ジェラルド・ゴルドー

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ジェラルド・ゴルドー
基本情報
本名 ジェラルド・ゴルドー
(Gerard Gordeau)
通称 喧嘩屋
国籍 オランダの旗 オランダ
生年月日 (1959-03-30) 1959年3月30日(58歳)
出身地 アムステルダム
所属 ドージョー・カマクラ
身長 198cm
体重 100kg
バックボーン 極真空手
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ジェラルド・ゴルドーGerard Gordeau1959年3月30日 - )は、オランダ男性総合格闘家空手家キックボクサープロレスラーアムステルダム出身。ドージョー・カマクラ主宰。

来歴[編集]

恵まれた体格を生かし、空手を始める。極真空手世界大会で来日を果たした後、日本のK-1リングス等で活躍。一時USA大山空手の傘下に入っていたが、現在はオランダでドージョー・カマクラという道場を持ち後進を指導している。また、サバットフランスキックボクシング)の試合にも出場した経歴があり、プロレスラーとしても試合をこなしている。

1988年8月13日、第2次UWF前田日明と異種格闘技戦で対戦。試合開始直後から打撃で前田を圧倒するも、右ハイキックをキャッチされ裏アキレス腱固めで敗北。なお、この試合の際のゴルドーは、ボクシンググローブとキックパンツというキックボクサー風の姿だった。

リングスに参戦し、1992年1月25日に佐竹雅昭と対戦した時は、2R終盤にブレイクからの試合再開の際、勘違いをしたのかコーナーに戻ってしまうが、その直後の佐竹の攻撃に怒り、顔面パンチ(当時のリングスは素手のため、顔面へのパンチ攻撃は反則だった)やサミングなどの反則行為を行い、後ろを向いた佐竹にさらに追撃を加え反則負け。

1993年9月4日、K-1 ILLUSIONでアダム・ワットと対戦。2R2分7秒、右バックブローでKO負け。

1993年10月3日、KARATE WORLD CUP '93(正道会館主催)に出場。反則が多く、1回戦で後川聡之に判定負け。

1993年11月12日、当時は異色の新興格闘技団体だったUFC 1に参戦する。トーナメント1回戦ではテイラ・トゥリ(元幕下力士・高見州)と対戦。トゥリの突進をリング際でいなすと、バランスを崩し転んだトゥリの顔面へ躊躇なくサッカーボールキックを叩き込み、戦意喪失し座り込んだところを素手で顔面を殴るというKO勝利を収める[1]。試合後の検査でトゥリは顔面骨折が判明、ゴルドーの足の甲には折れたトゥリの歯が突き刺さっていたという。その後ゴルドーは決勝に進出、ホイス・グレイシーと対戦。しかしこの試合中、ゴルドーはチョークスリーパーを狙うホイスの腕に噛みつくという蛮行に出る。ホイスはこの行為に激怒し、レフェリーストップ後もゴルドーを絞め続けた。

1995年4月20日、「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」では、レフェリーの制止を無視して中井祐樹に故意のサミングを繰り返した。中井は右目を失明し、総合格闘家として活動することは不可能になった(現在は柔術家として活躍)。この試合で、ゴルドー自身も格闘家としての選手生命を絶たれたともいえる。

プロレスのリングにおいては、空手を武器にUWF新日本プロレスUFOZERO-ONEを主戦場にしていた。アントニオ猪木の引退カウントダウン(1995年)の相手を務めたことでも有名。ファイトスタイルがこれらの団体に受けが良いからか、特に猪木、橋本真也からの評価は高かった。

現在はプロレスラーとして来日するケースが多いが、格闘技の試合は全くない。2005年9月11日、BIG MOUTH LOUD 旗揚げ戦でエンセン井上と対戦。サミングを仕掛けるなど喧嘩ファイトを繰り広げたが、2分56秒腕ひしぎ十字固めで一本負け。

2010年4月11日には久々に来日し、ZERO1靖国神社大会に参戦。弟子の崔領二とのタッグで澤宗紀組と対戦し勝利した。

人物[編集]

  • バウンサー(用心棒)としての習性か、喧嘩ファイトが身上であり、自身も「時には人を殺しても平気なくらいに凶暴になれる」と豪語したことがある[2]。どの団体に参戦した際も反則が多く、初期のUFCのようなほぼ制約が無い団体であっても最低限のルールも守らないため、選手としての評価は極めて低い。しかし総合格闘技黎明期においてローキックで足を殺し、パンチでKOを狙うといった後のストライカーの原型ともいえる完成度の高い試合運びをしていた。
  • 1990年代初頭に背中から肩にかけて刺青を入れた。西洋風のタトゥーではなく、日本ヤクザの入れる紋々をビッシリと入れている。
  • 兄のニコ・ゴルドーも格闘技の選手だったことがあり、ケンドー・ナガサキと格闘技ルールで対戦したことがある。
  • 食べ物ではドジョウが苦手。過去にUWF参戦のため来日した時に前田にドジョウ鍋の店に連れて行かれ、生きたドジョウをそのまま鍋に入れる様子を見て「これは人類の食べ物ではない」と思ったという[3]
  • 元々日本趣味の嗜好があり、自宅には日本風の鎧を飾っているほか、上記の刺青も日本趣味が昂じてのもの。ドージョー・カマクラの入口に振袖姿の日本女性の等身大ポスターを貼っていたこともあるという[3]
  • 1999年1月4日、新日軍対UFO軍の争いとして、ゴルドーはUFO軍として参戦した。リング上でお互いが乱闘になるが、新日軍はゴルドーを恐れて殴りかからず、代わりに村上一成が新日軍の大人数に一方的に殴られるという珍事が発生した(詳細は村上のリンク先を参照)。ちなみにこの乱闘の原因も、花道を歩く新日の若手をゴルドーがいきなり殴ったからである。当時放映されたテレビの映像で、クレームをつける若手に対してゴルドーが真っ先に殴りかかる姿が確認できる。
  • 酒は飲まない。あまり酒癖が良くないのか、「酔うとわけが分からなくなるから」という理由で自重しているという。
  • 地元では車両強盗が非常に多いため、愛車の助手席に護身用としてバットを置いている。ゴルドーの弁では「日本製のバットが一番いい」とのこと。
  • 粗暴な振る舞いが多く、ゴルドーを嫌う格闘技関係者は多いが、極真空手の世界選手権で戦った増田章の道場を表敬訪問するなど、試合場外では意外に紳士的な一面も持っている。
  • プロレスラーのスペル・デルフィンの旧リングネーム「モンキーマジック・ワキタ」の名付け親である。デルフィンの動きを見たゴルドーが「おまえ(デルフィン)は孫悟空(モンキーマジック)みたいな動きをするな」と賞賛したことから名付けられた。
  • PRIDE GP 2000のトーナメント本戦の藤田和之vsハンス・ナイマンで藤田のセコンドを務めた。新日本プロレスを退団した藤田が師匠であるアントニオ猪木の肝入りによりPRIDEへの電撃参戦が決定し、ナイマン戦が決定するや猪木が直々にゴルドーにセコンド依頼をしたという。ナイマンのセコンドにはディック・フライがいたが、藤田陣営とナイマン陣営との間で「同じオランダ人なのに日本人の味方をしやがって!」と試合の前後に舌戦があったという。

戦績[編集]

総合格闘技 戦績
4 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
3 3 0 0 0 0 0
3 0 2 0 1
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
× 中井祐樹 4R 2:41 ヒールホールド VALE TUDO JAPAN OPEN 1995
【1回戦】
1995年4月20日
× ホイス・グレイシー 1R 1:44 チョークスリーパー UFC 1: The Beginning
【決勝】
1993年11月12日
ケビン・ローズイヤー 1R 0:59 TKO(タオル投入) UFC 1: The Beginning
【準決勝】
1993年11月12日
テイラ・トゥリ 1R 0:26 TKO(顔面蹴り) UFC 1: The Beginning
【1回戦】
1993年11月12日
× 佐竹雅昭 2R 2:13 反則 リングス 回天 1992年1月25日
長井満也 4R 0:34 TKO リングス 炎上 1991年12月7日

獲得タイトル[編集]

  • UFC 1トーナメント準優勝

脚注[編集]

  1. ^ 当時のUFCはグローブの着用が義務付けられておらず、グラウンド状態の相手への蹴りも禁止されていなかった。
  2. ^ 大沼考次・著者『最強の格闘技は何か』1996年、14頁。
  3. ^ a b 別冊宝島243『プロレスを変えた野郎ども』(宝島社、1996年)pp.148 - 149

関連項目[編集]

外部リンク[編集]