谷津嘉章
| 谷津 嘉章 | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム |
谷津 嘉章 トラ・ヤツ ザ・グレート・ヤツ 津谷 章嘉 |
| 本名 | 谷津 嘉章 |
| ニックネーム |
荒武者 幻の金メダリスト |
| 身長 | 186cm |
| 体重 | 115kg |
| 誕生日 | 1956年7月19日(62歳) |
| 出身地 | 群馬県邑楽郡明和町 |
| スポーツ歴 | レスリング |
| トレーナー | ヒロ・マツダ |
| デビュー | 1980年12月29日 |
| 引退 | 2010年11月30日 |
| 獲得メダル | ||
|---|---|---|
| 男子 レスリング・フリースタイル | ||
| アジア大会 | ||
| 金 | 1978 バンコク | 100kg超級 |
| レスリングアジア選手権 | ||
| 金 | 1979 ジャランダル | 100kg級 |
谷津 嘉章(やつ よしあき、1956年7月19日 - )は、日本の元プロレスラー。
長髪に無精ひげを生やしてサイドにJAPANと描かれた(但し、そのいでたちは海外遠征中で日本では殆どJAPANの文字は無しのタイツ。逆にマサ斉藤は日本でも、その文字はあった)膝部分までのロングタイツ(俗に「田吾作スタイル」と呼ばれる)がトレードマーク。
来歴[編集]
足利工大附属高校でレスリングを始め、日本大学レスリング部時代に全日本学生選手権フリースタイル100kg級4連覇、全日本選手権優勝。日本代表として1976年モントリオールオリンピック出場(8位)。1980年モスクワオリンピックでも日本代表に選ばれたが、日本が不参加だったため2大会連続出場はならなかった。世間では幻の金メダリストと言われた。その後、輝かしいレスリングの実績を評価され、1980年に新日本プロレスに入団。
レスリングエリートとしてプロレス入りした谷津はエース候補生として扱われ、いきなり渡米し、プロデビュー戦をニューヨークのMSGで行う(1980年12月29日、カルロス・ホセ・エストラーダ戦)という破格の待遇を受けた。以降もザ・グレート・ヤツをリングネームに、ベビーフェイスのポジションでWWFを半年間サーキットし、ジョニー・ロッズ、バロン・マイケル・シクルナ、ブルドッグ・ブラワー、ザ・ハングマン、ラリー・シャープ、サージェント・スローター、キラー・カーンらと対戦した[1][2]。1981年6月8日のMSG定期戦では、日本から遠征してきた藤波辰巳と組み、ザ・ムーンドッグス(レックス&スポット)のWWFタッグ王座に挑戦している[3]。
1981年6月に帰国しアントニオ猪木とタッグチームを組み、蔵前国技館にて、アブドーラ・ザ・ブッチャー&スタン・ハンセン組と日本デビュー戦を戦うこととなり、いきなりメインイベントを務める華々しいデビュー戦に注目が集まった。ハンセンをスープレックスで投げるなど大器の片鱗を見せたが、ラフファイトに気後れする心の弱さを露呈し、場外で額を割られるなどブッチャー、ハンセンの容赦ない攻撃に良いところなく敗北。再び渡米し、トラ・ヤツのリングネームでヒールとしてダラスのWCCWやフロリダのCWFなど、NWAの南部テリトリーで活動。WCCWではジャイアント・キマラ(初代)やザ・グレート・カブキと抗争し、1983年2月7日にはカブキからTV王座を奪取、3月28日にアイスマン・キング・パーソンズに敗れるまで保持した[4]。トラ・ヤツは、最初は作り笑顔でお辞儀をし愛想良く振舞うが、試合終盤では持参した竹刀を振り回すというギミックで活躍した。
余分な肉をそぎ落として体を絞り、逞しくなって帰国すると、1983年に長州力が率いる「維新軍」に加入、維新軍の若侍として注目された。当初は同じ維新軍団のアニマル浜口とのタッグの際は浜口の指示の下、手足となって動くという若さが目立つものの、後に長州に次ぐ軍団の副将格に成長した(UWF移籍前の前田日明とはライバルと目され、ワールドプロレスリングの解説者である桜井康雄は「正規軍と維新軍のドラフト1位同士の対決」という表現をした)。「荒武者」とニックネームを付けられるなど荒々しいファイトも見せるようになったが、1983年11月3日の正規軍対維新軍4対4綱引きマッチ(両軍団が別れ、試合当日にロープを用い対戦相手を決定する試合形式)では、対戦相手の猪木と積極的に絡もうとせず、リング下に逃げる作戦を見せている。
また、その後の正規軍対維新軍の全面抗争第2ラウンドである5対5の柔道方式勝ち抜き戦(1984年4月19日)において維新軍の中堅として登場し、正規軍の先鋒で2人に勝ち抜いている藤波辰巳、次鋒の高田伸彦の2人から勝利する。
その後、長州の「ジャパンプロレス」結成に参加。ジャパンプロレス勢は全日本プロレスのリングへ参戦し、長州とのタッグでジャンボ鶴田&天龍源一郎組を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得するなど活躍した(自ら天龍をジャーマン・スープレックスでフォールを奪うが、谷津のジャーマンはレスリングの下地があるにもかかわらず、めったに披露することは無く、大一番だけ見せる技という見方をされた)。
1986年6月には再びレスリング全日本選手権に挑戦し、フリースタイル130kg級で優勝した(NHKのニュースでも取り上げられている)。
1987年3月、長州らの新日本への復帰方針を巡り、経営・選手陣の対立から内部分裂状態に至った。谷津は長州らと袂を分かち、参戦していた全日本プロレスに残留する形で専属契約を締結し「ジャパン・プロレス軍団」として引き続き参戦した。その後、鶴田と「五輪コンビ」を結成した(バミューダ・タイプだったトランクスも、新日本プロレスでのデビュー当時の黒のショートタイツに戻した)。「五輪コンビ」は初代世界タッグ王座を獲得し、1987年に世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝するなど大活躍した(レスリング用のヘッドギアを付けて戦ったこともあった)。
1990年2月10日の新日本プロレス東京ドーム大会にて、当初メインイベンターを飾る予定であったリック・フレアーが出場をキャンセルしたため、当時の新日本プロレスの社長であった坂口征二がジャイアント馬場に選手の貸し出しを頼んだことにより、全日本プロレスの選手として古巣の新日本プロレスの興行に出場してジャンボ鶴田とタッグを組み木村健悟&木戸修組と対戦している。
1990年に新団体SWSが旗揚げされると、全日本プロレスと契約期間中にも関わらず離脱しSWSへ移籍した。同団体が道場制を導入する中で谷津は若松市政率いる「道場・檄」に所属。道場主は若松であったが事実上のエースは谷津であり、1991年11月24日に行われた谷津自身の結婚披露宴の席上、若松に代わって道場主に就任する一方、SWSの選手会長の要職に就いたことが発表された[5]。WWFから参戦したキング・ハクとのタッグ「ナチュラル・パワーズ」でも活躍。1992年2月14日に天龍源一郎&阿修羅・原の龍原砲を破り、SWSタッグ王座の初代王者チームとなっている[6]。
しかし、団体内部ではマッチメイクや方向性などを巡って天龍派の『レボリューション』と反天龍派であった『道場・檄』、『パライストラ』との派閥争いが起こり、決して団体内での選手間の関係は良好な状況ではなかった。そのような中、谷津は1992年5月14日に自ら記者会見を開き「選手会長辞任とSWSからの退団」を突如表明し、この席でSWSの現状と団体のエースだった天龍を批判する。この発言により天龍派と反天龍派との内部対立が一気に表面化する形となった。谷津とジャパンプロレス以来の後輩で谷津を信奉していた仲野信市は、内部混乱の責を取らされる形で同月22日の後楽園ホール大会開催前に「引退」を表明した。谷津と仲野は同日に組まれた「SWS引退試合」に臨んだが、ファンやマスコミは天龍および天龍派であるレボリューションを擁護する論調が根強くあり、試合中観客からは執拗な罵声やブーイングが浴びせられ、さらにはリングに向けて物を投げ飛ばされるという異常事態の中での引退試合となり、試合終了後は拍手すらなかった。
試合後に谷津は、SWSとこれまで応援してくれたファンに別れの意味を込めて自身が着ていたジャージを観客席に投げ込んだが、逆にそれを観客席からリングに投げ返されるという珍事が起きている[7]。
その後一時プロレスからは離れ、輸入自動車販売店を経営するかたわら、ジョージ高野と高野俊二の兄弟が設立したPWCの発起人に仲野と共に名を連ねた(あくまでも発起人としてであり、谷津と仲野はリングに上がって試合はしていない)後、1993年にSPWF(Social Professional Wrestling Federation、社会人プロレスリング連盟。後にスーパープロレスリング連盟に改称)を新たに設立した(早稲田道場を経て千葉県長生郡一宮町に構えた)。大型外国人レスラーを招聘し全国を巡業で回る。SPWFでは「神格闘十字軍」教祖である矢口壹琅、さらに後期になると矢口と組んだターザン後藤との抗争を繰り広げ、自身のプロレス活動として初の電流爆破デスマッチにも参戦している。またペイントレスラー「津谷章嘉」としてもリングに登場した事もある。
SPWFを設立する一方で、1994年に長州政権下にあった新日本プロレスに参戦。当初は後藤達俊、スーパー・ストロング・マシンが抜けてヒロ斎藤と保永昇男だけとなったレイジング・スタッフとの共闘という形式で、この年のG1クライマックスにも出場。長州と9年ぶりにシングル戦を行ったのを機に長州とのタッグを復活。後にマサ斎藤、アニマル浜口、寺西勇らと維新軍を復活させ平成維震軍との抗争が始まる。しかしこの参戦も長続きせず、平成維震軍自主興行の中断や、懐かしの外国人レスラーを一堂に会する興行を発表したのに実現化出来ず、抑えた会場を新日に肩代わりしてもらったことが影響し、新日マットよりフェードアウトする事になり、以降新日本プロレスには参戦していない。
2000年10月31日にはPRIDE.11に出場しゲーリー・グッドリッジと対戦、アキレス腱固めでギブアップ寸前まで追い込んだものの、1ラウンドTKO負け。翌2001年9月24日のPRIDE.16でグッドリッジと再戦したが、返り討ちにあい、再び1ラウンドTKO負け。
また、これと前後して2001年4月にはアブダビコンバット99kg以上級に参戦。1回戦でリコ・ロドリゲスと対戦し、7分32秒飛び付き腕ひしぎ十字固めで一本負け。
2001年3月に旗揚げしたZERO-ONE旗揚げ戦(両国国技館)にも参戦し、2000年にNWA世界ヘビー級選手権で当時選手権者であった小川直也に勝利したゲリー・スティールと対戦し、監獄固めで勝利。FIGHTING TV サムライ中継でゲスト解説した武藤敬司も「谷津さんは余裕の勝利だな」と絶賛していた。
2002年、長州が率いる新団体「WJプロレス」に参加。2003年に旗揚げ戦を行い安生洋二と対戦し勝利したがWJプロレスは興行が低迷し、この状況に我慢出来なかった谷津は「長州をはじめとするWJフロント陣はインディー団体を分かってない!」と痛烈に批判し、2003年9月に自らWJを退団する。以後はSPWF復帰を表明したが、同団体は活動を停止した。
WJプロレス退団の際に東京スポーツの取材に応じ、前述の批判と合わせて「プロレスからは足を洗う」、「雑誌編集にツテがあるのでそちらに行く」などと身の処し方について発言していた。時折回顧のインタビュー取材を受けることもあり、猪木や長州を批判することも多い。
2009年7月4日、足利工大附属高校の後輩であり、全日本時代の同僚でもあった三沢光晴のお別れ会に出席。久々に公の場に姿を現した。
2010年9月 デビュー30周年の自主興行ツアーを最後に現役引退すると発表。11月30日のSPWF~東京・新宿FACE大会で引退。30年間に及ぶプロレスラー生活に別れを告げている。
引退後は運送会社の経営を経て、2012年12月から高田馬場でホルモン焼き店を開業したが[8]、2014年2月7日、2月23日で閉店することが本人のtwitterにて発表された[9]。2016年、国府津にて焼き鳥・焼肉「はかた亭」を開店[10]。2017年9月までプロデュースを務め、退いた[11]。
2015年9月27日、畠中浩旭率いるアジアンプロレスリングの外ヶ浜町大会にて5年ぶりにプロレスに復帰。試合を行った[12][13]。同年12月19日にDEEPのスーパーバイザーに就任した[14]。2017年7月、SPWF道場生であった超人勇者Gヴァリオンとシングルマッチ[15]。
2018年10月19日、ドラディション後楽園ホール大会においてヒロ斎藤と組んで新崎人生、新井健一郎組と対戦した[16]。
戦績[編集]
総合格闘技[編集]
| 総合格闘技 戦績 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 2 試合 | (T)KO | 一本 | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 |
| 0 勝 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 2 敗 | 2 | 0 | 0 | 0 | ||
| 勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 |
| × | ゲーリー・グッドリッジ | 1R 3:05 TKO(タオル投入) | PRIDE.16 | 2001年9月24日 |
| × | ゲーリー・グッドリッジ | 1R 8:58 TKO(スタンドパンチ連打) | PRIDE.11 | 2000年10月31日 |
グラップリング[編集]
| 勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 |
| × | リコ・ロドリゲス | 7:32 飛び付き腕ひしぎ十字固め | ADCC 2001 【99kg以上級 1回戦】 |
2001年4月 |
得意技[編集]
- ジャーマンスープレックス
- ワンダースープレックス
- スクープサーモンスープレックス
- パワースラムと同型。
- ブルドッギングヘッドロック
- 監獄固め
入場曲[編集]
- バック・トゥ・ザ・フューチャーのメインテーマ
獲得タイトル[編集]
- WCCW TV王座:1回[4]
- インターナショナル・タッグ王座:2回(w / 長州力→ジャンボ鶴田)
- PWF世界タッグ王座:1回(w / ジャンボ鶴田)
- 世界タッグ王座:5回(w / ジャンボ鶴田)
- SWSタッグ王座:2回(w / キング・ハク)
- IWA世界タッグ王座:1回(w / 鶴見五郎)
脚注[編集]
- ^ “Matches von Yoshiaki Yatsu”. Cagematch. 2011年8月10日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1981”. The History of WWE. 2011年8月10日閲覧。
- ^ “WWE Specific Arena Results: MSG 1980-1989”. The History of WWE. 2011年8月10日閲覧。
- ^ a b “World Class Television Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011年8月10日閲覧。
- ^ 『SWSの幻想と実像』P167 小佐野景浩著 日本スポーツ出版社
- ^ “SWS Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2016年5月10日閲覧。
- ^ 『SWSの幻想と実像』P116-117 小佐野景浩著 日本スポーツ出版社
- ^ [1]
- ^ [2]
- ^ “流浪のプロレス人生のすべてを語る! 谷津嘉章インタビュー「ガチだったら楽だけど、そうじゃないから」” (2016年10月13日). 2017年7月20日閲覧。
- ^ hakatatei.yyの投稿(1586738434734373) - Facebook
- ^ “アジアンプロレス外ヶ浜町大会のお知らせ|青森市本町「BAR MIMOSA」 NEWS” (2015年9月18日). 2016年3月30日閲覧。
- ^ “2015年9月27日 アジアンプロレスリング 観戦記(仮) : ナムのジャンク領域ブログ” (2015年9月27日). 2016年3月30日閲覧。
- ^ あの谷津嘉章がDEEPスーパーバイザーに就任!! DEEP2001オフィシャルサイト 2015年12月19日
- ^ hyperbravesのツイート(886942788151001088)2017年7月20日閲覧。
- ^ 谷津嘉章、10年ぶりの後楽園リングで躍動「長州ともガチでやってみたい」…ドラディション後楽園大会スポーツ報知2018年10月19日(2018年10月20日アクセス)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- PRIDE 選手データ - Internet Archive
- 谷津嘉章 - SHERDOGのプロフィール (英語)

- 谷津嘉章 - International Wrestling Database (英語)

- 谷津嘉章 - バイオグラフィーとオリンピックでの成績(Sports Reference)(英語)
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