格闘技通信

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格闘技通信
愛称・略称 格通
ジャンル スポーツ雑誌
刊行頻度 月刊
発売国 日本の旗 日本
言語 日本語
出版社 ベースボール・マガジン社
刊行期間 1986年11月 - 2010年4月
特記事項

1.創刊号(11月7日号)から5号(1987年3月7日号)までは、『週刊プロレス』の増刊号(巻次は週刊プロレスと共通)。
2.6号(1987年5月号)より、週刊プロレスから離れ独立した月刊誌として刊行。
3.1992年10月8日号から2008年6月23日&7月8日合併号まで、月2回刊。

4.2008年8月号から、再び月刊。

格闘技通信(かくとうぎつうしん)は、ベースボール・マガジン社発行の格闘技専門誌。略して格通(かくつう)とも呼ばれる。1986年から2010年まで24年にわたって発行された。

概要[編集]

当初は『週刊プロレス』増刊号として11月7日号を刊行、翌1987年3月7日号まで全5号が刊行。1987年5月号より、月刊誌となる。1992年の10月8日号からは月2回刊(8日、23日発売)となっていたが、2008年6月発売の8月号から再び月刊誌に戻る。

格闘技の大会ガイドや、選手のインタビューなどの情報記事を主とする。基本的に格闘技を観戦するファンのための観戦ガイドを中心とした格闘技情報誌であり、格闘技分野におけるプロレス雑誌的なスタンスを取っている[1]。そのため、格闘技を実践するための技術記事は少ない。

歴史[編集]

前史[編集]

格闘技路線で人気を博したものの、1985年末にいったん活動を停止したプロレス団体UWFのファンの受け皿として、ベースボールマガジン社のプロレス雑誌『週刊プロレス』(週プロ)のコーナーとして、週刊プロレス編集長杉山頴男が始めた。

第1回は1986年1月28日号に掲載され、柔道サンボの記事だったが、UWFファンのため、UWFの前田日明やUWFを離れてシューティング(修斗)を創始した佐山サトルを中心にし、シュートボクシングシーザー武志大道塾東孝などを登場させていった[2]

創刊[編集]

そして、1986年秋発行の週刊プロレス11月7日増刊号より創刊。翌1987年3月7日増刊号まで、全5号刊行。第6号の1987年5月号より、『近代空手』誌と『中国武術』誌を合併した形で週プロから独立した雑誌となる。この6号から雑誌コードを取得した[3]。初代編集長は杉山が務めた。

当時既に『ワールド空手』『フルコンタクトKARATE』といった実践派のための空手系の格闘技雑誌は存在していたが、プロレス雑誌の流れを引き継ぐ観戦派のための雑誌のため、創刊初期には格闘技の興行が少なかった事情から、極真空手UWFなどのプロレスを大きく扱った。創刊号の内容も「カール・ゴッチが語った佐山・前田・シーザー」「長州力馳浩他のアマレス時代」となっている。また、初期の頃は、伝統系の空手、柔道やアマチュアレスリングも掲載されていた。同時期の1986年に『ゴング格闘技』が創刊され、長く観戦派のための格闘技雑誌は2誌体制が続くことになっていく。

谷川編集長時代[編集]

1990年代には格闘技業界のオピニオン誌的地位にあり[4]、打撃系格闘技イベントK-1が登場してからは、当時の編集長谷川貞治1990年就任)が大きく肩入れをして、主催者の石井和義のブレーンとして発展に寄与した[5][6]。これが繋がって、後に谷川がK-1運営会社FEGの社長を任せられることとなった。谷川編集長時代になるとフルコンタクトの極真空手は掲載したものの、伝統系の空手は掲載されなくなる一方、骨法に大きく肩入れもしていた[7]。1996年、素手の総合格闘技ルールで行われたUniversal Vale Tudo Fighting 2に骨法は二人の代表選手を引き連れて参戦するも惨敗する。格闘技通信はこれをうけて誌面で大々的に「骨法を贔屓しすぎていました」と謝罪し[8]、骨法を誌面で取り扱う機会が極端に減少した。

山本→本多→朝岡編集長時代[編集]

1996年にパーフェクTV!(現:スカパー!)のプロレス・格闘技専門チャンネル「FIGHTING TV サムライ」開局のため、谷川貞治がベースボール・マガジン社を退社すると、ワンポイントで『週刊プロレス』編集長のターザン山本を繋ぎで挟み[9]、本多誠が就任。

1999年5月に格闘技経験者の朝岡秀樹が編集長に就任した。朝岡時代の『格闘技通信』は、谷川貞治が創刊した『SRS-DX』やサブカルチャー路線から格闘技に軸足を移してきた『紙のプロレス』など新たに競合誌が増えた中、挑戦的な誌面作りで格闘技業界に数々の問題提起を行ない波紋を巻き起こした。この朝岡編集長時代には、前任の本多編集長時代の記事に高田道場のクレームがついて取材拒否を受ける[10]。このため当時PRIDEで人気絶頂だった桜庭和志の誌面登場はおろか試合レポートでの写真掲載もできず、やむなく画像ソフトで油絵タッチにエフェクトされた写真がイラストとして掲載されることもあった。高田道場からは2002年に取材解禁される。

三次→朝岡(第二期)編集長時代[編集]

2002年から2007年は三次敏之が編集長に就任。骨法の堀辺正史を御意見番に起用した。2003年の大晦日に地上波のテレビ局3局が格闘技の中継を行う大晦日格闘技興行戦争で格闘技ブームが頂点を迎えた後、『SRS-DX』『格闘伝説』が休刊し、格闘技雑誌の発行部数が1990年代初頭の3分1の減少[11]していく中で、2007年6月8日発売の『格闘技通信』2007年7月8日号(No.424)から7代目の編集長として朝岡秀樹が復帰。「20年に1度」と銘打ったこれまでにない大幅なリニューアルを敢行した。ライバル誌の『GONKAKU』と同様に、総合スポーツ雑誌『Sports Graphic Number』に大きく影響を受けて、ビジュアルを重視して大判化。内容もネットで大会の速報が流れる時代に対応して、記者による試合のレポートを廃止して、選手など識者による試合の分析を掲載することにした。編集体制も8日売りの号と23日売りの号で分けて、朝岡が8日売りを担当して「やる側の視点」を重視、23日売りは朝岡は担当せずに本多誠が統括する事実上の編集長が2人体制で[12]「見る側の視点」を重視するとしている[13]

本多(第二期)編集長時代→休刊[編集]

月2回刊体制は、2008年の6月23日&7月8日合併号で終了し、2008年6月発売の8月号から再び月刊の刊行に戻った。同時に朝岡秀樹が編集長を退任し、23日発売号の事実上の編集長だった本多誠が再び正式に編集長に就任した。

2010年2月23日発売の2010年4月号(25巻5号=通算567号)をもって休刊[14]。以後は携帯サイト「格通モバイル」と古巣である『週刊プロレス』の一コーナーで展開されると告知されていたが[15][16]、『週刊プロレス』のコーナーは掲載されることがなく、「格通モバイル」も同年7月末で配信終了することになった[17][18]

歴代編集長[編集]

  1. 杉山頴男
  2. 谷川貞治(1990年 - 1996年)
  3. ターザン山本(1996年)
  4. 本多誠(1996年 - 1999年)
  5. 朝岡秀樹(1999年 - 2002年)
  6. 三次敏之(2002年 - 2007年)
  7. 朝岡秀樹(2007年 - 2008年)
  8. 本多誠(2008年 - 休刊)

脚注・出典[編集]

  1. ^ 井田英登「格通20年ぶりの変貌/朝岡編集長の革命(2) All About 2007年8月31日
  2. ^ 別冊宝島1462 U.W.F.伝説―「プロレス」と「格闘技」の間を漂流した“実験的団体”の真実』「宝島社、2007年、杉山頴男インタビュー
  3. ^ 「本誌歴代編集長が勢揃い・400号企画・六者六様 前編」『格闘技通信』2006年7月8日号。
  4. ^ kamipro』No.120、エンターブレイン。日本修斗協会事務局長の若林太郎インタビュー。
  5. ^ 谷川貞治『アンディ・フグの生涯』広済堂出版、2000年
  6. ^ 西田健『K-1&格闘技の真実 超人気格闘技を徹底解剖!』コアラブックス、1997年
  7. ^ 菊地成孔『サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍 僕は生まれてから5年間だけ格闘技を見なかった』白夜書房、2005年、p.46。
  8. ^ 「注目の初対談!菊地成孔vs吉田豪」『プロレス・格闘技 超異人伝 リングの外でもスゴい人々』洋泉社、2006年、p.32。
  9. ^ 「本誌歴代編集長が勢揃い・400号企画・六者六様 前編」『格闘技通信』2006年7月8日号。
  10. ^ 井田英登「格通20年ぶりの変貌/朝岡編集長の革命(5)」 All About 2007年8月31日
  11. ^ 金澤克彦、ターザン山本、吉田豪「週刊ゴング休刊の内幕とプロレスジャーナリズム」『創』2007年5月号
  12. ^ 井田英登「格通20年ぶりの変貌/朝岡編集長の革命(4)」 AllAbout 2007年8月31日
  13. ^ 「格闘技通信新編集長朝岡秀樹インタビュー 格通に戻るのは微妙な気持ちです…」『FIGHTER Vol.2』晋遊舎、2007年
  14. ^ 『ゴング格闘技』2010年3月号、イースト・プレス。
  15. ^ 『格闘技通信』についてのお知らせ ベースボールマガジン社スポーツ総合サイトSportsClick
  16. ^ 『格闘技通信』が休刊 ORICON STYLE 2010年2月24日
  17. ^ 高崎計三Twitter 2010年6月8日午後6時24分
  18. ^ 高崎計三Twitter 2010年6月8日 午後6時48分

外部リンク[編集]