坂口征二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
坂口 征二
坂口 征二の画像
プロフィール
リングネーム 坂口 征二
ビッグ・サカ
本名 坂口 征二
ニックネーム 世界の荒鷲
身長 196cm
体重 125kg
誕生日 1942年2月17日(72歳)
出身地 福岡県久留米市
スポーツ歴 柔道
トレーナー カール・ゴッチ
吉村道明
デビュー 1967年8月5日
引退 1990年3月15日
テンプレートを表示
獲得メダル
日本の旗 日本
男子 柔道
世界柔道選手権
1965 リオデジャネイロ 80kg超級

坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年2月17日 - )は、日本の元プロレスラー柔道家(五段)。福岡県久留米市出身。世界の荒鷲と呼ばれた。

長男は元総合格闘家のプロレスラー坂口征夫、次男は俳優坂口憲二2005年にはホンダ・エアウェイブのCMで憲二と親子共演を果たしている。

来歴・人物[編集]

柔道時代[編集]

久留米市立南筑高校卒業後、明治大学に進学。神永昭夫の指導を受ける。その長身を生かし、1964年東京オリンピック前には「仮想ヘーシンク」として、神永のスパーリング・パートナーを務めた。

明治大学卒業後旭化成工業(現・旭化成)に入社し、1965年全日本柔道選手権で優勝(当時の登録選手記録は身長194cm、体重108kg)。その年の世界柔道選手権大会に日本代表として出場した。

東京オリンピックで失った日本柔道の威信回復のため、アントン・ヘーシンクに対しパワーや体格でも引けをとらない日本の大型強豪選手のひとりとして、松永満男、松阪猛らとともに雪辱を期待されたが、世界選手権で終始ヘーシンクをパワーで圧倒した松永(銀メダル)とともに互角に戦いながらも今一歩のところまで追いつめながらの判定負け(銅メダル)となり雪辱はかなわなかった。なお、この日本人選手との大苦戦(1965年リオデジャネイロ大会)を経ての優勝以降、ヘーシンクは世界タイトルのかかった国際試合に出てくることはなかった。

しかし、1968年メキシコシティオリンピックに柔道競技が施行されないことを知り、ショックを受ける[1]。その翌年、1966年全日本柔道選手権で優勝を逃したこともあり、その後に日本プロレス関係者との会見でプロレス入りを誘われたため、プロレス入りを決意する。

プロレス時代[編集]

1967年には、旭化成を退職して日本プロレスに入団。入団記者会見は、日本プロレス幹部も出席して行われた。

プロレス入り後、すぐにアメリカ合衆国に武者修行の遠征を敢行、デビュー翌月の9月20日にはロサンゼルスにてカール・ゴッチを相手に時間切れ引き分け[2]。その後もNWAの主要テリトリーを転戦し、「ビッグ・サカ」などのリングネームで活躍。ジョージアではジョニー・バレンタイン[3]トロントではザ・シーク[4]ダラスではビル・ミラー[5]カンザスシティではパット・オコーナー[6]など、各地のトップスターと対戦した。タッグでは、アマリロではパク・ソンとの大型東洋人コンビで活躍[7]セントラル・ステーツ地区ではトーア・カマタとも組んでいる[6]

武者修行からの凱旋帰国後はジャイアント馬場アントニオ猪木に次ぐスターとなった。1971年には猪木とのコンビで第2回NWAタッグ・リーグ戦に優勝。その後、1971年12月の猪木追放に伴い、猪木の代役としてドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級王座に挑戦、好勝負を残す。さらに、猪木が保持していたUNヘビー級王座1972年2月に獲得、途中ザ・シークに王座を奪われるも、ハーリー・レイスベポ・モンゴルワルドー・フォン・エリックジン・キニスキーらの挑戦を退けた。また、猪木に代わる馬場のパートナーとしてタッグチーム東京タワーズ」を結成し、1972年3月にロサンゼルスにてザ・ファンクスからインターナショナル・タッグ王座を奪取。ボボ・ブラジル&ボビー・ダンカンキラー・コワルスキー&ムース・ショーラックなどのチームを相手に防衛を続けたが、ほどなくして馬場も離脱、それ以降日本プロレスのエースとなった。インタータッグは一旦返上するが、1972年12月に大木金太郎とのコンビでジン・キニスキー&ボボ・ブラジルを破り再び戴冠。

1972年末頃より、NET(現:テレビ朝日)の斡旋で日本プロレスと新日本プロレスの合併を画策するが、大木金太郎ら日本プロレス選手会の反対のために果たせず、ジョニー・バレンタインに敗れUN王座から陥落後の1973年4月、猪木と全く対等の条件という約束で若手数名を連れて新日本プロレスに移籍した。NETは、坂口合流を条件にテレビ中継を開始。テレビ放送がなく観客動員に苦しみ倒産も時間の問題と言われた新日本プロレスを救った。ゴールデンタイムで放送され、猪木・坂口は「黄金コンビ」と呼ばれ、全日本プロレスをしのぐ人気を誇るようになる。しかし、猪木と対等という条件はいつの間にか反故にされ、大功労者の坂口は二番手として猪木をサポートする側に回るようになる。

1974年8月、猪木とのコンビでクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツを破り、NWA北米タッグ王座を獲得。米国と日本で計4度目の挑戦での戴冠だった。その後、この王座はストロング小林長州力とパートナーを替えて保持する。特に小林との「パワー・ファイターズ」では多くの強豪チームを撃破した。しかし、1973年NWF世界ヘビー級王者となっていた猪木とは明確な差がついていた。

1976年ペドロ・モラレス1977年マスクド・スーパースターを下して2年連続でワールドリーグ戦に優勝するが、いずれも猪木が欠場しており、強い印象は残していない。シングル王座を保持していなかったため、猪木と比べると名勝負といわれるものは少ないが、1975年のワールドリーグ戦メインイベントでの、大木金太郎との日本プロレス末期の因縁の絡んだ壮絶な喧嘩マッチは伝説となっている。また、1976年10月には南アフリカ共和国に遠征し、同地のエースだったジャン・ウィルキンスからEWU世界スーパーヘビー級王座を奪取[8]。翌月に奪還され短命王者で終わったものの、日本プロレス以来となるシングル王座戴冠を果たしている。

1979年1月、ジョニー・パワーズを破りNWF北米ヘビー級王座を獲得。新日本プロレス合流後6年を経て、ようやく団体内のシングル王者となった。しかし、当時、日本プロレスでも後輩であった藤波辰巳が台頭しており、やや影が薄くなりつつあり、北米ヘビーにしても猪木のNWFに比べると挑戦者は明らかに見劣りした。この王座は、同年9月にタイガー・ジェット・シンに敗れ失うが、直後の同年11月にはパット・パターソンが保持していたWWF北米ヘビー級王座に挑戦して奪取する。その後、シンとの王座統一戦が噂されたが実現せず、バッドニュース・アレンラリー・シャープ上田馬之助ジ・エンフォーサードン・ムラコなどを相手にWWF版の防衛を重ねた。このシングルとタッグの北米二冠も1981年4月にIWGP参戦のため返上。その後は時に存在感を示すこともあったが、概ね一歩退いたポジションに身を置くようになる。

1985年IWGP王座決定トーナメントで藤波に敗れ、名実共に二番手の座を譲り渡した。しかし、リング上とは異なり、「偉い順番から前に乗る」と言われた巡業バスで一番前に(猪木は少し離れて二番目に)乗る姿が目撃されており、当時リングアナウンサーだった田中秀和も、出演したラジオ番組や著書でそのことを認めている。

1989年、新日本プロレスの社長に就任し、社長業に専念するため1990年3月に現役を引退した。社長として、東京ドーム興行や「G1 CLIMAX」など数々のビッグイベントを成功させ、前社長のアントニオ猪木が作った借金を完済した。後に藤波辰爾に社長職を譲り会長に退いた。CEOを経て、現在は相談役を務めている。2005年10月には、自らが主宰する「坂口道場」をオープンさせ、後進の指導に当たっている。

2003年には、高山善廣との遺恨が発生し、13年ぶりに限定リング復帰。9月14日に蝶野正洋と組んで高山&真壁伸也と対戦、10月13日にも高山率いる真猪木軍との5対5イリミネーションマッチに出場した。両試合、セコンドには次男の坂口憲二がついた。

エピソード[編集]

プロレスラーへ転向したのは、東京五輪で先輩がアントン・ヘーシンクに次々と倒されるのを見て「打倒ヘーシンク」を目標としていたところ、1965年に当のヘーシンクが引退してしまったため、目標を見失ったことが背景にある。本人によれば、目標を見失って柔道の稽古にも身が入らなくなっていたところにたまたま日本プロレスの関係者との会食をセッティングされ、「プロレスラーになればこんなにもおいしいものが食べられるんだ」と感動した事でプロレス転向を決意したという[1]

プロレス転向を発表後すぐに渡米しプロレスラー修行を行いデビューに至っているため、この時代のプロレスラーには珍しく、ほとんど付き人等の下積み経験がない。正確には、一度渡米した後ビザの関係で一度帰国しており[9]、その帰国中に地方巡業に同行し下働きをしていたことがあるとのことで[1]、まったく下積み経験がないわけではないが、当時の日本プロレスで坂口がいかに優遇されていたかが伺える。

温厚な性格で滅多なことでは感情を表に出すことはなかったが、自らが提案した第1回IWGPの“猪木優勝”のシナリオを猪木が独断で試合中に変えたこと(結果は猪木のTKO負け)に激怒し、「人間不信」とのみ書いた紙を残し、数日間失踪した[10]

日本プロレス最後の試合となった1973年3月8日の佐野市民会館大会では、坂口ら新日本移籍組と大木ら日プロ残留組とはすでに関係が悪化しており、日プロ残留組と別行動で木村聖裔小沢正志大城勤の4人で乗用車で会場近くのホテルへ向かい、ホテルを控室代わりに利用した。4人は試合後直ちにホテルに戻り、着替えた上でその足で新日本合宿所へと向かい、到着が深夜にもかかわらず、山本小鉄藤波辰巳などが出迎えたという[1]

猪木が始めた異種格闘技戦には、元柔道日本一の肩書にも関わらずあまり出場しなかったが、本人の回想によると「あの頃は自分と体格的に釣り合う格闘家があまりいなかったから」ということである。

ブルーザー・ブロディジミー・スヌーカの試合ボイコットにより当初予定されていた『前田日明VSブロディ』のシングルマッチが宙に浮いた際、ブロディの代役を自ら買って出て実現した前田とのシングルマッチで、キックや関節技を受け流し逆に柔道殺法を決めるなど、当時囁かれていた限界説を一蹴する熱戦を演じ(結果は坂口の反則負け)坂口のベストバウトの一つとも言われている[11]

猪木とは対照的に人間的に実直と言われ[12]、社長就任に際しては自ら簿記を習い、自宅を抵当に入れたこともあった。このため金融機関から高い信頼を得て、猪木社長時代に生じた負債を完済し、新日本プロレスの発展に大きく貢献した。前述の通り、社長就任以前から巡業中の移動のバスでは坂口が一番前(猪木より前)の席だった(移動のバスでは立場が上の者ほど前に座るとされる)。

また、ジャイアント馬場とも、親交を継続していた。1990年の新日本プロレスのドーム大会では、目玉選手であったNWA世界ヘビー級王者・リック・フレアーが来日をキャンセルし、やむにやまれず坂口が当時冷戦状態だった全日本プロレスに選手貸し出しの依頼に赴いた際、同社の馬場は「坂口なら信用できる。それに坂口も社長になったんだから、その祝いも込めて」として快諾。ジャンボ鶴田天龍源一郎谷津嘉章、二代目タイガーマスク(三沢光晴)、スタン・ハンセンが全日本プロレスから貸し出され、新日本プロレスのリングに上がった。馬場が死去した時、猪木は(真意は不明だが[13])姿を消したのに対し、坂口は即座に藤波と共に駆けつけ、葬儀に参列した(その翌年に死去したジャンボ鶴田の葬儀にも、坂口と藤波は参列している)。坂口は馬場の没後、親しいプロレス誌記者に「馬場さんの手記を書かせてほしい」と語った。

2001年1月28日、東京ドームでの「ジャイアント馬場三回忌追悼&スタン・ハンセン引退セレモニー」にも来場し、恩人の追悼とかつての新日本の外国人エースの引退に花を添えた。

テレビ朝日(旧:NET)との付き合いも長いため同社とのパイプも強かった。実際、坂口が代表職を退いた直後にワールドプロレスリングの放送枠は縮小されてしまった。レスラーとしては猪木に及ばなかったが、社長としての能力は遥かに長けていた。坂口がフロント第一線として活躍していた時代に新日本は全盛期を迎え、第一線を退いた途端に暗黒期を迎えたと見る向きもある。

かつて付き人に橋本真也がいたが、高級ドリンク剤を勝手に飲んでしまうなど、困った付き人だったようである。だが、彼の葬式では「その分、人一倍かわいいんですよ」と語っていた。

レフェリーミスター高橋が自著の中で度々「日本人では坂口さんが最強」(猪木より強い)と書いて話題となった。ただし、柔道選手時代から腰痛に悩んでいたと言われ、身体が柔軟性に欠ける面があり、プロレスラーとしての見せ場を作る技量は猪木に敵わなかった。

獲得タイトル[編集]

日本プロレス
新日本プロレス
その他

得意技[編集]

これらは総じて“荒鷲殺法”と呼ばれた。腰が悪いのが影響してか、バックドロップにいくと見せかけて、自身の腰に負担がかからないアトミック・ドロップを仕掛けるのがパターンだった。ただし、軽量だったアニマル浜口との対戦では、逆にアトミック・ドロップにいくと見せかけてバックドロップを放ち、観客を驚かせた。このほか、場外乱闘になると必ずといっていいほど角材を持ち出してくるのがお約束だった。UWFが新日本に参戦していた頃、現役晩年だった坂口は、前田日明とのシングルマッチでアキレス腱固めを平然とクリアして見せ観客を脅かせた。

入場テーマ曲[編集]

  • 燃えよ荒鷲 (ミノタウロス)

「九州男児」「海の男」をイメージしてか、和太鼓ティンパニを多用し、演歌とジャズが混ざったような曲調となっている。

新日本プロレスでの役職[編集]

  • 1989年6月 取締役副社長(1983年8月29日 - 11月1日まで取締役副社長から降格していた時期がある)
  • 1989年6月 - 1999年6月 代表取締役社長
  • 1999年6月 - 2002年6月 代表取締役会長
  • 2002年6月 - 2003年6月 代表取締役会長兼CEO
  • 2003年6月 - 2005年3月31日 CEO
  • 2005年4月1日 - 相談役

坂口道場[編集]

2005年9月に東京都狛江市にスポーツジム「坂口道場」を設立。

2009年6月30日をもって「坂口道場」狛江は閉鎖された。征夫の営む「坂口道場」横浜は引き続き営業している。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d 東京スポーツで2008年4月より連載中のコラム「格斗半世紀」による。
  2. ^ The 18 Los Angeles matches fought by Seiji Sakaguchi in 1967”. Wrestlingdata.com. 2014年4月9日閲覧。
  3. ^ The 22 GCW matches fought by Seiji Sakaguchi in 1968”. Wrestlingdata.com. 2014年4月9日閲覧。
  4. ^ The 5 MLW matches fought by Seiji Sakaguchi in 1969”. Wrestlingdata.com. 2014年4月9日閲覧。
  5. ^ The BTW match fought by Seiji Sakaguchi in 1970”. Wrestlingdata.com. 2014年4月9日閲覧。
  6. ^ a b The 11 CSW matches fought by Seiji Sakaguchi in 1971”. Wrestlingdata.com. 2014年4月9日閲覧。
  7. ^ The 43 Amarillo matches fought by Seiji Sakaguchi in 1971”. Wrestlingdata.com. 2014年4月9日閲覧。
  8. ^ a b European Wrestling Union World Super Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2013年12月17日閲覧。
  9. ^ 当初は、「基礎練習中は試合に出るわけではないので労働ビザは不要」との判断から観光ビザで米国に入国していたが、練習の模様が逐一日本のスポーツ紙に掲載されていたため、「実質的に興行に出ているのと同じ」との在米日本大使館の判断で、帰国し労働ビザを取り直すことになったという。
  10. ^ ミスター高橋著、『流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである』より
  11. ^ 試合後、猪木は「ブロディに対する怒りを試合にぶつけたんだろうけど、坂口を怒らすと怖いね。」と、前田は「正直言って坂口さんを甘く見ていた。これからももっと表舞台に立って僕らと対戦して欲しい。」と語っていた。
  12. ^ スタン・ハンセンアブドーラ・ザ・ブッチャーも、自伝の中で「レスラーとしてだけでなく、人間的にも優れている」と坂口を評している。
  13. ^ 後日御悔みを述べるためインタビューは受けている。
  14. ^ NWA Polynesian Pacific Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2013年12月17日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]