田上明

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田上 明
プロフィール
リングネーム 田上 明
本名 田上 明
ニックネーム ダイナミックT
不屈のプリンス
身長 192cm
体重 120kg
誕生日 (1961-05-08) 1961年5月8日(58歳)
出身地 埼玉県秩父市
所属 プロレスリング・ノア
スポーツ歴 大相撲
柔道
トレーナー ジャイアント馬場
ジャンボ鶴田
ハル薗田
デビュー 1988年1月2日
引退 2013年12月7日
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田上 明(たうえ あきら、1961年5月8日 - )は、日本の元プロレスラー、元大相撲力士、飲食店経営者。身長191cm、体重115kg[1]。大相撲力士 - プロレスラー時代は身長192cm、体重120kg。

力士時代は押尾川部屋所属で四股名は玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)。最高位は西十両6枚目(1987年1月場所)。得意技は右四つ、寄り、上手投げ。

全日本プロレスの運営会社・全日本プロ・レスリングの取締役プロレスリング・ノアの運営会社・株式会社プロレスリング・ノア代表取締役社長、事業を譲渡されたノア・グローバルエンタテインメント相談役を歴任した[1]

来歴[編集]

プロレスデビュー以前[編集]

建築業の長男で、影森中学校時代は走り高跳び・砲丸投げ・野球(投手や外野手)・柔道など様々なスポーツで活躍した。卒業後は埼玉県立秩父農工高等学校の定時制に通いながら自動車整備士を勤務したが、相撲部顧問の熱心な勧めで「野球だと余程強いチームじゃないと全国大会に出られないけど、相撲だと出られる可能性が高いし、あちこちに行ける」と思って相撲部に入部し、2年生の時に全国高等学校相撲選手権大会で3位に入賞した。1年生の秋に押尾川部屋で合宿して勧誘されていて「高校だけは卒業したい」と断っていたが、熱心な勧誘と母の勧めで入門を決意し、3年生の3学期に入門した。1980年1月場所に本名の「田上」の四股名で初土俵を踏んだ。1986年5月場所に十両に昇進し、本名の田上から玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)と改名した。なお、下の名である安正は田上の高校時代の恩師の名に因む。新十両の場所は7勝8敗と負け越し、幕下へ陥落。四股名も本名の田上に戻している。しかし、1場所で十両に復帰してからは、四股名を再び玉麒麟と名乗っていた。

右四つの型に填れば抜群の力を発揮し、十両でも安定した成績を残し幕内昇進も期待されたが、師匠・押尾川親方(元大関大麒麟)との確執もあり、3場所連続で負け越したあとの(ちょうど同部屋・同年力士の益荒雄による、いわゆる「益荒雄旋風」の最中であった)1987年7月場所前に廃業した。

その後、知り合いだった落語家の三遊亭楽太郎(現・6代目三遊亭圓楽)の勧めもあり、プロレスラーに転身した。楽太郎は天龍源一郎の中学時代の同級生で、その伝手で全日本プロレスの入団が決まったという。

ジャパンプロレス入団 - 全日本プロレス移籍[編集]

1987年8月にジャパンプロレスに入団[2]全日本プロレスで新弟子修行を行った。小橋建太が同期入団に当たる。

1988年1月に全日本へ正式に移籍し、1月2日にジャイアント馬場とのタッグでデビュー戦を行った。だが以降数年間は伸び悩む時期が続いた。

ジャンボ鶴田のパートナーへの抜擢[編集]

1990年、新団体SWSの旗揚げにより谷津嘉章を始め多くの選手が全日本を離脱してしまい、パートナー難に悩んでいたジャンボ鶴田からの要望で、当時所属していた超世代軍を離脱し、鶴田とタッグを組んで超世代軍との抗争を展開する。大勝負の経験を積むうちにレスラーとして成長し、1992年3月4日には鶴田とのコンビで世界タッグ王座を獲得、トップレスラーの一人となった。この時期はシングル戦でも川田利明と抗争を展開した。

聖鬼軍結成[編集]

鶴田が肝炎で第一線を退いた後は超世代軍を離脱した川田とコンビを結成、このコンビは「聖鬼軍」を名乗り2000年に大量離脱・ノア発足で田上が全日本を退団するまでトップ戦線で活躍した。世界タッグ王座史上最多となる6度の載冠を果たしている。

また、1996年にはチャンピオン・カーニバル三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座、世界最強タッグ決定リーグ戦を全て制する活躍を見せた(グランドスラム)。

1996年5月24日の三冠ヘビー級選手権試合においてシングルマッチで三沢光晴から初勝利をあげる。四天王の中では初の快挙となった。

その後も川田とのタッグを中心に、プロレス四天王の一員として三沢や小橋健太スタン・ハンセンらと激闘を繰り広げる。馬場が亡くなった1999年には、馬場没後初の三冠戦でベイダーとの王座決定戦を戦うが敗北。世界最強タッグ決定リーグ戦では川田の欠場もあり、ハンセンとのタッグで準優勝に終わる。

1999年5月に三沢が全日本社長に就任した新役員体制では、取締役に就いた。

プロレスリング・ノア移籍[編集]

2000年、三沢らと全日本から離脱しプロレスリング・ノアに移籍し、取締役に就任した。

ノア移籍後は3度のGHCヘビー級王座挑戦のチャンスがありながらベルトを巻くチャンスが無かったが、2005年9月18日の日本武道館大会で小橋とタッグを組み天龍、秋山準組と戦った一戦が大きな契機となり、2005年11月5日・日本武道館で行われた大会で王者・力皇猛に挑戦、何発ものラリアットや必殺技「無双」を受けながらも必殺技「オレが田上」で力皇を下しGHC初戴冠を果たした。

2008年1月にデビュー20周年を迎え、後楽園ホールで行われた記念試合では、後援関係者のほか、亀山つとむザ・グレート・カブキ、そして愛娘がリング上で田上に花束を贈呈した。

プロレスリング・ノア社長就任[編集]

2009年7月6日、初代社長の三沢が試合中の事故により急逝したことに伴い、第2代プロレスリング・ノア代表取締役社長に就任した。9月27日に日本武道館で行われた三沢の追悼興行で、全日本の武藤敬司と社長タッグを結成したが、小橋&高山善廣組に敗れた。10月には、大阪府立体育会館での三沢光晴追悼興行で川田との聖鬼軍タッグを9年4ヶ月ぶりに復活させ、秋山準&KENTA組と対戦し勝利をおさめた。

2010年7月19日の秋田市セリオンプラザ大会では、川田に加え小川良成との聖鬼軍トリオでモハメド・ヨネ&金丸義信&平柳玄藩組から勝利をした。

2011年までは殆どの大会に出場していたが、2012年からはスポット参戦の形になっている。

引退[編集]

2013年5月12日の会見で、12月にラストマッチを行い、引退すると表明[3]

12月7日の有明コロシアム大会にて引退試合が行われ、歴代の付き人である平柳、森嶋猛杉浦貴と組み、天龍源一郎、藤波辰爾井上雅央志賀賢太郎組と対戦し、「オレが田上」で井上からフォールを奪い有終の美を飾った。試合後には四天王で活躍した小橋、川田もリングに上がり引退セレモニーを行った。

引退後[編集]

引退後はノアの社長業務に専念していたが、2016年11月1日にIT企業のエストビー(ノア・グローバルエンタテインメント)に対してノアの会社運営、プロレス興行及び関連する事業を譲渡した上で新会社の相談役に就任[4](翌年2月に退任[1])。その傍ら、松永光弘に師事した後、茨城県つくば市にて「ステーキ居酒屋チャンプ」をオープン(かねてより夫人が経営していた居酒屋に、2017年6月よりステーキメニューを追加)。田上自ら肉を捌いて調理し、店内で接客も行なっている[5]

2018年3月、自宅で倒れて救急搬送された際、胃から大量出血を発症したため病院での緊急の輸血措置を行って一命を取り留めたものの、病院での精密検査で胃がんが判明。4月16日に胃の全摘出手術を受ける[1]

人物[編集]

  • 通常はのんびりした言動や、試合運びが目立つものの、タイトルマッチや他団体レスラーとの試合になると突然活躍することから「田上火山」などと呼ばれる。
  • 愛称はタマさん(相撲時代の四股名「玉麒麟」から)。「ダイナミックT」とも呼ばれる。小橋はマスコミの前では田上のことを「A・T」と呼んだ。
  • 1999年世界最強タッグ決定リーグ決勝戦で、馬場の筆による油絵が前面に描かれている特製のガウンで登場した。その後はお蔵入りになっていたが、2005年12月4日に行われたGHCヘビー級王座初防衛戦で6年ぶりに着用した。このガウンは、そのタッグリーグ決勝戦と、GHC初防衛の試合の2回しか袖を通していない。
  • 大変な釣り好きでも有名である。ノアには本田多聞を始め釣り好きが多く、田上は「ノア・サーフクラブ」を結成。ノアの社長就任後しばらくしてからはその大好きな釣りも辞め、プライベートでは韓流映画を鑑賞することが多くなっている。[6]
  • ハーレーダビッドソンに乗っている(2000年11月にアミューズブックスより発売された「This Is NOAH!」においてハーレーに跨る田上の写真が掲載されている)。
  • 大相撲時代から大の稽古嫌いであり、大相撲時代の師匠である押尾川との確執も稽古嫌いに起因していたという。全日本プロレス入門時にも押尾川は天龍に対して「今度そっちに田上ってのが行くけど、本当に稽古しねぇ奴だからな」と伝えており、田上の扱いに対して注意を促したとされている。また和田京平の著書によると、馬場が田上にトレーニングの為にとバーベルをプレゼントし、その後しばらくして田上の家を訪れたところ、父親がバーベルを上げている姿を見ていた息子が「お父さんがバーベルを上げたところを初めてみた」と口を滑らせてしまったという[7]

大相撲時代の主な成績[編集]

  • 通算成績:193勝149敗7休 勝率.564
  • 十両成績:44勝46敗 勝率.489
  • 現役在位:46場所
  • 十両在位:7場所

場所別成績[編集]

   
玉麒麟 安正
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1980年
(昭和55年)
(前相撲) 東序ノ口14枚目
休場
0–0–7
(前相撲) 東序ノ口30枚目
6–1 
西序二段87枚目
6–1 
西序二段22枚目
6–1 
1981年
(昭和56年)
東三段目59枚目
6–1 
西三段目13枚目
2–5 
東三段目37枚目
4–3 
西三段目23枚目
3–4 
東三段目34枚目
3–4 
西三段目44枚目
5–2 
1982年
(昭和57年)
東三段目21枚目
4–3 
東三段目10枚目
4–3 
西幕下60枚目
4–3 
東幕下48枚目
2–5 
西三段目13枚目
6–1 
東幕下40枚目
3–4 
1983年
(昭和58年)
西幕下49枚目
2–5 
東三段目18枚目
3–4 
西三段目36枚目
6–1 
西幕下53枚目
5–2 
西幕下33枚目
5–2 
東幕下19枚目
3–4 
1984年
(昭和59年)
西幕下27枚目
5–2 
東幕下14枚目
3–4 
東幕下21枚目
2–5 
西幕下40枚目
4–3 
東幕下29枚目
3–4 
西幕下43枚目
4–3 
1985年
(昭和60年)
西幕下30枚目
6–1 
東幕下11枚目
2–5 
西幕下32枚目
5–2 
東幕下19枚目
3–4 
東幕下26枚目
5–2 
西幕下14枚目
5–2 
1986年
(昭和61年)
西幕下6枚目
5–2 
東幕下2枚目
5–2 
西十両12枚目
7–8 
東幕下筆頭
4–3 
東十両13枚目
9–6 
西十両9枚目
8–7 
1987年
(昭和62年)
西十両6枚目
6–9 
東十両10枚目
7–8 
東十両11枚目
7–8 
西十両13枚目
引退
0–0–0
x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

大相撲時代の改名歴[編集]

  • 田上 明(たうえ あきら)1980年1月場所-1986年3月場所
  • 玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)1986年5月場所
  • 田上 明(たうえ あきら)1986年7月場所
  • 玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)1986年9月場所-1987年7月場所

得意技[編集]

秩父セメント
ブレーンバスターの要領で真上に持ち上げた後、自分の右手を相手の喉元に当ててマットに叩き付ける技。
小橋の持つGHCヘビー級王座に照準を合わせ開発された技。長身を生かした強力な技で、のどを押さえられているため受身が非常に取り辛い。なお、この技名は「オレが田上」の技名が未定であったときに三沢が名づけた名前であり、それをこの技に利用した形になっている。由来は田上の出身地から。
オレが田上
アトミック・ドロップの要領で相手を高々と持ち上げた後にノド輪落としでマットに叩き付ける技。重力との効果が相まって強烈なダメージを与える。この後にさらに起き上がりこぼし形式でノド輪落としを繰り出すこともある。
三沢の持つGHCヘビー級王座に照準を合わせ開発された技。当初はエメラルドフロートと田上自ら名づけたが、三沢からの抗議を受け技名が変遷。エメラルドフロート→ルビーフロージョン→秩父セメント(三沢が命名)→コンクリ固めと変化していき、最終的に王座挑戦前日に「オレが田上」に決定した。
技名についてインタビューされた時に「新技の名前は『オレが田上』だ」と技名と文末の「だ」を繋げて読んだため、技名を「オレが田上だ」と間違えられることがあり、PS2ゲームKING OF COLOSSEUM IIコナミBATTLE CLIMAXX!でも「俺が田上だ」と間違えて表記されている。
つくば薪割り
ロープの反動を使ったのど輪落とし+柔道の払巻込の複合技。巨漢レスラー対策に編み出された。2005年の森嶋とのGHCヘビー級選手権で初公開、この技で3カウントを奪っている。
ノド輪落とし
右手を相手の右脇を通してのどに当て、そのまま右手を高々と上げてマットに叩き付ける技。田上は高身長であり見た目よりもパワーがあることから、片腕一本で相手を持ち上げるこの技を可能としている。前述の「オレが田上」と「秩父セメント」はこの技を生かしたオリジナル技。
コーナーポスト上の相手をノド輪落としする「大車輪ノド輪落とし」、エプロンから場外に叩き付ける「断崖式ノド輪地獄落とし」といったより強力なバージョンもある。今では一般的となった「断崖技」の先駆者。
コーナーポスト上からダイビング攻撃を繰り出した三沢の喉元をキャッチして、そのままノド輪落としを決めたこともある。この時に三沢が試みた技は師匠ジャイアント馬場からフォールを奪ったダイビング・ネックブリーカー・ドロップであり、当時は三沢の奥の手中の奥の手だったが、田上に破られた事から以降二度と使う事は無かった。
延髄斬り
田上自身は後家殺しと命名している、独特のフォームの延髄斬り。普通は相手の横や後ろから蹴る技だが、田上の場合は相手の正面から足を回して蹴る。形やゆっくりとしたスピードは、天龍のそれとほぼ同じである。高山によると「軽く記憶がとぶぐらいの威力はあるけど、いつも序盤にやってくるから大丈夫なんだよね」とのこと。
ダイナミックボム
パワーボムの体勢から担ぎ上げ開脚して前方にたたき落とすシットダウン・パワーボム。田上の場合技に入る時に大きく両腕を広げて技に入る。
ダイナミックキック
正面からのジャンピングのフロントハイキック。顎に入った際の威力は強力で、96年のチャンピオン・カーニバル優勝戦ではこの技からのど輪落としへとつないでスティーブ・ウィリアムスからピンフォールを奪った。
3Dキック
コーナーポスト最上段より相手の顔面にダイナミックキックをぶち込む技。大開脚ダイビングダイナミックキックの略。
相手の両腕を自分の脇に挟み込み、上に力を加えて絞め上げる技。
閂スープレックス
上述のカンヌキの体勢のままスープレックスの要領で後方に投げ捨てる技。閂からスープレックスに移るこの一連の技が試合中出ると大きく盛り上がる。
ランニングネックブリーカー
師匠である馬場の必殺技だが、正式に馬場より直伝される。
拷問コブラツイスト
鶴田直伝。
ギロチン・ホイップ
トップロープのワイヤーの部分に喉元から落ちるようにして投げるボディスラム。
脳天唐竹割り
ココナッツ・クラッシュ
これらは馬場の得意技。
低空投げっ放し式ジャーマン
上背のある田上が投げるため、かけられた相手は高い位置から落とされる。
八の字チョップ(片手の時と両手の時があり)

他にも突如として普段使わない技(フライングクロスチョップ)などをいきなり繰り出すこともある。

タイトル歴[編集]

全日本プロレス
  • 第15代三冠ヘビー級王座(防衛1回)
  • 第19代・第22代・第26代・第28代・第31代・第35代・第42代世界タッグ王座(パートナーはジャンボ鶴田→川田利明が6回)
防衛回数は2回→2回→3回→0回→1回→4回→0回
パートナーは川田利明
プロレスリング・ノア

タッグでの成績は著しく良い。

入場テーマ曲[編集]

元々川田が好きな曲であり、川田の勧めで採用したもの。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 元プロレスラー田上明さん 胃がん&全摘手術でリハビリ中”. 日刊ゲンダイ (2018年8月27日). 2018年8月27日閲覧。
  2. ^ これは当時、大相撲廃業後すぐに全日本入門を志願したことで(元横綱輪島大士の全日本入門もあり)、当時全日本会長だったジャイアント馬場が角界の目を気にして取った暫定的な措置である。入団した1987年8月は既にジャパンの団体機能は崩壊しており、従って籍はジャパンに置いていたが実質的には全日本所属選手だったということになる
  3. ^ 「方舟新章」5月12日(日) 後楽園ホール大会 田上社長会見の模様 プロレスリング・ノア オフィシャルサイト
  4. ^ プロレスリング・ノア新体制に関するご報告 プロレスリング・ノア公式サイト 2016年11月閲覧
  5. ^ 必殺技は「オレが田上」元プロレスラー田上明さん つくばでステーキ店切り盛り”. 常陽リビング (2017年12月19日). 2018年6月4日閲覧。
  6. ^ 社長名鑑 株式会社プロレスリング・ノア
  7. ^ 和田京平『人生は3つ数えてちょうどいい』(メディアファクトリー)
  8. ^ いずれも優勝決定戦で勝利

関連項目[編集]

外部リンク[編集]