前田日明

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前田 日明
前田 日明の画像
プロフィール
リングネーム 前田 日明
クイック・キック・リー
前田 明
ニックネーム 格闘王
新・格闘王
七色のスープレックスを持つ男
スパークリング・フラッシュ
スーパー・デンジャラス・ヒーロー
黒髪のロベスピエール
メロメロらぶりんあっきゅん
身長 192 cm
体重 130 kg(現役時 115 kg)
誕生日 (1959-01-24) 1959年1月24日(61歳)
出身地 大阪府大阪市大正区
所属 新日本プロレス
→UWF
→リングス
スポーツ歴 空手
少林寺拳法
トレーナー アントニオ猪木
カール・ゴッチ
山本小鉄
藤原喜明
佐山聡
シーザー武志
田中正悟
デビュー 1978年8月25日
引退 1999年2月21日
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前田 日明
YouTube
チャンネル
活動期間 2019年2月26日 -
ジャンル エンターテイメント
登録者数 10万2000人
総再生回数 1276万2926回
チャンネル登録者数、総再生回数は2020年11月29日時点。
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前田 日明(まえだ あきら、1959年1月24日 - )は、日本プロモーター。元プロレスラー。リングスCEOTHE OUTSIDERプロデューサー。

元在日韓国人で、韓国名は高 日明(コ・イルミョン、고일명)。1983年、日本に帰化(詳しくは人物にて後述)。大阪府大阪市大正区出身。

来歴[編集]

少年時代[編集]

少年時代は特撮テレビドラマ『ウルトラマン』に熱中しており、1967年4月9日に放送された最終話「さらばウルトラマン」の作中でウルトラマンがゼットンに倒されたシーンを見てショックを受け、ウルトラマンの仇を討つためにゼットンを倒そうと、少林寺拳法を習い始めた(小学生で初段を取得)。両親が離婚(後述)する前までは普通の生活をしていたが、両親は戦前生まれであったため食べ物を残すことには厳しく、前田の嫌いなニンジンピーマンは無理にでも食べさせられた[1]

北陽高校時代は空手バイクに熱中した。バイクは家庭をほったらかしにしてなかなか家に帰って来ない父親がいなくても食事にありつく手段に辿り着けるように、父親に無理を言って買わせた[1]。空手は無想館拳心道館長の岩崎孝二から学んで二段を取得しており、極真空手大山倍達の弟子たちのようにアメリカで空手の道場を開きたいという夢を持っていた。大学受験に失敗し、アメリカに行く金を貯めようとアルバイトに明け暮れる[2][要ページ番号]。アルバイトは運送関係の仕事を中心に行ったといい、たまに長距離トラックの助手を行って運転手に食事を奢ってもらうなどした[1]

新日本プロレス[編集]

1977年佐山聡にスカウトされ、新日本プロレスへ入団。1978年8月25日、長岡市厚生会館山本小鉄戦でデビュー。新日本プロレスの社長兼エースのアントニオ猪木に憧れて入団したのではなく、「モハメド・アリのジムと提携してるので一緒のジムに入ってボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる」と新間寿に言われたのが理由である。金を貯めなくてもアメリカに行け、ベニー・ユキーデと戦うこともできると考えていた[2]。実際は提携の事実はなく、新間が半ばだました形で入団をさせた(当時、ユキーデは新日本の主催興行に出場していたが、前田とは対戦する機会はなかった)。

若手時代当時の夏場の練習に関しては、当時冷房も無く室温が最高40度の高温に達する蔵前国技館愛知県体育館、改装前の大阪府立体育館に適応できるように、47度か48度に達する密閉状態の道場でやらされたといい、しかも当時の時代柄上練習中の水分補給は禁止されていた。あまりに喉が渇くため、トイレの便器の水を飲もうかと迷う程であった。プロレス界の仕来りである1日2食のまとめ食いも、入門前は1日に5食から6食に小分けにして食べていた前田にとっては苦痛であった[1]。入門半年が経過した頃、花見の席でミスター高橋が「お前らこれからなにかと酒を飲まなきゃいけなくなるから、酒癖が悪いかどうかチェックするぞ」と無理やり前田に酒を飲ませたが、前田は泥酔して包丁を持って暴れたという[1]

大型であることから将来のエース候補として期待され、1982年2月に海外修行でイギリスへ渡り、「サミー・リー」(佐山聡)の弟というギミックのもと、クイック・キック・リーKwik-Kik Lee)のリングネームで活躍[3]1983年1月25日にはウェイン・ブリッジを破り、かつてはビル・ロビンソンホースト・ホフマンも戴冠したヨーロッパ・ヘビー級王座を獲得[4]。4月21日の凱旋帰国試合では、ポール・オーンドーフを相手にリバース・アームソルトにてピンフォール勝ちを収めた。5月開幕のIWGP決勝リーグ戦には「欧州代表」として[3]、11月開幕の第4回MSGタッグ・リーグ戦には 藤波辰巳とのタッグチームで出場した[5]。凱旋当時は「七色のスープレックスを持つ男」と紹介され、相手をロープに飛ばしてのフライング・ニール・キックなど、ダイナミックな技で人気レスラーとなった。また、甘いマスクで女性ファンも多く、帰国した年のファンクラブの集まりでは女性が多かったことが週刊プロレスで報じられている。

若手時代、前田はジョージ高野に1勝35敗15分と大きく負け越しており、前田は「新日本プロレスの歴史上、最も素材が良く素質もあったのは間違いなくジョージ高野だ」と断言しているが、ジョージ高野は「新日本プロレスは強さを追求する大型の前田エースにするべきだった」と前田をエースにするべきだったと断言している。[6]

第1次UWF[編集]

1984年2月29日の合同練習を最後に前田は新日本プロレスを離脱し、WWF会長でもある新間寿の仲介で3月より、WWFに遠征[7]。同月25日、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてカナダのピエール・ラファエルを破り、新設されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得[8]。ベルトには「UWF」の文字が中央に大きく施されており、その後、前田は第1次UWFへの移籍を表明した[7]。なお、このWWF遠征における前田はベビーフェイスのポジションで、アイアン・シークレネ・グレイワイルド・サモアンズジェリー・バリアントタイガー・チャン・リーミスター・フジデビッド・シュルツジョージ・スティールなどのヒール勢と対戦し、トニー・アトラスS・D・ジョーンズトニー・ガレアらとタッグを組む一方、ロッキー・ジョンソンブライアン・ブレアーなど同じベビーフェイス陣営との試合ではヒールの役割を担った[7][9]。また、新日本プロレスでの若手時代に世話になったロディ・パイパーや、前年の凱旋帰国時の対戦相手だったポール・オーンドーフとも再会し、旧交を温めたという[7]

UWF参加は理想や夢のためではなく、母親が怪我で入院したため移籍金が必要だったと前田は証言している[10]。UWFでは若きエースとして迎えられ、4月11日に開幕したオープニング・シリーズでは、旗揚げ戦のメインイベントでダッチ・マンテルに勝利[11]。最終戦の蔵前国技館大会では、当時まだ新日本プロレスに所属していた藤原喜明と流血戦を演じた(裁定は両者KO)[12]。その後、UWFは佐山聡の影響によりキックと関節技を中心とした格闘技色の濃いプロレススタイル(後にUWFスタイルと呼ばれる)に移行するが、格闘技の試合は月に一度と言う“競技志向”の佐山と、会社が大変なんだから試合を増やそうという“興行志向”の前田が対立し、UWFは解散。ただし後の第2次UWFリングスでは試合は月に一度という形を踏襲している。

新日本プロレス提携時代[編集]

1985年12月6日、藤原、木戸修高田伸彦山崎一夫らと共に業務提携という形で新日本プロレスに復帰。前田はリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイクアピールを行った。

1986年4月29日、三重県津市体育館において新日本サイドの不可解なマッチメイクで、アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。セメントマッチだと言われているが、最後はアンドレが試合を放棄してしまい、26分35秒ノーコンテストに終わる。復帰後の新日本プロレスではアンドレの他、ディック・マードックマスクド・スーパースタージミー・スヌーカケリー・フォン・エリックワイルド・サモアンスティーブ・ウィリアムスバッドニュース・アレンアレックス・スミルノフハクソー・ヒギンズコンガ・ザ・バーバリアンバズ・ソイヤーリック・スタイナーバンバン・ビガロレイ・キャンディバイオレンス・ウォーロードスコット・ホールなどの外国人レスラーと対戦した。

1986年10月9日、両国国技館で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」における異種格闘技戦で、ドン・中矢・ニールセン逆片エビ固めでギブアップさせて勝利。この試合を期に「新格闘王」と呼ばれ、プロレス界以外からも注目を浴びるようになった。この試合について、後年、ニールセンは「ここはこうやって、その次はこう、と流れを決めたわけではなかった。でも、ボクが言われたのは“試合を盛り上げてくれ”ということ。そして、1Rにいいパンチが入ったのに、セコンドに“アーリーノックアウトはダメだ”って言われた」と、プロレス雑誌『kamipro』で証言した。(前田日明 対 ドン・中矢・ニールセン戦)

1987年11月19日[13]後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチにおいて、木戸にスコーピオン・デスロックをかけていた長州力の背後から正面へ回り込み、長州の顔面をキック(敵の固め技から味方を救う同様の攻撃はカットまたはセーブと呼ばれる)、長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負わせた(長州vs前田 顔面蹴撃事件。前田本人は「長州さんに蹴りを入れる前に肩を叩き ”今から蹴りますよ” と合図を送ったが肩を叩かれた長州さんが横を向いてしまった」「事件ではなく事故」と語っている)。このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。その後、出場停止解除の条件として、メキシコ遠征することを指示されたが、それを拒否したことにより1988年2月1日に新日本プロレスからプロレス道にもとる行為を理由に解雇される。後に前田は、プロレス雑誌「Gスピリッツ」[要ページ番号]におけるインタビューで、全日本プロレスでの天龍輪島戦の衝撃に対抗するため顔面蹴りを試みたところ、長州が顔を反らしてしまったためにアクシデントに至ってしまったと証言している(和解済み)[要出典]。また当時マッチメイカーであり、またこの試合でレフェリーを務めていたミスター高橋によれば、セーブとしては激しい攻撃でありまた当たり所も悪く、「プロレスでやってはいけない攻撃」ではあり[13]、長州の怪我の状態が深刻であること、および長州がリング上での報復を意図していた事を鑑み予定を変えその場で試合終了とした[13]。高橋によればこのように、強力な攻撃が急所に入ってしまう事故は珍しいものではなく、通常は後に謝罪すれば収まるものであるのだが[13]、そこを猪木が(危険な攻撃は)「プロレス道にもとる」として追放処分にしてしまった判断は、「プロレスとは相手に怪我をさせないように執り行う物である」と言ったようなものだと疑問視し、むしろ遺恨試合というアングルに繋げるべきではなかったかと指摘している しかし、実際に前田を追放したのは長州派閥であり、猪木は前田を伴って座禅を組みに行く等離脱前に関係は修復されていた。[13][注釈 1]

第2次UWF[編集]

第2次UWFは、1988年5月12日に後楽園ホールにて「STARTING OVER」と銘打ち旗揚げ戦を行った。当時、創刊されたばかりの格闘技通信は「プロレスという言葉が嫌いな人この指とまれ」と、前田を表紙に抜擢した。第2次UWFは格闘技であることを標榜した、競技色の強いプロレスであった。

1988年8月13日、ジェラルド・ゴルドーと異種格闘技戦で対戦。試合開始直後から打撃でゴルドーに圧倒されるも、右ハイキックをキャッチされカーフスライサー(公式発表は裏アキレス腱固め)で勝利。ただし、この試合は事前に結末の決まった試合(フィックスト・マッチ)でリハーサル通りの結果だった[14]。この試合についてゴルドーは「マエダには言いたいことがある。『俺はゴルドーをやっつけた。俺はゴルドーよりも強い』とマエダが言うのはおかしいじゃないか。ビジネスでやったフィックスト・マッチだった、と正直に言うべきだ」と言っている[14]。当日、なぜか前田には右目に傷ができていていた。この件についてゴルドーは、あの傷はリハーサルの時にゴルドー自身がつけてやった、と述べている[14]。また、この試合の直前、『格闘技通信』誌の韓国取材にフィニッシュホールドであるハイキックをキャッチしてのカーフスライサーを演武をハプキドーの道場生が披露している[15]。これを取材したのは編集長の杉山頴男であった。書籍『1984年のUWF』によると、彼はUWFのすべてを知り、結末の決まったショーであることを知りながら真剣勝負という虚偽の印象を売り上げを伸ばすために誌上で読者に与え続けた前田と思惑が一致していた人物だとしている[16]。一方でゴルドーは、あの技はゴルドー自身が前田に教えた、と述べている[14]

その後、前田とUWF社長の神新二との間で、神社長の会社の株式の無断の独占問題と不明朗な経理で問題が発生。1990年10月、前田は船木誠勝戦直後に、フロントを非難。これを受けたフロントは前田を出場停止処分とする。この一連の前田とフロントとの確執は前田と所属選手間にも波及。翌1991年初頭に、前田は自宅マンションに選手を招集し団体の存続性を探ろうとしたが、「前田さんの言う事だけを一方的に信用するのは不可能。」(宮戸優光)、「なんか強制されてるみたいで嫌だなぁ・・・。」(安生洋二)、などの不協和音も飛び出し、話し合いは紛糾。やむを得ず前田は解散を宣言し、第二次UWFは隆盛を極めながらも、活動期間僅か2年8ケ月という短い歴史にピリオドを打った。

リングス[編集]

リングス設立

第2次UWF解散後の1991年春、リングスを設立。同年5月11日に横浜アリーナで旗揚げ戦を行った。リングスの興行はWOWOWで生放送された。さらには、UWF時代の人脈からオランダクリス・ドールマンの全面協力を得ることになった。正道会館からは、石井和義館長が佐竹雅昭ら空手家をリングスに派遣した。石井館長はリングス参戦によって大型興行のノウハウを蓄積しそれが後のK-1の飛躍へとつながった。

前十字靭帯の断裂、側副靭帯損傷

旗揚げ第2戦前の練習で、前田は前十字靭帯断裂、側副靭帯の重傷を負った。その後しばらくはニーブレスをつけて強行出場を続けるが、最終的には手術を行い長期欠場となった。エース不在の興行的な穴はディック・フライヴォルク・ハン高阪剛田村潔司山本宜久長井満也成瀬昌由らが埋めることになる。この頃、リングスは旗揚げ当初より続いた外国人頼りのカードから脱却する。

KOKルールの採用

1993年から始まったUFCの影響を受けて、1999年からリングスもバーリトゥードに近い完全な真剣勝負であるKOKルールを採用した。KOKルールは、グラウンド状態での顔面への打撃は禁止であったが、スタンド状態での顔面打撃を認めた画期的なルールであった。また、従来の(一部の特別な試合を除く)リングスの試合とは異なり完全な総合格闘技の試合形式で行われた。佐山は初期の修斗ルールと同じと言っていたが、グラウンドでの腹部・腰部・足部への打撃有無の違いがある。

ヒクソン・グレイシーとの対戦宣言

1997年に開催されたPRIDE.1では、高田延彦がヒクソン・グレイシーに敗北。これを機に、前田はヒクソンとの対戦を宣言し交渉を進めるが、ヒクソン側が高田延彦との試合を決めたため、実現することはなかったと1998年に前田が記者会見を開き説明したが実際は交渉すらしてなかった事がのちに明らかになっている。

リングス活動停止

1999年2月21日、前田の引退試合としてアレクサンダー・カレリンと対戦し、判定(ポイント)負け。しかしながら、ロシアの英雄であるカレリンをレスリング以外の場に唯一立たせた意義は大きい。カレリンとの引退試合は民放ニュース番組で特集されるほど、世間から注目されていた。後に前田は、引退試合の相手にカレリンを選んだ理由について「本当に強い人間っていうのは、こういうことだよっていうのを証明したかった」と語っている。[17]

WOWOWによる次年度よりの放映打ち切り決定により、2002年にリングスは活動停止。しかし、リトアニア、オランダ、ロシアでは大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営し、リングスKOKルールを採用した格闘技イベントZSTが開催されている。

ビッグマウス(ビッグマウス・ラウド)[編集]

2005年、元新日本プロレスの上井文彦に請われ、上井が旗揚げした新プロレスイベントビッグマウスにスーパーバイザーとして参画。同時に、船木誠勝と和解。

2006年2月26日、新生ビッグマウス・ラウド旗揚げ記念大会・徳島興行で、前田は船木と共にビッグマウス・ラウドを脱退。上井による会社資金の横領の露見、それによる資金難による団体所属選手および社員の給与未払い、道場を用意しようとしなかった等、上井の資金の使い込みをめぐる確執が脱退理由であった。

HERO'S[編集]

ビッグマウスとK-1との提携で、「HERO'S」(総合格闘技イベント)発足時より「スーパーバイザー」として参加。同興行の看板役の他に、試合ルールの運用、選手発掘などを行う。しばしば記者会見等の公の場に姿を現した。

2007年10月5日、「HERO'S KOREA 2007」の開催発表記者会見に出席。前日10月4日にPRIDE事務所が閉鎖され活動停止となったことに関し「天網恢々粗にして漏らさず」と発言。同日深夜、HERO'S公式サイトで谷川貞治が「不適切な発言」と謝罪文を掲載する事態となった[18]

同年12月31日、「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」で田村潔司vs所英男の試合後のリング上にプレゼンターとして登場。勝利者賞のトロフィーを田村に放り投げるように押しつけるトラブルを起こした[19]

2008年2月15日、「THE OUTSIDER」(後述)の記者会見を開き、HERO'Sの発展的解消に伴い同イベントのスーパーバイザーを降板したことが発表された。それまで確執が取り沙汰されていた旧PRIDEとHERO'Sとの連立イベントDREAMについては「めでたいこと」と述べた[20]

THE OUTSIDER[編集]

2008年1月21日、RINGS公式サイトで、いわゆる「不良」を主な対象としたアマチュアの格闘技大会「THE OUTSIDER」の立ち上げを発表し[21][22]、3月30日にディファ有明において旗揚げ大会を開催した[23]

タイトル歴[編集]

得意技[編集]

キャプチュード(Captured:捕獲投げ)
前田が開発した変形のフロント・スープレックス。相手のキックをキャッチし、腕と片足をフックして後ろに反り投げる。投げた後そのままピンフォールが出来る。落とす角度によっては相手を脳天から落とす事も出来る。技の名は入場テーマ曲のタイトル(『CAPTURED』)に由来(それ以前は「アキラ・スペシャル」と称されていた)。
各種スープレックス
イギリス修行から凱旋した当時は「七色のスープレックスを持つ男」と紹介された。実際には、ジャーマン・スープレックス・ホールドドラゴン・スープレックス・ホールドリバース・アームサルトダブルリスト・アームサルトウンターグルフ・サルト、リバース・サルト、スロイダーハーフハッチ、サルト、ダブルアームロック・サルト、クォーターネルソン・サルト、デアポート・スロイダーの12種類を使用していた。またタイガー・スープレックスも1986年11月21日に行われたケンドー・ナガサキ戦で披露している。
各種関節技
トーチャロイド
縦四方固からの肩関節技。両腕で相手の頭部の後ろで相手の両上腕部を抱え相手の両肩、首を極める[24]
V2アームロック[25]
前田が考案した変形の袈裟固め。デアポートスロイダーで相手をマットに叩きつけ、そのまま両腕を離さず相手の腕関節と首を極めて絞り上げるサブミッション・ホールド。別名ピローアームロック
各種キック
藤波辰爾は「橋本のキックや蹴りは、ある程度リーチが分かり距離が取れるけど、前田のキックや蹴りは、膝下が勢いよく伸びるため、距離が取れず避け難い」と語っている。
フライング・ニールキック
前田独特の軌道を描くニールキック(スタン・ハンセンのラリアットを足でという発想から生まれたと言われている)。横にひねりを加えつつジャンプし、踵を相手の顔面や胸元に当てる。
大車輪キック
縦回転で放たれるニールキック。足の長い前田が使用するのが「大車輪」の由来。藤波辰爾を大流血に追い込んだこともある(藤波を流血に追い込んだ時はコーナーに追い詰めてから「直角蹴り」(膝への前蹴り)からのコンビネーション)。また、藤波の額には前田の大車輪キックで負った傷が未だに残っている [26]
ジャンピング・ニー・バット
新日での凱旋帰国後、坂口征二とタッグの際に多用。これは、対戦相手として多く組まれた外人選手がニールキックを受けるのを嫌ったことに起因する。
膝蹴り
首相撲から相手の腹部や顔面に膝蹴りを叩きこむ。繋ぎで使うことが多い。新生UWF時代に田村潔司を長期欠場(眼底骨折)に追い込んだのもこの技である。

戦績[編集]

第1次UWF[編集]

UWFと新日本プロレスの業務提携時代[編集]

第2次UWF[編集]

リングス[編集]

総合格闘技 戦績
61 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
49 5 44 0 0 1 0
11 2 8 1 0

人物[編集]

  • 2006年12月、15年来の親友であったフリーカメラマンの女性と入籍した(2007年3月3日に自身のブログで発表)[28]。2007年5月には長男が誕生。2009年1月17日に結婚披露宴を行った。
  • 現役引退後に自身が在日韓国人三世(韓国名:高 日明 コ イルミョン)であることを公にした。後に韓国訪問での体験などを経て帰化を決意。1983年に日本に帰化申請を行い、翌年受理された[29]
  • 中学生の時に両親が離婚。父親について行き兵庫から大阪に引っ越したが、父親は二ヶ月に一度くらいしか家に帰らず、前田は貧困と孤独と一階の町工場からの騒音と煙に苦しめられた。そんな精神状態の唯一の心の安らぎは旧日本軍の戦記物を読む事で、中学卒業後に自衛隊入隊かタンカーの船員になろうと考えたが、自衛隊も高等専門学校も日本国籍を有する事が応募資格であり、先述の事情から諦めざるを得なかった[2]
  • 父は終戦直後の19歳くらいの頃、買い出しに行った帰りの列車で連結部分に掴まり、それを起因とした事故で左腕が不自由になっていた。父は前田が中学3年生になったあたりから日本の家庭とは別に持っていた韓国の家庭の元へ出かけていたという。父は左腕が不自由であったがその分右腕を鍛えていたため腕っ節が強く、空手を習い始めていた中学時代の前田の70 kgの体を右腕一本で吊り上げ、組手でも前田をボコボコにしたという。後年の前田の分析によると前田の父親は「発達障害の元祖」とのことであり、常識的なコミュニケーションを知らない人物であった[30]
  • 自分のことを「引きこもりが社会問題化する前から引きこもり的な要素があった」と2019年のインタビューで分析を披露しており、自分の家のレイアウトも家から出なくても何でもできるように調整されているという[31]
  • 自身をストリートファイトで1万戦無敗と称している[32]
  • 新日本デビュー当時のリングネームは「前田明」であったが、旧UWF旗揚げ時にリングネームを本名の「日明」に改名した。祖父への思いから「前田日明」に改名したと、後に「週刊プレイボーイ」で語っている。また、リングネームを本名に改名した当時の週刊プロレスの巻末クイズには、「Q.前田日明の日はどういう意味? A.日本という意味」と記載されている。
  • 1987年7月には極真会館空手道選手松井章圭と巻頭対談が『ゴング格闘技』八月号誌上で行われ、彼らは極真会館の空手家キックボクサー山崎照朝から直接指導受けたときの体験を語り合い、前田は山崎の人柄や指導内容を尊敬していると語っていた[33]
  • 若手時代、最も負けたくなかったライバルは、同期のジョージ高野。当時の前田は対ジョージ戦には大きく負け越しており、「ちきしょー、どうやったらジョージに勝てるんだろう」と思って練習していた。また前田は「新日本プロレス史上、最も素材がよく、最も素質があったのは間違いなくジョージ高野」と断言している。
  • 近年の若手レスラーに対しては批判的なスタンスをとることが多いが、KENTA(のちのヒデオ・イタミ)だけはその反骨的なスタイルが気に入ったのか、高い評価を与えている(月刊Gスピリッツ Vol.3より)。
  • 『ウルトラマン』がゼットンに倒された事が格闘技を始めるきっかけとなったが、2014年1月29日のニコニコ生放送で行われた「ウルトラマン Blu-ray BOX III」発売記念番組にてゼットンとの対決が実現している[34]
  • 前述の少年時代にケンカに明け暮れていた頃、下位の力士に喧嘩を売ろうとしてたら当時横綱だった輪島大士に遭遇した、遠目で見ていてもあまりにも凄い威圧感を受けたためたじろいでしまった、後に輪島がプロレス転向した際は複雑な心境だったとのこと(その当時すでに前田はトップレスラーだったため)[35]
  • ダイナマイト・キッドが死去した際、キッドを苦しめたアナボリックステロイドなどの薬物の害について「新日は選手のケアがしっかりしていたからともかく、1970年代のアメリカやカナダのレスリング界なら試合に穴を開けたら使ってもらえなくなり何の保証もないため、もしアメリカやカナダで活動していたなら俺も薬物を使用していたかもしれない」と語り、キッドに同情を寄せていた。また、1970年代のアメリカやカナダのレスラーにおける薬物事情に関して「当時のレスラーの中ではアンフェタミンが流行していたが、使用すると眠れなくなるので睡眠薬を飲み、起きられなくなるのでまたアンフェタミンを使用する」「1回1錠の痛み止めを手に山盛りにしてビールと一緒に飲む選手もいた」と証言した。当時のアメリカやカナダのレスラーはレンタカーを1000kmから1500kmの距離走らせて会場から会場へ移動するのが日常茶飯事で、食事もジャンクフード中心であったため、薬物を使用しないと筋肉が育たないのは当然であったと述べている。その点日本でプロレスをやっていて精神を病むことは無いと話しており、もし日本でやって精神を病むのであればその者はプロレスに向いていないということであるとしている[36]
  • 若手時代の食生活は豪勢でありながら量が物凄かったといい、ある時外食に行くと満漢全席を1日で食べさせられたと本人が話していた。またある時は勝新太郎小林旭に100万円もの食事を1度に奢ってもらった[1]
  • 新弟子時代はあまり酒が強くなかったが、道場のレスラーや琴ヶ梅益荒雄などの飲み仲間に鍛えられ、海外遠征から帰った頃には飲めるようになった。1991年にロシアに選手を探しに行った時、現地のレスラーから「倒れなかったのはアントニオ猪木と前田だけだ」と評されるほどの酒豪ぶりを見せた。ただ、流石にメタノールの果実酒を勧められたのは断った[1]

政治[編集]

2009年12月28日に2010年夏の参議院比例代表民主党公認で出馬予定だったが[37]2010年3月3日には第1次公認候補が見送られ[38]、同年3月21日には出馬辞退の意向が伝えられている[39]。理由としては、外国人参政権について本人は反対しており民主党との意見の違いがあったほか、党の出馬時の金銭的支援についての食い違いがあったという。また前田側は党の姿勢と石井一選対委員長に対し激怒した場面もあったとされる[40]

その後、民主党と連立与党を組む国民新党が前田と接触を持ち、参議院東京都選挙区に同党公認候補として擁立する方針を打ち出す[41]。しかし、東京都選挙区からの立候補を望む同党と、比例区からの出馬を希望する前田との意思は合致せず、結果、同党からの出馬もなかった[42]

趣味[編集]

  • 釣り - 釣りのために小型船舶も所有している。
  • 読書 - ポルノから哲学、戦記物まで読むというほど読書好き。特に太宰治や、孔子論語に傾倒し、第二次UWFを旗揚げした際に「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」という、太宰治が「」(『晩年』所収)で引用したポール・ヴェルレーヌの「叡智(Sagesse)」の言葉を、孫引きした挨拶を行っている。また、作家の山田詠美とも交流がある。
  • 日本刀の収集・研究。日本刀は50振以上所有している。また、日本刀に限らず、骨董品を見て回るのが好き(『オーラの泉』に出演したときに発言)。
  • 航空機が好きで、結婚した際「子供はパイロットにしたい」とコメントしている[28]。夢は零式艦上戦闘機太平洋を横断することと語っている。テレビ番組「所萬遊記」で、所ジョージに「一緒にムスタングに乗りましょう」と誘っている。また、元帝国海軍中尉でエースパイロットの坂井三郎を慕っており、対談もおこなった。また富士通AirWarriorからフライトシミュレーターも続けている。2010年まではFighter Aceプレイヤーだったがサービスが終了してしまった。
  • 熱烈なMacintosh信者(エバンジェリスト)。数十MBが主流の時代に1,000MBを超えるメモリーを搭載したMacを使っており、Mac専門誌で取材されたことも有る。
  • サバイバルゲーム - M4カービンのカスタム等、複数の銃を所有し装備や銃等、本気モード全開で楽しんでいる模様。銃や装備は、本人がショップまで出向き、米軍放出品等こだわりを持って購入している。ゲームフィールドが開催する定例会等にも、THE OUTSIDERの選手や複数の関係者らと参加していることがあり、一緒にゲームを楽しめたりすることもある。
  • パイプタバコと葉巻が好きである。

トラブル[編集]

  • 2000年5月、パンクラス社長だった尾崎允実(尾崎正実)が、リングスに出場していた外国人選手とホテルロビーの喫茶スペースで談話していたのを発見し、これを引き抜き工作と判断。尾崎の胸倉を掴み、その際に尾崎がかすり傷を負ったとして傷害罪で起訴された。前田は暴行の事実を否定し無罪を主張していたが、東京地方裁判所の山室恵裁判長は「粗暴で悪質な犯行だが衝動的なものだった」として、2003年4月22日に25万円の罰金刑を言い渡した[43]。その後、この事件とそれに絡む発言で民事提訴され、2002年6月7日に東京地方裁判所は前田に約155万円の支払いを命じた[44]。2003年1月22日に東京高等裁判所は前田の控訴を棄却[45]。ただし、この事件の際に尾崎と談話していたジェレミー・ホーンは「リングスに招聘されている時に、尾崎が連絡をよこしパンクラスへの参戦に興味はないかと聞いてきた。でもそれは日本の文化ではずるいやり方なんだ。前田は怒っていたよ。でも、彼は尾崎の肩を掴んで揺すっていたけど、弟の襟首を掴んでるような感じで暴力はふるっていなかった。だから前田が提訴されたという話を聞いて、僕は日本に飛んで彼の為に法廷で証言したんだ」と語っている[46]。ただし、ホーンはリングス参戦より先(1998年12月)に既にパンクラスの試合に出場したことがあるため、仁義に反した交渉とも言いがたい側面がある。
  • 1994年10月に開催された極真空手第26回全日本大会に前田が来賓として出席。そこに居合わせた『フルコンタクトKARATE』編集長・山田英司を会場の女子便所内の個室に連れ込んだ[47]。当時、山田はリングスを真剣勝負と八百長混在のプロレス、また前田と友好関係にあった正道会館を八百長と批判していた[48]。事件後、山田は「掌底をスウェーでよけた」「ヒザ蹴りをヒジで受けた」と格闘技経験が功を奏した旨を語ったが[49][50]、それに対し前田は「スウェーでかわした? なんなら、裁判官立会いで再現したろか」とコメントした。
  • 1994年にリングスとUWFインターナショナルとの対抗戦[51]の交渉が不調に終り、元弟子でもある安生洋二との舌戦に発展する。その際、前田は安生を家族の前で制裁してやると発言するが、これが安生の自宅襲撃を示唆したものとして、UWFインターは名誉毀損と脅迫で前田を告訴。前田は謝罪会見を開いて事態を収拾した[52]。また、1996年6月にはFIGHTING TV サムライ開局のパーティーで前田が安生と言葉を交わし裏拳で小突いた[53][54](レスラーやマスコミ等が周囲にいる中での出来事で、アントニオ猪木が仲裁)。その3年後の1999年11月14日、UFC-J会場において、安生はマスコミと談話中の前田の背後に忍び寄り、後ろからの不意打ちでアゴを殴打。前田は失神し、この姿は衝撃的な事件としてプロレス誌の表紙を飾った。安生は襲撃直後にパンクラスの高橋和生(高橋義生)とガッチリ握手をかわす姿をプロレス誌に掲載されたが、安生、高橋ともに事件との関連性を否定している。その後、前田は安生を訴え、安生は略式起訴で20万円の罰金刑を受ける[55]。安生としては、殴った後に「文句があったらリング上でやろう」という話にするつもりだったという[56]
  • 2001年5月30日付の東京スポーツに「有罪判決 リングス前田 暴行女性は元妻」という記事が1面に掲載されたことに対し、500万円の損害賠償を求めた訴訟を起こす。東京地裁(菅野博之裁判長)は、『米国で有罪判決を受けた』事実、および前田が『暴行,結婚していた』ことは「真実と認められない」と判断し、東スポに200万円の支払いと謝罪広告掲載を命じた(2002年9月13日判決)。
  • 2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!田村潔司所英男戦のプレゼンターを務めるが、試合後に勝利者トロフィーを至近距離から力任せに田村の胸へ投げつけた。

入場テーマ曲[編集]

  • 「KATANA」
  • 「THE ROOM (BRAINWASH) PART ONE」 - リック・ウェイクマンのアルバム『1984』の4曲目。英国より凱旋帰国した時の入場テーマとして使用していたが、前年から既に小林邦昭の入場テーマ曲として定着しており、なぜ使用に至ったかは不明。
  • ダンバインとぶ」(歌詞は入れずブリッジで繫いで編集したものを使用) - 1983年から1984年に掛けて新日本で使用。
  • 「スパークリング・フラッシュ 風雲児のテーマ」 - つのだ☆ひろ作詞作曲。第1次UWF草創期(ラッシャー木村剛龍馬の在籍期)に使用。1984年のLP盤アルバム『Pro-Wrestling Super Fighters' Themes』の2曲目として収録[57]、1992年にCD盤『THE U.W.F』にて復刻[58]
  • GOLD」 - スパンダー・バレエのアルバム『トゥルー』の4曲目。第1次UWF時代に使用[59]
  • 「キャプチュード」 (Captured) - 第1次UWF崩壊後、新日本へ復帰した1986年より使用された、前田の代表的な入場テーマ。新日本時代は曲の随所に機関銃の銃声がSEとして挿入されていた。「キャプチュード」が日本では呼称となってしまっているが、英語の実際の発音は「キャプチュード」より「キャプチャード」に近い。オリジナル音源は、イギリスプログレッシブ・ロックバンドであるキャメルの、1981年にリリースしたアルバム『ヌードの物語 〜Mr.Oの帰還〜英語版』の11曲目として収録されているもので、日本の敗戦の後29年間に渡りルバング島に潜伏を続けた残留日本兵として著名な、小野田寛郎をモチーフとした敗残兵の「ヌード(Mr.Oの現地での渾名)」が、救助隊との間で激しい争いの果てに「保護(Captured)」されるシーンを描写した楽曲でもある[60]
  • 「JUST A HERO」 - リングス旗揚げ時に使用された新田一郎作曲のオリジナル曲だったが、すぐに「キャプチュード」に戻している。ただしWOWOWのリングス中継でのBGMとしては長期間に渡って使用された。

その他[編集]

テレビ・ラジオ[編集]

映画[編集]

  • YAWARA!(1989年、東宝) - 本人 役
  • WARU(2006年、真樹プロダクション) - 主人公の友人 役
  • タイトロープ ~アウトサイダーという生き方~(2013年、トラヴィス) - 本人 役
  • 9 ナイン(2018年2月17日、MIRAI) - 長谷川凌一 役[61]

Web番組[編集]

CM[編集]

ゲーム[編集]

  • スーパーファミコン『ASTRAL BOUT』[63] 1992年 キングレコード
  • スーパーファミコン『総合格闘技 アストラルバウト2』 1994年 キングレコード
  • スーパーファミコン『RINGS アストラルバウト3』 1995年 キングレコード

著書[編集]

  • 『格闘王への挑戦』(1988年10月28日、講談社ISBN 4-06-204081-6
  • 『パワー・オブ・ドリーム』(1988年12月、角川書店ISBN 4-04-173701-X
  • 『誰のために生きるか』(1992年4月24日、PHP研究所ISBN 4-569-53635-2
  • 『最強の自分をつくる - オーバー・ザ・レブ・リミット』(1994年4月、PHP研究所)ISBN 4-569-54202-6
  • 『真格闘技伝説 RINGS』(1994年9月、ピンポイントISBN 4-87031-189-5
  • 佐々木徹『無冠 前田日明 』(1998年11月、集英社ISBN 408780285X
  • 福田和也・前田日明『真剣勝負』(1999年10月、草思社ISBN 4794209177
  • 山本小鉄・前田日明『日本魂』(2009年9月16日、講談社)ISBN 978-4062154024

連載[編集]

参考文献[編集]

  • 流血の魔術・第2幕 プロレスは誇るべきエンターテインメント, 講談社, (2010), ISBN 978-4-06-216516-7 

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 高橋によればほとんどの選手が「あれを言ってはおしまいだ」などと同様の指摘を行っていたという。なお高橋によれば、長州は網膜剥離を起こし長期欠場。引退も危惧される状態であったという。また、猪木は前田を危険分子として見ていたのではないかとも指摘している。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g リングに革命を起こし続けた前田日明の「新日本プロレス時代の豪快すぎるメシ話」【レスラーめし】 メシ通 2018-04-03 (2020年3月18日閲覧)
  2. ^ a b c 佐々木徹『無冠 前田日明』集英社
  3. ^ a b 『THE WRESTLER BEST 1000』P143(1996年、日本スポーツ出版社
  4. ^ a b European Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2015年8月27日閲覧。
  5. ^ NJPW 1983 The 4th Madison Square Garden Tag Team League”. Puroresu.com. 2018年5月19日閲覧。
  6. ^ シュートマッチ プロレス「因縁」対談 10番勝負
  7. ^ a b c d 『Gスピリッツ Vol.32』P34-38(2014年、辰巳出版ISBN 4777813304
  8. ^ WWF International Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2015年8月25日閲覧。
  9. ^ The WWE matches fought by Akira Maeda in 1984”. Wrestlingdata.com. 2015年8月25日閲覧。
  10. ^ 山本小鉄・前田日明『日本魂』講談社
  11. ^ UWF Opening Series - Tag 1”. Cagematch.net. 2015年8月27日閲覧。
  12. ^ UWF Opening Series - Tag 5”. Cagematch.net. 2015年8月27日閲覧。
  13. ^ a b c d e ミスター高橋 2010, p. pp.48-52.
  14. ^ a b c d 柳澤健『1984年のUWF』pp.293-299
  15. ^ 「ハッキドーの実戦テク」『格闘技通信』第3巻第12号、ベースボール・マガジン社、1988年10月1日、 80頁。
  16. ^ 杉山頴男「Reviewing No.22 from editors」『格闘技通信』第3巻第12号、ベースボール・マガジン社、1988年10月1日、 106頁。
  17. ^ 週刊プロレス 2010年11月10日号
  18. ^ HERO'S 前田日明氏の発言に対する謝罪 HERO'S公式サイト 2007年10月5日(2007年10月11日時点のアーカイブ
  19. ^ HERO'S 「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」第6試合 スポーツナビ(2008年1月3日時点のアーカイブ
  20. ^ 前田日明氏がSV降板、アマMMA大会「THE OUTSIDER」開催へ スポーツナビ 2008年2月15日(2008年2月21日時点のアーカイブ
  21. ^ 「ジョーがいたら俺が段平になる」前田が総合格闘技のアマチュアを確立する! angle JAPAN 2008年1月15日
  22. ^ THE OUTSIDER 参加者募集 RINGS公式サイト 2008年1月21日(2008年2月18日時点のアーカイブ
  23. ^ 第1回THE OUTSIDERを、前田CEOは「70点」「(乱闘の数は)想定以下」と評価 angle JAPAN 2008年3月31日
  24. ^ 藤原喜明『藤原喜明の必殺十番勝負―スーパー・テクニックII』講談社、日本(原著1987年11月10日)、第1刷、116-117頁。ISBN 406101515X。「トーチャロイド」
  25. ^ 麻生秀孝『実戦!サブミッション』ケイブンシャ(原著1991年3月25日)、15,30。「V2アームロック」
  26. ^ 『藤波辰巳vs前田日明』の大流血試合を船木誠勝はどう見たのか? 当時、藤波のセコンドについた船木誠勝の証言
  27. ^ サンボジャケットマッチ
  28. ^ a b 【HERO'S】新婚の前田日明SV「息子にはパイロットになって欲しい」 格闘技ウェブマガジンGBR 2007年3月8日
  29. ^ 前田日明、在日コリアンの叫び【週刊 前田日明】 カクトウログ 2005年11月28日
  30. ^ 東邦出版『KAMINOGE』vol.85 pp.65-66
  31. ^ 東邦出版『KAMINOGE』vol.85 pp.64-65
  32. ^ 『週刊ゴング』1999年11月25日号
  33. ^ 北之口太「大山の告白」『一撃の拳 松井章圭』講談社(原著2005年4月20日)、第一刷、214頁。ISBN 4062127423
  34. ^ 前田日明、ウルトラマンの敵討ち!宿敵ゼットンを打ちのめす! シネマトゥデイ 2014年1月29日
  35. ^ 自叙伝『パワー・オブ・ドリーム』より。
  36. ^ 東邦出版『KAMINOGE』vol.85 pp.61-62
  37. ^ “前田日明氏、民主から参院選に出馬へ 女優・岡崎友紀氏も”. MSN産経ニュース. (2009年12月29日). オリジナルの2009年12月31日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091231021507/http://sankei.jp.msn.com/politics/election/091229/elc0912290115000-n1.htm 
  38. ^ “前田日明氏、参院選1次公認見送り”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2010年3月4日). http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20100304-602309.html 
  39. ^ “前田日明氏、民主からの参院選出馬辞退へ”. SANSPO.COM (産経デジタル). (2010年3月22日). オリジナルの2010年3月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100325184848/http://www.sanspo.com/shakai/news/100322/sha1003220502000-n1.htm 
  40. ^ “小沢に嫌われた!? 前田日明、民主候補ハズシのワケは”. ZAKZAK (産経デジタル). (2010年3月4日). オリジナルの2010年3月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100307122524/http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20100304/plt1003041611007-n2.htm 
  41. ^ “前田日明氏、国民新が東京で擁立 民主比例出馬は破談”. asahi.com (朝日新聞社). (2010年3月26日). オリジナルの2010年3月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100328060601/http://www.asahi.com/politics/update/0326/TKY201003260440.html 
  42. ^ “前田日明氏、民主の次は国民新で出馬断念”. MSN産経ニュース. (2010年4月27日). オリジナルの2010年4月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100430095623/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100427/stt1004271321005-n1.htm 
  43. ^ リングスの前田日明社長に傷害罪で25万円の罰金刑判決 asahi.com 2003年4月22日
  44. ^ 前田日明さんに賠償命令/暴行と名誉棄損で150万 四国新聞社 2002年6月7日
  45. ^ 前田日明の控訴棄却、155万円支払い命令 日刊スポーツ 2003年1月22日
  46. ^ Exclusive: Jeremy Horn on Japan, Bellator and the UFC
  47. ^ 『kamipro』No.146。山田英司インタビュー
  48. ^ 山田英司「前田日明を全否定せよ」『別冊宝島EX 格闘技死闘読本 「最強」を求めた愚か者たちの、荒ぶる魂の伝説!』宝島社、1994年、p.179
  49. ^ 『U.W.F.変態新書』エンターブレイン、2008年、p.171
  50. ^ 吉田豪『吉田豪のセメント!!スーパースター列伝』エンターブレイン、2006年、p.318
  51. ^ 1994年に現金1億円と当時のメジャー5団体のエース(橋本真也三沢光晴天龍源一郎前田日明船木誠勝)への招待状を用意して記者会見を開き「プロレスリング・ワールドトーナメント」の開催を突如発表。唯一前向きな反応を示した前田がリングス対Uインターの対抗戦を逆提案したが、これに対して宮戸優光がリングスの参戦外国人選手を指して「どこの馬の骨ともわからない選手を参加させるわけにいかない」、「出てほしいのは前田のみ」といった反論を展開。前田も「お前(宮戸)こそどこの馬の骨だって話」などとやり返してマスコミを通じた舌戦に発展。さらには安生洋二も前田に対して「UWFで終わった人間」、「200%勝てる」などと発言して最終的に前田に対して法的手段を執るまでに発展した。
  52. ^ 鈴木健『最強のプロレス団体 UWFインターの真実』エンターブレイン、2002年、pp.20-22
  53. ^ 谷川貞治「疑惑の男FILE1 前田日明」『別冊宝島274 プロレス謎読本 リングのタブーを解き明かせ!』宝島社、1996年、p.97
  54. ^ 大谷泰顕監修『トリプルクロス 電撃プロレス=格闘技読本』メディアワークス、2000年、p.182
  55. ^ 「<略式命令>元プロレスラーー殴り負傷させたプロレスラーに罰金」『毎日新聞』2000年1月5日
  56. ^ 大谷泰顕監修『トリプルクロス 電撃プロレス=格闘技読本』メディアワークス、2000年、p.182
  57. ^ OTHER - CHA-LA'S HP
  58. ^ THE U.W.F - 無駄遣いな日々 - エキサイトブログ
  59. ^ 前田日明の入場テーマ曲 - 澤木一貴オフィシャルブログ「パーソナルトレーニング24」 - アメーバブログ
  60. ^ Nude - フリー百科事典『キャメペディア(Camepedia)』
  61. ^ 9 ナイン : 作品情報” (日本語). 映画.com (2018年2月17日). 2019年7月1日閲覧。
  62. ^ 前田本人が『スーパーマリオ64』などを好んでプレイしていたことから起用されたという。『64DREAM』1998年12月号
  63. ^ シリーズ3作品には前田本人がイメージキャラ・使用キャラクターとして実名で登場。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]