ジョージ高野

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
ジョージ高野
プロフィール
リングネーム ジョージ高野
ザ・コブラ
本名 高野 讓治
ニックネーム 褐色の貴公子
謎のアストロノーツ
鋼鉄のスプリングボード
伝説の毒蛇
身長 185cm(現在の公称)(新日本プロレス在籍時は188cm、SWS在籍時は190cm)
体重 115kg(ザ・コブラの時代は99kg)
誕生日 (1958-06-23) 1958年6月23日(60歳)
出身地 福岡県北九州市
スポーツ歴 大相撲
デビュー 1977年2月10日
テンプレートを表示

ジョージ高野(ジョージたかの / George Takano1958年6月23日 - )は、福岡県北九州市出身のプロレスラー、元大相撲力士。本名は高野 讓治(たかの じょうじ)。大相撲時代の四股名高野(たかの)。ザ・コブラThe Cobra)のリングネーム覆面レスラーとしても活躍した。プロレスラーの高野拳磁は実の弟、全日本プロレスに短期間在籍した高野直樹は従兄弟[1]

来歴[編集]

新日本プロレス入門前[編集]

父は岩国基地に所属していたアメリカ海兵隊員で、隊内のボクシング王者にもなっている。父はアメリカに帰国してしまい母親は大変苦労し、ジョージも肌の色が浅黒かったため酷い差別やイジメを受けた。大相撲大鵬部屋に15歳で入門し、高野の四股名で1974年3月場所で初土俵を踏む。しかし1976年1月場所では番付外となり、そのまま廃業する。最高位は序二段34枚目。

新日本プロレス在籍時[編集]

大相撲廃業後、1976年8月に新日本プロレスへ入団。1977年2月10日、日本武道館での佐山聡戦でデビュー、時間切れ引き分け。デビュー前からTV特撮番組『プロレスの星 アステカイザー』に主人公のライバル役として出演した。この時、菅原文太の誘いで本格的に芸能界入りを目指したが、プロレスへの情熱が断ち切れず、1978年6月に再び新日本へカムバック。1978年10月13日に平田淳二(現平田淳嗣)戦で再デビューする。前田日明ヒロ斎藤、平田淳二(現平田淳嗣)らが入門しており、彼らと同期とされる事もあるが、実際には佐山聡と同期である。黒人とのハーフであるため抜群の運動能力とハンサムな顔立ちで若手の注目選手となり、その人気に前田日明も強く嫉妬した。ドロップキックで190センチを超える前田の頭の上を蹴ってしまい自爆するなど驚異的な運動神経からポストアントニオ猪木の最有力候補に挙げられ、若手時代には前田に35勝1敗15引き分けで、前田は「新日本プロレスの歴史上、最も素材が良く素質もあったのは間違いなくジョージ高野だ」と言う。初代タイガーマスクの「スペース・フライング・タイガー・ドロップ」の開発者はジョージであり、ムーンサルト・プレスを開発し初めてリングで披露したのもジョージである。初代タイガーマスクの候補として名前が挙がったが、新間寿によると背が高すぎるという理由で実現には至らなかったという[2]

1982年1月にメキシコへ遠征。二年連続最優秀外国人選手賞を受賞するなどメキシコマット界で活躍。翌1983年カナダカルガリースタンピード・レスリングに転戦し、自身のヒール志向の実現のため覆面レスラーザ・コブラとして活動。ダイナマイト・キッドブレット・ハートデイビーボーイ・スミスらと抗争を展開し、同じく海外武者修行中だったサニー・ツー・リバーズこと平田淳二や弟の高野俊二とも対戦した[3]。9月2日にはブルース・ハートを破り英連邦ヘビー級王座を獲得[4]、タイトル初戴冠を果たしている[5]

1983年夏の初代タイガーマスクの突然の引退によって、ジュニア戦線の後継者として凱旋帰国を促されるも一度は辞退。その後、師匠アントニオ猪木の説得により帰国を決意、11月3日の日本デビュー戦でNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得した[6]。その後もザ・コブラとして、ジュニア戦線のトップとして活躍した。しかし、ハンサムな顔にマスクを被せ、猪木と同等の体格であるのにジュニアヘビー級戦士にするのは無理があり、コブラへの転身がポスト猪木の最有力候補だったジョージのレスラー人生を狂わせた。

1986年6月にザ・コブラは姿を消して海外へ。すぐに覆面を脱いだジョージ高野の姿でヘビー級として「凱旋」。凱旋試合では後楽園ホールの2階席からスポットライトを浴びて登場し、テレビ放映もされた。しかしその後はタイトル戦線に絡むことがなく、活躍の機会もなかった。

1989年にスーパー・ストロング・マシンタッグチームを結成し、ジョージ自らが発案した烈風隊というチーム名で活動。3月16日に長州力&マサ斎藤を破り、IWGPタッグ王座を獲得した[7]。ヘビー級転向後初のタイトルであったが、7月13日に長州力&飯塚孝之に敗れて陥落[7]。その後、烈風隊は目立った活動が見られないまま自然消滅する。

1990年2月10日、東京ドームでの全日本プロレスとの対抗戦で長州力とタッグを組み、天龍源一郎タイガーマスク三沢光晴)と対戦し、真っ向からのストロングスタイルでインパクトを残すも、キャリアで8年も後輩の武藤蝶野橋本闘魂三銃士をエースにする路線が確立したため、新日本プロレスでの将来に見切りをつける。

SWS移籍後[編集]

1990年4月27日のNKホール大会でマシンvsコブラがマッチメイクされたが、高野は4月1日に新日本プロレスからSWSへ移籍した。SWSでは3つの道場が設立され、高野は弟で全日本プロレスに移籍していた高野俊二(現高野拳磁)ら主に元新日本勢と『パライストラ』を結成し、道場主(エース)となる。旗揚げ戦のメインイベントにおけるタッグマッチでは、『REVOLUTION』道場主である天龍源一郎からピンフォール勝ちを奪うなど活躍した。

1992年のSWS解散後、ケンドー・ナガサキたちとネットワーク・オブ・レスリング(NOW)を旗揚げするも、旗揚げ戦後にジョージと俊二は離脱し、二人で1992年にPro Wrestling Crusaders(PWC)を設立。しかし、翌年にジョージが離脱。1995年に妻の実家がある北海道釧路市で、プロレスと格闘技の融合および闘魂伝承(後進の発掘と育成)を目的としたFSR(Fighting Spirit wRestling)を設立し、旗揚げ戦にはタイガーマスク(佐山サトル)が来場。しかしFSRは選手がジョージと若手しかいなかったことと釧路という立地条件の悪さもあり、1997年に活動を停止。その後は故郷である九州に戻り、リングから離れた。

2001年4月18日のZERO-ONE日本武道館大会で星川尚浩を相手にリングへ復帰、覆面を被りザ・コブラの名前で参戦した。体重はかつての細身の筋肉質な身体とは見違えるほどに脂肪太りしていた。それでもきっちりとムーンサルト・プレスを決めるなど、天性の身体能力の高さをうかがわせ、ゲスト解説の馳浩をはじめ、見る者を驚かせた。以後、同団体に数回参戦。同年の第1回火祭りにはジャスティン・マッコリーの代打として、ジョージ高野の名で覆面を被ったまま参戦。同じブロックの田中将斗と両者リングアウトで引き分けただけの2敗1分に終わった。

2002年4月24日の新日本プロレス西日本総合展示場大会で、「30周年スペシャルマッチ」として素顔で登場。SWS移籍後、初めて古巣のリングに上がった。蝶野正洋とタッグを組み、中西学吉江豊組と対戦し勝利。ジョージ高野としては、この試合を最後にリングに上がっていない。同年10月13日に東京ドームホテルで開かれた「新日本プロレス創立30周年記念パーティー」ではOBとして壇上で挨拶した。

2004年3月に別冊宝島の企画で受けたインタビュー[8] にて、外壁の施工工事の仕事に関わっている事、レスラーの活動がほとんど出来ていないが、引退はしていない事、活動を休止しているがFSRは消滅していない事を語り、同年7月10日PWCプロモーション博多スターレーン大会では、初代タイガーマスクと組んで維新力折原昌夫組と対戦した。

2007年10月4日放送のアメトーーク!ANN系列)「昭和プロレス芸人」の放送の中で、現在は電柱を埋める仕事に就いていることが伝えられた。同年12月7日イノキ・ゲノム・フェデレーション公式サイトで「猪木ミニ・ミュージアム」の館長に就任したことが発表されている[9]。またNPO法人設立などを経て、2009年に福岡市にあるシステム開発会社の統括ジェネラルマネージャーに就任している[10]

正式にマッチメイクされたものではないが、2012年7月27日に行われた「森谷俊之さんを送る会」のバトルロイヤルにザ・コブラとして乱入している[11][12]。また、2013年7月26日のバトルエイド15に、ザ・コブラでも本名でもない「ジョージ高野マスク」なるマスクマンとして出場。8人タッグマッチで戸井克成からギブアップを奪っている[13]

2018年4月20日・21日のドラディションの大会において、約16年ぶりにザ・コブラとしての出場を果たし、軽快な動きでファンを沸かせた。

ザ・コブラ[編集]

ザ・コブラThe Cobra)は、かつて高野が名乗っていた覆面レスラーリングネームカナダカルガリーでデビュー。ニックネームは「謎のアストロノーツ」。入場曲はエイジア「THE HEAT GOES ON」。

高野は、「コブラはずっとカルガリーでやる予定だったんだ。ちょうどヒートしてきた頃で、帰りたくなかった」しかし、新日本プロレスから「帰ってこいって、会社の命令よ。小鉄さんから電話があって、断ったんだけど、猪木さんに電話変わって、『高野さん、帰って来て下さい』と言われた。猪木さんにそんなこと言われたら断れないでしょ?」と述べている。 当初、『ワールドプロレスリング』で日本デビュー前から正体不明の謎のマスクマンとして紹介され、帰国時には成田空港でマスク姿のザ・コブラに突撃インタビューをする等、団体の期待は高かった。しかし、一部マスコミがザ・コブラ誕生の経緯を報じており、少なからず正体は知られていた。日本デビューは、1983年11月3日に蔵前国技館で行われたザ・バンピート戦で、空位となっていたNWA世界ジュニアヘビー級王座が掛けられた。コブラは白いタキシードを身につけ、白煙の中をタイガーマスクミル・マスカラスなどの有名覆面レスラーのマスクを被った若手選手が担ぐ神輿に乗って入場し、コーナーのトップからバック宙返りでリングインした。ちなみに、青年時代カルガリーでコブラの空中殺法を観て憧れてプロレスラーになったオーエン・ハートが、来日時にこのバック宙リングインを真似している。 対戦相手のデイビーボーイ・スミスは試合開始前に新日本プロレスに命じられたギミックに納得しておらず、「ザ・バンピート」なる覆面レスラーのマスクを自ら脱ぎ捨て正体を明かし、そのままコブラをリング下に投げ捨て、攻撃を加えるなど、波乱を予想させる出だしを見せた。

田中秀和リングアナによってスミス、コブラのコールがされた後、ようやく試合が開始。しかしグラウンド戦が続くうちにスミスがコブラの技を受けようとしない行為が目立ちはじめ、さらにはコブラが仕掛けたトップロープ越しのノータッチプランチャをスミスがかわしたため、コブラは鉄柵と床へ激突し、両膝に大ダメージを受けた。両者共に決め手を欠く試合展開は長期戦となり、技の失敗もあって結果的にこのデビュー戦は凡戦となる。このことが初代タイガーマスク対ダイナマイト・キッド戦の再来を期待したファンや関係者を落胆させ、いかに初戦のインパクトが重要であるかを示した格好となった。

後日のテレビ放映では、試合途中からダイジェストとなっている。またプランチャを仕掛けたところでは、スミスがかわしたところでストップし、鉄柵に衝突する場面がカットされた。またテレビでの録画中継の一部で、このデビュー戦で場内から「高野コール」が起き、必然的に正体が知られることとなった。なお、このザ・コブラの日本デビュー戦は、2012年に放送された『ワールドプロレスリング アンソロジー』の第3回「伝説のマスクマン ザ・コブラ 秘蔵哀愁名勝負選」の中でノーカットで放送された。

コブラはその後NWAWWFのジュニアヘビー級二冠王となるが、団体の都合や業務提携の解消から1985年に2本とも返上。それを受け、IWGPジュニアヘビー級王座が創設。リーグ戦が開かれ、1986年2月6日に両国国技館越中詩郎と初代チャンピオンの座をかけて対戦するが、あえなく敗退。さらに越中を破って第2代チャンピオンとなった高田伸彦とも同年6月17日に愛知県体育館で対戦したが、両者リングアウトでタイトル獲得はならなかった。この試合を最後に、「キング・コブラになって帰ってくる」と言い残し、ザ・コブラは消えた。しかし実際は、結婚を発表し素顔に戻っただけだった。

得意技[編集]

素顔になった後、東京ドームで2代目タイガーマスクに「掟破り」で逆に決めたこともあった。
No.1使い手の呼び声も高い。その場跳びでもダッシュ式でも、どちらも190センチの相手の頭上を行くほどの打点の高さで有名。
  • フライング・ニールキック
ほとんど全ての選手が、“フライング”とは言い難い“ジャンピング”・ニールキックである中、ジョージ高野(特にコブラ時代)のそれは、正真正銘の“フライング”・ニールキックだった。
ロープに振って返ってきた相手に向かって、ダッシュして繰り出す。相手の喉元に自分の腕をヒットさせると同時に、勢いで自らが斜め後方に回転する、シンプルな技を華やかに昇華させたダイナミックなオリジナル・フィニッシャー。
ザ・コブラのオリジナル技。コーナー跳ね返り式のニーアタックまたはレッグラリアットである。コーナーに振られた際、そのままセカンドロープに跳び乗り、そこからやや体を丸めて身を翻し、(このとき自身の体は木村健悟の稲妻レッグラリアットのような角度となり、その体勢のまま)空中で相手の首や顔または胸に、自身のニーまたはスネをショットする。双方タイミングや距離感が難しく、当たり具合が不安定なため、ほとんど使われなかった。
相手の背後から両肩に飛び乗り、前方に回転して相手を丸め込む=ウラカン・ラナである(相手の正面から両肩に飛び乗り、後方回転して相手を丸め込む技は、ウラカン・ラナ)。スモールパッケージ・ホールドや逆さ押さえ込み、越中式のジャパニーズ・レッグロール・クラッチなども用いたが、数多くある丸め込み技の中で、特にこの技を好んで多用していた。
  • スペース・フライング・タイガー・ドロップ
初代タイガーの技として有名であるが、開発したのはジョージ高野であると言われている。コブラは慌てて技を出す癖があるため、距離感がつかめず相手への当たりが弱くなってしまうことが多かった。
  • ノータッチ・プランチャ
場外の相手へ、リング端からダッシュし、ムササビ・プレスのようなフォームでノータッチでトップロープを超えてボディアタックを決める。
開発者はジョージ高野であると言われる。頻度は多くないものの、試合終盤~フィニッシュとして使用していた。
ザ・コブラ時代にコーナー跳ね返り技として多用した。コーナーに振られた際、そのままセカンドロープに跳び乗り、そこから斜め後方に大きくジャンプして身を翻し、相手に体を浴びせてそのままフォールする。同じくコーナーに振られた際、トップロープから大きくバック転の要領で相手のさらに背後に着地するという派手なスカし技(サルト・モルタル)も得意だった。
  • 高速ストンピング
ダウンした相手に、15~20発連続でストンピングを浴びせる。後の小橋建太逆水平チョップ連打(マシンガンチョップ)等にも通ずるものがある。
藤波辰爾武藤敬司の間の時期に使用していた。ドラゴン・スクリューからの足4の字固めという流れも既に見せていた。

師匠であるアントニオ猪木とのエピソード[編集]

高野は師匠であるアントニオ猪木に心酔しており、「自分は猪木さんの兵隊。命も投げ出せる」と言い、自身が設立した団体FSRも、猪木の代名詞である“闘魂”(fighting spirit)を表した団体名となっている。

  • ジョージが、生き別れの父の母親がアメリカにいるらしいことを猪木に相談したところ、猪木は、「ジョージ、一緒に探そう」と言ってくれたという。ジョージはそのことにいたく感動し、一生涯猪木の兵隊でいることを心に決めたという。
  • 元々プロレスには興味がなかったため、初対面のアントニオ猪木に「俺が誰か分かるか?」と訊かれた際、「ストロング小林!」と答えた。
  • 新間寿によると、売り出すために猪木のセコンドに付かせ、意図的にテレビに映らせたという。 その関係で、1980年頃より地方で藤波とのタッグでセミに出場、韓国などでは猪木と組んでメインに出場した。
  • ザ・コブラの日本マット登場についてジョージは、「帰ってこいって、会社の命令よ。小鉄さんから電話があって、断ったんだけど、猪木さんに電話替わって、『帰ってきてくれ』と。そんなの、断れないでしょ?」。
  • 新間は「猪木に言ったんですよ。タイガーマスクはアニメの主人公だから人気出るけど、 ザ・コブラなんて名前じゃ人気出ないですよ。そしたら猪木が、『分かってる。 ジョージは顔も体もいいから、ジョージをスターにしよう。俺に考えがある』。 ところがその後、何もなかった。猪木はジョージをどうしようとしたのか」と述べている。
  • ザ・コブラ時代には膝の怪我に悩まされており、知人から「よく効く整体がある」と骨法整体を紹介されて通い始めた。このことが後の、猪木の骨法特訓(対レオン・スピンクス戦の前)や、山田恵一・船木優治らの骨法入門へと繋がっていった。
  • 変則ファイターとして知られ、1990年2月10日東京ドームでの全日本プロレスとの対抗戦で、長州力がジョージをパートナーに指名した理由が、ジョージのファイトで全日側のリズムを崩すのが目的だったという説もある。実際、ジョージの試合を見たジャイアント馬場が、「猪木は弟子にプロレスを教えてないのか?」とぼやいたという。
  • SWSに移籍はしたものの、猪木との関係は友好のようで(猪木は金でSWSに移籍した者を痛烈に批判していたが、ジョージの場合は、金よりもプロレスラーとしての自身の可能性を求めての移籍であった)、2007年には猪木ミニ・ミュージアムの館長に就任し、サイン会も開かれたほか、IGFの大会には度々立会人として参加している。IGFのほかにも、2013年2月の猪木の古稀を祝うパーティーや、2017年10月のISMにおける猪木生前葬にも出席している

同期とのエピソード[編集]

正式には佐山聡(1975年7月入団、1957年11月生まれ)と同期であるが(高野は1976年8月入団、1958年6月生まれ)、高野は映画出演等で一度プロレスから離れており、1978年6月に復帰している。

そのため、1977年7月入団の前田日明(1959年1月生まれ)、1978年5月入団の平田淳嗣(1956年12月生まれ)と同期扱いされ、くくられて見られることが多かった。このほかに、入団や年齢が近く対戦も多かったレスラーには、ヒロ斎藤(1978年2月入団、1961年5月生まれ)や越中詩郎(1978年7月全日本プロレス入団、1958年9月生まれ)らがいる。

特に前田日明、平田淳嗣とは合宿所で共同生活をしていたことから様々なエピソードがあり、仲の良さがうかがわれ、またそれぞれの見た目やキャラクター、ファイトスタイル等の個性の違いから、良きライバルでもあり、将来の新日本プロレスを背負う存在として期待され、元祖闘魂三銃士とも言える3人であった。

結果的には、前田日明が抜けて世代としての厚みが1枚薄くなったことで、藤波・長州世代と橋本・武藤・蝶野の闘魂三銃士世代との間で高野・平田の世代は置き去りにされ、年齢的にもキャリア的にも伸び盛り~全盛期であるにもかかわらず、便利屋や引き立て役的な役回りを任されることとなり、このことが高野のSWS移籍にも繋がっていく。

佐山聡[編集]

  • 猪木VSアリ戦の際、会場の日本武道館に爆弾が仕掛けられるとの噂を受け、佐山と泊まり込みで武道館を探査・警備した。

前田日明[編集]

  • 若手時代には前田に35勝1敗15分と大きく勝ち越している。前田は「新日本プロレスの歴史上、最も素材が良く素質もあったのは間違いなくジョージ高野だ」と断言している。
  • 風呂あがりに、鍛え抜かれた肉体を鏡の前で誇示していた。
  • 肉体美だけでなく、男性自身も大きいことで知られる。前田日明から羨望の目差しで、「長さを計らせろ」と言われ拒否したところ、夜中に前田ら合宿所の仲間に寝込みを襲われパンツを脱がされて長さを計られた。このとき測ったサイズについて、ウッチャンナンチャンのオールナイト・ニッポン内で、「手を広げたときの親指から小指までの大きさとほぼ一致した」と前田本人が話し、 南原清隆が「今CM中に前田選手の手を測ったら、 26㎝でした」と明かした。また、合宿所の仲間と多摩川で花火をした際には前田にパンツの中に花火を入れられるなど強く憧れの対象とされていた。
  • ドン荒川藤原喜明が、「合宿所にアメリカ兵の幽霊が出る」という話を前田にし、散々怖がらせておいて、ハーフであるジョージに軍服を着せて前田の枕元に立たせたという。
  • ジョージと前田を、ハンサム・ツインタワーズとして売り出そうという案があった。
  • 前田「入場時に股間にタッチしてくるファンが一番イヤだったね。ある大事な試合の入場時に、若い野郎に撫ぜるように触られて、試合開始から暫くは満足に動けなかった。ジョージなんか、俺の何倍も入場時に股間タッチされてるのに、なんで平気なのか不思議だよ。俺みたいに、その場で本気で怒らないから、ファンにナメられてるような気がするな」
  • 端正な顔立ちだが、鼻骨がない。若手時代に前田日明にキックで砕かれて、骨を抜いてしまったからである。昔の新日本の激しさを象徴する逸話となっており、押すとグニャグニャしているためインタビューなどで記者を驚かせる。
  • 前田「ジョージがトップロープを飛び越えてリングインするから、俺もやってやろうとしたら、足が引っ掛かって顔から落ちて対戦相手とレフリーに笑われた」。

平田淳嗣[編集]

  • 若手時代は泥酔して朝帰りした平田淳嗣が、トイレに間に合わず合宿所の廊下に脱糞してしまい、その糞便を起床してきたジョージが裸足で踏ん付けてしまった。大きな糞便の上のでっかい足型を見た前田が、「ジョージ、女の子にモテても、ウンコっ垂れじゃアカンやないか」とからかうと、横から平田が、「すまん、俺だ」と謝った。尚、その平田の糞便を処理したのは小杉俊二である。
  • スーパー・ストロング・マシンとのタッグチーム名を『烈風隊』という弱そうにも思える名前にしてしまい、マシンは「ジョージは(頭の中身も)ハーフだから…」と頭を抱えた。
  • マシンとの抗争では、マシンがTV中継の煽りインタビューで「俺はアイツみたいに、自分からマスクを脱ぐような恥ずかしいマネはしない」と発言し、アナウンサーから、「それは、ジョージ選手が、かつてマスクマンだったということですか?(ザ・コブラの正体は、あくまで公には不明であるという設定)」と問われ、マシンは言葉に詰まり、開き直ったかのように、「…そうだよ?悪いかい?」と答えた。このやりとりは、2007年10月4日放送のアメトーーク!ANN系列)『昭和プロレス芸人』の中で、珍場面として採り上げられた。尚、このやりとりの前後数年の間に、マシンは2度、自らマスクを脱いでいる。さらにマシンのそれはどちらも、“リング上で”という離れ業だった。ちなみにコブラは(マスクを脱ぎたいという希望はしていたかもしれないが)、公式的には自らマスクを脱いではいない。
  • マシンは、実現しなかった1990年4月27日のNKホール大会におけるマシンvsコブラについて、「俺を超えていくチャンスだったのに」と述べており、試合はコブラの勝ちブックであったのではと推測される。
  • 若手時代の合宿所では、前田日明と「将来の夢」を語り合ったという。それぞれ、『トンパチ』『宇宙人』と称されていた2人が、どんな夢を語り合っていたのかは定かではない。
  • 前田とは、アントニオ猪木の古稀(70歳)記念興行にて、前田が新日本を解雇されて以来、公の場では実に26年ぶりとなる再会を果たした。

越中詩郎[編集]

  • 地方興行の合間に休日があり、海が近い場所だったため、ジョージは釣りをすべく魚屋で2万円分ものエビを買ってきた。同室だった越中は、エビをすり身にするのを手伝ったがそこで飽きてしまい、釣り本番にはジョージ一人で出かけていった。帰ってきたジョージに、「どうだった?」と尋ねると、「全然ダメだった」との返答。「えぇっ?」と越中が驚くと、ジョージはエビのすり身を撒き餌に使ったが、本エサの方にはミミズを使ったという。越中のブログに掲載された思い出エピソードだが、越中は、「そりゃ釣れないってモンだろ!」と締めている。

その他のエピソード[編集]

  • メキシコでアンドレ・ザ・ジャイアントらを差し置いて、2年連続で外国人最優秀選手賞を受賞。
  • 新倉「新日の厳しい練習も平気な顔してこなし、高度な受身も簡単にとる。物凄かった」
  • 特撮TVヒーローシリーズの『プロレスの星 アステカイザー』では、当初主役を予定されていたが、スケジュール的に不可能という事で断念したという。最終的に主人公のライバルという形で出演した。
  • 新幹線の中でもコブラのマスクを被っており、周囲は「さすがプロだな。少しでも顔を売ろうとしているんだな」と感心した。しかし、会場入りして客が多くいる売店付近を素顔で堂々と歩いていた。
  • 「鉄の塊が飛ぶわけない」という理由で飛行機が苦手である。なお、妻はJALの国際線スチュワーデスだった。
  • タッグリーグ戦に木村健悟と組んでエントリーした際、アントニオ猪木はこのチームとの対戦を非常に嫌がった。また高野のツームストーン・パイルドライバーで猪木は数日間首を痛めたことが、田中秀和の旅日記で紹介されている。
  • 鈴木みのる「トラックとかダンプカーの凄いデカいタイヤがあるじゃん。昔はそのタイヤにロープをくくりつけて引っ張って、道場の前を何往復も走るっていう、『巨人の星』みたいなトレーニングがあったんだよ。『タイヤ引き』っていう。道場でスクワット何百回もやったあと、そのタイヤ引きをやると、みんなやっと引きずりながら走るような感じなのに、ジョージさんがやるとタイヤが跳ねるの。バンバン走るからさ、それぐらい脚力が凄かった」「でね、馳浩がオリンピック上がりでプロレスに入ってきたのがその頃なんだけどさ。相撲大会やったら、ジョージさん、馳に勝っちゃったの。それで、『強えー!』とか思ってね」
  • 1989年川崎竹薮から1億円が発見された。その際、近隣に住んでいたジョージは蝶野と橋本を誘い、1億円探索に出かけ、顔がバレるとの理由でコブラのマスクを被って行った。結局お金は見つからなかったが、翌日再び同じ竹藪から1億円が発見された。このとき自身も誘われていたという鈴木みのるは、「ジョージさんが、頭に川口浩探検隊みたいなライト付けて現れたの」「そこまで行って見つからないのが、ジョージ高野なんだよ」と、愛情を持って述べている。
  • 移動バスの中で、じっと読み入っていた本をパタンと閉じて、真顔で鈴木みのるに、「いくらUWFのやつらが強いって言ったって、ミサイル撃てば勝てるだろ!」と言った。その愛読書は『ミサイルの造り方』という本だった。
  • 暑い日に小さなブーメランパンツ一丁でランニングに出かけ、そのまま道場裏のコンビニでブーメランパンツ一丁のまま立ち読みをして涼んでいた。
  • メガネスーパーの田中八郎社長は、のちのインタビューで、「(数億円かけて道場を建てたが)SWSの選手は全く練習をしなかった。だから私が練習メニューを考えた。それでも来なかった」と話す一方で、「ジョージ選手は、毎日来て練習していたね。あれはすごかった」と評価している。
  • アントニオ猪木の古稀(70歳)記念興行に藤波辰爾魁勝司グラン浜田ドン荒川藤原喜明、佐山聡、前田日明、スタン・ハンセンが恩讐を超えてリング上に集結した。その際、高野はリングに登場すると、かぶっていたコブラのマスクを脱いではかぶりを繰り返し、コブラのマスクを猪木に手渡してリングを降りるという謎の行動を取った。なお、若手時代からのライバル前田とは、前田が新日本を解雇されて以来26年ぶりの公の場での遭遇となった[14]

ドラマ出演[編集]

獲得タイトル[編集]

スタンピード・レスリング
  • 英連邦ミッドヘビー級王座:2回[4]
新日本プロレス
SWS

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 「Gスピリッツ Vol.38」辰巳出版、2015、20ページ
  2. ^ 東邦出版『KAMINOGE』vol.64 p100
  3. ^ The Stampede matches fought by George Takano in 1983”. Wrestlingdata.com. 2017年12月11日閲覧。
  4. ^ a b British Commonwealth Mid-Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2017年12月11日閲覧。
  5. ^ Professional Wrestler Profiles: Cobra”. Online World of Wrestling. 2017年12月11日閲覧。
  6. ^ a b NWA World Junior Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2017年12月11日閲覧。
  7. ^ a b c IWGP Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2017年12月11日閲覧。
  8. ^ 『プロレススキャンダル事件史3』所収
  9. ^ アーカイブされたコピー”. 2009年3月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年11月9日閲覧。
  10. ^ 『別冊宝島1678 プロレス真実一路』、宝島社、2009、45頁。
  11. ^ 三田佐代子 (2012年8月2日). “三田佐代子の猫耳アワー 第203回 飯伏幸太選手写真集のお知らせ〜森谷さんありがとう”. サムライTV. 2013年6月28日閲覧。
  12. ^ ナムカブアン (2012年7月27日). “2012年7月27日 森谷俊之さんを送る会 観戦記 : ナムのジャンク領域ブログ”. 2013年6月28日閲覧。
  13. ^ ジョージ高野が復活、往年の動き。「絶対!絶対!諦めるな!」戸井克成が閉め〜BattleAid新木場大会 (ファイト!ミルホンネット お知らせ)”. ファイト!ミルホンネット (2013年7月27日). 2013年7月31日閲覧。
  14. ^ IGFオフィシャルサイト(2002年2月28日)
  15. ^ WWF Junior Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2017年12月11日閲覧。
  16. ^ SWS Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2017年12月11日閲覧。

外部リンク[編集]