丸藤正道

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丸藤 正道
Naomichi Marufuji
Naomichi Marufuji 2016.jpg
2016年8月
プロフィール
リングネーム 丸藤 正道
本名 丸藤 正道
ニックネーム 方舟の天才
方舟の継承者
空飛ぶ天才児
リングの彗星
ジュニアの天才児
三沢光晴の宝
イモータル・バード(IMMORTAL BIRD)[1][2]
天空のファンタジスタ[2]
身長 176cm
体重 90kg
誕生日 1979年9月26日(37歳)
出身地 埼玉県北足立郡吹上町(現:鴻巣市
所属 プロレスリング・ノア新日本プロレス(CHAOS)矢野と共闘しているため。
スポーツ歴 レスリング
バスケットボール
トレーナー 三沢光晴
デビュー 1998年8月28日
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丸藤 正道(まるふじ なおみち、1979年9月26日 - )は、日本男性プロレスラー埼玉県北足立郡吹上町(現:鴻巣市)出身。血液型O型。プロレスリング・ノア所属。

概要[ソースを編集]

軽い身のこなしが特徴で、トップロープやコーナーポスト、エプロンサイドなどリング全体を活かした技を得意としている。ただし、アマチュア時代はレスリングの経験に加えスーパータイガージムに所属していたこともあり[3]、関節技やグラウンドの技術についても高いものを持っている。過去に高山善廣PRIDEへ参戦する際には、高山からの要請によりスパーリングパートナーを務めている。

プロレスラーとしての技術に対する評価は高く、他団体の多くのレスラーや関係者から賞賛されることが多い。「ジュニアヘビー級だけでなく、日本のプロレス界を牽引する一人」「百年に一人の天才」「馬場、三沢のDNAを持つ男」とも呼ばれる。

王座獲得についての記録も多く、GHC(グローバル・オナード・クラウン)の4王座を全て獲得した最初の選手である。また、グローバル・オナード・クラウンにグローバル・ハードコア・クラウン[4]を含めたノアが保有する5王座の全てを獲得しているのは、現在のところ他団体を含めて丸藤のみである。 さらに、2015年の時点で、メジャー3団体(新日本・全日本・ノア)のジュニアヘビー級のシングル王座を全て獲得した唯一のレスラーである。

来歴[ソースを編集]

入門前〜デビュー〜全日本時代[ソースを編集]

丸藤は幼少の頃からヤンチャであり、家にいるよりは外で遊ぶのが好きであった。4兄弟の末っ子であり、よく兄弟でプロレスごっこをして遊んでいた。丸藤が本格的にプロレスファンになったのは、兄が買ってきた週刊プロレスの表紙に掲載されていたロード・ウォリアーズに一目惚れしてからである。ロード・ウォリアーズに心を奪われた丸藤は中学生になると徐々にプロレスラーになる準備を始めた。中学に入学すると『SRAM DUNK』の影響と身長を伸ばすためにバスケットボール部に入部、馳浩を筆頭にレスラーの著書を参考にし、自宅では新日本伝統の”トランプ練習”も取り入れながら肉体を鍛え上げた。当時について丸藤は後に「ほかになりたい職業がなかったし、プロレスしか頭になかったんで。ボクらは四天王、三銃士時代。爆発的に人気がありましたよ。新日本も夕方に流れてたし、全日本もテレビ埼玉では午後6時くらいから再放送があったし。その中でも、三沢(光晴)さんと武藤(敬司)さんは、スタイル的に自分が目標としていた人。ああいうふうなプロレスラーになりたいなと思ってました」と語っている。プロレス入り以前にプロレスを生観戦したのは近所の熊谷市民体育館で2、3回程度しかなく、”観るというより自分がやってみたい”という意識が強かった。中学2年生後半の進路相談では「オレはレスラーになる」と言い切ったが、親から「高校ぐらいは出なさい」と反対され、そこで将来的に何が役に立つかを考えた。

埼玉栄高校に入学し、レスリング部の見学に行くと、顧問の先生がちょうどプロレス好きという縁もあり、入部を決めた。レスリング部の動機には新日本でメディカル・トレーナーを務めている新島栄一郎がおり、丸藤は怪我でデビューを断念した新島について「彼がケガしてなかったら、確実に試合してただろうね。もしかしたらIWGPジュニアを懸けて対戦してたかも」と懐かしむコメントを寄せたこともある。高校時代は近所の書店に頼んで自宅に届くようにした週刊プロレスは読んでいたが、気持ちは総合格闘技・修斗の方へと行った。レスリングではインターハイ出場経験もあり(一学年上には柔道部所属の土方隆司がいた)、平柳玄藩とは高校生の時に2回試合を行い2回とも勝った。ちなみに、この埼玉栄時代の卒業前には、ロンドンブーツ1号2号の番組に「全日本プロレス入団内定」という触れ込みで、名前を明かさなかった上、少しではあるが出演を果たしている。また、高校時代には大宮のスーパータイガージム(当時は朝日昇エンセン井上が在籍)に通っていたことを自ら明かしている[5]。高校2年生時、キングダムの入門テストに合格しているが、キングダム崩壊により、入団は果たされなかった。1997年12月、高校3年生の冬休み中に全日本プロレスの合宿上に仮入門という形で1週間住み込み新弟子体験を果たす。この時は、このチャンスを逃せばプロレスラーになることはできないと勝手に自分へプレッシャーをかけ、せっせと練習や雑用をこなしていた。

卒業後、全日本プロレスに入門。1998年8月28日、愛知県・岡崎市体育館金丸義信戦でプロレスラーとしてデビューを果たした。入門5ヶ月でのデビューは師匠の三沢光晴の5ヶ月に続く異例の速さである。このデビュー戦では三沢が”お古”にサインを入れてコスチューム屋にプレゼントしたそのタイツで間に合わせた。それまでの全日本では、新人は基本技だけで試合を組み立てなくてはならないという伝統があったが、三沢から「やれるなら何でもやれ」と助言されたこともあって空中殺法を駆使したファイトを見せた。デビュー戦では丸藤はジャイアント馬場存命中最後のデビューとなったため、当時は「馬場の最後の弟子」とも呼ばれ、テレビで特集を組まれたこともあった。馬場の肩の上からミサイルキックを繰り出したこともある。 三沢光晴の付き人を務め、見習い扱いでアンタッチャブルに所属する。

ノアへの移籍〜GHCジュニアヘビー級王者時代[ソースを編集]

2000年7月、三沢を中心とした新設されたばかりのプロレスリング・ノアに移籍する。師匠・三沢がリーダーを務めるユニット「WAVE」の一員として参加した。馬場と過ごした短い日々と三沢に付いて行ったことについて丸藤は「かかわった時間は短いですけど、馬場さんに触れられたことは、自分の中で素晴らしい思い出になってます。当時の全日本はいろいろあったけど、オレは三沢さんに付いていくだけでしたよ。社会人としても右も左もわからなかったし、お世話になってる三沢さんの言葉を信じるしかなかった。オレが突っ込んだ質問をできる立場でもないし、当時はただうなずいてばかりでしたね」と述懐したことがある。

2001年12月19日の有明コロシアム大会で、当時ZERO-ONE所属の高岩竜一を破り22歳で他団体に流出していたGHCジュニアヘビー級王座を奪還した。

2002年1月20日、視察のために新日本の獣神サンダー・ライガー田中稔がやって来ていたが、丸藤が自身の試合後にマイクを取り「ノアのジュニアは最強です」と挑発したことでライガーがブチ切れ、新日本との対抗戦に発展する。しかし、3月に左膝靭帯を損傷し、まともに歩けない状態でありながら4月7日に橋誠との2度目の防衛戦に臨んだことから更に膝の状態が悪化、レフェリーストップで敗れることとなった。

三沢からの独立〜KENTAとのタッグ[ソースを編集]

復帰直後の2003年1月に三沢とのシングルを経験するも、結果は丸藤の敗北に終わった。これを期に丸藤はWAVEを脱退し、三沢の付き人も同時に卒業する。その直後から「下克上」を旗印に、同じく若手のWILD II(森嶋猛&力皇猛)やKENTAと共闘を始め「ジュニアの体のままヘビーに挑戦」と目標を定める。この一環で2003年4月5日には秋山準&齋藤彰俊組が保持するGHCタッグ王座にも森嶋と共に挑戦を果たした。

同年7月には、KENTAとのタッグで初代GHCジュニアヘビー級タッグ王座決定トーナメントに参加する。順調に勝ち進み7月16日に行われた決勝戦で、因縁の相手であるライガー&村浜武洋組を破り初代GHCジュニアヘビー級タッグ王座に君臨した。その後、KENTAとのタッグは連戦連勝を重ね、ノアのジュニア戦線はヘビー級を上回る人気を獲得するようになる。

各王座戦線の最前線へ[ソースを編集]

2004年9月10日、パンクラス鈴木みのると対戦した。試合には敗れたが、鈴木は丸藤を大きく評価し、その後意気投合しタッグを結成した。そして、2004年10月16日には、秋山が創設した白GHCことグローバル・ハードコア・クラウンのタイトルにも挑戦する。王者・秋山とは体格差のハンデがあったものの、リングアウト勝ちを収め、第2代王者となった。

これと同時に進行していたKENTAとのタッグでは、防衛回数を積み重ね「ジュニア版絶対王者」とまで称された。計9回の防衛に成功し、2005年5月7日・8日に行われたジュニアの祭典第二回ディファカップでも決勝の日高郁人&藤田ミノル組を破って優勝。しかし6月5日、過去2度KENTAとのタッグで敗れている金丸&杉浦組に三敗目を喫し、同王座から陥落した。

しかし王座陥落直後の6月18日、イギリス・モアカムにおいてスコーピオ&ダグ・ウイリアムス組に鈴木とのタッグで勝利し、第10代GHCタッグ王者となった。

KENTAとのベストバウトから対ヘビー級戦線へ[ソースを編集]

2006年1月22日、KENTAが持つGHCジュニアヘビー級王座に挑戦。敗れたものの高評価を得た。この試合でジュニア戦線に一区切りをつけた丸藤は、ヘビー級を超えるべくヘビー級戦線に参入した。

3月5日の日本武道館大会では5大シングル戦の一戦として、当時前GHCヘビー級王者であった田上明とシングルで対決。最後は隙を突いて完璧首固めで四天王の一角から金星を奪った。

3月10日、リアルジャパンプロレスにてジュニア界の伝説・初代タイガーマスクと初対決。丸め込まれ敗れはしたものの、佐山(タイガー)を「日本のプロレスにはまだ凄いのがいる。」と驚かせた。

4月23日、日本武道館で小橋建太とシングルマッチを行うも敗北。

GHCヘビー級王座戴冠&グランドスラム達成[ソースを編集]

9月9日、先の田上戦、小橋戦で対ヘビー級の自信を掴んだ丸藤はGHCヘビー級王者・秋山に挑み完璧首固めで勝利。第10代GHCヘビー級王者となるのと同時に、ノア創立以来史上初のGHC全王座獲得(ヘビー・ジュニア・タッグ・ジュニアタッグ・ハードコア)を達成した。

10月29日には1月にGHCジュニア選手権で敗れたKENTAを次期挑戦者に指名。初公開のポールシフトで初防衛に成功した。この試合は同年のベストバウトに選ばれた。

しかし12月10日、三沢との防衛戦で雪崩式エメラルド・フロウジョンで敗れ、王座から陥落した。

他団体進出、GHCタッグ、ヘビー戦線へ[ソースを編集]

2006年12月24日、第四回力道山杯を受賞。

2007年4月1日にDDTプロレスリングに初参戦、男色ディーノとのタッグでKUDO&マッスル坂井と対戦し、試合中ディーノの求愛行動に手こずりながらもディーノの勝利をアシストした。

4月30日にはKAIENTAI-DOJOにも初参戦し、円華とのタッグで真霜拳號&房総ボーイ雷斗と対戦し、雷斗の卑怯な攻撃に翻弄されるもしっかりと勝利をアシストした。

6月8日にビッグマウス・ラウド村上和成と初対戦し、注目を集めたこの試合で大流血し敗北を喫した。

GHCヘビー級選手権次期挑戦者決定リーグ戦にエントリーし齋藤に敗れる波乱がありつつも優勝決定戦に進出する。優勝決定戦では森嶋と対戦し丸藤が勝利した。優勝したことにより第11代GHCヘビー級選手権者・三沢への挑戦権を手に入れた。2007年9月29日大阪府立体育会館でGHCヘビー級王座を奪われた三沢に挑戦するも変型エメラルド・フロウジョンで敗北した。

10月27日、日本武道館大会にてディーロ・ブラウン、ブキャナンの持つGHCタッグ王座に杉浦貴と組んで挑戦、見事勝利し第16代GHCタッグ王者となった。獲得後、2度防衛をしたが、2008年5月23日新潟市体育館で齋藤、バイソン・スミス組に破れ王座から陥落した。

欠場と復帰、メジャー3団体ジュニア制覇[ソースを編集]

2008年9月28日、古巣の全日本プロレスで高校時代の先輩である土方をポールシフトで破り、世界ジュニアヘビー級王座を獲得した。

10月27日、日本武道館大会で丸藤の持つ世界ジュニアヘビー級王座とKENTAの持つGHCジュニアヘビー級王座のダブルタイトル戦が行われたが60分時間切れ引き分けに終わり、両者防衛成功となった。この興行はノアの主催であったが、試合は世界ジュニアヘビー公式PWFルールで行われ、場外カウント10という方法がとられ、レフェリーは和田京平が裁いている。

2009年2月6日、全日本の後楽園ホールにてカズ・ハヤシにパワープラントで敗れ王座から陥落した。

3月11日の有明大会で合体パイルドライバーをかけた際に、相手の体重が右ヒザにかかり負傷した。翌12日にMRI(磁気共鳴画像装置)検査を受け、右ヒザ前十字靱帯(じんたい)断裂で全治9か月と診断されており、様子を見ながら4月に手術を受けた。この負傷は年内絶望の重傷と言われた。

12月6日、「青木篤志“閃光十番勝負”第9戦」(元々は最終戦のはずだったが中嶋負傷欠場のため第9戦になった)で復帰し、タイガー・フロウジョンで勝利を収めた。

12月23日、ノアの自身プロデュースの試合のメインイベントに出場した後、新日本プロレス「SUPER J-CUP 5th STAGE」に出場。ノアの試合とJ-CUP決勝までの3連戦の計4試合を勝ち抜き、大会初の2連覇を達成した。

2010年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会にて、王者タイガーマスクを下しIWGPジュニアヘビー級王座を奪取。史上初のメジャー3団体(新日本・全日本・ノア)のジュニアヘビー級シングルベルトを全て獲得する快挙を成し遂げた。

しかし6月19日、大阪府立体育会館にてプリンス・デヴィットに雪崩式ブラディ・サンデーで3カウントを奪われ、IWGPジュニアヘビー級王座6度目の防衛に失敗、王座から陥落した。

7月25日、DDTプロレスの両国国技館大会で負傷し、変形性頸椎症性神経根症と診断された[6]。この怪我が原因で翌月に出場予定だったG1 CLIMAXの欠場を余儀なくされ、IWGPジュニア王者のデヴィットが丸藤の代役として出場することとなった。

12月5日、日本武道館大会のKENTA戦で復帰を果たした。また、この試合では初心に帰るという意味も込めて普段のようにオーバーマスクを着用せずに入場した。

2011年4月17日、変形性頸椎症性神経根症再発の疑いにより再び欠場となった。

11月27日、有明コロシアム大会での杉浦戦で7か月ぶりの復帰を果たす。試合後、杉浦からタッグを組む事を提案され、これを受け入れた。

2012年、新ユニット「BRAVE」結成[ソースを編集]

2012年1月4日、ANMUの潮崎とタッグを組み、東京ドーム大会「レッスルキングダム」に2年振りに出場。新日本プロレスの中邑真輔矢野通組と対戦しこれに勝利する。

同月中旬、昨年11月での杉浦との対戦をきっかけに、杉浦と共に新ユニット「丸藤軍(のちのBRAVE)」を結成。時同じくして同ユニット加入を申し込んできたモハメド・ヨネを拒絶。代わりにANMUで居場所を失った石森太二を同月29日に正式加入させ、同軍団のメンバーが3人となった。

2月14日、NO MERCY(高山、金丸、平柳玄藩)を相手にしたタッグマッチ中、NMCに加入した谷口周平が乱入。これを見かねたヨネが自軍に加勢する形で乱入し、試合は8人タッグマッチへと発展(試合はヨネが谷口からフォールを奪い、丸藤軍の勝利)。試合後、同試合での奮闘振りを認め、ヨネを同軍団に加入させる。また同日、リッキー・マルビンも迎え入れ、軍団の規模を拡大させた。現在、ヘビー級を主戦場にしている。

8月には前年欠場したG1 CLIMAXに参戦し、リーグ戦でIWGPヘビー級王者棚橋弘至に勝利する。これを受けて9月23日新日本プロレス神戸大会で棚橋の持つIWGPベルトに挑戦したが敗れた。

GHCヘビー級王座返り咲き〜鈴木軍との抗争[ソースを編集]

2014年7月5日、永田裕志を破り7年7ヶ月ぶりにGHCヘビー級王座を手にした[7]

2015年1月からノアに殴り込みを掛けてきた鈴木みのる率いる鈴木軍との抗争が激化。3月15日、1月の年内開幕戦での試合後に襲撃された鈴木みのるを相手にGHCヘビー級王座7度目の防衛戦を行ったが敗れ、王座から陥落した。その後リターンマッチを行うも再び敗北。

9月19日には対鈴木軍の最後の砦と言われた杉浦貴も鈴木に敗退。翌日に丸藤は「グローバル・リーグ戦2015で鈴木または鈴木軍のメンバーが優勝した場合には団体を解散する」と副社長として声明を発表した。結果は、丸藤自身がリーグ戦に優勝した。

リーグ戦優勝を受けて、12月23日の大田区総合体育館大会で鈴木のGHCヘビー級王座に再び挑み、勝利して同王座に返り咲いた。しかし、直後に杉浦貴が丸藤に反旗を翻し鈴木軍入りした。

2016年1月31日の横浜文化体育館大会で、杉浦貴と初防衛戦を行うも敗れて王座陥落。

グローバル・タッグ・リーグ戦には、矢野通と組んで出場し、優勝。リーグ戦優勝を受けて、5月28日の大阪府立体育会館大会で、ランス・アーチャー&デイビーボーイ・スミス・ジュニア(K.E.S.)の持つGHC タッグ王座に矢野とのタッグで挑戦し勝利。ノアへ473日ぶりに同タイトルを取り戻した。

7月、2012年以来のG1 CLIMAXに参戦、開幕戦でIWGPヘビー級王者オカダ・カズチカに勝利も5勝4敗で終わる。しかし、この結果を受けて新日本プロレスの2016年10月10日両国国技館大会メインエベントで、オカダカズチカの保持するIWGPヘビー級王座に挑戦、惜敗した。

人物[ソースを編集]

運動神経が良いのは父親譲りだという[8]。4人兄弟の末っ子で、年の離れた兄たちと一緒にプロレスごっこで遊びながら育った。兄達が買った「週刊プロレス」に載っていたロード・ウォリアーズを見て、プロレスファンになった[8]。なお、2男の丸藤広貴[9]はサテライト所属のアニメーターで、『マクロスF』や『アクエリオンEVOL』『ノブナガ・ザ・フール』などの作画監督やキャラクターデザインを務めており、丸藤プロデュース大会のTシャツをデザインしたこともある[8]

KENTAとのタッグチームは「イケメンタッグ」などと呼ばれることもあった。

プロレスラー引退後のセカンドキャリアについても意識しており、2014年8月には自らが社長を務める新会社「キュリオシフト」を設立。同社の第一弾業務として、東京・赤坂に「不知火カレー City's Bar」をオープンさせた。当面は後援者の経営するバーを昼間だけ間借りする形だが、先々は多店舗展開も視野に入れている[10]。City'sBar閉店→代官山に間借り→現在 不知火カレーグリドルズ・バーTokyo赤蔵店 として間借り営業。

タイトル歴[ソースを編集]

団体創立から初めて全てのノア公式王座を獲得した他、メジャー3団体(全日本・新日本・ノア)のジュニアシングルベルトを制覇している。

プロレスリング・ノア
パートナーは鈴木みのる(10代)、杉浦貴(16・22代)、矢野通(24代)
パートナーはKENTA(初代)、青木篤志(13代)
パートナーはモハメドヨネ(2012年)、矢野通(2016年)
全日本プロレス
新日本プロレス
アパッチプロレス軍[11]
  • WEWタッグ王座 : 1回(8代)
パートナーは本田多聞
その他
1999年 新人賞
2003年 最優秀タッグチーム賞(丸藤正道&KENTA)
2006年 年間最高試合賞(丸藤正道×KENTA)、殊勲賞
2008年 年間最高試合賞(丸藤正道×近藤修司

主な得意技[ソースを編集]

フィニッシュ・ホールド[ソースを編集]

不知火(しらぬい)
コーナーポストに向き合った形で立ち、背後に立つ相手の頭をつかんで自らの肩に乗せるような形で固定する。そのままコーナーを駆け上がり相手を飛び越えるように宙返りをし、相手の後頭部をマットにたたきつける技。NOAH旗揚げ時から一貫して使用している丸藤の代名詞的フィニッシュムーブ。
コーナー上からの雪崩式、エプロンサイドからの断崖式、鉄柵を利用しての場外式、肩車で担がれた相手に決めるダブルインパクト式、タッグパートナーに投げてもらって決めるなどバリエーションに富む。他にも相手の背中を鉄柵に当てるパターンや、リストクラッチ式、前方回転式等、無数に存在するバリエーションを総称して「七色の不知火」と呼ばれることもある。
この技の元祖は日高郁人のミスティ・フリップ。その場飛び不知火はウルティモ・ドラゴンのアサイDDTの改良型と着地の姿勢と首のロックの仕方が違うだけでほぼ同形。
不知火・改
通常の不知火とは異なり、コーナートップで相手と向かい合った状態で首をロックし、その体勢のまま自分が月面宙返りを行うことで相手が強烈に背中から叩きつけられる技。当初、雪崩式裏不知火と呼ばれていたが、後に改称された。フランキー・カザリアンのフラックス・キャパシターが元祖。2008年3月2日のGHCタッグ戦ではジェイ&マークのブリスコ・ブラザーズが繰り出したダブルインパクト式ラリアットをこの技で切り返して3カウントを奪った。
裏不知火
通常の不知火とは異なり相手の後頭部側から首をロックし、そこから不知火にいって相手の顔面をマットに打ちつける。最近はほとんど使われない。
ポールシフト(変型フィッシャーマンズ・ドライバー)
左腕で相手の首を捉え、右腕で相手の左足を持ち上げる、持ち上げながら相手の顔が自分のほうへ向くよう左へ半回転させ、左腕はそのまま首を固定し、しりもちをつきながら相手の後頭部を打ち付ける。SSDのフィッシャーマンバージョン。フィッシャーマンズ・バスターの体勢で持ち上げ、みちのくドライバーIIの様に落とす技であり、全体的に橋誠のゴリラーマンズドライバーに似ている。丸藤の数少ない垂直落下式の技のひとつであり、2009年辺りまでは大一番でのフィニッシュ・ホールドになることが多い技であったが、同年12月の復帰戦からはタイガー・フロウジョン、2014年7月にはポールシフト式エメラルド・フロウジョンを開発し、この2つの技がフィニッシュ・ホールドとなることが増えたため、近年はポールシフトで試合が決まることは少なくなっている。リストクラッチと混同されがちだが実際はリストクラッチではない。技名は「地軸移動」から。
タイガー・フロウジョン
タイガードライバーの形で持ち上げ、左腕のロックを外して相手の腰を下から抱え、次いで右腕のロックも外して相手の喉元を押さえるように右手を添え、右に倒れ込みながら相手の後頭部をマットに叩き付ける技。フィニッシュがリバースのエメラルド・フロウジョンに似た形となっている。丸藤は三沢光晴を倒す技として開発したとコメントしている[12]。両腕のロックを外したあと右側に倒れ込まず、そのまま垂直に背中から落とすバージョンもある。
パーフェクト・フェースロック
相手の正面から極めるフェイスロック。右腕を相手のほお骨辺りに置き、左腕は相手の右脇下を通して自分の右手を掴み両腕で力を込め締め上げる。
どんな相手にも決められるギブアップで勝利を取れる技がほしがったから開発した技[13]。技名の由来は後述する「完璧首固め」と同様のパーフェクトシリーズのひとつであるからとのこと。基本的には虎王(2段式膝蹴り)で相手をぐったりさせた後この技で追撃をかける。丸藤は同じ週プロのインタビューにて「フェースロックという技自体が三沢さんの技。(中略)一番影響されたレスラーですからね。でも完全なマネはしたくなかったこうなりました」と答えており三沢のフェイスロックを意識した技であると解説している。
ポールシフト式エメラルド・フロウジョン[14]
2014年6月13日の三沢光晴メモリアルナイトでの齋藤彰俊戦で初披露。ポールシフトと同様の体制で持ち上げ、相手を自らの右腕側に移動させエメラルド・フロウジョンの体制で相手をマットに叩きつける。
2014年7月にこの技で永田を破り7年半ぶりにGHCヘビー級王座を奪取した。また、丸藤はこの試合を闘う以前に出演した「速報!バトル☆メン」で同番組MCの元井美貴にこの技を開発した理由について聞かれると、「本当はポールシフトを決めようとしたんですが、齋藤さんを持ち上げられなかったためあのような形になりました」と説明している。永田戦の試合後のインタビューで「自分の中ではまだ完璧ではないと思うんで名前も決まっていない」と答えていて技名は決めていないものの「今後のオレの最大の武器なっていくんじゃないかな」と語り、フィニッシュムーブとしてさらに磨きをかけて行くとのこと[15]。2016年にはG1 CLIMAX26の開幕戦、北海道大会にてオカダ・カズチカ相手にフィニッシュとして使用し勝利を収めた。また同技は偶然できた技であるため丸藤は名前を決めておらずキングオブプロレスリングにも「ポールシフト式エメラルド・フロウジョン」と記載されたことから技名はそのままになっている[16]
虎王
「こおう」と読む。助走をつけ、二段蹴りのようなモーションで右膝を相手に突き刺す。2012年頃より使い始めた、新たな打撃技。技の由来は丸藤が好きな漫画『餓狼伝』に虎王という名前の技があり、そこから名前を拝借したとのこと[17]

打撃技[ソースを編集]

アックスボンバー
古くから使っていたが、最近ではリング上で片膝立ちの相手に対しての低空アックスボンバーや時間差ロープワークを使って撹乱してからのアックスボンバーを使用している。
串刺し式バックハンドエルボー
コーナーにもたれかかっている相手に放つ、ジャンピングバックハンドエルボー。リング中央から踏み切るため、滞空時間がかなり長いのが特徴。ロープに向かって飛び、ロープを蹴ってエルボーを当てる三角飛び式もフェイントとして出す。
ジャイアント馬場に伝授された技で、第二回ディファカップのテレビ特番のインタビューで、自分の技の中で一番大切にしていると答えている。
トラース・キック
相手に対して半身になり、顎を目掛けて片足裏で強烈な後ろ蹴りを叩き込む。丸藤の場合、サイドステップから体を捻り顎をかちあげるように鋭く右足で蹴り上げる。
最近では、ブレーンバスター(もしくは、ポール・シフト)の体勢から相手を前方に放り、着地した瞬間にトラース・キックを突き刺す、という戦法を使用している。
逆水平チョップ
2014年から多用し始める。丸藤はパワーファイターとは異なるムチのようにしなるタイプのものを使用している。

投げ技[ソースを編集]

アームドラッグ (サイクロン・ホイップ)
ロープに振った相手を巻き投げの様にホイップする。基本的な技だが、丸藤のアームドラッグは高速で綺麗な形を描いて投げるのが特徴。
キャプチュード
キックを仕掛けてきた相手の蹴り足を下手に捕らえ、同時に首を抱き込むようにクラッチして後方へ放り投げる変形のフロント・スープレックス。第2次UWF時代の前田日明が開発した代名詞的な投げ技。
クロスアーム・スープレックス・ホールド
相手の背後に立ち、相手の両腕を前で交差させ、自分はストレートにその交差させた手首を掴んで後方に投げる。新日本プロレスで活躍した保永昇男が考案。
コブラクラッチ式リストクラッチバックドロップホールド(正式名称不明)
コブラクラッチの体勢から左腕で相手の右手首をクラッチし、そのままバックドロップへ移行して固める複合変形バックドロップホールド。コブラクラッチ式三角絞めを耐えた相手に対し、連携で使用する。
垂直落下式魔神風車DDT(正式名称不明)
正式名称は不明。相手の前面に立ち、左腕で相手の首を下から捕らえ、相手の左腕を背中に回してから下側から自分の右腕で手首を掴む(自分の手の置き方が上下逆だが、要するにチキンウイング、もしくは「魔神風車固め」の体勢から、後ろに反り投げない形)。この状態に固めてから相手を担ぎ上げ垂直に落とす。今のところKENTA戦以降使われていなかったが、2014年7月の中嶋勝彦とのGHCヘビー級戦で久々に使用した。
タイガードライバー
師匠である三沢の得意技。現在、使用する頻度は少ない。また、ここから腕ひしぎ逆十字固めへ移行することもある。
タイガーボム
リバースフルネルソンの体勢から相手を持ち上げるまでは上記のタイガードライバーと同じだが、シットダウン式ではなく肩膝をつくパワーボムの形で落とす。相手を叩き付けた後はそのまま、相手の両足をエビに固めてフォールする。くどめドライバーと同型。
ドラゴンスクリュー
相手の足を捕らえて自ら内側に回転し、その反動で膝へダメージを与える技。雪崩式やリストクラッチ式を始め、ロープ等に相手の足を掛けて受身を取れなくするバリエーションも存在する。ここから足4の字固めへ移行することもある。
ドラスクホールド
ドラゴンスクリューで投げたまま、そのままジャックナイフに固める技。
パワーボム
ヘビー級戦線シフト後に使い始めたが、現在はほとんど使用されていない。
村正
相手の背後に立ち、左腕で相手の左腿を持ち上げる抱え式バックドロップで捕らえ、即座にハーフジャックナイフ式エビ固めに固める。しばらく使用されていなかったが、2006年1月22日のKENTA戦で使用された。
変形ブレーンバスター(投げっぱなしポールシフト)
試合中に突発的に生まれた技のため正式コールは変形ブレーンバスター。2010年7月、DDT両国大会のケニー・オメガ戦でのフィニッシュ技。ブレーンバスターの体制で持ち上げ、そのまま前方へ相手を投げっぱなした形になった。「投げっぱなしポールシフト」とも呼ばれた。この時丸藤は試合の序盤にコーナーのターンバックルへ強引にぶん投げられた際、右肩を激しく打ちつけられ試合後「変形性頸椎症性神経根症」と診断を受けるほどの重症を負っていて[18][19]右腕の自由が効かない状態で相手を持ち上げようとしたため右腕が上がらず、すっぽ抜けて投げっぱなし式の技のようになってしまった。

絞め技・関節技[ソースを編集]

クリップラー・クロスフェイス
コブラクラッチ式三角絞め
コブラクラッチを仕掛けた状態から飛びつき式に三角絞めへ移行する複合関節技。
胴絞めドラゴン・スリーパー・ホールド
ドラゴン・スリーパーの体勢から自ら倒れこみ、更に両足で胴絞めを仕掛けるグラウンド式のドラゴン・スリーパー。
ネックツイスト
仰向けに倒れた相手の頭部をまたいで両足で挟み付け、上半身を捻って弾みをつけた後、反対側へと急回転する。上半身の遠心力が両足へと伝わり、掛けられた相手は瞬間的に頭部を真横に捻じ曲げられることになる。頸椎にまともに力が加わるため、コミカルな見た目に拠らず実は危険な技である。

丸め込み技[ソースを編集]

完璧片エビ固め
2014年のグローバルタッグリーグより使用し始めた技。
腕極め回転エビ固め
ラ・マヒストラルの様に相手の片腕を跨いで固定し、自ら前転してエビに固める技。縦回転式ラ・マヒストラルとも。
ローリングオースイ・スープレックス・ホールド
相手の背後に回り、背中と両腕の間に自分の両腕を差込みロックした後、倒れこみながら相手を後方にスライドするようにと移動させ、肩を付けた時点で初めてブリッジをしフォールする。このようにスープレックスの名称はついているが、固め技である。
完璧エビ固め
相手の両手首・左足をそれぞれ自分の手足でクラッチした状態となる変形エビ固め。欧州遠征時に開発した技。
完璧首固め(パーフェクト・スモール・パッケージ・ホールド
丸藤が得意とする丸め込み技の1つで、リストクラッチして丸め込むため相手が返しにくいのが特徴。左手で相手の右足と左手を、両足で相手の左足を、右手で相手の首から右上半身を押さえ込む。
チョココロネ
丸藤が得意とする丸め込み技の1つ。回転しながら相手の背中に回り込んだり、脚を取ろうとしたりと複雑な動作で相手を幻惑させた挙句丸め込む技。バク転キックに移行するパターンもある。
飛びつき式キド・クラッチ
ツイストドーナッツ
お互いが四つん這い状態からフィッシャーマンの形にクラッチし横に半回転、フィッシャーマンズスープレックスホールドの形でフォールする。2012年のG1 CLIMAXにてこの技でカール・アンダーソンから勝利を収めた。

飛び技[ソースを編集]

低空ミサイルキック
コーナートップから相手の膝目がけてミサイルキックを繰り出す技。ドラゴンスクリューと合わせ、丸藤の膝殺しコースの1つ。
ノータッチ式断崖ミサイルキック(正式名称不明)
場外に居る相手に対し、トップロープに手は触れず跳躍のみでロープを飛び越え、ミサイルキックを見舞う高難度の技。大一番の時に使われる技。
from コーナー to コーナー
相手をコーナートップロープに足を掛けて逆さ吊りにし、自分はその隣のエプロンサイドに行く。そしてスワンダイブして、ふわっと上に舞い上がって落下中に顔面を足の裏で蹴り飛ばすという魅せ技である。なお、丸藤よりも以前にロブ・ヴァン・ダムシェイン・マクマホンCIMAがほぼ同型の技を披露している。
from コーナー to セイムコーナー(正式名称不明)
CIMAの同名技「コーナー to セイム・コーナー(コピー禁止)」と同型。
ラ・ケブラーダ
リング内を向いた状態でエプロンに立ち、トップロープを両手で掴みながらセカンドロープに飛び乗り、その反動で場外に居る相手に後方宙返りを浴びせかける危険技。ウルティモ・ドラゴンが日本人として初めて行い、アメリカマットでも頻繁に使用したことから、ドラゴンの本名を取った「アサイムーンサルト」として知られる。

また、下記のようなボディ・プレス技も使用していたが、膝に爆弾を抱えていることもあり、その性質上マットに膝を強打してしまうボディ・プレス技の使用頻度は極端に下がっている。

フロッグ・スプラッシュ
空中で屈伸するフライング・ボディ・プレス。丸藤のそれは三沢式よりもやや屈伸が深い。
フェニックス・スプラッシュ
リング外を向いた状態でコーナートップに登り、向き直りながら仰向けの相手に対し450度の前方回転するボディ・プレス。FMWハヤブサが考案し使っていたことで有名である。試合で行ったが失敗に終わり、後に成功させた。
シューティング・スター・プレス
仰向けの相手に対しコーナートップに登ってリング内を向き、270度のバック宙をして相手にボディ・プレスを浴びせる技。獣神サンダー・ライガーの正体と噂される人物が考案し必殺技として使っていたことで有名。2004年7月10日の東京ドーム大会で繰り出そうとした時には上手く体が回らずそのままコーナートップからのセントーンに切り替えたこともあった。丸藤曰く「俺の中の最高の技」。

入場テーマ曲[ソースを編集]

テレビゲーム好きのため、新人の頃はダンスダンスレボリューションの曲を使用していた。

  • 冷たくしないで / Eriko with Crunch (曲の冒頭に「ALL MY TRUE LOVE」 / SPEED の効果音を付け、その後に「冷たくしないで」のボーカル部分をカットした編集) 全日本プロレス時代の初期に使用した。
  • BRILLIANT 2U / NAOKI
  • 5,6,7,8 / The Steps
めちゃ×2イケてるッ!のコーナー「めちゃSTEPS」に他のノア所属選手らと共に出演した際、ナインティナイン岡村隆史からプレゼントされ、三沢から半ば脅迫に近い形で使用させられる[20]。しかし、その試合で敗北したため使用は1試合のみに終わった。
  • HYSTERIC
  • HYSTERIC(Trance Version)

参考文献[ソースを編集]

  • 「週刊プロレス」2013年1月11・18合併号 pp71 - 74掲載『レスラーヒューマンストーリ』第75回 丸藤正道 編
  • 「週刊プロレス」2013年8月31増刊号 pp87 - pp96掲載 『丸藤正道15周年記念特集』
  • ベースボールマガジン社『レスラーヒューマンストーリーII プロレスラー男の履歴書』p112-119

出典・脚注[ソースを編集]

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  1. ^ 2015.12.21|プロレスリング・ノア公式サイト2016年11月閲覧
  2. ^ a b プロレス・格闘技専門ch FIGHTING TV サムライ『 【完全生中継】プロレスリングNOAH「グローバル・リーグ戦2016」2016.11.22 新潟市体育館』2016年11月22日放送分
  3. ^ 『週プロ』2013-01-11 pp72
  4. ^ グローバル・ハードコア・クラウンは、現在は封印状態。
  5. ^ 丸藤正道(プロレスリング・ノア)が、初代タイガーマスクとの対戦を熱望! マッチメイク・チケット情報ブログ“押忍” 2006年1月30日
  6. ^ 門馬忠雄「恐れが現実となった丸藤正道の過労欠場」 『Sports Graphic Number』2010年9月2日号、文藝春秋、2010年、雑誌26851・9・2、116頁。
  7. ^ 高木裕美 (2014年7月6日). “丸藤が約7年半ぶりにGHC王者返り咲き 弾丸ヤンキースはTMDKを退け初防衛”. スポーツナビ. 2014年7月6日閲覧。
  8. ^ a b c 「プロレスラーの家族たち 第8回」『週刊プロレス 2012年4月4日号 (No.1623) 』 ベースボール・マガジン社、2012年、pp.48-49。
  9. ^ Cell Expression 丸藤広貴アートギャラリー
  10. ^ 【NOAH】丸藤が異業種にも挑戦 東京・赤坂『不知火カレー』が28日オープン(写真あり) - プロレス格闘技DX・2014年8月26日
  11. ^ 戴冠時の管理団体はFMW
  12. ^ プロレスリング・ノア「Winter Navig.'09」最終戦 日本武道館大会 第4試合 スポーツナビ
  13. ^ 参考文献『週刊プロレス』2014年7月2日号 頁37, 「選手本人が語る21世紀の技解説」第128回
  14. ^ 参考文献『週刊プロレス』2014年7月23日号 pp8
  15. ^ 『週刊プロレス』2014年7月23日号 pp10,
  16. ^ 参考文献『週刊プロレス』2016年10月12日号 P45
  17. ^ 参考文献『週刊プロレス』2014年11月12日号(通刊1464号)pp37「選手本人が語る21世紀の技解説」第147回
  18. ^ 『週プロ』2013-8-31 pp93
  19. ^ 『週プロ』2013-08-31 pp95
  20. ^ 当時、番組に参加していた選手では一番下だったため。

外部リンク[ソースを編集]