キラー・カーン
キラー・カーン | |
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プロフィール | |
リングネーム |
キラー・カーン キラー・カン テムジン・モンゴル テムヒン・エル・モンゴル 小沢 正志 |
本名 | 小澤 正志 |
ニックネーム |
蒙古の怪人 闘うモンゴリアン The Mongolian Madman |
身長 | 195cm |
体重 | 140kg(全盛時) |
誕生日 | 1947年3月6日(76歳) |
出身地 | 新潟県西蒲原郡吉田町(現:燕市) |
スポーツ歴 | 大相撲 |
トレーナー | カール・ゴッチ |
デビュー | 1971年 |
引退 | 1987年 |
YouTube | ||||||
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チャンネル | ||||||
活動期間 | 2020年11月9日 - | |||||
ジャンル | ブログ | |||||
登録者数 | 3550人 | |||||
総再生回数 | 57,544 回 | |||||
YouTube Creator Awards
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チャンネル登録者数・総再生回数は 2020年12月5日時点。 |
キラー・カーン(Killer Khan、1947年3月6日 - )は、春日野部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。新潟県西蒲原郡吉田町(現:燕市)出身。アールグルッペ業務委託。本名は小澤 正志(おざわ まさし)。キラー・カンとも表記される。大相撲時代の四股名は越錦(こしにしき)で、最高位は幕下40枚目。
日本人離れした巨体の持ち主であり、プロレス転向後の全盛時はモンゴリアン・ギミックの大型ヒールとして国内外で活躍[1]。1970年代末から1980年代にかけて、WWF(現:WWE)をはじめアメリカやカナダの主要テリトリーで実績を築くなど、国際的な成功を収めた数少ない日本人レスラーの一人である[1]。
来歴[編集]
吉田中学校を卒業後、バスケットボールでの活躍を目指して、新潟市立白山高等学校体育科に入学したが、挫折して1年生で中退した。恵まれた体格を活かすべく春日野部屋に入門。自分の知り合いが春日野親方(元横綱:栃錦)の知り合いである事から部屋を紹介されたといい、小澤も勉強は好きではなく大きな体を活かしたいと思っていたことから入門を決めた。1963年3月場所にて小沢将志の名で初土俵を踏む。入門当初は身長186cm、体重90㎏と力士としては軽量であり、肉が無いため腰骨が廻しに直接当たって痛むほどであった。廻しと腹の間に指が4本入るほど痩せていたため、紙を畳んで腰骨に当てていた[2]。1967年7月場所より越錦の四股名を与えられたものの、伸び悩んで三段目上位から幕下下位を行き来し、1970年5月場所を最後に廃業した。また、大相撲時代は先代栃東(玉ノ井親方)の付き人を務めていた。
大相撲廃業後、1971年1月に日本プロレスに入門。プロレス界入りは大相撲時代末期に怪我をして整形外科に通院していた際に北沢幹之に勧誘されたのがきっかけであり、親方に廃業したい旨を伝えても認められなかったので、どうしてもプロレスに転向したくて脱走を敢行した[2]。
吉村道明の付き人を務め、同年11月20日の桜田一男戦で小沢正志のリングネームでデビューを果たす。その後、1973年4月に坂口征二、木村聖裔、大城大五郎らと共に新日本プロレスに移籍。1974年12月のカール・ゴッチ杯争奪リーグ戦では藤波辰巳と決勝を争った。
その巨体から、海外で通用する選手として期待をかけられ、1976年8月にドイツへ遠征、ホースト・ホフマンやクリス・テイラーと対戦した[3]。12月にはアントニオ猪木のパキスタン遠征(アクラム・ペールワン戦)にも同行している。その後、1978年より本格的な海外武者修行としてメキシコに出発。メキシコではテムヒン・エル・モンゴル(Temjin El Mongol)を名乗り、蒙古人レスラーに変身。1月28日にはエル・トレオにてミル・マスカラスのIWA世界ヘビー級王座に挑戦した[4]。
1979年3月からはアメリカ本土に進出し、NWA圏のフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)でキラー・カーン(Killer Khan)に改名。辮髪に髭をたくわえ、毛皮のベストとモンゴル帽子をコスチュームとしたモンゴリアン・スタイルを確立した[5]。このモンゴル人ギミックは、カール・ゴッチのアイデアによるものだという[6][7]。フロリダではパク・ソンやキング・カーティス・イヤウケア、そして日本プロレス時代の先輩ミスター・ヒトやミスター・サクラダと共闘し、主力ヒールとなってダスティ・ローデスやジャック・ブリスコらと抗争[8]。テリー・ファンクともタッグを組んだ[9]。1980年にはジョージア地区(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)に登場して、トミー・リッチ、トニー・アトラス、ミスター・レスリング2号、レイ・キャンディ、テッド・デビアス、そして当時ジョージアでベビーフェイスのポジションにいたスタン・ハンセンらと対戦[10]。同地区でもヒールの主要メンバーとして迎えられ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、イワン・コロフ、マスクド・スーパースター、プロフェッサー・タナカ、マサ斎藤ともタッグを組んだ[10]。
1980年末よりWWFに参戦。12月29日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した[11]。その後もWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーに、ペドロ・モラレスのインターコンチネンタル・ヘビー級王座にも挑戦するなどトップクラスのヒールとして活躍[12]。アンジェロ・モスカや同時期にWWFへ遠征していたストロング小林をパートナーに、リック・マーテル&トニー・ガレアのWWF世界タッグ王座にも挑戦した[12]。アンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級抗争も開始し、1981年5月2日、ニューヨーク州ロチェスターにてアンドレの右足をニー・ドロップで骨折させたとして、ヒール人気は急上昇[13]。瞬く間に世界的なメインイベンターへ昇格させることになった。実際にはアンドレはアクシデントで足を負傷しており、異変に気付いたカーンがトップロープからニー・ドロップを落として試合を成立させた。後日入院中のアンドレをマネージャーのブラッシーが見舞うと(カーン本人が見舞っているところをファンに目撃されるとベビーフェイス対ヒールの抗争アングルが破綻してしまうため、カーン自身は見舞うことはしなかったと著書で語られている)、試合中の機転を感謝され、後の遺恨ストーリーを提案までしてくれたという。
凱旋帰国は、そのアンドレ足折り事件の直前となる1981年3月開幕の『WWFビッグ・ファイト・シリーズ第1弾』。後半戦に特別参加するタイガー・ジェット・シン&上田馬之助との共闘も噂されたが、最終的には日本陣営に収まった。開幕戦ではメインイベントでアントニオ猪木とタッグを組み、ハルク・ホーガン&ドン・ムラコと対戦[14]。ムラコに反則負けを喫したものの、日本においてもトップグループの地位に着いた。足折り事件直後の6月24日には蔵前国技館において、後にタッグを組むタイガー戸口と対戦(流血戦の末、反則負け)[15]。翌1982年4月1日に蔵前国技館で行われた『第5回MSGシリーズ』の優勝戦では、右膝負傷(実際には糖尿病の悪化とされる)で棄権した猪木の代打として因縁のアンドレと覇を争い[16]、敗れはしたもののファンの「オザワ・コール」に支えられ名勝負を演じた[13]。年末の『第3回MSGタッグ・リーグ戦』では戸口と組んで準優勝を果たした[17]。
その後、1983年より戸口と共に長州力の維新軍団に加入し、新日本プロレスの反体制勢力にまわる。ブラックジャック・マリガンとも日米スーパーヘビー級の大型タッグを組んだ[18]。この間、1982年から1984年にかけては海外にも精力的に遠征しており、アンドレとの遺恨試合はカナダのモントリオールやトロント、ルイジアナやオクラホマなどのミッドサウス地区(ビル・ワット主宰のMSWA)でも行われ、ニューオーリンズのスーパードームにおいても両者の対戦が実現した[13]。ノースカロライナ地区(ジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング)やカルガリー地区(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)なども転戦し、日本と北米を股にかけて活躍した。
1985年、長州らが設立したジャパンプロレスに参画し、全日本プロレスのリングに登場。同年3月14日に長州と組んでロード・ウォリアーズのAWA世界タッグ王座に[19]、9月13日には谷津嘉章と組んでジャンボ鶴田&天龍源一郎のインターナショナル・タッグ王座にそれぞれ挑戦したが、1986年5月にジャパンプロレス勢に造反。並行してアメリカでの活動も続け、テキサス州ダラス地区(フリッツ・フォン・エリック主宰のワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング)ではファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ、テリー・ゴディ、バディ・ロバーツ)の用心棒となり、ケビン・フォン・エリックやケリー・フォン・エリックと抗争[20]。11月の世界最強タッグ決定リーグ戦にはゴディとのコンビで出場している[21]。
1987年4月に全日本プロレスを去り、WWFと再契約。ミスター・フジをマネージャーにWWF世界王者ハルク・ホーガンと短期抗争を展開した他、ランディ・サベージ、バンバン・ビガロ、ジャンクヤード・ドッグ、ジム・ドゥガン、ジェイク・ロバーツなど当時のベビーフェイス陣営のスーパースターと対戦した[22]。この2回目のWWF参戦時には、ザ・グレート・カブキのような毒霧(アジアン・ミスト)を使用することがあった。同年11月末、ニュージャージーで行われたジョージ・スティール戦を最後に現役を引退した[1]。ジャパンプロレスの分裂騒動でプロレス界での人間関係に嫌気がさしたことを引退の理由としている[23]。ホーガンやビンス・マクマホンからは、引退を撤回するよう慰留されたという[24]。
プロレスラー引退後もキラー・カンを名乗り、東京都新宿区中井に「スナック カンちゃん」を開店。その後西新宿六丁目に店を移し、ちゃんこ料理を主とした「ちゃんこ居酒屋 カンちゃん」を経営、足立区綾瀬にも店を構えたが2012年に閉店。2015年9月、歌舞伎町に「歌謡居酒屋 カンちゃん」を開店。巨躯にもかかわらず店内ではホールスタッフとして店主自ら接客している。
2005年には『ふるさと真っ赤か』でCDデビュー。居酒屋経営のかたわらバラエティ番組など各種メディアで活躍し、『ロイ白川 心の演歌』(とちぎテレビ)にセミレギュラー出演していた。この縁で毎年12月にとちぎテレビなどで放送される白川プロデュースの『全日本オールスター紅白歌合戦』には毎年出場している。2013年8月には故郷の燕市から燕市PR大使に任命された[25]。
2014年に雪で滑って転倒した弾みで頸椎を損傷した。「手術をしても99%車椅子」と医師が病院まで付き添った店の従業員に宣告するほどの重傷であり、病院で自殺しようにも窓を開けることも割ることもできないほど麻痺していた。医師の回診の際にはモルヒネで安楽死したいと頼んだが、医師に「死ぬ前に私に手術をさせてください」と説得されて思いとどまった。その後、歩行器を使ってのナースステーションの周りの歩行30周、廊下の手すりにつかまってのスクワット500回などのリハビリを行い、極めて熱心なリハビリに病院の看護師も驚いた。その後、右半身のしびれは残るものの日常生活、店の業務に支障が出ないほど回復した。区の介護サービスも「人に頼っていたら体が動かなくなる」という理由で拒否した[26]。
2016年8月27日、歌舞伎町の店舗を閉店[27]。同年9月14日に新宿区百人町で「居酒屋カンちゃん」を新規にオープンした。来客とプロレスラー時代の話をすることがあり、それらをまとめたものを2017年4月に発売した『 "蒙古の怪人" キラー・カーン自伝』に綴ったと自著で語っている。
2021年5月6日、同年5月22日に「居酒屋カンちゃん」を閉店することが明らかになった。新大久保駅前という立地や店名から韓国料理店と間違われることが多かったこと、トイレ目的の客や店の前にゴミを放置する者などマナーの悪い者が目立ったことから、嫌気が差して閉店を決意したという。閉店に際して本人は「プロレスもそうだけどイヤと思ったら、俺はスパッと辞めるから」と気持ちを語った[28]。
2022年3月19日、自身のYouTubeチャンネルS状結腸癌を患っていることを公表した[29]。
2023年、東京都新宿区西新宿に新たな店舗「カンちゃんの人情酒場」をオープンした[30][31]。
得意技[編集]
- ダイビング・ダブル・ニー・ドロップ - 主なフィニッシュ・ホールド。ランニング式とトップロープからのダイビング式の両方を得意技とした。奇声をあげながら跳び下りる様からアルバトロス殺法と呼ばれた。
- モンゴリアン・チョップ - 同じく奇声を上げながら両手により首元を狙うチョップ攻撃。後年では天山広吉などに継承されている。
- クロー・ホールド
- ペンデュラム・バックブリーカー
- カナディアン・バックブリーカー
- エルボー・ドロップ
- ギロチン・ドロップ
- クロス・チョップ
獲得タイトル[編集]
- ミッドサウス・ルイジアナ・ヘビー級王座:1回 [33]
- 1982年7月6日にトーナメント決勝でジャンクヤード・ドッグを破って獲得。
- ミッドサウス・ミシシッピ・ヘビー級王座:1回 [34]
- 1982年8月27日にミスター・オリンピアから奪取。
- スタンピード北米ヘビー級王座:1回 [35]
- 1984年1月20日にアーチー・ゴルディーから奪取。
主な戦歴[編集]
- 大相撲時代
- 生涯成績:146勝148敗7休(44場所)
- 優勝:各段いずれもなし
- プロレス時代
- 第5回MSGシリーズ準優勝(1982年)
- 第3回MSGタッグ・リーグ戦準優勝(1982年)
マネージャー[編集]
- タイガー服部(CWF)
- ソニー・キング(CWF)
- ゴージャス・ジョージ・ジュニア(GCW)
- グレート・メフィスト(GCW)
- フレッド・ブラッシー(WWF)※ビンス・マクマホン・シニア期
- スカンドル・アクバ(MSWA、WCCW)
- ゲーリー・ハート(WCCW)
- 将軍KYワカマツ(スタンピード・レスリング)
- ミスター・フジ(WWF)※ビンス・マクマホン・ジュニア期
逸話[編集]
- 吉田中学校では長身を活かしバスケットボールで活躍[1]。
- 新日本プロレス初期の若手選手の登竜門『カール・ゴッチ杯』の第1回大会で決勝を争った藤波辰爾とは当時から仲がよく、近年でも親交が深い。
- 日本のプロレス界で一二を争う喉自慢であり、ジャイアント馬場も彼の歌声を愛した。その美声を認められ親交のある立川談志の仲介で三橋美智也門下となる。現在も月に2,3回老人ホームを訪問して師匠である三橋の唄などを披露している[7]。
- そのジャイアント馬場とは同じ新潟県出身者[2]。団体は違えど、馬場はカーンのことをよく気にかけ、カーンも同郷の馬場を尊敬していたという。馬場との巨人タッグを結成する計画もあった。
- 馬場を尊敬していたため、馬場が日本プロレスを退団し、全日本プロレスを旗揚げした際、カーン自身も全日本プロレスへの移籍を考えたが、当時坂口征二の付き人をしていた関係上、その事が言い出せず、さらに坂口が新日本プロレスへ移籍する事が決まった時、付き人の自分だけ全日本へ行きたいという事も言えなかったので、そのまま新日本へ移籍したと後に発言している[2]。
- 『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』のプロレスクイズにも出演し、ダチョウ倶楽部と絡んだことがある(DVDの特典映像である歴代優勝者座談会の中でビートたけしからMVPの称号を与えられた)。
- スタン・ハンセンが全日本プロレスに電撃移籍した報復として、新日本プロレスはテッド・デビアスの引き抜きを画策。その際交渉にあたったのが、デビアスとジョージアやルイジアナ地区で対戦したことのあるキラー・カーンだった。交渉は成功し内諾を得ていたが、契約直前に両団体間で紳士協定が結ばれたため白紙撤回となる。
- 中井にあった「スナックカンちゃん」は、シンガーソングライターの尾崎豊が常連客だったことで知られる。尾崎はカレーライスが絶品でよく注文していたとのこと。このエピソードは近年でも『あの人は今!?』(NTV)や尾崎豊の特集企画などで語られる。現在の歌舞伎町の店舗にも尾崎の色紙が飾られており、生前の尾崎が好んだ特製カレーライスが看板メニューとなっている。
- WWF参戦時の収入は、当時のレート換算で週給にして600万円。全米マット界でも正真正銘のトップヒールだった。
- ハルク・ホーガンが2014年7月に「ちゃんこ居酒屋 カンちゃん」に来店した際、ホーガンは引退の理由について問いただしたが、カーンは「いろいろあったんだ。聞かないでくれ」としか言えなかったという。ちなみに「ちゃんこ居酒屋 カンちゃん」には、スタン・ハンセン、テリー・ゴディ、タイガー・ジェット・シン、ザ・デストロイヤーなどのレスラーも来店している[24]。
- メキシコ時代は食べ物も水も合わなくて腹を壊していたが、アメリカ時代は食べ物も旨く食べ放題の店もあったためそうした環境が体格の向上に役立った[2]。
- アメリカのプロレス界では興行成績が悪くなると前座ですら使ってもらえなくなるため、必死で客に気に入られるように試合でも迫力を付けた[2]。
- アメリカで活躍して日本に帰った際、春日野親方の妻が死去したことを聞いて親方の元へ挨拶に出向いた。その時幕下以下の力士が入る入口から部屋に入ったが、プロレスでの活躍が認められて関取経験者同様に正面から部屋に入ることを親方に許された。死去した親方の妻に線香をあげると親方は喜び、体重が140kgあることを伝えると親方は「相撲のときに何で太らなかったんだ?お前は太っておけば、幕内とか三役に上がれるものを持っていたよ」と言ったという[2]。
- カーンは「日本のプロレス界が大嫌い」と2020年の記事で語っていた。会社に造反して新団体を作った挙句悪口を言っていた古巣に出戻る、引退興行で祝儀を集めながら復帰する、などの筋を通さない行為がカーンにとっては我慢ならないのである。引退後、天龍から現金8千万円と6千万円のマンションを条件に復帰するように頼まれたが、カーンは「もしそれを貰っていたら自分は今頃ホームレス」と振り返っていた。これは、仮に復帰していたら引退を慰留したビンス・マクマホンが激怒して訴訟に発展し、損害賠償などを請求される恐れがあったという意味であり、本人も「下手すればアメリカの刑務所」とリスクの大きさを語っていた[37]。ただし、カーンに復帰を頼んだ天龍は、当時WWFと提携していたSWS所属であり、団体同士の話し合いでWWFへの復帰も条件にすれば、復帰も可能だったかもしれないが、カーン自身にその気がなく、きっぱりと復帰を断ったとも発言している。
出演[編集]
※「 - 」は役名
テレビドラマ[編集]
- ベルサイユのトラック姐ちゃん 第3話「ベルトラ姐ちゃん大進撃!」(1976年) - ヤクザ(遠藤幸吉(特別出演)の子分役。小沢正志名義。台詞は無し)
- 隠密・奥の細道 第24話「芭蕉は隠密支配か?」(1989年)
- 火曜サスペンス劇場 火刑都市(1989年)
- あいつがトラブル 第11話「24時間追っかける」(1990年)
- 大激闘! 四匹の用心棒(1990年)
- ふぞろいの林檎たち(1991年)
- 必殺スペシャル・春 世にも不思議な大仕事 主水と秀 香港・マカオで大あばれ(1991年) - 刺客
- 名奉行 遠山の金さん 第7シリーズ 第5話「白い肌の誘惑 嫁姑の真剣勝負」(1995年) - 鞍馬
- 逃亡者 おりん 第2話「哀しみの上意討ち」(2006年) - 金剛
- ライオン丸G 第10話「ラブアタックカレー! サオリPAIOTSU MATSURI状態!」(2006年) - キラー・カーン(本人役)
- 巣鴨バラエティ横丁 第2話「頑固親父とキラーカーン」(2007年) - キラー・カーン(本人役)
映画[編集]
- ZIPANG(1990年)- 賞金稼ぎ
- ハロー張りネズミ(1991年)
- エバラ家の人々(1991年)
- Zの回路 復讐の裏ゴト師(1996年)
- NINE-ONE II 魔獣都市・シリーズ(1996年)
- MUSASHI(1996年)
オリジナルビデオ[編集]
CM[編集]
- 城南建設「住宅情報館」CM(2013年) - プロレス時代の試合映像が使用される。
- ステーキ店「ビリー・ザ・キッド」CM(2013年、秋田ローカル)
MV[編集]
- BOYS AND MEN「炎・天下奪取」(2018年)
作品[編集]
音楽CD[編集]
いずれも中黒の入らない「キラーカン」名義
- ふるさとまっかっか(2005年4月27日、日本クラウン)
- 新宿三百六十五夜 / 夕月子守歌(2007年6月6日、日本クラウン)
- カンちゃんの人情酒場 / カンちゃんののれん酒(2020年5月8日、アクセスエンタテインメント)[2]
著書[編集]
- "蒙古の怪人"キラー・カーン自伝(2017年4月19日、辰巳出版、ISBN 978-4777817818)
脚注[編集]
- ^ a b c d 『THE WRESTLER BEST 1000』P141(1996年、日本スポーツ出版社)
- ^ a b c d e f g h キラーカン、相撲部屋を“夜逃げ”してレスラーに…米国で活躍後、栃錦親方の“ある言葉”に涙 テレ朝POST 2020.06.09 (2020年6月19日閲覧)
- ^ “The IBV matches fought by Killer Khan in 1976”. Wrestlingdata.com. 2018年10月21日閲覧。
- ^ “The LLI match fought by Killer Khan in 1978”. Wrestlingdata.com. 2014年9月9日閲覧。
- ^ ただし、辮髪は本来は蒙古人ではなく満州族の髪型である。
- ^ フレッド・ブラッシー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『フレッド・ブラッシー自伝』P358(2003年、エンターブレイン、ISBN 4757716923)
- ^ a b 必殺技にっこり 歌と握手を添え(毎日新聞2009年1月17日夕刊3面)
- ^ “The CWF matches fought by Killer Khan in 1979”. Wrestlingdata.com. 2014年9月9日閲覧。
- ^ “Terry Funk and Killer Khan”. Wrestlingdata.com. 2021年2月13日閲覧。
- ^ a b “The GCW matches fought by Killer Khan in 1980”. Wrestlingdata.com. 2014年9月9日閲覧。
- ^ “WWE Specific Arena Results: MSG 1980-1989”. The History of WWE. 2010年4月26日閲覧。
- ^ a b “WWE Yearly Results 1981”. The History of WWE. 2010年4月26日閲覧。
- ^ a b c 『Gスピリッツ Vol.40』P36-37(2016年、辰巳出版、ISBN 4777817075)
- ^ “NJPW 1981 WWF Big Fight Series I”. Puroresu.com. 2017年1月10日閲覧。
- ^ “NJPW 10th Anniversary”. Cagematch.net. 2017年1月10日閲覧。
- ^ “NJPW 1982 The 5th Madison Square Garden Series”. Puroresu.com. 2017年1月10日閲覧。
- ^ “NJPW 1982 The 3rd Madison Square Garden Tag Team League”. Puroresu.com. 2017年1月10日閲覧。
- ^ “The NJPW matches fought by Killer Khan in 1983”. Wrestlingdata.com. 2022年5月1日閲覧。
- ^ “AJPW 85 Gekitoh! Exciting Wars - Tag 19”. Cagematch.net. 2015年4月17日閲覧。
- ^ “The WCCW matches fought by Killer Khan in 1984”. Wrestlingdata.com. 2014年9月9日閲覧。
- ^ “AJPW Result Archive”. Puroresu.com. 2021年2月13日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1987”. The History of WWE. 2010年4月26日閲覧。
- ^ 読売新聞 プロレス・レジェンド再探訪 [1]
- ^ a b ホーガンに引退とめられたが…キラー・カーン<5>YOMIURI ONLINE 2014年10月31日(2015年7月22日閲覧)
- ^ キラー・カーンさんに任命書授与 燕市PR大使
- ^ キラーカン、転倒して大ケガ。「99%車いす生活になる…」と言われるも、決死のリハビリで歩けるように テレ朝POST 2020.06.16 (2020年6月19日閲覧)
- ^ 【プロレス】キラー・カーンの店「歌謡居酒屋カンちゃん」が閉店…ラストステージスポーツ報知 2016年8月28日(2016年8月28日閲覧)
- ^ “尾崎豊さんが愛したキラー・カーンの店閉店…まさかの「ホームレス」宣言”. 東スポ (2021年5月6日). 2021年5月6日閲覧。
- ^ 元プロレスラー キラー・カーンさんがS状結腸がんを告白「必ず生還します」 デイリースポーツ 2022.03.20 (2022年11月12日閲覧)
- ^ “https://twitter.com/ninnjuusakaba/status/1632350268900921346?s=20”. Twitter. 2023年3月19日閲覧。
- ^ @teamfullswing (2023年3月19日). "キラー・カーンさんの最新情報をお知らせします。" (ツイート). Twitterより2023年3月21日閲覧。
- ^ “NWA United States Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
- ^ “Mid-South Louisiana Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
- ^ “Mid-South Mississippi Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
- ^ “North American Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
- ^ “World Class Television Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月26日閲覧。
- ^ キラーカン、人気絶頂期にプロレス引退…8千万円を目の前に積まれても、復帰を拒んだ理由テレ朝POST 2020.06.12 (2020年6月19日閲覧)
外部リンク[編集]
- Online World of Wrestling
- キラー・カーンのプロフィール - Cagematch.net, Wrestlingdata.com, Internet Wrestling Database
- キラーカーンチャンネル with m - YouTubeチャンネル
- キラーカーンチャンネル with m (@killer_m_khan) - Twitter
- 越錦 - 相撲レファレンス
- キラーカンの店 居酒屋カンちゃん【キラーカーン・KillerKhan】 (@killerkhan_36) - Twitter
- キラーカンの店 カンちゃん (@Izakaya_kan) - Twitter
- キラーカンの店 居酒屋カンちゃん (killerkhan.izakaya) - Facebook
- アールグルッペ(業務委託)のプロフィール
- 日本綜合経営協会
- 有限会社小松プロモーション
- 【電脳サブカルマガジンOG】OG SPECIAL キラー・カーンのお料理大好き! - ウェイバックマシン(2007年10月28日アーカイブ分)
- 暴れん坊レスラーも今は「ちゃんこ居酒屋」経営者