木戸修

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木戸修
プロフィール
リングネーム 木戸修
本名 木戸修
ニックネーム いぶし銀
究極の技巧派
身長 180cm
体重 105kg
誕生日 (1950-02-02) 1950年2月2日(67歳)
出身地 神奈川県川崎市
トレーナー ユセフ・トルコ
カール・ゴッチ
デビュー 1969年2月21日
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木戸 修(きど おさむ、1950年2月2日 - )は、日本プロレスラー神奈川県川崎市出身。ビッグマウス所属。褐色の肌と、どんなに激しく動いても乱れないヘアスタイルが特徴。寡黙だが、カール・ゴッチ直伝のグラウンド技術で「いぶし銀」のプロレスラーと呼ばれる。長女はプロゴルファーの木戸愛(きどめぐみ)。

経歴[編集]

1968年10月に日本プロレスに入門し(入門の経緯は後述)、1969年2月21日にプロレスデビューし、ユセフ・トルコの付き人を務める[1]アントニオ猪木が日本プロレスを除名された翌日である1971年12月14日に、藤波辰巳共々日本プロレスを退団し[2][1]1972年3月に新日本プロレスの旗揚げに参加。藤波と共に西ドイツ遠征に出る。その後アメリカの「カール・ゴッチ道場」の門を叩き、ゴッチから直接レスリング技術を学んだ。ゴッチは木戸を「ムスコ」「私の領域に一番近づいた男」と評している。

帰国後の新日本では、地味なファイトスタイルや寡黙な性格が災いして前座試合の出場がメインとなり、デビュー当初はライバルと目されていた藤波とは差がついてしまった。

1984年9月から第1次UWFに参加すると徐々に評価が高まり、職人肌のグラウンド・テクニックは「いぶし銀」と呼ばれるようになった。また、1985年に行なわれたUWF内の格闘技ロード公式リーグ戦では優勝する。

1985年12月に第1次UWFの崩壊に伴い新日本へ復帰すると、キド・クラッチや脇固めを駆使して活躍するようになる。1986年8月、前田日明とのタッグIWGPタッグ王座を獲得した。

大技の攻防が日常化していく1990年代以後の新日本の中で一人、地味ながら切れ味鋭いレスリングスタイルを貫いた木戸は「新日本の良心」として、特に札幌地区での人気はすさまじいものがあった。木戸自身と札幌とは特に縁があるわけではないが、新日本の札幌大会は藤原喜明のテロリスト事件(藤原の項を参照)に代表されるハプニングが頻発し、しっかりとした試合が提供されないことが多かったためである。 新日本の札幌大会では会場中に応援ののぼりが立ち、札幌の後援者から贈られたハッピを着た木戸が登場すると大歓声が沸きあがった。木戸もその後押しに答え、佐々木健介をキド・クラッチで下した実績がある。 専門誌はその現象を「木戸の異常人気」として伝え、後に木戸は「札幌男」と呼ばれるようになり、札幌ドームのこけら落としでの大会では全選手代表としてオープニングの挨拶まで行なった。

木戸の存在が改めてクローズアップされたのが、1990年2月10日、東京ドームでの全日本プロレスとの対抗戦で木村健悟と組み、ジャンボ鶴田谷津嘉章組と闘い、鶴田を相手に渡り合った試合であり、1992年から始まった天龍源一郎率いるWARとの対抗戦においてである。天龍のパワー、打たれ強さに多くの実力者がシングルマッチで敗れるなど苦戦する中で、関節技を主体とする木戸の存在が切り札としてクローズアップされる。 そしてWAR勢との5対5のタッグマッチに出場した木戸は脇固めやアキレス腱固めといった関節技で相手を苦しめ、天龍の右腕を破壊。試合終了までほぼ行動不能に追い込む活躍を見せ、新日本勢の勝利に大きく貢献した。

2001年11月2日、横浜文化体育館で引退記念興行が行われ、長州力とタッグを組み、藤波辰爾・木村健悟組と対戦。一旦現役を引退した。この興行には、関東各地の後援者のほか遠く札幌からも応援隊が駆けつけ、試合後の引退セレモニーではカール・ゴッチからのメッセージが代読されるなどした。姉や愛娘2人がリングで花束を渡すセレモニーも続き、控室での本人のインタビューでは盛んに「家族」という言葉が発せられ、家族思いの優しい人柄が改めて確認できるものであった。

2005年9月11日にビッグマウス所属選手としてビッグマウス・ラウドで復帰。2007年11月、ハッスルのハッスル軍コーチを務め、どハッスル!!テレビ東京)に登場した。

2008年6月10日、全日本プロレス「武藤祭」にて西村修松田納とのユニット「オサム軍団」として参戦。

2010年2月22日、IGFプロレスリング「アントニオ猪木50th Anniversaryスーパーレジェンドマッチ」に参戦。

得意技[編集]

カール・ゴッチ源流のサブミッションを武器に周りの状況がどんなに変わろうと、対戦相手が誰であろうと自身のスタイルを貫き通した。そのこだわりぶりはボディスラムブレーンバスターなどの汎用的な技でさえあまり使用することはなかったほどである。

脇固め
うつぶせ状態の相手の片腕を肩の付け根付近で脇に挟んでアーム・バーに固め、肩を支点にテコの原理で肩と肘関節を極める。新日本〜UWFと盟友だった藤原喜明と共に随一の使い手でどんな体勢からでも一瞬でこの技に切って落とす仕草が最大の見せ場でもあった。
時に直角にもなるそれは高角度脇固めとも呼ばれた。
キド・クラッチ
木戸のオリジナル技でフォール率が極めて高い。相手が屈んだ状態のとき脇固めを仕掛け、相手が前転で逃れようとした際に片腕で相手の片足を捕え、背中越しにエビ固めに捕える。IWGPタッグ戦で木村健吾相手に初披露。この技で第2代王者となった。
スイング式ネックブリーカー
ロープに振られ、ショルダースルーを狙った相手が屈んだ所を蹴り上げてこの技に移行するのがパターンの一つであった。
木戸のこの技を指す場合、ネックブリーカー・ドロップと呼称されることがほとんどであったが、厳密には間違いである(詳しくはそれぞれのリンク先を参照)。
キド蹴り
正面から足の外側で相手の胸や腹を下から蹴り上げる技。つま先で腹を蹴るトーキックとは違い反則では無い。しかし通常のトーキックも木戸が放つとこう呼ばれていた。
ドロップキック
UWF参加以降は関節技が注目されたため影が薄くなってしまった。
ダイビング・ニー・ドロップ
凱旋帰国後の1970年代前半に使用していた技であり滞空時間の長い美しいフォームで放った。反面トップロープに登り慣れていない仕草を見せることもしばしば。

獲得タイトル[編集]

入場テーマ曲[編集]

ブルー・インパルス(タイト・ロープ:LP新日本プロレス・スーパーファイターのテーマに収録)
当時は現在の様にほとんどの選手の入場で曲がかかる訳ではなく、テレビ中継がある試合を中心にかかる程度だったため、前座で組まれることがある木戸の試合ではテーマ曲が省略されたり、自分より上位のタッグパートナーの曲が優先され、テレビ中継や会場でもかかることがほとんど無かった。
BLACK-RIDER(都倉俊一グランド・オーケストラ)
元々は1979年の映画「夢一族 ザ・らいばる」(久世光彦監督)の劇中音楽で、同時期のテレビ番組「ビッグベストテン」(フジテレビ系列)でもテーマ曲して使われた。一時期「CBCレースガイド」のBGMに使われていた。

エピソード[編集]

  • の木戸時夫も1963年日本プロレスに入門したプロレスラーだった。練習中の事故で脊椎を損傷してしまい、志し半ばでリングを去った後に闘病生活を送っていたが1977年7月20日に亡くなった。闘病生活を送る兄を見守るうち、「兄の叶えられなかった夢を自分が叶える」と志すようになる。このことは引退セレモニーの席まで木戸本人の口から明かされることはなかった。
  • 日本プロレス時代は、川崎市の実家から道場に通っていた[2]
  • 練習の虫であり、コーチをしている時も千回単位のヒンズースクワットなどを無言で長時間、淡々とやるため、他選手は精神的プレッシャーになると言う。
  • 1982年ビッグレスラー(月刊誌)のベストバウトを語るコーナーで、試合を指定せずに「藤原との試合は、タッグでもシングルでも兄が見て誉めてくれていた」と語っていた。
  • 1984年、NHKの美術番組で木戸の描いた油絵が展示された。
  • ゴッチが木戸を認めるように、木戸もゴッチに対して心酔に近い感情を持っていた。第1次UWFに移籍した際も雑誌のインタビューで理由を「ゴッチさんに誘われたから」とコメントしていた。また、第2次UWFへ新日より移籍する選手が続いた頃、記者に「木戸さんは行かないのか?」と聞かれた際に「ゴッチさんがいないから」(当時、佐山聡スーパータイガージムに指導にいったことが原因でゴッチは第2次UWFの顧問から外れていた。)と移籍しない理由としてコメントしたことが週刊プロレスで紹介されている。
  • 娘が2人いる。長女・木戸愛(めぐみ)は神奈川県で生まれ、東北高等学校ゴルフ部出身で、2006年には全国高等学校ゴルフ選手権の優勝メンバーとなった。2008年にプロゴルファーとなり、2012年のサマンサタバサレディースでプロ初優勝を飾った。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 vol.12』P8(2015年、ベースボール・マガジン社ISBN 9784583623252
  2. ^ a b 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 vol.3』P44(2014年、ベースボール・マガジン社ISBN 9784583622026