験の場とする目的で開いた。

- タイガージムは、たくらみを持って近づいてきた、当時の佐山を金儲け目的で利用していた悪徳マネージャーのショウジ・コンチャという人物が事実上の代表取締役会長であり(佐山は代表取締役社長だった)、高級スポーツクラブ内にあったため、賃貸契約上、格闘技のジムでありながら会員に格闘技を教えることが許されず、形を変えたファンクラブのようになっていた(インストラクターや内弟子だけの練習では格闘技の練習を本格的に行っていたが、一般会員は自重の筋トレのみだった)。コンチャを「お父さん」と呼んで慕っていた佐山(コンチャは佐山を「ティグレ」と呼んでいた)も、このあたりからコンチャに対して不信感を抱くようになる。コンチャは佐山が本気で格闘技をやろうとしているとは信じておらず、プロレスラーをバカにしていたような部分もあり、タイガージムに関しても「元タイガーマスク佐山聡」の知名度を利用して金儲けをしようとしか考えていなかった。その後コンチャは佐山に、いきなり「全日本プロレスに出てくれ」等いろんなことを言い出した為、佐山もいよいよ「これは怪しいな」と思ってきた頃、以前コンチャに騙された経験があった会社社長からコンチャの正体を全部聞き、騙されていたことに完全に気づき、コンチャとは絶縁。7月になって、第1次UWFに合流した際に閉鎖。
スーパータイガージム時代
[編集]- 「ザ・タイガー」名義の権利もコンチャにあるため、リングネームを「ザ・タイガー」から「スーパータイガー」に再改名。それと同時に1985年1月、佐山の創設した初の総合格闘技シューティング(修斗)のジムとして、新たに東京都世田谷区三軒茶屋にスーパータイガージムを設立。

- 佐山はプロレスを引退し、プロレスとは絶縁し、修斗(当時は「シューティング」と呼んでいた)を1つの格闘技として確立させるべく指導者としてジムの会員達に指導し、根付かせることに専念する。
- 当時は佐山を慕って光栄な気持ちで入会してくる元タイガーマスクファンやプロレスファン、プロレスを志す者、プロレスを目指したけど断念し第二の夢としてシューティングを志す者、憧れの佐山聡から直接教わりたいというファン等が後を絶たず、ジムに入りきれないほどの膨大な会員数であった為、月・水・金の組と火・木・土の組とに自動的に振り分けられていた。
- 当時のスーパータイガージムは飽くまでも身体が出来ていないジャニーズ系のプロレスファン・格闘技ファンの集まりで、最後まで残った初代シューターも当然、初代タイガーマスクに憧れて入って来た人間ばかりで、みんな「憧れの有名人である佐山聡と同じ空間を共有し憧れの有名人である佐山聡から直接教われる」という光栄で感激で夢みたいでたまらなく楽しく幸せな気持ちでジムに来て入会してきた。が、しかし待っていたものは、その憧れの佐山聡からのタックル1000本など想像を絶する過酷な地獄の猛練習だった。

- 三軒茶屋時代は、ウルトラマン80の主役俳優である長谷川初範も俳優業の傍らジム生として練習していた。
- 1986年6月30日に「プリ・シューティング大会」が後楽園ホールで開催され、八角形リング上でプロレスマスク型の防具マスクを着用し、平直行、北原光騎、中村頼永、川口健次、板倉広(後年プロレスラーとなる)らが出場した。このプロレスマスク型の防具マスクは打撃等を受けた時に顔に怪我をする(佐山のハイキックを受けたらマスクを着用しているにも関わらず口を切って出血する等)という逆効果となり改良を重ねられたが後に廃止となる。
- 1987年3月に修斗協会が発足した。5月30日には「セカンドクール」が世田谷のインターナショナルスクールで開催された。9月13日には「サードクール」が後楽園ホールで行われ、渡部優一や港太郎が活躍した。
- 1987年から「スーパータイガージム」の他に「木口道場」も初のオフィシャルジムとしてシューティングを行っていた。
- 1989年にはシューティングのプロ化という大きな変革を起こす。以降プロレスマスク型の防具マスクは着用せず素面で行われるようになる。佐山はシューティングの運営母体であった「サトル興業」を「日本プロシューティング」と名称変更した。
- 三軒茶屋のスーパータイガージムは当初、太子堂ビル(ちょうどスーパータイガージムとして使われていた時期の後半に、屋上から腕を下に伸ばした巨大なゴリラのオブジェが付け足され、一般公募により以降の名称は「ゴリラビル」となった)で、ここの2階にスーパータイガージムがあった。奇しくも3階は統一協会だった。
- その「ゴリラビル」のスーパータイガージムだった場所は現在、魔裟斗の所属したシルバーウルフ (キックボクシングジム)となっている。
- 佐山の指導は超スパルタであり、オープン当初は優しかったものの時期を追うごとにだんだん厳しくなっていき、佐山の目つきも怒った目になっていき、佐山による毎回の厳しい地獄の練習メニューに脱落者が大多数で次々と退会して会員が激減してしまった為、家賃が払いきれなくなり、シューティングのプロ化に伴い1989年に3軒隣の狭い雑居ビル4階&屋上に設置したテントとマットへと移転した。この頃には「ゴリラビル」時代のようなプロレスファン・格闘技ファンの集まりという状態ではなく、プロ志望の本格的な格闘家の集まりとなっていた。
- 1990年代になってジムを三軒茶屋から神奈川県川崎市宮前区鷺沼の「スーパータイガージム鷺沼」(「宮田アスレチッククラブ」を間借り)を経て神奈川県横浜市に「スーパータイガージム横浜」として移転した(「スーパータイガージム鷺沼」はその後「総合格闘技宮田道場」と名称を変え、オフィシャル支部ジムとなる)。有名な1991年9月(1993年とも言われており、どちらが正確かは不明)の足利工業大学付属高校での合宿が行われた時は横浜ジムが本部であり、当時の佐山は普段、横浜ジムで指導を行っていた。
- 1994年3月11日に新格闘プロレスの興行「RISING SUN」開幕戦・後楽園ホールにおいて「シューティングvs新格闘プロレス」の対抗戦が1試合行われ(中井祐樹がプロレスラーの木川田潤を27秒ヒールホールドで秒殺)、続く18日にはシューティングの興行「日本プロシューティング公式戦」後楽園ホールで同様に2試合(九平がプロレスラーの阿部吉彦に打撃だけで何度もダウンを奪い阿部がそれでも「バカヤロー!」と叫んで根性で立ち上がるも尚も完全に倒してKO勝ちし大喜びでガッツポーズする、川口健次がプロレスラーの深谷有一を32秒ヒザ十字固めで秒殺、対抗戦以外の他試合は横浜ジム所属で佐山聡の弟子であるチャート鶴崎が序盤からハイキックをしようとして自分がコケたところを西澤孝に打撃だけで一方的かつ凄惨なメッタ打ちの秒殺KOをされマット上に沈むという惨敗を喫し、合気道SA所属の奥田康則がプロレスラーのマグニチュード岸和田に腕ひしぎ逆十字で勝利)、結果「シューティングvs新格闘プロレス」の対抗戦は計3試合が行われ3試合ともシューティング側の勝利。当時は横浜ジム所属で佐山から直接指導を受けていた川口健次、中井祐樹、九平が出場して新格闘プロレスのプロレスラーと対戦したが、いずれもシューティング側の秒殺勝利だった。この対抗戦が行われたのは、当時のシューティングと新格闘プロレスに共通のスポンサーが着いており、そのスポンサーが修斗協会の浦田昇会長と大学時代の先輩後輩の関係だったことから実現した。
- 1994年4月29日に埼玉県大宮市丸ヶ崎にあった健康ランド「大宮健康センターゆの郷」敷地内に併設という形で「スーパータイガー・センタージム」として本部を移転。ジム入口には「スーパータイガージム大宮 佐山聡道場」という木の看板があった(現在その看板は中村頼永の実弟でありマスク職人の中村ユキヒロが経営する佐山のタイガーマスクとしてのマスクやコスチューム製作元の「タイガーアーツ」が所蔵している)。
- 大宮ジムは中村倫也の父親であり「大宮健康センターゆの郷」を経営していた中村晃三が当時は修斗のメインスポンサーだったことから創設されたジムである。この頃から「シューティング」を「修斗」と呼ぶことが多くなっていき、1990年代後半には「修斗」で統一されるようになって行く。
- 「スーパータイガージム横浜」(現在の名称は「シューティングジム横浜」)はオフィシャル支部ジムとなり、佐山の愛弟子である川口健次が、その代表となって引き続き現在も運営されている。横浜ジムの当初の場所はスポンサーが出したもので広く設備の整ったジムだったがスポンサーが外れたために反町へ移転となり(この頃に大宮ジムが開設され、本部が横浜ジムから大宮ジムに移動し、佐山聡および坂本一弘、中井祐樹、九平が横浜から大宮に移動し、朝日昇が木口道場から大宮に移動する)、その反町にあった移転先のジムは極端に狭かったため1997年に更に移転し、2023年にそのビルが取り壊しになったため更に移転している。

クーデター事件・佐山聡との決別
[編集]- 1996年にジム内でクーデター事件が起こり(佐山がそれまでは弟子達にキレながら力説するほど徹底否定して低く言ってたプロレスに今度は何故か自身が再びタイガーマスクとして現役復帰しその自身が低く言ってたプロレスラーに自ら戻るという矛盾に対してインストラクター達・フロント側が一斉に反感を抱いた等といった確執が理由)、1996年7月7日を以て会長の佐山聡だけがジムを去って行き(その少し前からジムの空気がギスギスしてきて、アルティメット大会やバーリ・トゥードがブームとなったこともあって佐山に憧れて入ったわけではない会員も多くなり、会員層が大幅に変化してきて、全体の空気が佐山の理想とはかけ離れた方向に独り歩きし始め、それぞれが独自の方向性を佐山の意思に反して強く出すようになり、何でも短期間でコロコロ変更したがる性格である佐山の言うことに完全には従わなくなり、佐山の手に負えないと感じ、「もう勝手にしろ、新たに別の格闘技を一から改めて作り直す」と思ったとも考えられる)、佐山に育てられたインストラクター達が佐山抜きで自分達だけで舵を取って運営するようになり(木口道場所属の桜田直樹が浦田会長の後を継いで修斗協会の次期会長となる)、以後は佐山聡とは無関係になるためスーパータイガーの名称を外し、「シューティングジム大宮」に名称を変更して(ジム名が長いことなどから呼称として「大宮ジム」と呼ばれていた)、ジム入口の「スーパータイガージム大宮 佐山聡道場」という木の看板を外し、佐山の直弟子である朝日昇、中井祐樹、エンセン井上、草柳和宏、九平がインストラクターとして指導を続ける。同じく佐山の直弟子である坂本一弘は現役選手を引退しフロント業に徹する(他の選手が佐山の変更した新たな試合ルールに対して批判的な発言をしたのを某雑誌が坂本の発言という捏造をして掲載したため、それを読んだ佐山が坂本に対して激怒し、その誤解から佐山と坂本は長い期間絶縁状態となっていた)。佐山がタイガーマスクとしてプロレスに復帰したのは、修斗を立ち上げた当初から莫大な借金があり、1996年頃には経費も底をつき非常に苦しくなって借金返済に追い詰められていたため、苦肉の策として再びかつての初代タイガーマスクファンに媚を売りタイガーマスクを再開してプロレス復帰することで返済をするしか手段がないと考えたが、弟子たちの手前、言い出せなく最後まで事情を黙っていたというのが真相だった。
一人立ちした修斗
[編集]- 佐山聡とは無関係になった後も、大宮ジムには藤原敏男とタイガーマスク(4代目)が度々訪れた。
- 当時の大宮ジムはギスギスした不穏な空気であり、相手からの挨拶を無視する会員も多く、会員同士のやり取りも非常に素っ気なくてお互いに冷たく陰湿な空気が流れていて、バーリ・トゥードのブームだったこともあって会員数が膨大であり、飲み込みの遅い会員が覚えるまで教えてはもらえず待っていても誰も何も言ってくれず雑に扱われていて居づらい空気があり、入れ替わりの激しいジムだった。人から言われないと動けないタイプには向かない環境である。
- 大宮ジムでは、1997年頃からエンセン井上が当時飼っていた犬(ピットブル)の「修斗くん」をジムに連れて来るようになり、「修斗くん」は会員たちの心を癒す存在となった。
- 大宮ジムにカルロス天野と遠藤美月、山本美憂と山本聖子が何度も出稽古に来ることがあった。
- その後、サンボのスクーリングを指導していた草柳が既に前年からオフィシャルジム「SHOOTO GYM K'z FACTORY」(現在の名称は「HAGANE GYM」であり、元々「SHOOTO GYM K'z FACTORY」に決定する前は「スーパーゼンジロウジム」という名称になる予定だった)として独立しており大宮ジムからサンボの時間が廃止となったため草柳は大宮ジムでの指導を終了し、中井が1997年にオフィシャルジム「パラエストラ」として独立し(そこから更にパラエストラのオフィシャルジムが増える)、九平がオフィシャルジムの「9’MMA」として独立し、朝日が「東京イエローマンズ」として独立。
- 以後、「シューティングジム大宮」はエンセン井上が代表となり、2000年5月に名称が「PUREBRED大宮」に変更となり、2005年からは大宮ジムで育った池田久雄が責任者となり、2015年8月に「大宮健康センターゆの郷」が閉店したことに伴い埼玉県上尾市にジムを移転。代表は池田であり、ジム名は「PUREBRED大宮」から「PUREBRED」へと変更され、引き続き総合格闘技ジムとして運営されている。