SWS

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SWS(エス・ダブリュー・エス、スーパー・ワールド・スポーツ)は、メガネスーパースポンサーとなり天龍源一郎を核に全日本プロレス新日本プロレスなどから選手を集めて作られた日本プロレス団体

概要[編集]

メガネスーパーの豊富な資金を元に既存プロレス団体から選手やスタッフの引き抜きを行い、団体を作り上げ『黒船』として当時のプロレス界に激震を引き起こした。1989年にアメリカのWCWに参戦していたグレート・ムタ武藤敬司)とマネージャーの若松市政、さらにケンドー・ナガサキらにアプローチしていた[1]。ムタの獲得は叶わなかったものの若松は後に入団。1990年に入ると最初に新日本プロレスからの引き抜きを開始[1]、続いて4月には全日本プロレスを退団した天龍源一郎の獲得に成功する。さらに当時全日本が提示した複数年契約に難色を示したグループ(ただし、谷津嘉章のように全日本と契約期間中にも関わらずSWSへ離脱した選手もおり、契約違反をして団体を離れた選手に関して全日本プロレスは、後に法的措置を取っている)も全日本を退団しSWSに相次ぎ移籍[1]する。結果新日本、特に全日本から多くの選手を引き抜いたような形で選手が集まった。それまでのプロレス団体とは違い、選手にかなりの高給を支払っていたことでも知られており、特にトップの天龍源一郎は、当時トップクラスのプロ野球選手落合博満並みの年俸だったとも言われる[2]

旗揚げ戦は、1990年9月29日、天龍の出身地である福井県福井市体育館にて『越前闘会始』のタイトルでプレ旗揚げ戦が行われ、10月18日と19日の2日間、神奈川県横浜アリーナにて『闘会始'90』のタイトルで正式な旗揚げ戦が行われた[3]。旗揚げ戦はテレビ中継され、木村匡也がラジオのDJ口調で実況した。1991年3月から1992年3月までの1年間、WOWOWが月1回のペースで放映した。

SWSは相撲にちなんだ「部屋別制度」という他団体ではなかった画期的なシステムを採用した。これは大相撲出身の天龍ならではのアイデアとも言える。この部屋同士の対抗戦をカード編成の主体とした。部屋として、天龍源一郎率いる『レボリューション』、若松市政率いる『道場「檄」』、ジョージ高野率いる『パライストラ』の3部屋が置かれた[3]

しかしその部屋別制度が災いし、次第に団体内で派閥争いを招いてしまう形になり、事実上の単独エースである天龍率いるレボリューションと、それ以外の部屋とで主導権争いが生じた[3]

他にも、1991年4月1日の神戸大会で天龍率いるレボリューション所属の北尾光司が、ジョン・テンタとのシングル戦の試合後に、自らマイクを持ち対戦相手のテンタに向かって「八百長」発言を連呼するという前代未聞の失態を起こした。この「八百長」発言が大問題になり北尾が解雇される(当初は田中八郎社長の判断で、北尾の不祥事に対して罰金や謹慎の処分を決めたが、この処分に対しては「軽すぎる」、「甘すぎる」と団体内でも反天龍派の選手達からの猛反発は勿論だが、プロレスファンやマスコミからも北尾の言動に対する批判や処分の甘さを指摘され、事の重大さを改めて実感した田中社長は、最終的に北尾の解雇処分に至ったという経緯がある)等のトラブルが続き、更には興行の不振もあり様々な問題から短期間でSWSは崩壊を迎えてしまう。

崩壊後は、引き続きメガネスーパーが一定期間スポンサーとなることを条件に、天龍を中心とした『レボリューション』所属選手主体のWARと反天龍派の『道場「檄」』、『パライストラ』所属選手主体のNOWの2つに分立した[4]

団体としては短期間で崩壊してしまったが、それまで他団体が行うことがなかった道場を解放しての「道場マッチ」を低価格で開催したことや、新日本プロレスとの提携解消後、どの団体も実現しなかった、WWF(現:WWE)との提携でWWFのスター選手の招聘を実現するなど、約2年という短い活動期間の中でも特筆すべき画期的な試みをいくつか行っており、この成果は他のプロレス団体で継承され、現在でも流用されている物もある。

歴史[編集]

この節の出典[5][4][6]

1990年[編集]

  • 4月26日、天龍源一郎全日本プロレス社長のジャイアント馬場と会談。辞意を了承され全日本を退団して、メガネスーパーが興す新団体参加の意向を明らかにする。
  • 4月27日、ジョージ高野佐野直喜新日本プロレスの大会を欠場して、両選手の新日本脱退が表面化。
  • 5月7日、高野が正式にメガネスーパー新団体参加の意向を表明。
  • 5月10日、東京・ホテルオークラで「株式会社メガネスーパー・ワールド・スポーツ設立発表会」が開かれ、田中八郎メガネスーパー代表取締役社長、富永巽総務部次長、所属選手天龍が出席して、SWSの発足を発表(資本金1千万円[要出典]、社長田中、代表富永)。
  • 5月15日、若松市政の入団と道場主就任を発表。
  • 6月5日、高野の入団と道場主就任を発表。
  • 6月27日、横浜仮道場完成披露パーティーにて、桜田一男鶴見五郎片山明が所属選手として出席。
  • 7月2日、全日本を退団していたサムソン冬木高野俊二ら5名の入団を発表。
  • 7月11日、石川敬士の入団を発表。
  • 7月12日と13日、第1回新人オーディション開催。元新日本の大矢健一、元全日本の平井伸和ら6名が合格。
  • 8月7日、ザ・グレート・カブキ谷津嘉章の入団と、米沢良蔵の取締役就任を発表。
  • 8月23日、アメリカから帰国した佐野の入団が正式発表。
  • 8月29日、維新力の入団と、新倉史祐のフリー参戦が発表。
  • 8月30日、事業概要発表会披露パーティー(ホテル・オークラ)にて、3道場の正式名称と選手の振り分けを発表。
  • 9月29日、福井市体育館(天龍の出身県)でプレ旗揚げ戦『越前闘会始』を開催。
  • 10月16日、ドン荒川の入団を発表。
  • 10月18日と19日、横浜アリーナで旗揚げ2連戦。
  • 10月21日、テレビ東京が横浜アリーナ2連戦の模様を放映。
  • 11月1日、北尾光司の入団を発表。
  • 11月10日、新横浜仮道場で道場マッチ『登竜門』を開催(この日含め計5回開催された)。
  • 11月20日、WWF(現:WWE)との2年間の業務提携締結を発表。

1991年[編集]

  • 1月15日、高木功を解雇。
  • 2月14日、週刊プロレスに対して取材拒否通達書を発送。
  • 2月24日、第2回新人オーディション開催。安良岡裕二中原敏之が合格。オーディションとは別に川畑輝ら2名の入団を発表。
  • 3月13日、新UWF藤原組(後のプロフェッショナルレスリング藤原組)と業務提携を結んだことを発表。
  • 3月30日、WWF、東京ドームとの共催で『レッスル・フェストin東京ドーム』を開催。藤原組が初参戦。この大会からJBS(WOWOW=日本衛星放送)による放映が開始される。
  • 4月1日、兵庫県・神戸ワールド記念ホールで『レッスル・ドリームin神戸』を開催。藤原組所属の鈴木みのるとの一騎討ちでのアポロ菅原の不可解な試合放棄事件や、北尾光司ジ・アースクェイク・ジョン・テンタ戦で、北尾が暴走の末反則負けとなった挙句に『八百長野郎』との暴言を放ったいわゆる『北尾事件』が同日に発生し、トラブルが連続した。
  • 4月4日、緊急理事会を開き、北尾の解雇を決議。
  • 7月19日、田中社長が退任して、オーナーとなり、新社長に天龍が就任。
  • 7月23日、阿修羅・原の入団を正式に発表(前日付での入団扱い)。
  • 7月31日、伊豆大島トレーニングジム落成式開催。
  • 8月9日、横浜アリーナで旗揚げ1周年記念大会『紀元一年』を開催。
  • 9月13日、川崎市麻生区に落成した本道場を披露。
  • 10月12日、文化放送にてラジオ番組「激闘!SWSプロレス」放送開始。
  • 10月14日、EMLL(現:CMLL)との業務提携を結ぶ。これに伴い、9月にメキシコLLIからEMLLに移籍した浅井嘉浩(後のウルティモ・ドラゴン)の参戦も決定。
  • 12月12日、2度目(単独では初)の東京ドーム進出、『スーパー・レッスルin東京ドーム』を開催。

1992年[編集]

  • 4月17日と18日、「THE BATTLE OF KINGS」2連戦を開催。この大会をテレビ東京が録画中継。
  • 5月14日、選手会長だった谷津が辞意。天龍派『レボリューション』と谷津、ジョージ高野派『パライストラ』『道場・檄』の対立が表面化(後に谷津と仲野信市はSWS退団に追い込まれる)。
  • 5月18日、天龍派と反天龍派が真っ2つに分かれたカード編成での新シリーズ開幕。
  • 5月23日、緊急理事会を開き、7月以降の天龍派と反天龍派の2派に分かれての活動を決定。
  • 5月25日、東京・全日空ホテルで、23日の理事会の決定事項を正式発表。SWSとしての興行活動の休止、天龍派(後のWAR)と高野、鶴見五郎派の『パライストラ』と『道場「檄」』連合(後のNOW)の2団体へ分裂が決定。
  • 6月19日、長崎国際体育館大会をもってSWSとしての興行活動終了。
  • 6月27日、反天龍派がNOWの発足を発表。
  • 6月28日、天龍派がWARの設立を発表。

他団体への影響[編集]

当時ジャンボ鶴田と並ぶ2枚看板の天龍源一郎をはじめ、谷津嘉章ら中堅選手とスタッフを多く引き抜かれた(最終的に全日本から離脱したのは選手、スタッフを含めて14人)全日本プロレスは一時崩壊の噂も流れ、当時の東京スポーツでも「崩壊危機」とも報じられた。しかし残留した三沢光晴川田利明小橋健太菊地毅ら「超世代軍」とジャンボ鶴田率いる田上明渕正信小川良成ら「正規軍」(後の聖鬼軍、読み方は同じ)との抗争を軸に据え、残った選手の奮闘などもあって勢いを盛り返した。結果的に全日本の社長だったジャイアント馬場は1999年に没するまで、天龍を始めSWSへの離脱組を再び全日本のリングへ上げる事はなかったが、天龍の全日本参戦をWAR社長の武井正智の主導で幾度か交渉をしたことがある。馬場は「全日本が困ったときには頼むかもしれないけど、いまはいいよ」と答えたこともあり、完全な絶縁関係ではなかった[7]。後に天龍は、三沢引き抜き計画があったことを明かしており、天龍が「今の給料の倍を出す」と言ったところ、三沢は「今の状態で満足ですよ」と返答し、天龍は「酒の席の事だから、そのことは忘れてくれ」と三沢に告げたという[1]

新日本プロレスからも選手が引き抜かれたが、過去に第1次UWF長州力ら『維新軍団(後にジャパンプロレスへ発展)』らの離脱など、度々大規模な離脱劇に見舞われていた事からこの手の事に慣れていた新日本フロントは早急な慰留工作を行い、主力級の選手はほぼ残留している。同時に離脱したジョージ高野佐野直喜に関しては法的措置を取ったと同時に、星野勘太郎などのベテラン選手が新日本道場に泊まり込んで若手を監視していたという[1]。SWSは、前述の武藤敬司のほかにもさらに藤波辰巳(現・辰爾)の獲得も狙っていたという[8]。天龍と武藤の「2本柱」は、2002年に全日本プロレスで、川田利明の長期負傷欠場により一時的に実現している。なお1990年当時新日本所属であった橋本真也は、当時の週刊プロレスの取材に応じた際に「プロレスにお金を出してくれる人の事を悪く書いたら、これからスポンサーになろうと思っている人も逃げちゃいますよ」と答えており、スポンサーとしてのメガネスーパーの存在に対しては肯定的意見を述べていた[9]

UWFについては、SWS設立の前年(1989年)に東京ドーム大会『U-COSMOS』のメインスポンサーを務めるなど友好な関係だったこともあって選手引き抜きは行わなかったが、その縁からSWSはUWF選手の出場を計る。後に藤原喜明の貸し出しが発表されたが、それがUWF内部に選手とフロントの関係悪化を招き、第2次UWF崩壊とUWF分裂の遠因を作ることになった。

最終的にUWFが分裂に発展し、藤原、船木誠勝鈴木みのるらはメガネスーパーのスポンサード(事実上の傘下団体)を受けて新UWF藤原組(後にプロフェッショナルレスリング藤原組と改称)を旗揚げした。形式上のSWSとの業務提携を受けて、藤原組は当初「1か月のうち1週間をSWSが拘束し興行に参戦」する予定だったが、神戸大会で発生した鈴木対アポロ菅原戦での菅原の不可解な試合放棄事件以降、SWSと藤原組の関係に亀裂が入り、藤原組は年に数回SWSへ参戦するに留まる結果となった。

後にNOW派のレスラーが次々と離脱し団体を旗揚げ、WARも活動停止後次々と出身レスラーが枝分かれしFMWやUWFと共に現在のインディペンデント団体乱立の遠因にもなったが、部屋別制度は違うスタイルのプロレスラーが対戦することから現在における団体対抗戦の先駆けになったとも言われている[10]

週刊プロレスとの軋轢[編集]

SWS創立当時、これを批判的な論調で取り上げたのが「週刊プロレス」である。同誌編集長だったターザン山本は、天龍と蜜月の関係(実際に小佐野は天龍が全日本在籍時から天龍番の記者として活動していた)であった小佐野景浩が天龍の全日本退団などの情報を自分たちより早く得ていたことから、天龍が小佐野経由で週刊ゴングに意図的にさまざまな情報をリークしていた物であると決定付け、天龍とSWSに対するバッシングを開始する。「『プロ(=プロレス)はお金である』ということがはっきりした」と表紙に掲載するなど、批判的な論陣を張った[11]。週刊プロレスが喧伝した『SWS=金権プロレス=悪』というイメージは、天龍源一郎の引き抜き、ならびにその後も続いた既存団体からの実質的な引き抜きにネガティブな印象を抱いていた多くのプロレスファンに支持され、SWSは厳しい立場に立たされることとなった。

バッシングを始めた後でも、旗揚げ当初からしばらくは試合結果を始めとするSWSの情報も、正規の取材を行ったうえで「週刊プロレス」にも試合の経過を始め、メインの試合なども写真付きで普通に掲載されていた。プレ旗揚げ戦『越前闘会始』には、ターザン山本が自ら試合会場に出向いて直接取材を行ったが、全日本時代の天龍革命のような凄みを感じられなかったことから、誌面にはSWS及び天龍に対してネガティブな記述が次第に多くなって行く[11]

こうした状況が続いたことに、「プロはお金である」というバッシングの端緒になった評に対し「週刊プロレス」に直接反論も行った天龍源一郎は、「金で動いたとはいえない」などと答え[11]、その一方で若松市政は「その『週刊プロレス』もSWSの情報を載せてくださる。ありがたいことです」と大人の対応も示していた。

そんな中、SWSが初めて開催する東京ドーム大会の広告が、「週刊プロレス」誌上に掲載された。これは「週刊プロレス」がSWSの大会を扱ったものとしては初めて掲載したもので、広告のデザイン(レイアウト)は週プロ編集部で担当した[11]。しかしこの広告のレイアウトのミスと、クレーム対応の不手際が最終的にSWSの取材拒否に結び付くトラブルに発展してしまう。

その発端はファイティングポーズを取る天龍の口元の部分に「ドームに夢を見よ」というコピーの内の「夢」という文字が入ったふきだしが被さったものだったのだが、天龍の口に黒いマスクを被せるように見えた事によりSWSから週プロに直接クレームが入り、それを受けてデザインを修正する運びになった。しかし週プロ側の不手際で修正前のデザインの広告が誌面に出てしまい、この週プロの対応に対してSWSが不快感を示す。

この不手際に関して「週刊プロレス」側は特に意図はないとしたものの、SWS側は「悪意に満ちている」と捉えて強い不満を抱いた[11]。この広告掲載を巡るトラブルを契機に、SWSは「週刊プロレス」に対して取材拒否を通告する。

この取材拒否の通告を受けて「週刊プロレス」は直近の号で、真っ黒な背景に『2月15日の午後、SWS代表取締役の田中八郎より取材拒否を意味した通告書が本誌・週プロに対し速達で届きました』と表紙に大書、誌面では事態の経緯とともに関係修復を試みている旨を記したものの、これより数週後の号の誌面で「今後はSWSに関する一切の情報の掲載を控えさせていただきます」と山本隆司編集長の名義で回答し、双方の関係は回復する事なく完全に決裂した。この取材拒否はSWS崩壊後、さらには後続団体のWAR創立当初まで続くことになった。天龍個人は、団体崩壊後もしばらくの間取材拒否が続いた。

なお2000年にベースボール・マガジン社が発行した「週刊プロレス スペシャル3」には、田中本人への単独インタビューが巻頭記事として掲載されている。聞き手は鈴木健。田中曰く、同誌の取材に応じたのは「プロレス界をやめるときに正式な挨拶をしていなかったから、こういった形で挨拶が出来れば」とのことである。田中は当時を振り返り「引き抜きというタブーをやったことで週プロがアレルギー反応をおこすのは承知していたが、正直悪く書かれたくはなかった」、「週プロさんには全日本との長い付き合いがあったことから(自分たち)新しい団体に対していいことを書きますなんて事ははない。しかしゴングさんとかはそういう色は出さなかった。それは編集長の違い」と答え、山本の編集長としてのSWSに対する見解と姿勢には不満があったと語った[11]

なお山本は、同じ「週プロSP3」では膨大な資金力のあるSWSに付くほうがいいんだけど、敢えて自分は馬場さんを支持する側に回った。ほかのすべてを敵に回しても馬場さんと共に負けるほうがいいと思った、などと語っていた[11]。しかし後年山本は全日本プロレス代表・ジャイアント馬場から金銭を受領しその見返りとしてSWSをバッシングしていたこと、SWS崩壊後に「今後週刊プロレス誌上で実名を上げてのバッシング活動を行わない」約束の見返りとして田中社長から1年間に渡って月50万円以上を受け取っていたことを後に暴露本で告白している[12][13]

早期崩壊の経過と原因[編集]

SWSが約2年(プロレス団体興行としては福井の旗揚げ大会から数えると1年9ヶ月)という早期で崩壊してしまった要因として、上記のような一部プロレス誌による SWSへのバッシングによって作られたマイナスイメージによるプロレスファンからの反発や批判があったものの、それ以上に天龍派『レボリューション』と反天龍派『道場・檄』、『パライストラ』の対立が大きいといえる[14]

純粋な部屋対抗戦の域ならまだしも、特に天龍派にマッチメイクなど団体自体の主導権を握られていた反天龍派の不信感は非常に根強かった[14]。新団体旗揚げという成り立ちから考えれば、3道場は対等な立場であるのが本来の姿である筈だが、マッチメイク担当を天龍派である『レボリューション』に所属していたザ・グレート・カブキが務めていた事もあり、集客面も考慮して天龍中心やレボリューション所属選手寄りのマッチメイクになる傾向が強かった。しかし、このカブキが編成したマッチメイクには反天龍派からの反感を買い、これが元で天龍率いるレボリューション派への不信感を持たせる結果になってしまった。集客面や天龍、レボリューション派を最優先した偏りの目立ったカブキのマッチメイクの不味さも、団体崩壊の大きな要因の一つであったともいえる。

このカブキが組んだマッチメイクに対し納得が行かない反天龍派の一部選手の中には、自ら行動に移り田中社長に直接面会をして直訴する事で、決定事項が覆る事も少なからずあったともいわれている。この反天龍派の根強い抗議と反発もあってか、天龍及びレボリューション派の選手がメインの試合からは外れ、パライストラと道場檄の選手がメインの試合に出場するカードも組まれる様になった。

また反天龍派は第1試合の出場を拒否した事もあり、その際はマッチメイク担当のカブキが自ら第1試合を買って出て出場した事もある。

また準備不足もあり3部屋がそれぞれ個別の道場を用意できなかった事や、団体の要でもある本道場完成の遅れが『部屋の派閥化』傾向に拍車をかけた。旗揚げ当時のプランニングでは、3部屋ごとに専用道場を全国各地に建設し、人材育成と選手による社会奉仕の構想も練られていたが、当初掲げた構想計画は頓挫してしまい、実際には旗揚げ当初に建設された新横浜の仮道場と、SWSが崩壊する間近の1992年4月に川崎市百合丘に総工費7億円をかけて建設された本道場(当初は『レボリューション』専用となる予定だった)を用意したに過ぎず、結局この2か所を各道場毎に使い回しせざるを得なかった。この結果、部屋毎の独立色を打ち出せず、「派閥の温床」になっていた[14]

小佐野景浩著の「SWSの幻想と実像」によると、当初から天龍をエースとした団体の方針にも違和感を持った選手が少なからず存在し、その中には 「自分は自分の思想を持ってSWSに来た。天龍をエースに盛り立てるために来たのではない」と不満を口にしていた選手もいたという。

91年4月の北尾事件以降、マッチメイク補佐役として『道場「檄」』からは谷津嘉章と『パライストラ』からはドン荒川が就任し、お互いに組んだ試合カードを出し合って各部屋の意向をある程度反映できる様に改善する。道場対抗戦にとらわれないマッチメイク(レボリューションの天龍とパライストラのジョージ高野とのタッグが組まれた事もあり、普段は見られないタッグマッチが実現した)も試みられ一時選手間との関係は良好な状態になり、派閥解消(天龍とジョージ高野とのタッグマッチの試合後に、各部屋の選手達が控え室に集まって万歳三唱をして派閥解消をアピールした事もある。またこの試合後に天龍は『派閥問題は一旦、棚上げだね。みんな団体を盛り上げて行こうという気持ちでやってるよ』と笑顔で派閥解消に向けて前向きなコメントを残している)にも繋がったかと思われたものの、依然として派閥間との対立は改善される事も無く険悪な状況の中、遂には1992年5月14日に選手会長だった谷津嘉章の突然の「選手会長辞任、SWS退団」発言で一気に対立が表面化する形となった[14]

谷津が会見の席上(当時のプロレスマスコミは谷津の異例ともいえる単独記者会見を開いた事に対して『SWS、ついにクーデター発生!』『団体分裂か?』『SWS、崩壊危機』等と報じていた)、天龍を批判した事で天龍派と反天龍派の亀裂修復は事実上不可能となり、この会見以降崩壊までの大会は道場間の対抗戦は組まれず、天龍派と反天龍派がそれぞれ単独で組んだ試合カードを出し合って編成するという異例の形で興行が継続して行く運びとなった。この事件の1週間前にはカブキが単独で記者会見し、マッチメーカーを自ら降板するとともに『レボリューション』派からの離脱を表明。今後はフリーとして活動していく(この後カブキは大仁田厚率いるFMWの会場に姿を見せ、大仁田とターザン後藤と面会した。このカブキの行動はフリーになった立場でFMWに参戦するのかと見られていたが、結局話し合いのみで終わっている)事を発表した。これによりマッチメーカー枠が空白になり、カブキの後任には天龍派の担当に石川敬士、反天龍派の担当に鶴見五郎がそれぞれ就任。お互いに作成したカードを出し合って試合を組む形で調整していった。

さらに反天龍派側は『レボリューション』派との対戦を拒否した他、会見で谷津がWWFも批判した(この会見上で谷津はWWFから選手を派遣する際の費用が掛かり過ぎているのはおかしい、という点を指摘している)事でWWFとの対戦カードも併せて拒否した。この様な混沌とした異常事態の中で会社内部は、今後この状況では団体としての運営は難しいと察し、8月に予定されていた興行予定をキャンセルするなど、SWSの幕引きへ向けて動きが水面下で進行していた。

5月22日の後楽園ホール大会では、興行開始前に内部混乱を招いた責を取る形で、谷津本人と同調する仲野信市の2人が辞表を手に「引退」を表明した。なおこの時に谷津と行動を共にしたのは仲野のみであり、他の反天龍派の選手は同調せず(なぜ同調しなかったのかは不明)行動を共にする事もなかった為、引退はこの2人だけであった。また谷津はこの騒動に対してプロレスマスコミの報道姿勢に不満を抱いていた様で、自分の主張がきちんと報じられていない事を批判した事もある。

当時、プロレスマスコミやファンは天龍および天龍率いるレボリューション派の選手を擁護する声が多かった事もあり、会見の席で天龍や団体を批判した谷津嘉章をはじめ、反天龍派である道場檄、パライストラの選手への風当たりは根強く、厳しく非難された。同大会で組まれた谷津・仲野の『SWS引退試合』では試合開始から観客の執拗な野次やブーイングで騒然と化し、更には物がリングに投げ込まれる中で行われるという異常な事態となり、仲野は観客の野次や罵声に耐え切れず涙を流しながら試合をするという屈辱を味わった。試合終了後は拍手すらなく、谷津はSWSとこれまで応援してくれたファンへ別れの意味を込めて着ていたジャージを客席に投げ込んだが、逆に観客から投げ返されてしまうなど、この一件に関してファンの反応はシビアだった[15]。SWSでの騒然とした引退試合を終えた谷津、仲野の2人はこの試合以降、暫くの間プロレス業界からはフェードアウトをせざるを得ない形になってしまった。

谷津と仲野の「SWS引退試合」が行われた後楽園ホール大会翌日の5月23日に、SWSでは事態収拾の為緊急理事会を招集。その席でSWSの団体活動休止と分裂(事実上の崩壊)が決定する。正式な記者会見は2日後の25日に行われた。天龍派は「レボリューション」を母体に「WAR(レッスル・アンド・ロマンス)」を、反天龍派は「道場・檄」、「パライストラ」と合同して「NOW(ネットワーク・オブ・レスリング)」をそれぞれ設立し、2団体別々で興行を行っていく形となった。SWSの母体であるメガネスーパーはそれぞれ各団体に対し資金援助を行ったが、その援助も継続的ではなく「期間限定」という形となり、WARには2年間に対して、NOWには1年間のみスポンサー料を援助した形に過ぎなかった。

NOWのプレ旗揚げ戦(8月9日)後の9月10日に発売された『週刊文春]]』誌上で、ジョージ・俊二の高野兄弟による「俺たち、メガネスーパーに騙された」との見出しで、SWSという団体の騒動の顛末とメガネスーパー自体を痛烈に批判する手記が掲載された。この一件の影響により高野兄弟はNOWを早期に離脱し、新たに谷津・仲野を発起人に加えた「PWC(プロ・レスリング・クルセーダーズ)」を旗揚げする。尚谷津と仲野は発起人に名を連ねたのみで、試合に参戦する事はなかった。その後NOWはエース候補だった高野兄弟に代わり維新力をエースに抜擢し、上田馬之助が参戦して維新力との抗争を繰り広げるなどして話題作りや地道な活動も続けたが、それも報われる事なく興行成績が振るわずに低迷してしまう。結果的にWARよりも1年間早くメガネスーパーからの援助が打ち切られる形となってしまった。

SWSの団体活動は6月19日の長崎国際体育館大会をもって最終興行を終了する。また事実上のSWS傘下団体となっていた藤原組も1992年12月に内紛が発生し、興行活動を停止(藤原組の項を参照)。この2団体の興行停止により、メガネスーパーはプロレス業界から完全撤退となった[14]

2018年現在、メガネスーパーは1992年末にプロレス業界から完全に退いた後は特に表立ったプロレス事業を行なっておらず、活動を始めたという報告もない。

1992年のSWS崩壊から四半世紀以上が過ぎた現在でも、在籍当時反天龍派側だった谷津嘉章やケンドー・ナガサキ等は時折SWSの回顧インタビューで「とにかくSWSはマッチメイクで揉めた」「マッチメイクで不満が出て団体がまとまらなくなってしまった」と天龍派に偏った不公平なマッチメイクへの批判と矛盾点を指摘したコメントをする事もある。

その他[編集]

上田馬之助は、SWSが失敗した原因として、「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを食らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。しかし後に天龍はSWS崩壊後に天龍派のレボリューション主体で旗揚げしたWARで仕切り直し、新日本のリングにも上がり反選手会同盟との抗争や新日本本隊との団体対抗戦でも盛り上げ、更にはアントニオ猪木とのシングル戦でピンフォールを奪う等の大活躍をしている。

SWSは一プロレス団体に思われがちだが、正確にはメガネスーパーによるスポーツ事業を扱う会社であり、その内の「プロフェッショナル・レスリング事業部」という一部門がプロレス団体としての機能を持っていた(他にゴルフ事業部があった模様)。プロレス団体としての活動を停止後もSWSは会社組織としてはしばらく残り、ただひとり会社に残留したドン荒川だけは「SWS所属」を名乗って活動していた[16]

創立直後に、成文化された公式ルールを制定。これは旗揚げ戦のパンフレットに掲載された。

現在の各団体のビッグマッチに欠かせない『一本花道』を日本で初めて採用したプロレス団体でもある。提携していたWWFの演出方法を参考にしたもので、1991年6月10日の愛知県体育館大会から採用された[14]。この一本花道のシステムは後にプロレスリング・ノアや一部の団体でも流用されている。

新横浜の仮道場で開催された道場マッチ『登竜門』は若手選手主体で行われ、天龍を始めとするトップ選手達は出場しなかった。この試みは普段選手達が練習をしている道場を一般公開して興行を行うという目新しさと、500円という低料金での入場料で観客を集め、好評を博した。現在でもこの道場マッチは、単独で道場を持つ団体が頻繁に開催する興行の先駆けともいえる。

テレビ中継に関しては、プレ旗揚げ戦「越前闘会始」を、地元の福井放送のみで後日放映したのが最初である。同様の形で1990年11月に行われた「浜松闘会始」も地元局のみで後日放映されたが、当初予定されていた静岡第一テレビではなく、テレビ静岡で放映された。

前述した旗揚げ戦の中継は、2日間開催した大会を編集して、テレビ東京の「日曜ビッグスペシャル」の枠で放映したもの[6]。前出の木村匡也のほか、杉浦滋男四家秀治が実況を務めた(杉浦は団体後期の中継でも実況を担当し、WARの試合中継でもそのまま継続して実況アナウンサーを担当していた)。なお、番組内で付けられていた木村の肩書きは「SWS専属アナウンサー」だった。

尚、90年の首都圏旗揚げ興行になった横浜アリーナの 2日間の大会の模様は、一部の試合が編集された上で後にVHSビデオとして発売された。現在この大会を納めたVHSビデオソフト以外の試合のDVD、ブルーレイの発売はされていない。

1991年3月30日からはWOWOWで放送開始[6]。(実況:伊津野亮 解説:菊池孝牧元一林家しん平)。第1回目は1991年3月30日の「レッスルフェストイン東京ドーム」大会を生中継で放送した。その後は月1回・120分枠または90分枠の録画中継が行われたが、1992年3月28日「昇龍激闘」3.18新潟大会の放送をもってWOWOWでの1年間の放送を終了した。さらに後にはテレビ東京と契約し[6](実質的に復帰)、「激闘SWSプロレス」のタイトルでWOWOWの中継と同じ月1回・60分枠の中継(概ね月曜深夜)が開始された。「激闘SWSプロレス」は、当時、団体そのもののスポンサーになって間もない西松建設が、番組を単独で提供したが、放送枠内で必ず1回は、メガネスーパーのCMを流していた。

テレビだけでなく、ラジオ局の文化放送でも週1回の30分枠でSWSの情報番組があった。試合の実況中継(ラジオ向けで音声のみ)も交えた非常に珍しいスタイルだった。SWS崩壊後はWARNOW両方とも中継した[6]

Vジャンプの増刊号時代での創刊号にて、SWSを舞台にしたプロレス漫画『闘竜王(ティラノ)ザウラー』(画:黒田ひろし)が掲載された。SWSの将来を担うレスラーとして秘密裏に鍛えられていた青年が、恐竜をモチーフにしたコスチュームに身を包み、SWS崩壊を狙う悪の団体と戦うというストーリーで、タイガーマスクのようにタイアップし現実とリンクするかと思われたが、創刊号での掲載後不定期に2話のみが掲載された後に終了しており、実際にリングに上がる事はなかった。

タイトル[編集]

WWF(現:WWE)と業務提携を結んでいた関係で、SWSの王座はWWFが認定する王座とされていた。なおWWFとの提携が決まった後、新日本プロレスが王座を返上し、休眠状態にあったWWFインターナショナル・ヘビー級王座WWFインターナショナル・タッグ王座WWFジュニアヘビー級王座の3つの王座を、SWSで復活させようとするプランが持ち上がったが、こちらは立ち消えとなり、独自の王座を認定している。また、タッグとジュニアヘビーの王座は作られたが、ヘビー級のシングル王座は認定されないまま団体は活動休止、解散となっている。

所属選手[編集]

この節の出典[17]

レボリューション[編集]

道場「檄」[編集]

パライストラ[編集]

練習生[編集]

スタッフ[編集]

レフェリー[編集]

リングアナウンサー[編集]

スタッフ[編集]

来日外国人選手[編集]

この節の出典[19]

WWF
EMLL
その他

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e 『週刊プロレス SUPECIAL』日本プロレス事件史 Vol.8 移籍・引き抜き興行戦争 pp22 - 27 「SWSに走った天龍は、全日本から選手を引き抜いたのか?」(文:小佐野景浩)
  2. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp085
  3. ^ a b c スポーツアルバムN0.52 天龍源一郎引退記念特別号 上巻 pp64 - 66 「悲憤のSと一筋の光明」
  4. ^ a b 『SWSプロレス激闘史』pp023 - 047 「SWS激闘クロニクル1990-1992」
  5. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp006 - 011 『恐龍怒闘 天龍源一郎が苦境に抗い続けた「SWSの2年間」』
  6. ^ a b c d e f g 『SWSプロレス激闘史』pp110 - 111 「SWS激闘史年表」
  7. ^ スポーツアルバムN0.54 天龍源一郎引退記念特別号 下巻 (2015年、ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-62309-2) pp18 - 19
  8. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp084
  9. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp086 - 91 「検証!SWS×週プロ」
  10. ^ 雑誌BUBKAの格闘王国より[要ページ番号]
  11. ^ a b c d e f g スポーツアルバムN0.52 天龍源一郎引退記念特別号 上巻 pp68 - 70 「Sと週プロ。 一体なにがあったのか」(文:安西伸一) ※pp70には『週刊プロレススペシャル3』のSWS関連インタビューの一部再括がある
  12. ^ 元プロレス雑誌編集長が告白「馬場から裏金をもらっていた」 Sports Watch 2010年06月18日
  13. ^ 『金権編集長 ザンゲ録』(宝島社)
  14. ^ a b c d e f 『週刊プロレス SUPECIAL』日本プロレス事件史 Vol.12 移籍・引き抜き興行戦争P52 - 57 「SWSの理想と現実」(文:小佐野景浩)
  15. ^ 『SWSの幻想と実像』117Pより
  16. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp061
  17. ^ 『SWSプロレス激闘史』 pp056 - 062 「SWS日本人選手名鑑1990-1992」
  18. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp101
  19. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp063 - 071「SWSマットを席巻した外国人レスラー列伝」

参考書籍[編集]

関連項目[編集]