平直行

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平 直行
基本情報
本名 平 直行
通称 ザ・グラップラー
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1963-12-15) 1963年12月15日(53歳)
出身地 宮城県仙台市
所属 ストライプル
身長 175cm
体重 80kg
バックボーン 空手ボクシングブラジリアン柔術
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平 直行(たいら なおゆき、1963年12月15日 - )は、日本男性総合格闘家、格闘技レフェリー、元シュートボクサー宮城県仙台市出身。ブラジリアン柔術アカデミー「ストライプル」代表。現在、ブラジリアン柔術、総合格闘技空手などを教えている。

修斗、ブラジリアン柔術(カーリー柔術アカデミー黒帯・弐段)、シュートボクシングと多くの格闘技を習得し、独自の技術理論、試合経験を持つ。シュートボクシング世界ホーク級1位、キックボクシングUKF世界ライトヘビー級10位、プロレスインディーワールドJr.ヘビー級王者などの実績を残しているが、多数の団体・競技に参加したため詳細な戦績ははっきりとしていない。

漫画グラップラー刃牙」(板垣恵介)の主人公、範馬刃牙のモデルとなっている。

来歴[編集]

幼少期は両親が共働きであったので当時祖母が家のことをやっており、平は祖母に懐いていた。小学校時代、ブルース・リーが大流行していたため街角でキックを放つ人間が増え、平も当然のように学校でも家でも友達とブルース・リーごっこをやっていた[1]。小学校時代の平は学校で一番ブルース・リーの真似が上手く、校庭の端から端まで廻し蹴りと後ろ廻し蹴りを連続で蹴ってもバランスを崩さなかった[1]。サイドキックなら家から学校まで蹴りながらでも行けた[1]。クラスではだれが一番高いところまで蹴れるかという遊びでも、平は自分が立って手を伸ばした30cm程度上をジャンプして蹴ることができた[1]。中学時代から東孝の下で空手を始めた。

高校は思い描いた世界がないという理由で1年生の1学期に1度中退している。中退後漫然と日々を過ごしていた中、制服姿の高校生を見て自分の居場所がないと感じ、高校へ再入学することを思い立つ。アマチュアボクシング全日本王者に輝いたことがあるおじの弟やボクシング通であるその父などが、受験まで遊んでいるなら鍛えておいてやるとボクシング勧め、15歳の時に大学生に混じってボクシングの練習を始めた。大学も高校卒業資格を得たら入学させると内々定を与えていたという。体育館をずっとワンツーを打ちながら往復し、疲れて後ろ足が付いてこなくなると蹴られるので、それを避けるよう注意しながらその練習を毎日1時間行った。後に変速タイプで知られるようになった平は意外にも基本を徹底的に行った。当時はうさぎ跳びなども普通に行い、うさぎ跳びをやるときには誰かが星一徹や星明子の真似を行って練習がよりつらくなるように盛り上げた。スパーリングでも当時は痛い目に遭って我慢しながら自分で考えてディフェンスを覚えるのが普通であり、そうする内にパンチが出る前の予備動作が分かるようになった[2]

しばらくして、高校に再入学するまでの間おじから東京へボクシングの武者修行をするように言われ、当時東北新幹線などなく座り過ぎで尻が痛い思いをしながら上京した。東京での武者修行時代、飯田橋にあるラーメン屋で住込みアルバイトを行い、午前9時から午後4時まで働き、夕方に田辺ジム練習に行った後帰って少し皿洗いをする1日を送った。当時の待遇は3食練習付きで1ヶ月2万円の給料。給料は休日の食事代とコインランドリー代、練習後のジュース代に消えた。武者修行時代は1人暮らしなので自分のことは自分でやらなければならなかったが、1979年12月に16歳の誕生日を迎えた時、一人暮らしの平の労をねぎらう祖母は明治生まれであり育った時代の関係上あまり字が書けない中、漢字のあまりない手紙に小遣いを包んで平に送った。1979年の暮れ、東京での武者修行時代にバトルホーク風間が田辺ジムに出稽古に来ていた。風間は出稽古に来た際、口髭を生やし、ブランド物のバッグを持って当時の関西で流行っていたような派手なスラックスとセーターを着ていた。平は1度だけ風間とスパーリングを行ったが、ジュニアライト級の世界タイトルマッチを翌年に控えていた風間に、ボクシング歴1年未満の平は到底敵わなかった。練習後、ジムの大浴場で風間から「いいか、力をずっと入れてたらダメだぞ。いつも同じことやったらまたダメなんだ。相手に見えちゃうからな」とアドバイスを受けた。この練習を知って風間から得体の知れなさ、底の知れない感じを覚えた平は、その風間が翌年の世界タイトル戦で敗北したのを知った際に、ショックで熱を出して1週間ほど寝込んだ[3]。2度目の高校入学後、ボクシング部に所属。練習はロープを3R、シャドーを3R、サンドバッグを3R、それからまたシャドーを5R、パンチングボールを2R、再びロープを5R行い、コーチから言われた時にスパーリングとミットをプラスした[2]

一方で空手も継続しており、東が極真会館宮城支部から独立して大道塾を立ち上げた際にも平は移籍したが、当時は空手に関してはサボりの常習犯であった平はろくに独立の話も聞いていなかったという。しかしサボっていたがゆえに詳しい説明を聞く機会もないまま道着の刺繍を変えて来いと言われたのが、師匠として恰好が良いと感じたのか却って嬉しく感じたという。大道塾には西良典、長田賢一、加藤清尚など、北斗旗に名を残す王者が在籍していた。高校時代にはウエイトトレーニングを行っていたが、少しのウエイトで四苦八苦していた平は東と一緒にウエイトをするととても敵わなかったという。東からはまた「闘う時は絶対に下がってはいけない」と教わった。初めての試合では風邪で体調が悪い中、東の教えのおかげで体が勝手に動いて跳び後ろ廻し蹴りを次々と当てた。130㎏の巨漢を相手に80㎏だった平ではさすがに倒せなかったが空手デビュー戦では判定勝ちを収め、初めての空手大会で敢闘賞を貰った[4]。高校卒業後に上京する予定であった平は東から「いいか、平。空手続けろよ。東京には大道塾はないから極真の本部に行け。あそこに行けば強くなるぞ。それでな、大道塾にいたことは黙っておけ。嫌なことがあると困るからな。そのうち大道塾を東京に作るから、東京で練習しておけ」と言葉をかけてもらった[5]

高校卒業後に上京した平は顔面へのパンチをもっと覚えることと体を大きくすることを目的としてボクシングとボディビルのジムに通った。実はプロレスラーを志望しており、体を大きくするために池袋駅東口3階にあった賄2食付きの喫茶店で朝8時から夕方4時までアルバイトを行った。周囲にプロレスラー志望であることを公言していたため、賄には経費がかかったが皆応援して沢山食べさせてくれた。朝からモーニングを3人前食し、ランチの準備が終わったらすぐできあがったランチを食べ、ランチタイムが終わったらまた食べ、と後年「申し訳ない」と振り返るほど食べた。もちろん食べるだけなく、物凄く繁盛して忙しい店でしっかりと働いて恩を返した。上京直後から始めた喫茶店のアルバイトでは、遅番を務めるチーフのコックが来るまで平を含めてアルバイト3人で回していた。そのため平は初日から料理を担当するなどしていたが自由な社風の中で働き、半年もすると店のメニュー全部を作れるようになった。全体の流れを知りながら無駄な動きを省きつつ絶え間なく動くことは格闘技に通ずるものであり、平はこれが役立ったと後年振り返っている[6]

修斗ではデビュー前にムエタイ式の蹴りを覚えようとしたがなかなか上手くいかなかった。空手とシュートボクシングでは微妙に技術が違うことを体に覚えさせられないままデビュー戦を迎え、平は空手スタイルで行こうと考えた。平は東の教えを活かしてどんどん前に出てダウンを奪い、デビュー戦を勝利した。その試合運びから平は当時「プッツンファイター」の異名を取った[7]。1984年に成人式を東京で迎えた頃、夢が叶わなくなったらどうしようかと焦り、それまで夜7時までであった練習に加え、7時に休憩を取ってからプロテインを飲んで9時までさらに練習するようにした。そのため、この頃の平は流行りのテレビ番組を見る暇もなかった。それから半年後、1984年の秋に、スーパータイガージムのインストラクターとして採用された[8]。その際アルバイトをやめてそれまで住んでいた飯田橋のアパートを引き払い、一緒に働いていた元暴走族のアルバイトやその人物の仲間と仲良くなり、引っ越すときには当時住んでいた飯田橋から三軒茶屋まで改造車で送ってもらった。インストラクターになる前に3ヶ月のテスト期間を設けられ、ボクシングとボディビルのジムでの練習が終わった後で練習を行った。その練習を終えて食事を取って寝るころには午前2時になっていた。午前8時からのアルバイトであったが、頑張っている平を見て、アルバイトの仲間達が上手く都合をつけて午前11時から出勤すれば良いようにした。しかし勤務時間が減ると1人暮らしに必要なアルバイト代を稼げなくなるので、遅番の従業員の休憩時間をずらして勤務時間を確保した。これも、アルバイト仲間の協力による。インストラクターのテストではいきなりスパーリングを行う(当時は技は見よう見まねで習得するものであった)というものであり、タップを怠った平は肘を痛めた。肘が外れたが、翌日もその肘でアルバイトに出勤し、テーピングで固定しながら不安定な肘を使ってディッシャーを片手にアイスクリームを用意した[9]。北原辰巳(北原光騎)、中村頼永(USA修斗代表)らとスーパータイガージムでインストラクターを務め、プリシューティング選手権では優勝。

その後、プロとしての活動を行うために修斗を離れ[10]シュートボクシングに転向、シーザージムに移籍する。シュートボクシングでは負けたらそこで終わりだという気持ちでデビュー戦に臨み、相手からダウンを奪っての判定勝ちであった。試合のために毎日ウエイトトレーニングをやって体を追い込んでから練習を行うことで疲れた時に動ける体を作った。当時は朝7時におけてロードワークを行い、アルバイトを通しで行ってからジムで練習行い、練習が終わるのは午後10時を過ぎた頃であり、自由時間らしいものはなかったが体を休めるためにアルバイトと練習以外は睡眠に時間を割いた。2戦目の相手は実業団の柔道チャンピオンという触れ込みで、しかも兄が暴力団の幹部であったという。シーザー武志からは試合前「KOとかしたら、呼び出されるかもしれないぞ」で笑顔で冗談交じりに脅かされたが、その試合は逆に相手を投げて、それからはハイキックを極めて1分程度でKO勝ちした。試合後、平は対戦相手に呼び出され「お前強いな」「まだ若いんだから、これからももっと頑張れよ。俺も応援するから」と言葉をかけられた。3戦目はすっかり慢心した状態で挑み、試合の3日前に4、5㎏オーバーしていた体重を突貫で落とすなどしたため試合前に必要な休養も取れなかった。それでいて試合前はシーザーに対して「少し、パンチもらってみようかなって思うんですけど」と不遜な発言を行っていた。試合が始まると攻撃が面白いように当たったが気持ちが入っていなかったので疲れが早く、これで勝ちだと思っていた左フックも適当に打ったためカウンターを受けて敗れた。カウンターを受けた次の瞬間銀色のアルミ箔に強いライトを当てた時のような光(会場の照明の骨組みに反射した光だと思われる)が平の目に飛び込み、一瞬でまた目の前が真っ暗になったと思いきやリングに張ってある青いシートの色が平の視界を包んだ。敗れた平は悔しいというより不思議な思いをしたが、KO負けした選手に課される数日間の完全休養の間に悔しさがこみ上げた。同時に相手への恐怖心を克服することと恐怖心を全く忘れて相手を舐めてかかることが無いようにすることを両立する必要性を感じた。それ以降平は顔面へのパンチには気を付けるようにし、ボディでのダウンはその後も何度かあったが、引退までの間にフラッシュダウン1回を除いて顔面でのパンチで倒れたことはなかった。それから4試合やって3回KO勝ちした平は、初めてメインイベンターを務めた[11]

シュートボクシングに転向した際にインストラクターの仕事を辞めていたためアルバイトを再開したが、前に働いていた会社に戻るとバブル崩壊の煽りを受けて平が適当にやっていた喫茶店は閉店になり、かわりに同じ会社が経営する池袋駅2階にあったイタリアンレストランでアルバイトを行うこととなった。それ以前にやっていた喫茶店は暴走族のたまり場のようなところであったが、出戻って働くこととなったイタリアンレストランはきちんとした会社であり、チーフはテレビ番組にも出たことがある腕利きのコックであった。トマトソースやフェンネル、オレガノやディルなどを使用する本格的なイタリア料理店であり、そこでは最初調理補助がメインであった。じっとする余裕もあったこのアルバイト先で、以前は適当ながらも店を任されていた平はつまらなくなったが、次第に料理の大事な部分を任されるようになった[12]

1989年頃に初めて海外に行ったが、この時の目的はタイでムエタイ修行を行うことであった。しかし当時インターネットや携帯電話などがなかったため情報収集が難しく、そのため間違えて国際式ボクシングを行うソット・チタラダジムに入門してしまった。当時の感覚で言っても極めて初歩的なミスであった。当時のソット・チタラダジムにはボクシング世界チャンピオンのソット・チタラダ、インターナショナルチャンピオンのナパ・キャットワンチャイなど、錚々たるメンバーが揃っていた。平は世界タイトルに挑む前直前のキャットワンチャイと練習を行い寝食を共にした。平は練習を物凄い集中力で行う一方で普段は非常にリラックスしているタイの格闘家のその切り替えの巧さに感心を覚えた。練習は、30分連続で緩急を付けずにプラスチック製のチューブのような矢鱈と重い縄跳びでロープを行い、コンクリートの上で練習をしていたので3日もすると硬い方であった平の足の皮も忽ち剥けてきた。ミットとサンドバッグは4分を5R、それも全力で行い、がむしゃらな練習で体を鍛えた。一方で当時のタイのボクシングジムにおいてシャドーは実質休憩の時間なので、周囲は喋りながら適当にやったり誰も見なければ動かなかったりしていた。ミット打ちでくたくたになってるうちに足の力を抜いて蹴りを打つことを覚え、結果的には武者修行は成功に終わった[13]

ムエタイ武者修行ではハーパランジムにも訪れた。強すぎて対戦相手がいなくなって国際式ボクシングに転向したディーゼルノイ・チョータナスカン、ムエタイ9冠達成のチャモアペット・ハーパラン、当時火の玉小僧のような印象で人気があったパノントワレック・ハーパランなどが揃っていた。パノントワレックの正気を疑うほど気合の入ったミット打ちに驚き、独楽のように軸が全くぶれず体が回って足が飛び出るようなキックであったと平は後に伝えている。チャモアペットは平がタイに着いた日にやっていたムエタイのチャンピオンカーニバルのような試合で見かけており、レベルが伯仲してKOが中々出ず退屈していた平は、首相撲から無理なく相手を崩してそこから流れ込むようにボディへの膝蹴りでKOしたチャモアペットに驚いた。チョータナスカンのスパーリングも平は見たが、パワーやスピードに頼らず予測しているかのように動く体の動きでパノントワレックを翻弄していた[14]

シュートボクシングの世界タイトルマッチではマンソン・ギブソンと試合を行った。ギブソンは後にK-1で活躍したアーネスト・ホーストとも試合を行っており、ミドル級の体格でホーストからダウンを奪ったことでも知られる。ギブソンは平との試合当日、リングインの際に前方宙返りをしながらトップロープを飛び越えた。試合前に左足の脛を痛めたため、前日に左足に負担のかからないサウスポーを30分程度練習して、それまでの練習の成果は全く使わず実質ぶっつけ本番で当日を迎えた。試合が始まると、ギブソンが得意としていたのバックハンドブローを避け、サウスポーからサイドキックを出して応戦し、最初の2Rはポイントで優勢であった。この試合で使用したサイドキックは小学校時代に行ったブルース・リーごっこからの流用であり、これによってギブソンの裏をかいた。しかし最後の1ラウンドでオーソドックスに戻った途端、ギブソンのバックキックがまともにボディに入ってKO負けした[15]

1990年には正道会館のオープントーナメント全日本空手道選手権大会に出場。この大会ではベスト8に輝いている。当時修斗でメインを張れるようになった平が正道会館の試合に出る必要はなかったが、やる必要もないことに挑戦してしまう平の性分が試合への出場に駆り立てた。試合前のある時には東から「平、空手の試合に出るのはいいし練習に来るのもいい。でも、何でウチの大会じゃなくって正道会館なんだ」と不満そうに言われた。また時には大道塾に練習に行ったが、間違えて組技の練習日に来てしまったことがある[5]

1992年WKA世界ミドル級チャンピオンでミスターWKAと呼ばれていたデル・クックとシュートボクシングで対戦し、判定負け。この試合は自分のいる場所ではなくもっと遠くから自分を見ているような感じであったという。当時総合格闘技をやりたいと思っていた平は自分の考えを総合格闘技の記者に打ち明け、翌日石井和義に¥試合を組んでもらえることになった。最初はシーザーも反対していたが、最後は「いいか、やるからには絶対に勝つんだ」と平の練習のために日本大学のレスリング部まで挨拶に行ってくれた。そうして同年3月に正道会館主催の「格闘技オリンピック」に参戦。リングスルールでエリック・エデレンボスと対戦、アームロックで一本勝ち[8]

数度のリングス参戦を経てゼンショー総合格闘技部へ移籍するも、膝の負傷により長期欠場。その間にUFC、ブラジリアン柔術が出現するなど総合格闘技界の勢力分布図が大きく変動し、平はサンフランシスコカーリー・グレイシーより柔術を学ぶ[16]。当時、特に日本人には絶対に柔術を教えず、どうしても教えてほしいと粘るものには高い受講料をふんだくりスパーリングで潰すという噂のグレイシー一族であったが、石井和義が紹介したカーリーの存在はあてもなく渡米していた平には青天の霹靂であった[17]。始動を受ける中で平はアルバイトで行っていた料理の流れは格闘技の流れと通じるものがあり、他の格闘技を覚えることは人間が主体であることに変わりはないことから材料が共通する料理を作ることと同じだと気付いた。料理の材料をきちんと仕込んで綺麗に取りやすいところに並べておく作業は、相手の攻撃を止めて自分が技を仕掛けやすい体勢を作る流れに共通するものがあり、相手の動きに合わせて技を仕掛けることは火加減や塩加減をその場その場で変えて行くのと同じである。料理と同じやり方で技を分解し、覚えることで不思議なほど早く平は柔術を覚えた。UFC2で凄惨なシーンの数々を目の当たりにしたため、技術を覚えないまま試合に出たら死んでしまうと思って必死になったこともスムーズな習得に関係している[12]

アメリカからグレイシー柔術を覚えて帰ってきた平は、総合格闘技のルール整備を知った。平はそれまで何でもありの総合格闘技を恐れていたが、この変化に「それは危険から逃げたってことじゃないのか」と違和感を覚えた。同時に見るスポーツとして定着する下地が出来上がったことで格闘技を見るだけで楽しむ人間がいる事実に嫌な気分になり、カーリー・グレイシーから教わった見世物ではない昔ながらのノールールの戦いを行おうと決意した1995年9月にヤン・ロムルダー戦で復帰。タックルからのマウントパンチ、それを嫌がって下を向いた相手にチョークスリーパー。1R49秒TKO勝利と、柔術修行の成果を見せつける。マウントパンチでは10秒も殴っていなかったが、ロムルダーは試合後に17針も顔面を縫った。文字通り命がけの戦いであったので、本人は全力で殴ったのだろうと振り返っている[18]

翌10月にブラジルで開催されたバーリトゥード・ブラジル・オープンに出場、海外選手へのファイトマネー未払いという主催者の不手際によって当初の大会は前座3試合が終わった時点で取りやめ。会場は暴動寸前になり、大会関係者は椅子を防災頭巾のように頭に乗せて逃げるようにして帰ってきたという。試合中止の影響なのか、宿泊先のホテルで何人か銃殺されたらしく、平は通訳から無用な外出は控えるように進言された[19]。後日、試合中止になった分8人制のトーナメントが埋め合わせとして行われたが、開始時刻が過ぎてもファイトマネーが半額しか用意できなかった。このまま中止になる雰囲気が漂ったが、平が「俺、やってもいいよ」と言い出すと選手一同はやる気になり、ファイトマネー半額の条件でそのまま試合が強行された。この試合ではリングがただの四角い板の間で、マットは布が余って波打つ始末であったため、柔術よりも長くやっていた打撃と前に出る精神で悪い条件に対応。1回戦でキックボクサーのモーリス・トラビスに勝利。なお、この大会の優勝者にはヒクソン・グレイシーへの挑戦権が与えられていたが、プロモーターの金銭トラブルによって準決勝以降は開催されていない[20]。行きのチケット代も自腹[21]、試合中止によってプロもたーがホテルをとちゅキャンセルしたため帰国日までのホテル代も選手持ちと、終始プロモーターの不手際が目立った大会期間中であった[20]

1996年、正道会館東京本部にて日本で初めてのブラジリアン柔術クラスを開講する。1998年10月28日の「K-1 JAPAN '98 〜風〜」で3年ぶりに現役復帰しニック・サンゾーとバーリトゥード・マッチを行う予定であったが、直前になって身内の不幸でサンゾーが帰国し、アレクサンダー大塚とエキシビション・マッチを行った。2003年、古巣であるシュートボクシングの試合を最後に現役を引退。現在はK-1、シュートボクシング、プロレス(IGF等)でレフェリーを務める。

みちのくプロレス格闘探偵団バトラーツなどでプロレスラーとしても活動した。リングス後楽園実験リーグでミックスドルールで後川聡之正道会館)と対戦したこともある。ちなみに総合格闘技におけるラストファイトはリングスでの港太郎戦。


引退興行を控えていた頃の平は膝が非常に悪く、ミット練習を2日も行うと膝が水でパンパンに腫れ上がり、激痛がしたほどである。リングドクターが盆休みに駆け付けて膝の水を抜くほどであり、そうでもしないと練習もままならなかった。根性がないことを自認する平は、引退試合は弱い選手と戦いたいとシーザーに所望したが、シーザーは「いいか、平。お前が引退試合で弱い奴と戦って勝つ。それじゃ普通だぞ。平。漢を見せなきゃ。自分の生徒や後輩に、生き様見せなきゃ。負けたっていいじゃないか。俺は引退試合なのに強い奴と必死になって闘うお前が見たいよ。そんなお前の頑張る姿を、みんなに見せてやってくれよ」と言って敢えて強豪選手との試合を組んだ。[22]。直前に相手が試合をキャンセルしたため、別の相手と益しビジョンマッチを行うことになったが、2002年9月22日に行われたネストー・ジンメルマンとのそのエキシビジョンマッチでは、痛めた膝の関係上もう二度と放てないであろうと見られていたバックドロップでTKO勝利[23]

セコンド・レフェリーとしても活躍している。

選手、指導者時代も競技・指導する格闘技と並行して国際式ボクシングやサンボ、レスリングなども学んでいた。武術への関心も深く、徐紀から中国武術を、島田道男から太気拳を、島津兼治から日本の古武術である柳生心眼流を学んでいる。また身体の有効な使い方を求め操体法を修行。格闘技と合わせてこれらの武術や身体操作法を後進に指導している。

現在は太気拳気功会に所属し教練として後進の指導にあたっている。武道雑誌の『月刊秘伝』に出筆。同誌とコラボしたDVDなどを多数出している。

人物・エピソード[編集]

  • シュートボクシング阿部健一大江慎と共に三羽烏と称され、デル・アポロ・クックマンソン・ギブソン吉鷹弘らと激闘を展開。明るいキャラクターとトリッキーなファイトスタイルで人気を集める。平成初期の平は前田日明船木誠勝とも違ったタイプの総合格闘技の象徴的存在だった。
  • ゼンショーが運営する外食チェーン店「すき家」で勤務していた際の様子が格闘技雑誌に掲載されたことがある。ゼンショーで勤務開始してから半年ほどで本社勤務になり、原付ではなく自動車で移動するなど比較的恵まれた生活をしていた。当時膝で長期欠場していたためこのまま引退してもゼンショーで働いていれば困らないのではないかと平は思っていたが、自分が何をすればい良いか分からないという漠然とした不安からゼンショーは退社している[24]
  • ブラジリアン柔術アカデミー「TRI-FORCE」代表の早川光由は平直行の一番弟子である。
  • ブラジリアン柔術の修行に出掛けた際、どうやって道場に行けばよいか分からなかったが、UFC2の会場で西良典を見つけて助けを得たことで難を逃れた[25]
  • 2004年1月、上海出身の武術家である徐谷鳴の指導を受け、丹田から力出せば最終的には地球から力を出せると教わった[26]
  • 2006年に発表された板垣恵介との対談では、ウエイトトレーニングを続けているため体脂肪率は12%から13%であった。本人は、大震災などが来たら脂肪が無くて飢餓などに耐えられないだろうから10%を切ってはいけないと笑っていた。引退後も筋肉を維持しているのは現役時代にゴールドジムでボディビルダーから懇切丁寧な指導を受けたことが影響している[27]
  • シュートボクシング時代は、元々自認するように根性がないことと、風呂なしのアパートに住んでいたためアルバイト出勤前に走って汗だらけになってもせいぜい濡れタオルで体を拭くことでしかできなかったことから、走るのが嫌いであった。しかしアルバイト先の店長に事情を話したら、少し早く来て海パン姿になってキッチンで体を洗っても良いと言われ、サボりがちであったロードワークもある程度きちんと行うようになった[28]
アルバイト先で30分の時間があれば空いているスペースで浮浪者のような感じで仮眠を取った。夏は雑魚寝で、冬はビニール袋をかぶって仮眠を取ったが、そうでもしないと練習とアルバイトを両立する上で体が持たなかった[28]

アルバイトに関するエピソード[編集]

  • ある時、夕食にはまだ早い時間帯に、真っ直ぐ歩けないほど泥酔した中年男性が来たが、米を切らしていたのでその中年男性が食べたがっていたピラフは用意できないと最初は断った。ピラフが食べられないことに納得できない中年男性であったが「泥酔しているから何を食べてもピラフだと思うだろう」とスパゲッティを米粒程度の長さに切り、それを米の代用にしてピラフを作って難を逃れた[6]
  • メロンジュースを頼まれた際、キュウリの皮を剥いて牛乳とメロンシロップを混ぜてミキサーにかけたものを客に出し、客に出さないでおいたメロンをアルバイト仲間と余った分としてキッチンの裏でつまみ食いした[6]
  • 実は修斗のデビュー前、コックのバイトで包丁を使っている最中に指を切っていた。それでも試合に集中できたのは東の教えのおかげであったという[29]

他の格闘家との関係[編集]

マンソン・ギブソン
ギブソンとのタイトルマッチの翌日、日本での2連戦目を控えていたギブソンがシーザージムに来たため、ギブソンとジムの応接室で話を行った。話の最中にバックブローやバックキックの仕方をギブソンから何気なく聞くと、意外にもマンソンは手取り足取り教えてくれた。体を小さく畳んで腕を完全に曲げておいて体を小さな円に収め、その状態で回転を始めてから肘を相手の横に出し、そこから一気に体を広げ、曲げた状態の腕を伸ばすようにする、と平は教わった。マンソンのそれはゴムのような衝撃を与えるものであり、当たってからさらにもう1回殴られるような衝撃があった。「体が臭い方が組んだときに嫌がって投げをやりづらいだろう」という考えからギブソンは試合前ずっと風呂に入らなかったことも明かしている[30]
総合格闘家時代の平は相変わらずシュートボクシングのチャンピオンを務めていたギブソンと再会しており、そのとき友人の結婚式でバーベキューをして楽しんでビールで随分と酔っぱらった。ギブソンは別れ際に真面目な顔で「みんな、俺のことをキックボクシングやってると思ってるんだろうけど、それは違うんだよ。俺がやってるのは、カンフーなんだ」と話した[31]
前田日明
スーパータイガージムでインストラクターになるべくスパーリングを繰り返していたある日、前田から技術を教わった。当時は寝技でガードポジションといった概念はなく、スパーリングは亀の状態から始まった。それを崩して、四つん這いだった相手を仰向けに挿せて、上から関節技を狙う。これが教わった内容である。前田から教わった動きを上手く行うため、平はヒンズースクワットやプッシュアップなど自重を使ったトレーニングを行い、バランスとスタミナを付けた。トランプを使い、4種類の運動と組み合わせて、引いたトランプの順番に出た数と種類に対応したトレーニングも行い、様々な個所の筋肉を一遍に鍛えた。ある時前田がアマチュアレスリングの強豪選手に謙虚な姿勢で技を教わっていた様子を平は見ており、そのため平も物怖じせず前田に質問をすることなどができた[32]
格闘技オリンピックで綺麗に勝った際には前田から平は「お前なあ、あんなに綺麗な勝ち方しやがって。あれじゃ、リングスの立場無いぞ」とゴンタ顔で凄んだが、平はそのゴンタ顔を「お前、よく頑張ったな」と解釈した。2000年にプロレス転向を志し、平はリングスの有明大会の時に前田に「プロレスをやります」と報告したが、前田は怪訝そうに「平、俺な、今、情けないぞ」と言った。それから少しして前田から「毎回世界のトップを近くで見ておけ」とリングスでレフェリーをやるように勧められ、これが平のレフェリー生活の始まりであった。やがてプロレスデビューが決まった平は、前田に対して前田のキャプチュードを流用したワザを前田の公認で「新キャプチュード」と名付けて使えるようにしてほしいと頼み、さらに、ダブルアームからブリッジして固める技を流用した技を「新キャプチュード」と名付けて使えるようにして欲しいとも頼んだ。前田は軽く了承したが、この怖いもの知らずの振る舞いにスタッフは完全に凍りつき、スタッフの1人であった和田良覚などはとなりで逃げるタイミングを失って気を失いかけていた。平は後日、リングスのスタッフからこの日の緊迫感を教えてもらった[33]
佐山聡
スーパータイガージムのインストラクターになった平に対しては佐山は「レスリングは頭で考える。自分の体に適したレスリングをすること」「レスリングで大切なのはバランスとタイミングと、てこ」「力と身体の柔らかさを鍛える」「関節技は短く攻める」「最大の武器はコンディション」と言ったことを教えていた[10]
ヤン・ロムルダー
ロムルダーとの試合後、平はスイスに行ったときにロムルダーから電話を貰い、拙い英語で訛りのある英語を使うロムルダーと電話している。ロムルダーからは格闘技論を教わっている[34]
カーリー・グレイシー
カーリーは武者修行にやってきた当時の平とスパーリングして、バランスとスピードに優れるが技術は全然ない、と嫌みのない笑顔で評していた。カーリーは相手の下になった時に焦らず防御すること、上になったからといってできることはパンチとチョーク、腕を狙うこと程度であること、ガードポジションで膝を締めれば相手との距離を稼いでパンチを防げるうえに相手にはパンチが届かないことを悟らせないで済むことなどを平に教えた。自分の頭を相手の頭の下からくっつけることで相手の頭突きを防ぐこと、その状態で相手の片手を持って自分の頭を相手の空いている手の反対側の置くこと、そうして相手が強いパンチを打とうと頭に重心をかけたところでスイープを放って返すこともカーリーから教わった技術である[35]
息を切らさないようなペースでの有酸素運動、グレイシー・ダイエットなども教わっている。食生活では自分の住んでいるところのもの、住んでいる季節ものを食べ、日本食を中心にすることを指導された。大根は怪我の治りを早くする、よく噛んで食べることが重要である、体に悪いものを食べたら水をたくさん飲んで悪いものを排出する、とったことも教わっている。路上での戦闘ではマウントポジションはご法度で、靴の硬いところで相手を蹴飛ばすべきだ、複数人との喧嘩では弱い者から狙って、倒した者を盾にしたり壁を後ろにすることが重要だ、それでも喧嘩は怪我の恐れがあるからやらないに越したことはない、ともカーリーは平に教えている[36]
アンディ・フグ
フグからは、ケガは練習で治すこと、できないことにチャレンジすることなどを教わった[37]一方で、フグからは焦らずがむしゃらにならないようにとアドバイスされた[38]。フグと親しく、フグのセコンドも務めていた平であったが、フグと最後に会ったのは病院であり、フグは危篤で話もできない状態であった。平がフグにありがとうもさよならも言えないままフグはこの世を去ったが、平は試合をすることで何かが変化するのではないかと思っていた。そうして行った試合が港太朗との試合であった。その試合に向けての練習していくうちに心配事が浮かぶ平であったが、平はそんな中である夢を見た。夢の中では、広い草原のようなところに大きな木の下でゆったりとした椅子に座ったフグがおり、布団の中でフグに試合を迎えて緊張しているからと助けを求めていた平に対して「平、ここは休む場所なんだ」と笑顔で言った。平は夢の中で「みんな、アンディはこっちに来てもすぐ頑張って練習してる」と言い返したが「そんなふうに言ってるけど。ここは、ゆっくりと休むところなんだ。今はゆっくりとしてるところなんだよ。だから、自分で頑張ってやるんだ。大丈夫、できるから。試合は見に行くから」とフグはさらに平らを諭した[39]

戦績[編集]

総合格闘技[編集]

総合格闘技 戦績
5 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
5 0 4 0 1 0 0
0 0 0 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
港太郎 1R 6:37 アームロック リングス BATTLE GENESIS Vol.7 2001年3月20日
モーリス・トラビス 1R 4:00 チョークスリーパー Brazil Open '95 1995年12月1日
ヤン・ロムルダー 1R 0:49 チョークスリーパー K-1 REVENGE II 1995年9月3日
エリック・エデレンボス 4R 2:45 反則 リングス MEGA-BATTLE 5th 獅子吼 1992年6月25日
エリック・エデレンボス 1R 1:33 レフリーストップ 硬派er-'92格闘技オリンピックⅠ 1992年3月26日

混成ルール[編集]

勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
後川聡之 3分5R終了 判定0-1 リングス 後楽園実験リーグ'93 ROUND 1 1993年2月28日

著書[編集]

  • 平直行のリアルファイト柔術―総合格闘技超テクニック(2001年、徳間書店) ISBN 4198613672
  • グレイシー秘伝最強肉体改造術 (2000年、徳間書店)ISBN 4198611696
  • 平直行の格闘技のおもちゃ箱(2006年、福昌堂) ISBN 4892247979

DVD[編集]

  • 平直行のリアルファイト柔術

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d 平直行(2006)pp.63-64.
  2. ^ a b 平直行(2006)pp.24-28.
  3. ^ 平直行(2006)pp.28-36.
  4. ^ 平直行(2006)pp.12-17.
  5. ^ a b 平直行(2006)pp.18-23.
  6. ^ a b c 平直行(2006)pp.81-89.
  7. ^ 平直行(2006)pp.17-18.
  8. ^ a b 平直行(2006)pp.90-96.
  9. ^ 平直行(2006)pp.102-105.
  10. ^ a b 平直行(2006)pp.108-109.
  11. ^ 平直行(2006)pp.37-44.
  12. ^ a b 平直行(2006)pp.96-101.
  13. ^ 平直行(2006)pp.45-51.
  14. ^ 平直行(2006)pp.54-59.
  15. ^ 平直行(2006)pp.61-66.
  16. ^ 平直行(2006)pp.59-60.
  17. ^ 平直行(2006)pp.139-140.
  18. ^ 平直行(2006)pp.124-130.
  19. ^ 平直行(2006)pp.208-210.
  20. ^ a b 平直行(2006)pp.210-218.
  21. ^ 平直行(2006)pp.207.
  22. ^ 平直行(2006)pp.256-257.
  23. ^ 平直行(2006)pp.269-273.
  24. ^ 平直行(2006)pp.120-124.
  25. ^ 平直行(2006)pp.134-136.
  26. ^ 平直行(2006)pp.175-178.
  27. ^ 平直行(2006)pp.278-279.
  28. ^ a b 平直行(2006)pp.260-263.
  29. ^ 平直行(2006)p.18.
  30. ^ 平直行(2006)pp.64-67.
  31. ^ 平直行(2006)pp.67-69.
  32. ^ 平直行(2006)pp.105-107.
  33. ^ 平直行(2006)pp.111-117.
  34. ^ 平直行(2006)pp.130-132.
  35. ^ 平直行(2006)pp.145-152.
  36. ^ 平直行(2006)pp.186-196.
  37. ^ 平直行(2006年)pp.222-233.
  38. ^ 平直行(2006年)pp.239-240.
  39. ^ 平直行(2006)pp.234-236.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]