田中米太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
田中米太郎
プロフィール
リングネーム 桂浜
身長 176㎝
体重 100㎏
誕生日 1928年1月2日
死亡日 (1995-08-31) 1995年8月31日(67歳没)
出身地 高知県
所属 日本プロレス
新日本プロレス
スポーツ歴 大相撲
トレーナー 力道山
テンプレートを表示

田中米太郎(たなか よねたろう、1928年1月2日 - 1995年8月31日)は、日本プロレスラー。元二所ノ関部屋力士。プロレス時代には桂浜のリングネームを名乗っていた。

人物[編集]

1928年1月2日高知県出身。大相撲二所ノ関部屋では「桂浜」の四股名で土俵に上がっており、力道山の付き人だった[1]序二段まで昇進したのちに廃業、力道山の日本プロレスに入門。巨人軍から入団した馬場正平(ジャイアント馬場)のデビュー戦の相手としても知られる。この際は馬場に負けた[1]。田中や馬場と同時期に同じ道場にいたアントニオ猪木は自身の著書で田中について「道場で一番弱かった」と回想している[1]

力道山とは親交が深く、大相撲時代、さらにプロレスラーになってからも側近(付き人頭[2])として知られた。

力道山が東京都中央区日本橋浪花町(現在の日本橋富沢町)に道場を開設した際に、田中はちゃんこ番を務めた。菊池孝によれば、田中のちゃんこの腕前は「日本マット界随一だった」とされ、田中がちゃんこを作った際には、力道山はわざわざ道場にやって来るほどであったという[2]。その後、1961年(昭和36年)春に、港区赤坂台町(現在の赤坂)へ合宿所が移転した際に、田中は寮長に就任している[2]

力道山が暴漢に刺されて入院中も付き添っていたが、田中が目を離したすきに力道山が禁じられていた水を口にしていまい、死につながったという逸話がある。[要出典]

力道山が亡くなった後にレフェリーに転向。ジョー樋口と共に前座試合を裁いていた。

1973年4月1日坂口征二小沢正志木村たかし大城大五郎と共に新日本プロレスに移籍し、新日本プロレスでもレフェリーを務めた。

1995年8月31日、都内の自宅にて病没。[要出典]

関連人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c アントニオ猪木自伝(新潮文庫)
  2. ^ a b c ベースボール・マガジン社「週刊プロレス」 2003年12月19日号 P78より