ジョージ高野

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ジョージ高野
プロフィール
リングネーム ジョージ高野
ザ・コブラ
本名 高野 讓治
ニックネーム 褐色の貴公子
謎のアストロノーツ
伝説の毒蛇
身長 185cm(現在の公称)、(新日在籍時の公称身長は188cm、SWS在籍時は190cm)
体重 115kg(ザ・コブラ時代99kg)
誕生日 (1958-06-23) 1958年6月23日(59歳)
出身地 福岡県北九州市
スポーツ歴 大相撲
デビュー 1977年2月10日
テンプレートを表示

ジョージ高野(ジョージたかの、1958年6月23日 - )は、福岡県北九州市出身のプロレスラー、元大相撲力士。本名は高野 讓治(たかの じょうじ)。大相撲時代の四股名高野(たかの)。覆面レスラーとしては「ザ・コブラ」と名乗った。プロレスラーの高野拳磁は実の弟、全日本プロレスに短期間在籍した高野直樹は従兄弟[1]

来歴[編集]

新日本プロレス入門前[編集]

父は岩国基地に所属していたアメリカ海兵隊員で、隊内のボクシング王者にもなっている。父はアメリカに帰国してしまい母親は苦労し、ジョージも肌の色が浅黒かったため大変な差別やイジメを受けた。 大相撲の大鵬部屋に15歳で入門し、高野の四股名で1974年3月場所で初土俵を踏む。しかし1976年1月場所では番付外となり、そのまま廃業する。最高位は序二段34枚目。

新日本プロレス在籍時[編集]

大相撲廃業後、1976年8月に新日本プロレスへ入団。1977年2月10日、日本武道館での佐山聡戦でデビュー、時間切れ引き分け。

デビュー前からTV特撮番組『プロレスの星 アステカイザー』に主人公のライバル役として出演した。この時、菅原文太の誘いで本格的に芸能界入りを目指したが、プロレスへの情熱が断ち切れず、1978年6月に再び新日本へカムバック。1978年10月13日に平田淳二戦で再デビューする。前田日明ヒロ斎藤平田淳二(現平田淳嗣)らが入門しており、彼らと同期とされる事もあるが、実際には佐山聡と同期である。黒人とのハーフであるため抜群の運動能力とハンサムな顔立ちで若手の注目選手となり、その人気に前田日明も強く嫉妬した。ドロップキックで190センチを超える前田の頭の上を蹴ってしまい自爆するなど驚異的な運動神経からポストアントニオ猪木の最有力候補に挙げられ、若手時代には前田に一度も負けておらず、前田は「新日本プロレスの歴史上、最も素材が良く素質もあったのは間違いなくジョージ高野だ」と言う。初代タイガーマスクの「スペース・フライング・タイガー・ドロップ」の開発者はジョージであり、ムーンサルト・プレスを開発し初めてリングで披露したのもジョージである。初代タイガーマスクの候補としての名前が挙がったが、新間久によると背が高すぎるという理由で実現には至らなかったという[2]

1982年1月にメキシコへ遠征。二年連続最優秀外国人選手賞を受賞するなどメキシコマット界で活躍。翌年カナダカルガリースタンピード・レスリングに転戦し、英連邦ミッドヘビー級王座を獲得し自身のヒール志向の実現のため覆面レスラーザ・コブラとしてダイナマイト・キッドらと抗争を展開する。1983年夏の初代タイガーマスクの突然の引退によって、ジュニア戦線の後継者として凱旋帰国を促されるも一度は辞退。その後、師匠アントニオ猪木の説得により帰国を決意、11月3日の日本デビュー戦でNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得した。その後もザ・コブラとして、ジュニア戦線のトップとして活躍した。しかし、ハンサムな顔にマスクを被せ、猪木と同等の体格であるのにジュニアヘビー級戦士にするのは無理があり、コブラへの転身がポスト猪木の最有力候補だったジョージのレスラー人生を狂わせた。

1986年6月にザ・コブラは姿を消して海外へ。すぐに覆面を脱いだジョージ高野の姿でヘビー級として「凱旋」。凱旋試合では後楽園ホールの2階席からスポットライトを浴びて登場し、テレビ放映もされた。しかしその後はタイトル戦線に絡むことがなく、活躍の機会もなかった。

1989年にスーパー・ストロング・マシンとユニットを結成。ユニット名はテレビで公募されていたが、結局ジョージ自らが発案した烈風隊という名前となった。3月16日、長州力マサ斎藤組を破り、IWGPタッグ王座を獲得した。ヘビー級転向後初のタイトルである。しかし7月16日に長州力と若手の飯塚孝之組に敗れて陥落。その後烈風隊は、目立った活動が見られないまま自然消滅する。

1990年2月10日、東京ドームでの全日本プロレスとの対抗戦で長州力とタッグを組み、天龍源一郎タイガーマスク三沢光晴)と対戦し、真っ向からのストロングスタイルでインパクトを残すも、キャリアで8年も後輩の武藤蝶野橋本闘魂三銃士をエースにする路線が確立したため、新日本プロレスでの将来に見切りをつける。

SWS移籍後[編集]

1990年4月27日のNKホール大会でマシンvsコブラがマッチメイクされたが、高野は4月1日に新日本プロレスからSWSへ移籍した。SWSでは3つの道場が設立され、高野は弟で全日本プロレスに移籍していた高野俊二(現高野拳磁)ら主に元新日本勢と「パライストラ」を結成し、道場主(エース)となる。旗揚げ戦のメインイベントにおけるタッグマッチでは、「REVOLUTION」道場主である天龍源一郎からピンフォール勝ちを奪うなど活躍した。

1992年のSWS解散後、ケンドー・ナガサキたちとネットワーク・オブ・レスリング(NOW)を旗揚げするも、旗揚げ戦後にジョージと俊二は離脱し、二人で1992年にPro Wrestling Crusaders(PWC)を設立。しかし、翌年にジョージが離脱。1995年に妻の実家がある北海道釧路市でFSRを設立し、旗揚げ戦にはタイガーマスク(佐山サトル)が来場。しかしFSRは選手がジョージと若手しかいなかったことと釧路という立地条件の悪さもあり、1997年に活動を停止。その後は故郷である九州に戻り、リングから離れた。

2001年4月18日のZERO-ONE日本武道館大会で星川尚浩を相手にリングへ復帰、覆面を被りザ・コブラの名前で参戦した。体重はかつての細身の筋肉質な身体とは見違えるほどに脂肪太りしていた。それでもきっちりとムーンサルト・プレスを決めるなど、天性の身体能力の高さをうかがわせ、ゲスト解説の馳浩をはじめ、見る者を驚かせた。以後、同団体に数回参戦。同年の第1回火祭りにはジャスティン・マッコリーの代打として、ジョージ高野の名で覆面を被ったまま参戦。同じブロックの田中将斗と両者リングアウトで引き分けただけの2敗1分に終わった。

2002年4月24日の新日本プロレス西日本総合展示場大会で、「30周年スペシャルマッチ」として素顔で登場。SWS移籍後、初めて古巣のリングに上がった。蝶野正洋とタッグを組み、中西学吉江豊組と対戦し勝利。ジョージ高野としてはこの試合を最後に、リングには上がっていない。同年10月13日に東京ドームホテルで開かれた「新日本プロレス創立30周年記念パーティー」ではOBとして壇上で挨拶した。

2004年3月に別冊宝島の企画で受けたインタビュー[3] にて、外壁の施工工事の仕事に関わっている事、レスラーの活動がほとんど出来ていないが、引退はしていない事、活動を休止しているがFSRは消滅していない事を語り、同

年7月10日PWCプロモーション博多スターレーンでは、初代タイガーマスクと組んで折原昌夫組と対戦した。

2007年10月4日放送のアメトーーク!ANN系列)「昭和プロレス芸人」の放送の中で、現在は電柱を埋める仕事に就いていることが伝えられた。同年12月7日イノキ・ゲノム・フェデレーション公式サイトで「猪木ミニ・ミュージアム」の館長に就任したことが発表されている[4]。またNPO法人設立などを経て、2009年に福岡市にあるシステム開発会社の統括ジェネラルマネージャーに就任している[5]

正式にマッチメイクされたものではないが、2012年7月27日に行われた「森谷俊之さんを送る会」のバトルロイヤルにザ・コブラとして乱入している[6][7]。また、2013年7月26日のバトルエイド15に、ザ・コブラでも本名でもない「ジョージ高野マスク」なるマスクマンとして出場。8人タッグマッチで戸井克成からギブアップを奪っている[8]

ザ・コブラ[編集]

ザ・コブラ(The Cobra)は、かつて高野が名乗っていた覆面レスラーのリングネームである。カナダカルガリーマットでデビュー。ニックネームは「謎のアストロノーツ」、入場曲はエイジア「THE HEAT GOES ON」。

当初、『ワールドプロレスリング』で日本デビュー前から正体不明の謎のマスクマンとして紹介され、帰国時には成田空港でマスク姿のザ・コブラに突撃インタビューをする等、団体の期待は高かった。しかし、一部マスコミがザ・コブラ誕生の経緯を報じており、少なからず正体は知られていた。日本デビューは、1983年11月3日蔵前国技館で行われたザ・バンピート戦で、空位となっていたNWA世界ジュニアヘビー級王座が掛けられた。コブラは白いタキシードを身につけ、白煙の中をタイガーマスクミル・マスカラスなどの有名覆面レスラーのマスクを被った若手選手が担ぐ神輿に乗って入場し、コーナーのトップからバック宙返りでリングインした。ちなみに、青年時代カルガリーでコブラの空中殺法を観て憧れてプロレスラーになったオーエン・ハートが、来日時にこのバック宙リングインを真似している。

対戦相手のデイビーボーイ・スミスは試合開始前に新日本プロレスに命じられたギミックに納得しておらず、「ザ・バンピート」なる覆面レスラーのマスクを自ら脱ぎ捨て正体を明かし、そのままコブラをリング下に投げ捨て、攻撃を加えるなど、波乱を予想させる出だしを見せた。

田中秀和リングアナによってスミス、コブラのコールがされた後、ようやく試合が開始。しかしグラウンド戦が続くうちにスミスがコブラの技を受けようとしない行為が目立ちはじめ、さらにはコブラが仕掛けたトップロープ越しのノータッチプランチャをスミスがかわしたため、コブラは鉄柵と床へ激突し、両膝に大ダメージを受けた。両者共に決め手を欠く試合展開は長期戦となり、技の失敗もあって結果的にこのデビュー戦は凡戦となる。このことが初代タイガーマスク対ダイナマイト・キッド戦の再来を期待したファンや関係者を落胆させ、いかに初戦のインパクトが重要であるかを示した格好となった。

後日のテレビ放映では、試合途中からダイジェストとなっている。またプランチャを仕掛けたところでは、スミスがかわしたところでストップし、鉄柵に衝突する場面がカットされた。またテレビでの録画中継の一部で、このデビュー戦で場内から「高野コール」が起き、必然的に正体が知られることとなった。なお、このザ・コブラの日本デビュー戦は、2012年に放送された『ワールドプロレスリング アンソロジー』の第3回「伝説のマスクマン ザ・コブラ 秘蔵哀愁名勝負選」の中でノーカットで放送された。

コブラはその後NWA世界ジュニアヘビー、WWFジュニアヘビー級の二冠王となるが、団体の都合や業務提携の解消から1985年に2本とも返上。それを受け、IWGPジュニアヘビー級王座が創設。リーグ戦が開かれ、1986年2月6日に両国国技館越中詩郎と初代チャンピオンの座をかけて対戦するが、あえなく敗退。さらに越中を破って第2代チャンピオンとなった高田伸彦とも同年6月17日に愛知県体育館で対戦したが、両者リングアウトでタイトル獲得はならなかった。この試合を最後に、「キング・コブラになって帰ってくる」と言い残し、ザ・コブラは消えた。しかし実際は、結婚を発表し素顔に戻っただけだった。

デビュー戦で期待以上のインパクトを残した初代タイガーマスクと、スミスのギミック破りに遭い怪我をしたザ・コブラは常に比較され、アニメも同時放送されメディアミックスが成功した初代タイガーマスクのようなチビッコファンのアイドルにはなれなかった。しかし、その美しい体格と群を抜く運動能力で20代のファンには人気が高かった。また、キッドやスミス、小林邦昭ヒロ斎藤などの好敵手が相次いで他団体へ移籍していったことによる強力なライバル不足や、185cmという長身がジュニア戦士としてはマイナスとなり、キャラクターとしては大成しなかった。

近年、インターネット動画の普及などから、過去の映像を誰もが手軽に視聴できるようになったことで、試合内容も含め、改めてその身体能力の高さ・マスクのデザイン・肉体美等が再評価されている。

得意技[編集]

No.1使い手の呼び声も高い。その場跳びでもダッシュ式でも、どちらも190センチの相手の頭上を行くほどの打点の高さで有名。

  • フライング・ニールキック
  • フライング・ラリアット 相手の喉元に自分の腕をヒットさせると同時に、勢いで自らが斜め後方に回転するオリジナル・フィニッシャー。
  • スカルドロン・サンダー(スコードロン・サンダー)

 ザ・コブラのオリジナル技。コーナー跳ね返り式のニーアタックまたはレッグラリアットである。コーナーに振られた際、そのままセカンドロープに跳び乗り、そこからやや体を丸めて身を翻し、(このとき自身の体は木村健悟の稲妻レッグラリアットのような角度となり、その体勢のまま)空中で相手の首や顔または胸に、自身のニーまたはスネをショットする。

 相手の背後から両肩に飛び乗り、前方に回転して相手を丸め込む=ウラカン・ラナである(相手の正面から両肩に飛び乗り、後方回転して相手を丸め込む技は、ウラカン・ラナ・インペルティダ)。スモールパッケージ・ホールドや逆さ押さえ込み、越中式のジャパニーズ・レッグロール・クラッチなども用いたが、数多くある丸め込み技の中で、特にこの技を好んで多用していた。

  • スペース・フライング・タイガー・ドロップ

 初代タイガーの技として有名であるが、開発したのはジョージ高野であると言われている。コブラのそれは、最後のジャンプが足りずに崩れ気味になり、相手への当たりが弱くなってしまうことが多かった。

  • ノータッチ・プランチャ

 場外の相手へ、リング端からダッシュし、ムササビ・ボディプレスのようなフォームでノータッチでトップロープを超えてボディアタックを決める。

 開発者はジョージ高野であると言われる。頻度は多くないものの、試合終盤~フィニッシュとして使用していた。

  • ダイビング・ボディ・プレス
  • ダイビング・ボディ・アタック

 ザ・コブラ時代にコーナー跳ね返り技として多用した。コーナーに振られた際、そのままセカンドロープ(またはトップロープ)に跳び乗り、そこから斜め後方に大きくジャンプして身を翻し、相手に体を浴びせ、そのままフォールする。同じくコーナーに振られた際、トップロープから大きくバック転の要領で相手のさらに背後に着地するという派手なスカし技(サルト・モルタル)も得意だった。

 繋ぎ技として使用。アルゼンチン・バックブリーカーにとらえたまま、自身がシットダウンすることで相手にダメージを与える。

 藤波辰爾武藤敬司の間の時期に使用していた。

  • 掌底

 相撲の突っ張りのように連打する。

逸話[編集]

  • メキシコでアンドレらを差し置いて2年連続外国人最優秀選手賞
  • 新間「売り出すために猪木のセコンドに付かせてテレビに映らせた」
  • 新倉「新日の厳しい練習も平気な顔してこなし、高度な受身も簡単にとる。物凄かった」
  • 端正な顔立ちだが鼻骨がない。若手時代に前田日明にキックで砕かれて、骨を抜いてしまったからである。昔の新日本の激しさを象徴する逸話となっており、押すとグニャグニャしているためインタビューなどで記者を驚かせる。
  • 若手時代、風呂上りに鍛え抜かれた肉体を鏡の前で誇示していた。
  • 男性自身が大きい。前田日明の羨望の目差しで憧れられ、前田から「長さを計らせろ」と言われ拒否したところ、夜中に前田ら合宿所の仲間に寝込みを襲われパンツを脱がされて長さを計られた。合宿所の仲間と多摩川で花火をやった際には前田にパンツの中に花火を入れられるなど憧れの対象とされた。なお、ザ・コブラの名称の由来も、それが大きくコブラのようだったから、と言われている。
  • 若手時代、脱糞した平田淳嗣の糞便を裸足で踏ん付けてしまった。
  • ザ・コブラ時代には膝の怪我に悩まされていた。知人より「よく効く整体がある」と骨法整体を勧められたことをきっかけに通い始め、後に、猪木の骨法特訓(対レオン・スピンクス戦の前)、山田恵一・船木優治らの骨法入門へと繋がる。
  • 初対面のアントニオ猪木に「俺が誰か分かるか?」と訊かれ、「ストロング小林!」と答えた。
  • タッグリーグ戦に木村健悟と組んでエントリーした際、アントニオ猪木はこのチームとの対戦を非常に嫌がった。また高野のツームストーン・パイルドライバーで猪木は数日間首を痛めたことが、田中秀和の旅日記で紹介されている。
  • プロレスの星 アステカイザー』では当初、主役を予定されていたが、スケジュール的に不可能という事で断念したという。最終的に主人公のライバルという形で出演した。
  • 猪木VSアリ戦の際、会場の日本武道館に爆弾が仕掛けられるとの噂を聞きつけ、佐山サトルを連れて武道館に泊まりにいった。
  • 新幹線の中でもコブラのマスクを被っており、周囲は「さすがプロだな。少しでも顔を売ろうとしているんだな」と感心した。しかし、会場入りして客が多くいる売店付近を素顔で堂々と歩いていた。
  • 1989年川崎竹薮から1億円が発見され、数日後また9000万円が発見された。その際、近隣に住んでいたジョージは蝶野と橋本を誘い、1億円探索に出かけ、顔がバレるとの理由でコブラのマスクを被って行った。
  • 「鉄の塊が飛ぶわけない」という理由で飛行機が苦手である。なお、妻はJALの国際線スチュワーデスだった。
  • スーパー・ストロング・マシンとのタッグチーム名を「烈風隊」という弱そうなチーム名にしてしまい、マシンが「ジョージは(頭の中身も)ハーフだから……」と頭を抱えた。
  • 新日本プロレスの合宿所で前田日明と「将来の夢」を語り合ったという。それぞれ、「トンパチ」「宇宙人」と称されていた2人が何の夢を語り合っていたのかは定かではない。
  • アントニオ猪木の古希(70歳)記念興行に藤波辰爾魁勝司グラン浜田ドン荒川藤原喜明、佐山聡、前田日明、スタン・ハンセンが恩讐を超えてリング上に集結した。その際、高野はリングに登場すると、かぶっていたコブラのマスクを脱いではかぶりを繰り返し、コブラのマスクを猪木に手渡してリングを降りるという謎の行動を取った。なお、若手時代からのライバル前田とは、前田が新日本を解雇されて以来26年ぶりの公の場での遭遇となった[9]

獲得タイトル[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 「Gスピリッツ Vol.38」辰巳出版、2015、20ページ
  2. ^ 東邦出版『KAMINOGE』vol.64 p100
  3. ^ 『プロレススキャンダル事件史3』所収
  4. ^ アーカイブされたコピー”. 2009年3月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年11月9日閲覧。
  5. ^ 『別冊宝島1678 プロレス真実一路』、宝島社、2009、45頁。
  6. ^ 三田佐代子 (2012年8月2日). “三田佐代子の猫耳アワー 第203回 飯伏幸太選手写真集のお知らせ〜森谷さんありがとう”. サムライTV. 2013年6月28日閲覧。
  7. ^ ナムカブアン (2012年7月27日). “2012年7月27日 森谷俊之さんを送る会 観戦記 : ナムのジャンク領域ブログ”. 2013年6月28日閲覧。
  8. ^ ジョージ高野が復活、往年の動き。「絶対!絶対!諦めるな!」戸井克成が閉め〜BattleAid新木場大会 (ファイト!ミルホンネット お知らせ)”. ファイト!ミルホンネット (2013年7月27日). 2013年7月31日閲覧。
  9. ^ IGFオフィシャルサイト(2002年2月28日)

外部リンク[編集]